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城郭模型製作工房

城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

昨日、豊臣大坂城の撮影が無事終わりました。
台風の飛行機への影響を心配しましたが、無事、東京から撮影においでいただけました。
1カットのために大量に撮影され、出来上がりがどうなるのか、私も楽しみです。
特撮案件は初めてで、見える面だけの製作でしたが、いつか未完の裏側も完成させたいです。
情報解禁は10月頃の予定です。それまでしばしお待ちを。

突貫工事だったこともあるのですが、やはり撮影までは気が張っていたのか、撮影が無事に終わった途端に安心してどっと疲れが出て、今日は半日眠りこけていました。

さて岡山城は、あまりにも大きいため二階の工房から出すことができませんので、一階のリビングや座敷でつくっていたのですが、生活空間をあまりにも占領してしまうので(笑)近くの一軒家に移動しました。
これで心置きなく製作に励めます。写真を撮るときに、リビングだと生活空間が写ってしまうので気を遣っていましたが、これからは写真もいろんなアングルで撮ることができます。

櫓の箱組みがほぼ完了しました。

一番時間のかかる屋根と土塀を数日前から妻が手伝ってくれています。スピードアップしてます。

中の段の櫓は壁面も進んできました。
岡山城らしいごちゃごちゃ感がだいぶ出てきましたね。

ここまでくると出来上がりが楽しみになってきます。

そうそう、今日届いたウッディージョー通信によると岡山城が完成間近のようです。去年から社長にお会いするたびに岡山城!と備中松山城!をお願いしていたので、嬉しいです。昭和再建の姿だったり自分でもうまくいかなかった最上階の比率が…と思いますがこれは仕方のないことで。
おそらく最上階の感じは江戸時代の実測図が一番正確なのかもと思っています。メールしとこうかしら。


岡山城本丸模型は本段の建物を進めています。

こちらは造形完了時。

大きさは小さいとはいえ、作り方は150分の1サイズとほぼ同じ工程を踏みます。当然瓦も一本一本貼り付けていますので、時間的にも大スケールのものとあまり変わりません。

塗装したところ。
色彩を統一するために最後に一気に上塗りをしますので、まだ粗彩色です。


建物をひとつずつ詳しく見ていきます。

【御掃除方物置 同所東平多聞】
本段東側の多聞です。
南九間半は屋根が二重、北七間半は一重です。


牙城郭実測図を見てみると
途中で折れがありますが、実際にはほぼまっすぐです。下の石垣が増築されているので、北半分の一重の多聞は恐らく増築ではないでしょうか。

南半分の二階部分は窓の描写がありません。
ここで平面図を見てみると、どこにも階段はありません。
内部は下男部屋となっており、六畳や十二畳といった表示があることから畳敷きの部屋もある、櫓座敷のような居住建物であったことが分かります。
模型では城内側は柱を見せた住宅風としました。

二階はもしかすると梯子で登るような屋根裏式で、窓は城内側に向かって開いていたかもしれません。

シティーミュージアムの模型では、完全な二階建てで二階に窓も開けてあります。

今回は牙城郭実測図の通り二階には窓を開けず、低めの中二階のような建物にしました。

古写真には切妻の屋根がちらりと写っています。
この写真の屋根の高さからも、二重にしては低めの建物であったことがわかります。

この多聞には前回記事にした中に石臼のある舂屋が接続し、さらに下男部屋が隣りあいます。
下男部屋の御殿側は土塀で囲われ、男衆の生活空間を隠しつつ、男衆のプライベートを区切る工夫がされています。

【干飯櫓】
本段南側の石垣上に建つ二重櫓です。
上層は三間に二間半で、通常とは逆に妻側の方が幅広くなっています。
一階平面は二間半に六間と細長く、上重は平側のみが逓減し、ちょうど凸形に重なる櫓です。
城外に向けて石落としに挟まれた幅広い出窓格子を見せ、その上に唐破風を設けます。上重も出窓格子をつくります。二重目のみ下見板張りです。

この古写真がその姿を記録していますが、ほぼ牙城郭実測図に描く姿と同じです。


【三階櫓】
絵図によっては武具方三階櫓と記すものもあります。
干飯櫓の隣、本段の真正面に建ちます。
一重、二重が同大で庇をまわし、大入母屋をかけ、その上に三間四方の上重を重ねる形式です。
三重目正面に出窓格子を持ちます。
牙城郭実測図では三重目のみ下見板張りとなっています。

古写真を見ると、三重目正面は全面塗籠になっており、側面だけ下見板張りのようです。改変があったのかもしれません。
また、牙城郭実測図に描かれる、出窓格子下両脇の小窓は、古写真では確認できません。
出窓格子も牙城郭実測図より一回り以上大きいようです。
今回は御依頼主と相談して、牙城郭実測図の描写でつくりました。

