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城郭模型製作工房

城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

さて問題です。

この表御殿の台所部分、どこからどこまでが一棟でしょうか。

いつもながら御殿の屋根のかけ方は頭を使います。

根拠がない時はより合理的に。
根拠があれば忠実に。
ヒントがないかとにかく探す。

ヒントとしては絵図にもあります。
元禄の御城内御絵図ですがらこの色分けは瓦と杮葺の違いだと言われます。青が瓦で黄色っぽいのが杮葺。

もう少しシンプルな表現の御書院指図。
これで屋根の塊がだいぶはっきり分かりますね。

そして今回、大変大きなヒントを古写真に発見しました。

それがこちら。

拡大。

お分かりですか?

広間の棟の上に台所棟の鬼瓦がのぞいています。

この角度で見上げた時に広間の棟の向こうから覗くということは、広間の梁行よりも台所の梁行の方が長いということを推定できます。

ですのでおそらく、台所はこのようにかなり巨大なひとかたまりだったと思われます。

ほら、こんな感じです。

いやあ、古写真にはとんでもないものが写っていますね。

まあ、こういう作業を繰り返しつつ…

それよりも、表御殿の懸案は、建物の軸線の変化部分の納めで、もうちょっと悩みそうです。

ちなみに、歴史群像の表御殿の復元図ですが、

平面から起こすとこのように納まらない部分がたくさんありすぎて…私の力不足でしょうか。

今回はこのように納めます。(フリーハンドのひどい画像ですみません)


だいぶ完成形が見えてきましたね!




今回は岡山城本丸を記録した、新出の絵図をご紹介します。
(部分)

これは岡山藩の筆頭家老、伊木家ゆかりの、とある個人様所蔵の絵図です。
この度、お願いして模型製作の資料として、画像データをご提供くださり、その上、このようにブログ上でその一部をご紹介することをご快諾くださりました。

改めて御礼申し上げます。

今後この絵図が岡山城の研究の重要な資料となるのではと思っています。

まず、その年代がハッキリしていること。
「寛保三亥五月改」の記載があります。寛保三年は1743年です。三分を一間とあり、縮尺は約217分の1となります。

岡山城本丸の全体を記録した絵図は、これまで2種類のみしか知りませんでした。

1つは元禄13年の「御城内御絵図」(以下元禄絵図とします)

もう1つは無題の白図です。(T3 70)
こちらは年代不明となっています。

いずれも岡山大学附属図書館の、池田家文庫絵図公開データベスシステムにおいて高精細画像で公開されています。

この度の新出の絵図は元禄絵図から43年後の岡山城の姿を伝えます。

今回の模型は、漠然と江戸中期の姿、ということで製作していました。
それは、元禄絵図をもとにした模型が岡山のシティーミュージアムにあり、また幕末頃の姿は、詳細な復元図があるからです。

その中で、本丸本段御殿の絵図の比較から、江戸中期の姿であろうものを基礎資料として、本段御殿を起こしました。
(「御本段御絵図」)

こちらは年代がはっきりしていません。

そして今回、新たにご紹介した寛保絵図を一目見たときに、増改築が激しい本段御殿の間取りがほぼ同じであることが分かりました。

となると、この寛保絵図に描かれる本丸全域は、今回の模型の基礎資料とした絵図に近い時期の姿を表しているのではと思いました。

岡山城の本丸は、御殿のみならず、その他の細々とした建物も移り変わりがあり、姿が一定ではありません。

この絵図の発見で、時期を統一した模型の完成が見込まれます。

ちなみに、T3 70の白図は、寛保絵図の間取りへの増築や撤去が見られ、寛保絵図よりは後の時期を表していると考えています。

さらに他の断片的な絵図と細かい部分を比較すると、いろいろと面白い発見がありましたので、おいおい記事にしていきます。


さて、ツイッターの方では復元図の間違い探しのようなことをしていました。2枚目の方が少し難易度が高いです。解答は最後に。


絵図の細かい部分から興味深い発見をひとつ。
天守脇の、廊下門に下る階段です。

この階段の上に空中廊下があり、屋外の石段と二階建てになっていた、と書籍等では言われています。

しかしながら、測量図を起こした地形に本段御殿を建てると、この石段に御殿の建物がかかってしまうのです。
しかも絵図では「御庭」となっており、現在の階段がそのままあったとすると、庭を設ける空間は全くありません。

