THOUSAND WINDS -219ページ目

悪霊払いについて

私は霊魂の存在を信じている。
だから善霊も悪霊も悪魔も天使も信じている。
ただ悪霊払いの話とか見てて思った素朴な疑問。
我々はどうしたらその霊がいい物だか悪い物だかを見分けられるだろうか。
つまり人間にありがちな二元論、脳の構造が0か1か、それだけのものに
単純化して考えたがる。
いい霊はのべつくまなく常に良くて、
悪い霊はのべつくまなく常に悪いのか。
人間にもいい人間、悪い人間とかいて、だからと言って
常に良いばっかりだったり、
悪いばっかりだったり、しない。
つまり何が言いたいかと言うと、
霊も同様でしょ、と言う事。
実体は良くも悪くもなくて、
ただ時にそれが悪い方に傾いて人に悪い影響を与え、
いい方に傾けば、気まぐれにも守ってくれもするみたいな。
確かに善と悪にまっ二つに分けて考えれれば簡単で便利なんだけど
思うに
宗教が関わる領域って結構こんな
二元論のオンパレードなんは、
恐らくあんまり深くものを考えたくない、
一部の宗教家の趣向を反映さしてるに違いない。

メッキでもいいから

フルートの話。
大昔に習いたての頃買ったのは、メッキ無しの洋銀のフルート。
数年前にようやくまともな国産フルートを買い直して、
それは銀メッキのフルート。
間にクロームメッキされた中国製のフルートがあるけど、
やはりたかがメッキされどメッキで、
全然音に違いが出て来る。
取り分け教会の礼拝堂みたいな、
やたら音が響き渡る場所で吹けば違いが分かる。
メッキなしはどこか音がキンキンしてて、響きの悪い家の自室だと関係ないが、
結構耳ざわりに聞こえる。
それが銀メッキされてるだけで、
どことなく音がマイルドになったように感じる。
私が楽器屋であれこれ高いフルートなんかも吹かせてもらって思うのは、
銀の比率が増える毎に音が丸く、何か輪郭がなくなっていくみたいに感じられる。
それは銀と言う素材の特徴なんだろうが、
村松のPTPと言う、プラチナメッキのフルート、私のお気に入りのそれは、
音がとても派手なような気がする。
金が含まれると音が明るくはっきりするみたいに感じる。
家の楽器ではささやかながら、
10HOLESのハーモニカが、金メッキ仕様で愛用してるが、
この音も何故かやはりはっきりメリハリついた音だ。
まあはぶりが良くなったとして、この約百万もするフルート、
一生手に入れられるとは到底思えないが、
せめて銀以外の素材の混じった笛を所望する所存。
ガラスのピッコロみたいな、音色だけじゃどんな高級フルートも叶わないような

七十人訳聖書について

普通旧約聖書として売られているものは、ユダヤ人らにより後世になって編纂された、
ヘブライ語の聖書に基づいている。
だから我々が日頃見かけるそれは、完全版とはいかないまでも、書簡の並びとか章の順が異なる物もあれど、
そのユダヤ教で言う聖書そのもののはず。
ウルガタ版と言われる、古くからカトリックで使われたラテン語版聖書もあるけど、
恐らくそれと今の新共同訳とは違う。
また実際に福音書が書かれた頃やパウロの時代には、
ディアスポラと呼ばれる、地方に離散したユダヤ人の為の、
ギリシャ語で訳された聖書が用いられた。
だから新約聖書なんかで、旧約聖書からの引用箇所は、
大抵この七十人訳聖書が使われたはずなんだが、
どうもこの七十人訳、あまりポピュラーじゃなくて、
まだ一巻本になったものを見かけない。
確かに教会の礼拝に正式に使われてる聖書はあくまでも
ヘブライ語の聖書を元としてて、需要はないわけだが、
こんな裏事情を知らず、新約を読んでてどこか引用箇所が
的確に当てはまらなく感じたりするのも、翻訳の問題だと考えたくなる。
今さらこの七十人訳が脚光を浴びるとは思えないが、
聖書記者が参照したと思われるそうした箇所をそこから
見つけ出せたらきっとそれだけ
聖書の理解が深まるものと思えるのだが。
せめて新約が参照するあたりだけでも
原文に触れてみたい今日この頃。
何か今日は宗教びいてるな、
どうしたんだ→私

聖書についてのざれごと

新約聖書には4つの福音書が含まれるが、昔それを一つにまとめようとした、確かタ・ローギアとか言う文献があったようななかったような。
はなっからあの内容じゃ、一本化は不可能だったろう。
まあ多少情報がはしょられたとして、何とか一本化したければ、
普通はマルコによる福音書あたりを骨格にして、そこに共観福音書の独自箇所を盛り付けて行くやり方になろうかと思うのだが、
どうしてもヨハネによる福音書だけあちこちはみ出してしまう。
このヨハネによる福音書の扱いが、人によって結構まっ二つに分かれる。
つまりこれを限りなく福音的に、事実として捉えるのか、
明らかな後世のフィクションとして、ある種たとえ話として捉えるのかによって。
私は図書館で借りて来て読んだ、分厚い本、現ローマ教皇のラッツィンガー「さん」の著書、
この人によればヨハネによる福音書の中身は多分に事実だとされている。
カトリックの一番えらい人がそう言うならきっとそうなんだろう。
聖書学者の大方はこれはリベラル的に解釈すべき福音書だと結論づけていようと。
どっちでもいい。
私にすればそんなの別にどうだっていい。
空想話だって、いいじゃないか。
なぜ事実にばかりこだわるのだろう。
私はその文書を読む事に益を見い出せれば
信仰が培われるものなら
それは仏教的な「方便」として
用いられても構わないと考える。
だから私は4つある福音書の中でヨハネによる福音書が好き。
タ・ローギアするんだったらこれを背骨に据えて書いて欲しい。
ただそうする事により、
キリスト教として微妙に違う物語が
浮き出てきそうなのだが

海馬OKに~

もしも生まれてからこの方
何の宗教にも結ばれてなくて
そのまま大人になってから
自分で好きな宗教を
選べるのだとしたならば
果たしてキリスト教は
どの位人気を集められるか
いやキリスト教に限らずとも
在来宗教はどれだけ
成人した大人の目で見れば
魅力的に映るだろうか
私にはどれもそんな魅惑出来る
何かを持つなど
到底思えないのだが
先日ミサの時に
幼児洗礼があって
本人が預かり知らない時に
勝手に親が霊名を決めてしまう
それだけだと確定したわけではなくても
この子の未来につばをつけたようなもの
物心ついた時には既に
知らぬ間にクリスチャンになっている
キリスト教なんかそうやって
信者を絶やさないようにしないと
いつか消滅してしまうのではないか

ここまでの話を一時すっかり忘れてしまった
リルケの詩を読み返していて思い付いた
だから再度繰り返しリルケ
読み返してる間に
ようやく海馬から消えかけてた
記憶を取り戻す
でもそうまでして私に
戻って来た記憶通り
この様に書いてみたものの
たいした事じゃなかった
ただ忘れた事へのこだわり
それだけの事