極私的読書備忘録。(ずいぶん前から院生です→修了しました→就職しました)
ネットフリックスで藤本タツキ原作のアニメ映画『ルックバック』をみた。二人組がマンガで連載を目指す話というあたりは『バクマン』の女子版という感じがある。とはいえ、そういう青春スポ根的なノリはなく、漫画なんていう何の役にも立たないもののために人生を棒に振り損ねちまった、危ない危ないという、世間的な感性を持つ小学生女子が主人公。その彼女に憧れる同級生の不登校児童との出会いによって、また歯車が回り始め、漫画(というか芸術一般か)という狂気にまた入っていってしまう。熱中できるものがあるといいよね、というのはある程度までの話であって、それで日常生活、学業、さらには人生全体までに支障をきたすようでは、周りの人たちは黙っていない(中学生になってまで絵を描いているとオタクだと思われるよ…、お父さんたち黙っているけど心配しているんだよ…などなど)。このあたり、おそらく藤本タツキの少年時代の心境がかなり込められているのだろうなと(あまり知らないのだけど)。後半の展開はちょっといろいろ思うところはあるというか。結局、親友の悲惨な死(京アニ事件を思わせる)を主人公の精神的な成長のタネにしかしていないんじゃないかとか(これはどう扱ってもそう言われかねないとは思う。あまりにも暗すぎる終わりにしないためには、ああ描くしかないのかもしれない)、女子二人組の絡みが百合感強いあたりがジェンダー的に問題とか。なので、特に前半の本物の天才に出会って鼻を折られる井の中の蛙少女の話とか、その後のお互いに天才だと思っていたことがわかったり、理想の読者を見つけることで成長する話とか、その辺はとてもよかったと思う。
ブルデューの説明で使えないかなと思っていた時にyoutubeで予告編を見たので、ネットフリックスで見た。結論としては、あまりにも上層すぎて使いづらい。例えば『花束みたいな恋をした』だと、上位1パーセント対上位30パーセントの対立みたいなものが問題になっていると思うので、結構例に出しやすい。ただ、こっちの映画は上位0.1パーセント対上位5パーセントで、5パーセントの方が「私たち貧乏代表!地方代表!」みたいな面をしているのが、なんだかなあ。だいたい、社会全体を見た時に、慶應の内部生に対して外部生が劣等感を感じるなんていうどうでもいいコンプレックスでしかない。その上で、その5%(富山の優等生が慶應義塾大学に進学するも、学費を賄えず、そのルックスでキャバクラで働き始め、どんどん店のランクをアップさせ、最後には起業家の友達に誘われる)が、地元をパチンコと裸踊りしかない田舎だと見捨てるものだから。 つまりは本当に戦うべき対立を見えなくするために、0.1%対5%の対立を浮き彫りにしている感がある。我々にとってはどうでもいい対立だ。 そしてその0.1%の階層は徹底的に陰湿で閉鎖的で、その点では下位60パーセント(男尊女卑的な地元から出ないで一生を過ごし、子供を産むことだけを期待される)と本質的には同じであると批判される。つまりここでは、階層を上昇した者、成り上がり者こそが、本当の勝者なのであり、再生産のサイクルの強制から(地元から離れることで)抜け出すことができた者の自由が称揚される。 東京のお嬢様がさらに上の家系の美男子と婚約するのだが、彼には女がいた(恋人ではない)。婚約者と愛人の面会という緊迫した場面を中心に持つこの映画は、とはいえそのような「男の都合」による女同士の対立・嫉妬を起こさせない。手切れ金を渡すのかと思えば、お雛様展のチケットであり、お嬢様はあまりにも育ちが良すぎて喧嘩ができない。その結果、結婚後の夫とも向き合うことができず、破局する。 東京のお嬢様は、いわばカリカチュアされた第二波フェミニズム的、「白人」中産階級の主婦の悲哀である。後継者を産むことだけを期待され、夫からは仕事に出るなと言われ・・・。