干飯櫓と三階櫓は、どちらも櫓の建つ位置が不自然に感じます。
本段の南側の形状が鈍角の折れ曲がりということもありますが、この二つの櫓の並び方は、バランスも良くありません。

牙城郭実測図の平面を見てみると、石落としが、意味のない側面にまで回り込んで描かれています。
元は別の場所にあった櫓を、ここに移築した可能性もあるのではないでしょうか。

三階櫓から不明門までは、多聞櫓で結ばれています。
この多聞櫓は、石垣に沿って鈍角に折れ曲がり、屋根の一段低い多聞となり、不明門に繋がります。

古写真を見てみると、特徴的なのは窓の格子で、水平の格子が真ん中に一本通っています。
この部分の謎は屋根の一段低い多聞との屋根の接続です。
シティーミュージアムの模型では大変不自然な納め方をしてあり、あまり参考になりませんでした。
各種本段の絵図から、低い多聞は長方形で、そこに横から屋根の高い多聞が鈍角に接続する形のようですのです。

頭をひねって、より自然な納め方をしたつもりです。
この辺りも一度に設計されたにしては不自然で、増改築の可能性を感じさせます。

【不明門】
本段の正門です。本丸内では最大の規模の櫓門です。
(門扉と庇は未製作)
牙城郭実測図では、白木の真壁に描かれます。
門の正面に幅の広い出窓を見せます。南側側面にも出窓格子があります。

古写真を見てみると、白木の真壁ではなく、塗籠の真壁造りのようです。こちらも途中での改変があったのかもしれません。出窓格子も塗籠になっています。

先ほどの三階櫓のように、古写真の表現にするか、牙城郭実測図の表現にするか迷いましたが、塗籠の真壁で真っ先に思い浮かべたのが豊臣大坂城の桜門です。
夏の陣図屏風には、本丸大手の桜門は他の建物が下見板張りであるのと違い、塗籠の真壁として描かれています。
出窓格子のようすもそっくりです。豊臣大坂城の本丸大手の桜門のイメージと重ねて、模型では古写真と同じ表現を取ってみました。
ちなみに、牙城郭実測図では、平面は三間に九間となっていますが、他の図面は全て九間に四間となっており、古写真も妻側は四間であることが確認できますので、その規模で模型化しました。牙城郭実測図の不明門は石垣にかかる部分の寸法も現実の石垣と異なっており、現状石垣や各種絵図を参考にしています。

引き続き、中の段の櫓の製作に進みます。
櫓の箱組みがだいぶ揃ってきました。






今度撮影にお見えになるので、あらかじめロケーションハンティング、通称ロケハンをしてきました。
車に模型と机を積み込んでうろうろ。

一番空が抜けるのはやはり海沿いです。

こんな感じ。
しかし、これ、東西南北が実際とはめちゃくちゃで。

東西南北を合わせるとこう。
なのですが、背景に景色が写り込んでしまいます。

田舎で空が広いとはいえ、ロケーション探しは大変です。

ちょっと目線を下げると写り込みは防げますね。

太陽光での色飛びも計算して塗装していますが、この夏日ということもあり予想以上に色飛びします。特に屋根。
他にも修正箇所多数発見!

おかげさまでこの大坂城は反響が大きく、中にはツイッターで見てこの大坂城の模型をほしいと思ったから作ってほしいとのお問い合わせも何件かいただきました!
しかしながらやはりこのくらいの模型になると、よほど本気の方でないと難しいです。材料費だけで二桁かかっている上に半分の2面作るのに体に鞭打って1ヶ月かかるのです…海外に外注して大量生産する商品とはわけがちがいますのでどうぞご理解ください。
想像するに、とても迷われた挙句に、思い切ってお問い合わせくださったのだと思うのです。それをお断りしなければならないのはとてもつらいことです。
しかし、「ほしい」と思ってくださることは本当に嬉しいです。
なぜなら、人にほしいと思わせるものを作るのはとても難しいからです。どんなに上手につくってあっても、別にほしいと思わないものがあるでしょう?「よくできている」ことと「ほしい」は全く別の価値観なのです。
私のつくったものをほしいと思って下さりお問い合わせくださった方に改めて御礼申し上げます。

さて、岡山城ですが、石垣の彩色を進めています。

ちょっと石の量が尋常ではないので苦しいですがなんとか石垣らしくなってきました。

このくらいの大きさです。

ちょっとスピードアップさせねばと思い、本段の建物にも入っています。

東側の多聞です。
中は下男部屋になった櫓座敷のようなつくりです。
御本段絵図を描き起こしましたが、一間を6尺5寸にするとうまく納まらないのです。
一間を6尺にすると牙城郭実測図とも辻褄が合うことが分かりました。

建物の用途や格からして、六尺間での比較的簡素な建物であったと想像します。

多聞にはツキ屋が接続していますが広い土間に石臼の描写が。
精米する米搗き臼、踏み臼だと思います。
城内の生活が伺えますね。

まずは本段を完成させるぞ!







