城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

「城郭模型製作工房」をご覧いただき、ありがとうございます。


日本の城郭や古建築の模型およびジオラマを専門に製作しております。個人向け鑑賞用から展示用、メディア掲載用まで、幅広くご要望にお応えしております。
こちらのブログでは主に製作過程や考証内容を公開しています。


城郭模型の魅力を、少しでも多くの方にお伝えできたらと思います。どうぞお楽しみください。



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本日13日発売の月刊アーマーモデリング4月号!

私の連載「城郭模型紀行」第2回は

彦根城です!
4月号なので春。

誌面はお近くの書店でぜひ。

童友社のキットがこんなふうに!

第1回松江城
第2回彦根城
ということは…?

「城郭模型紀行」よろしくお願い致しますm(_ _)m


ご無沙汰しております。

毎日熊本城と向き合っています。

まだまだ荒削りなままの地面と箱組ばかりですが、おぼろげながら熊本城の骨格が見えてきました。

宇土櫓と天守。

今回は、今までの誰かの研究に基づいてつくっていません。
全て一次史料から、つまり、発掘調査の結果と、古絵図、古写真、この3つのデータをもとに、全ての建物の形を極めて復元的な手法で立体化しています。

本丸内全ての建物を、まず図面にしましたが、これは完成度からすると6割程度で、実際に立体化する中でさらに精度を上げていく方法を取っています。

その上で1/150というスケールと、その模型全体の大きさ(およそ3メートル四方)から、実際に目で見た時に効果的になるように、模型的な表現の強調を加える場所もあります。

(破風板製作前)
例えばこの小広間上三階櫓は、瓦の本数を一本〜2本増やしています。ほんの数ミリですが、軒の出を強調することで、陰影を強めるのです。

これは実際の図面作成でも同じような方法がとられます。厳密な再現は30分の1より大きなもので行うと聞いたことがあります。

コツコツやって着実に進んではいるのです。ただ、とにかく大きい。八畳間がいっぱいいっぱいです。

おそらく私の人生最大のものになると思っています。
こういう大規模なものと向き合うのは初めての上、さっきも書いたように、全て一から、瓦を数える作業を重ねて寸法を割り出したりしているので、とにかく興奮状態が続いていて、本当に人生削っているのではないかと思うような現場です。そういうわけで頭の中は熊本城だけ。ちぐはぐな返事を返してしまうこともよくあり、SNSも控えめになっているこの頃です。

おまけに頼みの奥さんが体調の関係から予定していたように手伝えなくなってしまい…

ずーっとやっているので、こういう下見板も、苦にもならなくなりました。

ただ、瓦地獄と石垣地獄が待ち構えていると思うと少し気が滅入ります。

丸瓦はいつものようにプラストラクトの半丸棒。
これは大量に取り寄せました。アメリカのメーカー在庫の実に半分の量、300袋が今手元にあります。一袋900円くらいするのです。
実寸に直すと実に100キロメートル分の丸瓦です。これで足りるやら足りないやら。

同じように他のプラ材も大量に。

追加すれどもどんどん無くなっていく…
今までに経験のない規模なので、どれくらい要るかも目算が立たない状態です。


古写真と同じ景色が少しずつ見えてきています。

古写真に無いアングルからも見ることができるようになります。

いろいろ発見もあり、早く公開したい!
けれど、本になるまで私も待たねばなりません。自分より早くこの事に気付いて発表されたらどうしよう!なんて気分になることもあるのですが、こんなに細かいところまでこれだけの膨大な一次資料を元に考えることができているのは、もしかすると自分だけかも??なんて気にもなったり。

執筆の方も8割方終わり、一時原稿を出すことができました。

無理をせずに進めていきます。

また区切りが来たら更新します。







更新がなかなかできませんでした。

絶賛築城中です。

作り出すと修正が効かなくなるので、最後の確認に資料閲覧のため熊本城調査研究センターにお邪魔したり。

この写真と

この写真と

この写真に

頭を悩ませております。
なんとか解明したい。

熊本城の箱組みをじゃんじゃんやってます。
熊本城以外も混じってますが…

小さい6段は豊臣大坂城です。ご注文から2年以上…
木製模型もありつつ。

この箱組みは最後まで響くのでとても大切な工程です。ここで狂いがあると修正が大変。

ということは、建物の姿をちゃんと原寸図に起こさねばならないのです。

とにかくすごい量。ほんの数棟でこれだけ。

で、熊本城って本当に研究がされていないところが山ほどある。復元図面のある櫓も、写真と照らし合わせると寸法が違ったりしていて、模型図面としては使えないので、一から復元してます。
屋根の勾配さえ抽出できれば、瓦の本数からだいたい全体像が分かります。

勾配もキリのいい数字がスパッと出て気持ちいい。

こうやって地道に数えてます。
でも、瓦って定規なんです。これで全部建物の寸法出せちゃいます。


ただ、平面が直角のない不整形ばかりなのです。
古図の書き起こしもやってまして、それを測量図に合わせるとやはり誤差が出る。
まあ、学者さんは石垣が不整形だから大入母屋を使用したなんておっしゃいますが、それは平行四辺形か台形平面の話であって、平行ラインが1カ所もない不整形には入母屋はどんなに頑張ってもかけられません。立体で考えてもらいたいですね。

頭がこんがらがる。こんなんどうなっとるの、という話で。

まあしかし、建物として成り立っているので、答えはあるはずなのです。
面白いのは、写真だけじゃ分からないのです。誤差があっても古図と照らし合わせると、なるほど!と膝を打つことばかりで、楽しい作業でした。昔の大工さんは凄いですね。当時の大工さんの頭の中を追体験しています。熊本城のデザインって、全部必然性があってこの形なんだということがよくよく分かりました。
当然、CGのように全部角を直角にして誤魔化したりはしません。測量図通りの不整形平面でそのまま立体化します。

だいぶ図面は埋まってきました。

この週末は第一陣の原稿も二万字分とりあえず送りまして。

本格的に大変なことになってきました。

成果は全て本の中で。10月までしばらくありますが、どうぞお楽しみに!