そうですか、そういう苦しみもあるんですか、とは思うのだが、それはマジョリティの女性、例えばワンオペで子供3人を育てながらスーパーでパートもする地方女性に共感できるものではない。わざと共感できないように描いている。 そして成り上がりの女性、こちらはシスターフッドの物語の中心。慶應に入学するも、父親が再就職できないとかで退学し、田舎には帰らずラウンジ嬢として20代を過ごし、田舎に帰れば婚期を逃した女扱い。東京では元同級生の男(お嬢様の婚約者となる)の都合のいい女となることで人脈を広げ、東京の華やかさを体現する「田舎者」となる。あの面会の後、男と別れた彼女は、いろいろあった末、地元の女友達(同じく慶應に来ていた元同級生でもある)と友情を復活させ、起業する彼女の右腕となる。つまり男と別れたあとは、女友達と幸せに暮らす。老後まで一緒に過ごそうという話をする女友達は最近よく出てくるな(ブラッシュアップ)。 その彼女に触発されることで、東京のお嬢様は金魚鉢から飛び出し、離婚を要求する。代議士となる夫は離婚を拒絶したので、多分別居婚状態になった上で、女友達のバイオリニスト(例の面会に同席した第三者)のマネージャーをして、本来持っていた陽気さを取り戻す(ここもシスターフッド)。そうして再会した夫に、彼女は恋する眼差しを向ける(そう彼女は彼の家柄で結婚したのではなく、彼に一目惚れしていたのだった)。 印象的だったのは、終盤で橋の上でニケツする女子たちに手を振る東京のお嬢様。道ゆく誰しもに、女性であれば、連帯しよう!というメッセージ性を感じる。19世紀的な文学が、男同士の友情と、男女の恋愛ばかりを描いてきたことを踏まえた上で、バランスを取るための戦略性。
映画『正体』をみた。ネットフリックス。 犯罪史上に残る凄惨な殺人事件を彷彿とさせる事件の被告として、死刑判決を受けた男、鏑木がまさかの脱走。そこから、大阪での肉体労働者、東京でのネットカフェ難民兼ライター、そして長野での老人ホーム職員として、名前と顔を変えて白昼堂々と生き続けていく。正体がバレるとすぐにそこから驚異的な身体能力(と警察の無能ぶりによって)毎回脱出するが、彼に接していた人々はみな、彼が善人であったと口をそろえる。 これはすごく批評性の高いストックホルム症候群についてのドラマだ。物語としては、主人公(横浜流星という俳優らしい)が実は無実で、彼と接する中でこんな朴訥で善良な青年が殺人犯なわけがないと信じるようになった周囲の人々を巻き込んで、再審請求、無罪判決へと結びつく。ああよかった、真実が明らかになって善良な青年が救われた。 ところがそう主張するストーリーはあまりにも薄っぺらく、ご都合主義だ。それでいいのか。そもそも、脱走の際に警察官を素手で何人も倒し、最後には包丁を持って突進してきた青年は本当に、そんな善良な犠牲者の枠組みで収まるのだろうか。 つまり、実際には(原作小説は知らないが、この映画では)、この鏑木がやはり本当に殺人犯であり、実際に会ってしまえば周囲の人間はころっと彼に騙されてしまうような、異様な人間的魅力を持った危険人物である、という可能性を排除できないような物語であり続けている。彼は世間知らずで無口な青年を装い、脛に傷を持つものばかりが集まっていた大阪の建築現場で働き、とりあえずの資金を得る。その後、彼は東京でフリーのライターとして頭角を表すが、そこで知り合った編集部の女性と同棲関係となる。長野では年下の若い女性に慕われ、デートにも行くが、その女性を人質に取り立てこもる。 ところが、騙され、利用された女性たちが、彼の無実を信じ立ち上がる。東京での同棲相手は、自分の父親(弁護士)が痴漢(冤罪?)で有罪判決を受ける。その状況で遭遇した鏑木を、裁判中の自分の父親と重ね合わせ、二人とも冤罪事件の被害者だと思うようになる(ところが、なんとなく父親の事件も冤罪だと信じる根拠が弱い。週刊誌は更なる情報を掴んでいるようだし)。