岡山城本丸模型の石垣をつくっています。
150面にのぼる石垣をやっとの事で彫り上げました。
今までに経験のない量の石垣彫りでした。石の数は万の桁にいっていると思います

その後下塗り。

全体を黒っぽくして白を無くします。

少しずつ色を重ねながら…

私の重ね塗りの技法はこれだけ大きなものに対しては大変な作業になります。

次はどのような状態まで進んでいるでしょうか!?
お楽しみに。



今日は最後に手前に御殿の屋根をつくりました。


本当に屋根だけなのでちょっと引くとこんな感じに。

しかも紙製で、これも見える面だけ。
破風面だけはプラですが、厚紙で作り和紙を貼り込み 


木粉をふりかけ

モデリングペーストで質感を整えて

塗装して完成です。

今回は版権なしで、ということでしたので、長年の念願だったオリジナル復元での精密模型としてつくることができました。

製作を振り返って総まとめです。

【外観の造形の方針】

方針としては

・外観意匠は「大坂城図屏風」を参考にする
大坂城が存在した時期に描かれたとされる屏風絵です。外壁が多くの紋章で飾られているのが特徴です。
宣教師の報告にも、天守は遠くから見えるように装飾されたということが書いてあり、本当に大きな紋章が並んでいたかもしれません。
もうひとつ夏の陣図屏風という資料価値の高いものがありますが、こちらは破風の構成など外観は全く違います。
大坂城は慶長地震で大きな被害を受け、天守も一度壊さなければ改修が不可能なほどのダメージを受けたとの記録もあり、外観がずっと同じではなかったかもしれません。あるいは建て替えが行われた可能性さえあるでしょう。
今回は特に、ドラマの時代設定が天正年間の完成間もない頃ということで、大坂城図屏風の外観意匠を表現しました。
そのほか最上階周りには夏の陣図屏風の雰囲気、大入母屋と唐破風の取り合わせは冬の陣図屏風や伏見城を描いた屏風の雰囲気を取り入れています。

しかしながら大切なことは、屏風絵というのは様式化、記号化されていますので、その描写を過信しないことです。

・その後の天守の源流たる姿にする
大坂城以降、全国で天守を上げた武将の目に焼き付いていただろう城です。秀吉の城は1つも残っておらず、その姿がはっきり分かりませんが、今日本にある城の姿の中に、大坂城の片鱗が残っているはずです。さまざまな城の姿を織り込みながら造形しています。
大入母屋の感じや最上階の木連格子の感じは岡山城。破風構成は熊本城(平側三角三段、妻側三角二段に最上階唐破風)。大和郡山城(二条城のち淀城)の雰囲気も強く出しています。特に大和郡山城は秀吉の弟秀長の城。兄弟関係の城です。 大入母屋の上、三重めから正方形に近くなるのは広島城。ちなみに広島城は大坂城のコピーと言われますが、私は肥前名護屋城の影響が強いと思っています。
最上階下の四方張り出しは独創的かもしれませんが、安土城の最上階の下の八角というのが、四方張り出しの角八つではという昔からの思いがありその布石です。
張り出しのある天守は数多くあるのに張り出しのある大坂城の復元案が今まで出ていないというのも不思議です。

・法隆寺大工がつくった超一級の建築の風格を目指す
大坂城を作ったのは法隆寺大工。当時の超一流の宮大工集団です。均整のとれた、超一級の天守の姿を目指してみました。

【図面の作成】 
図面が無いことには模型になりませんので、図面を引くところからはじめました。
当初は大入母屋を交互に三重に重ねた形で作図しましたが、鈍重な感じがして変更を加えました。四重目に張り出しの入母屋が来ることで重心が上に上がり、スラッとした印象になりました。