製作でも困ってしまい、手つかずでした。



ところが別の絵図に、大変興味深い描写を見つけました。
先の絵図の御庭部分にポッカリと四角い穴が空いて板戸で塞いだような描写があり、「御秘用口」とあります。そして空中廊下の下の石垣面に埋み門のような口が開いており、「御秘用口御門」の記載があります。

現在のような屋外の階段ではなく、地下トンネル状の抜け穴通路だった、という可能性を指摘しておきます。

模型でもそのように作るつもりです。

模型の方は丸瓦のプラ材がやはり切れてしまい、さらに20袋追加中です。届くまでに、城内の蔵などの芯を作り、

塩蔵の製作を進めています。


それでは先ほどの間違い探しの解答(のようなもの)です。




岡山城本丸模型は櫓を大量に同時製作で進めています。

なかなか区切りのいいところにたどり着かず、今回の記事は書くつもりはなかったのですが、今晩は大ニュースがあり、居ても立っても居られない状況です。

先日の記事のコメント欄でもお知らせ下さっていましたが、インターネットオークションに新出の岡山城の古写真が出ていました。

こちら。

出たその日にたまたま発見し、ひっくり返りそうになりました。私もこれはできることなら入手したかったのですが、すぐさま岡山城模型のご依頼主にお知らせしました。

そしてインターネットオークションに出品していた時の経験から得た、落札できるコツをお伝えし…その甲斐があったのかなかったのかは分かりませんが、無事、ご依頼主が落札されました!

予想通りかなり高騰しました。
ちなみに、同時に出ていた姫路城の古写真もビックリするような値段になっていました。

ラインで実況しながら、さながら自分が入札しているようで…落札されたご依頼主も緊張で手が汗でびっしょりになられたとか。

私も新たに確認できたことなどあり、写真が届いたあと、画像データを提供していただけるそうなので、また追って記事にします。

まだまだ知らない古写真が眠っていることでしょう。
これからどんなものに巡り会えるか楽しみです。


模型の現状です。
坂下多聞。7割完成というところ。手前の多聞は庇が回り二重になります。

中水御門。棟と出窓が未完成。

旗櫓、槍櫓、弓櫓。多聞は二重で庇の取り付けがまだこれから。

宍粟櫓。石落としと棟が未完成です。

鉄御門は棟が未完。地面の高さにミスがあり、階段は作り直しです…

目安橋、内下馬門、太鼓櫓。屋根の取り付けや橋脚がこれからです。

修覆櫓。掛け瓦や棟、石落としが未完。二重の多聞の庇もこれから。内下馬門は内側から見ると石垣にほとんどのっておらず仁王門のようになっているのがよくわかります。三重櫓の高さとその下の石垣を合わせた丈で上まで垂直に、まるでビルのようです。