そんな中、尾高の熊本城と松本城を入手し。

今年のうちに作るのが目標です。

そうそう、最後に!

豊臣大坂城の天守模型で美術協力しましたアマゾンプライム【MAGI 天正遣欧少年使節】は17日より全世界180以上の国と地域で配信開始されています。




ぜひご覧ください!


豊臣大坂城の一瞬の登場は第7話です。


エンドロールも見たことないくらい早いのでお気をつけください(笑)




創建時の金閣、つまり義満の北山殿の舎利殿周辺をつくっています。
完成間近です。

金閣は一階北側も全て開口部だったことが埋木の痕跡から推定されていますので、そのように作りなおしました。

さて、天鏡閣です。

舎利殿の北側には、天鏡閣という二階建ての大きな建物がありました。
これは文献にのみその存在が書かれている建物で、遺構などは発見されておらず、幻の建物です。

天鏡閣について書かれている『臥雲日件録抜尤』文安五年 (1448) 八月十九日の記事です。

舎利殿北、有天鏡閣、複道相通、往来者似歩虚、閣北有泉殿、々今則廃牟、閣曾為南禅方丈閣、而去歳回禄為灰燼、可惜、又会所東北山上、有看雪亭、…

書き下してみますと

舎利殿の北、天鏡閣あり、復道(二階建ての廊下)相通ず。往来する者、虚空を歩むに似たり。閣の北に泉殿有り。殿は則ち廃む。閣はすなわち南禅方丈閣と為す。しかるに去歳、回録(火事のこと)灰燼となす。惜しむべし。会所の東北山上に看雪亭あり…

となります。

【その位置】
天鏡閣は舎利殿(金閣)の北にあったことが分かります。
地形的には今松林となっている平坦地があり、このあたりに建物があってもおかしくありません。

以前、この天鏡閣をCG復元する番組が放送されたそうです。その時、この場所が天鏡閣の位置として選ばれています。

ただし、発掘調査ではなんの遺構も出ていません。上の図でA区となっている東西に細長い区域で発掘が行われましたが、中央あたりで南北方向の溝が出ただけでした。
天鏡閣がこの位置にあってもおかしくないということで、電気探査も行われましたが、何かの遺構が埋まっているという結果は出ていません。

位置としては大変魅力的で、情景としても美しいものができると思いましたので、今回もこの位置を天鏡閣の位置として仮定してみました。

【その規模】
教言卿記』には天鏡閣には十五間(ま)=30畳の会所があったとあるようです。先ほどのCGを見てみると、九間に五間の規模で復元されています。禅宗の方丈建築の6部屋構成を想定してあるようで、私もそれを引き継ぎ、九間に五間、柱間は金閣の1・2階と同じ7尺間としました。

ただし、『教言卿記』には奥会所十五間という表現で出てくるようで、奥会所と天鏡閣が同一かよくわかりません。一番はじめに引用した『臥雲日件録抜尤』の最後の一文にも「会所の東北山上に看雪亭あり」とあり、 看雪亭を現在の夕佳亭付近に推定すると、会所はその南西方向にあることになり、実際この場所(上図B区、D区)から柱間8尺の礎石建物跡と廊下の跡が発見されています。これらの建物は建物の軸線が金閣と一致していて、金閣との関連性が強く指摘されています。

あるいはこの礎石が天鏡閣のものでしょうか?

位置、規模ともによく分からないということが現実です。

【細部について】
建物の様式などは、私の感覚で行いました。
室町期の建築らしいものをつくる、というスタンスです。
すなわち
・細い部材
室町期は日本の建築の国風化が完成した時代です。また、建築に対する美的感覚が最も鋭敏な時代でした。
建物を建てるのに図面を引くことはなく、感覚で軒反りを決めていました。室町期の建物には、軒の線を決める墨線が、二本、三本と入っているものがあり、それは大工が目で見ながら微調整した痕跡です。建物の柱や化粧垂木が極めて細くなりました。

・遣り戸の発達
室町期の建築が現在に至る日本建築の基礎を作ったと言われるのは、畳の規格化と建具の規格化です。
特に建具では、いわゆる三本溝の敷居が発生し、舞良戸二枚と明かり障子一枚を入れる形が完成します。


このような室町期の特色を出した外観にするようつとめました。

一階の会所の様式は、大仙院本堂や光浄院客殿を参考にしています。

テレビの復元CGではもう少しいかめしい建物に造形してありましたが、

私は室町の軽さ、清々しさ、柔らかさを前面に出してみたつもりです。

天鏡閣について製作記などもう少し続きます。