豊臣大坂城の天守は一間が7尺であったとされるので、7尺グリッドを引き作図しました。

宮上案と似ているというイメージを持たれた方もあるかもしれませんが、同じスケールで並べてみると…

全然違うことがお分かりかと思います。宮上先生の復元図は見事に7尺グリッドに納まります。そして、特に三重目から上は軒のラインがきっちり14尺間隔になっていることが分かります。私は、階高、つまり下の階の梁と上の階の梁を14尺で取りましたので、宮上案より高さが低いです。そして、宮上案は最上階は柱間は三間でもその幅は三間半あります。これは櫻井先生からの伝統を受け継いでおられるのだろうと思います。櫻井先生の復元案では最上階三間半四方、廻り縁の下の虎のある部分が四間四方とされていて、宮上先生もその通りにされています。
もう一つ考えられる理由は十二間に十一間という初重平面に対して最上階三間四方は小さく、バランスが難しいのです。
私は最上階三間四方で作図しましたが、全体を美しいバランスにするのが難しく、どのように逓減させていくかは本当に苦心しました。

今回は作図の段階から原寸で作業をしました。模型図面として引いていますので、同時に実際のプラ材の構造での断面図も重ねています。

【製作へ】
それゆえ製作はとてもスムーズに進みました。
通常の建築図面から模型を起こす場合は、一旦頭の中でプラに置き換えて、計算しながら作るのでその分時間がかかるのです。芯の箱組みは1日もかからなかったと記憶しています。

今回特に気を遣ったのが軒裏と軒の反りです。
美しいシルエットにするために軒は7尺出しています。大入母屋が重なることもあり、軒は桔木で支えて垂木は化粧垂木という設定で、全ての軒は二重構造にしています。

そうすると、出桁は理論上は必要ないのかもしれませんが、下から見上げる模型ですので、軒裏の密度を高めるために出桁を追加しました。これがあるおかげで、リアル感が増したと思います。模型としてのフィクションもかなり加味しているということです。

そして今回は、軒が深いこと、屋根が複雑に絡まっていることから、塗装も同時に進めながらの組み立てでした。

いつものように少しずつ色を加えていきます。

外壁をどうするかはかなり思案しました。
どこまで木部を露出させるのか。垂木は塗籠なのか。やはり天正期の天守ですので、垂木は素木の方が古風でしょう。
そして外壁を彩る大きな紋章。屏風絵では隙間なく紋が並んでいますが、窓は一体どこにあるのだろうか。紋章が木彫りの箔押しだとすると、その背景の板はどうなっているのか。まさか鎧張りの下見板ではなかろうし…

ということで参考にするのはやはり醍醐寺三宝院の唐門。まさに秀吉ゆかりの建物です。

こちらは門扉ですので少し状況は違うでしょうが、やはり紋を取り付ける壁はフラットなはずです。そこで、寺院や神社に昔から使われる横板壁ということにしました。

つぎに悩むのが漆塗りをどこまでの範囲にするか、ということです。流石に垂木までは漆塗りではなかろう。三宝院の唐門も組物以上は漆塗りではありません。
ということで、長押までを漆塗り、それ以上は素木に墨塗りということにしました。

垂木や腕木鼻は白く塗ります。なんとも古風。こういうやつですね。

大和郡山城の模擬復元の櫓もそのような感じです。

黒漆のところはほんの少しツヤを出しています。ツヤのスケールダウンはむずかしいです。 
    
     
今回はエッチングパーツが大活躍でした。
製作時間を短縮し、かつ完成度を上げるために使ったエッチングパーツは軒瓦、鬼瓦のほか、壁面紋章、破風板、懸魚、六葉釘隠し、窓の格子、高欄、蟇股、虹梁、最上階壁面、大棟などです。

いつものように 石屋模型店さんに図面をお送りして設計、製造してもらいました。


ただ、図面通りに製作していないと、エッチングパーツが届いた時に大変なことになります。
原稿を紙に出力したものを合わせながら製作を進めました。
懸魚は当初、岡山城のものをはめ込んでいましたが、蟇股が隠れてしまうこともあり、急に思い立って古川重春先生の、現在の大阪城の懸魚を使うことに。
急な思い立ちだったので、これは私が原稿を作り手直ししてもらいました。

金具が付いてくるとだんだん豪華になります。
突き上げ戸もついてフル装備になったところ。

遊び心も入れています。
初重の大入母屋の壁面は、大阪図屏風だと彫り物でいっぱいです。これをどう表現するかいろいろ考えて…。二重目の外壁の文様は牡丹唐草です。牡丹といえば獅子。ということで、唐獅子を配置してみました。


最上階に鷺、虎、四神と動物がたくさんいるので、獅子もなじんだかな、と。龍はどこでしょうね。

あと石垣にはちょっと力をいれまして。
スチレンボードの石垣ですが、影の入れ方を工夫しています。輪郭を書き起こすのではなく、影を書き入れる感じで。
けっこうリアルな石垣ができたと思います。

最後に図面と並べて。



今回は必要な二面しか作っていませんが、いつか残る二面も完成させたいですね。

撮影までには細かいところをまだまだ修正せにゃなりませんが、完成と致します。