西北の隅櫓。一重目の庇と石落とし、破風面などが未完。

外側は鋭角に折れ、内側は直角という、屋根の納めにこれは本当に悩みました。

馬場口門と花畑隅櫓。まだこんな感じです。

ちなみに丸瓦のプラ材が先日30袋追加しましたが、すでに残りがわずか3袋です。
さらに追加します。


次回はこれらの建物が出来上がったあたりでお目にかけようと思います。
岡山城本丸模型は下の段の櫓を進めています。

建物は芯の箱組みに、外壁や屋根を張り込んで造形しています。

あらかじめパーツ化します。

屋根が一番大変で、丸瓦を一本ずつ貼り付けます。
先日追加した30袋のうち、すでに20袋を使いました。

できるだけそつが出ないように心がけますが、出てしまったそつも掛け瓦に使えるので取っておきます。

北西から。

南西から。

このあと後半戦の追い込みを前に、つかの間の夏休みをいただきます。

高原へ。

キャンプです。

しばし模型を忘れて。


岡山城本丸模型は中の段の櫓が月見櫓以外で粗塗りまで終わりました。

こちらは造形完了時。

引き続き下の段の諸櫓に進みます。

丸瓦が膨大で、プラ材を追加しました。
30袋。
総延長75メートル分。
実寸に換算すると22.5キロメートル分。
これでも足りるかちょっと心配だったりします。

櫓を1つずつ見ていきます。
塗装は粗塗りですのでまだ汚いです。お許しください。

【大納戸櫓】
中の段の南西隅にたつ大櫓です。沼城天守を移築したといいます。

本丸のもっとも目立つ場所に建っていることもあり、古写真は比較的残されています。

石井正明氏による復元図面もありますが、この復元図は古写真や絵図と上重の大きさが対応しません。

牙城郭実測図では上重は四間四方となっています。

古写真をよくみると妻側四間、平側はそれより狭く3間半くらいだと思われます。

今回はその寸法で作りました。

計算したわけではなかったのですが、結果的に上重の平側は丸瓦の本数も同じになりました。(模型は五寸丸瓦でつくっています。)

古写真と大変似たプロポーションとなりました。
下二重は復元図面の通りですが、二重目西側の窓の位置も若干違うようですね。

図面と模型ではこれだけ違います。

復元図面は視覚的に影響が大きく、櫓のイメージをこの図面で持っておられる方も多いと思います。より正確な復元図の作成が必要だと思います。

この図面にはもう一つ問題があり、それは大納戸櫓につながる多聞櫓の高さが低すぎることで、この復元図面の高さだと伊部櫓との接続部分で古写真のようなつながりを確保できません。

このように大納戸櫓の一重目庇より高い位置に屋根が来ていたはずです。

古写真にも多聞櫓の棟が写っており、今回の模型でも同じ見え方をします。

【伊部櫓】
中の段の新しい石垣上に建ちます。
建物も石垣と同じく、本丸内では新しいものです。

東西入母屋に直交する上重をのせる二重櫓です。南西隅に石落とし、南にむけて軒唐破風を設けます。

壁面は総塗籠です。
古写真を見ると、窓の格子は塗籠ではなく素木のままです。

牙城郭実測図には高さの記録が無く、現存の月見櫓を参考にしました。つくってみると、二重目の軒高があと2ミリ強低くした方がよかったようです。
つくってみないと分からないこともあります。実物よりスマートな櫓になりました。

【数寄方櫓】
中の段の西側凸部の北西隅の櫓です。伊部櫓とは多聞櫓で繋がっています。

伊部櫓と数寄方櫓はちょうど彦根城の天秤櫓のように兄弟のように並びます。しかしながら、屋根の向きや意匠を違えて、変化を持たせてあります。

数寄方櫓は三方入母屋のような下重に上重をのせる形です。一重目の西側に軒唐破風を見せます。西と北に格子出窓を設けています。

数寄方櫓は古写真がありません。
牙城郭実測図と月見櫓を参考にしました。

【小納戸櫓】
中の段の北東隅の櫓です。西と南に多聞櫓を接続します。

南北棟の入母屋の下重に直交する棟の上重をのせます。東向きに軒唐破風をつけます。

多聞櫓には、さらに廊下門が繋がります(製作はこれから)
あ、石落としを作り忘れてる。
追加しておきます。

それにしても牙城郭実測図は大変正確です。
建築関係者がつくったことが一目瞭然。出し桁の腕木で間数がわかるようになっていて、測量図から起こした地形にぴったり納まるのです。

ほとんど調整なしでいけました。
おそるべし牙城郭実測図。

下の段の櫓にいきますよ!