長野の女性は、憧れの先輩が殺人犯だと知り動揺するが、そこで君が必要だと言われ、自ら人質をなることを承諾する。彼女は立てこもりの際に鏑木が見せた暴力性、そしてそもそも老人ホームで働いている目的が事件被害者と接触し真犯人の証言を得ることだったことなどに示される鏑木の異様な執念(生への、なのだが)に動揺するが、鏑木が無実であるなら自分の憧れの先輩像を守ることができるため、それを信じようとするようになる(だから、あまり確信がない)。 これと似た物語がドラマ『MIU404』第2話であり、そこでは人質に取りその車で逃亡する殺人犯を、人質夫婦が息子のように思い始め、無実を信じ、警察を妨害するようになる。ところが、その殺人犯は本当に殺人を犯しており、人質も警察の一部も(足の速い人)彼に騙されていたのだった。人は信じたいものを信じる、と。 なので、映画館に来た大勢の人を暗い気持ちで帰させないために、主人公も生き残り、無実も証明されるという結末にしたのだが(小説、ドラマもあり、それぞれその結末が微妙に違うらしい)、それは完全に100パーセントのものではないと思う。つまり物語の大部分は、鏑木が真犯人であってもおかしくないように作られているし、再審の結果、やはり有罪判決がくだる可能性も排除されていないようの思えるのだ。この緊張感こそが、ハッピーエンドであるはずの物語に深みを与えている。
四話のドラマ。ただし2話までが本番、残りは天才子役の名演を見る第3話と、犯罪加害者の家族の辛さを描く第4話で、ストーリーの方に重点が置かれる。つまり、1、2話はストーリーではなく、超絶的なカメラワークに度肝を抜かれるドラマだ。一時間ほどのエピソードのなかで、一度もカメラは切り替わらないし、場面は飛ばない。究極の長回しドラマ。1話での民家突入のシーンは戦争ものでよくある長回しに似ているのか、臨場感ある突入。ターゲットがまさかの13歳の少年ということも驚き。特定の一人にカメラを固定するのではなく(クローバーフィールド的に誰かがカメラを持っているのでもなく)、透明人間としてその場に着いていく印象で、廊下などで着いていく人物を切り替えるタイミングが見事。 警察署での取り調べに至るシーンがおそらく最大の見せ場。家族の待合室、少年の独房、身体検査の部屋、弁護士との面談室など、それぞれが分断された場面を、人をスイッチしながら流れるように移動していく。そんなことをするとその場にいなかった物語に着いていけなくなりそうだが、そこをうまく生かしている(そもそもこの少年の容疑は? という謎とリンクする)。第二話では少年の動機、そして凶器を探るために中学校を訪問し、各教室を回って調査する。ここもすごい。イギリスの公教育?の破滅ぶりがひでえな、って感想もあるが(移民系のやる気ない教師がずっとビデオを見せている、というあたり人種差別助長という批判もありそうだが)、それ以上に廊下と各教室、運動場、そして学校の外までを走り回る。一回だけの撮影で成功させないといけないと思うのだけど、これだけの人数とこの撮影範囲でそんなことが本当に可能なのか? 「カット」が出来ないんだから、どれだけ練習したんだろうと恐ろしくなる。イギリスの俳優業界ってとんでもないレベルなんだな(個人の演技のうまさという意味ではなく、これだけの撮影を成功させる人材の豊富さ)。一応ストーリー、メッセージ性というのもあるんだけど(SNS、男らしさの呪縛、教育崩壊、インセル、加害者家族)、それらは決して共感を呼ぶように作られているのではなく(犯罪加害者の親が、それでも子供を愛しているシーンで終わる。それに対して、涙腺崩壊!でこのドラマを締めくくるのはまずいだろう、いそうだけど)、緊張感ある50分を作り出すための道具のひとつか。そういう意味では、3、4話で登場人物と動きが減って、ストーリー重視にしたのは純粋に制作費とかの関係だろうな、あの1、2話の熱量で全てを作るのは不可能だ。
JacarandaAmazon(アマゾン) ガエル・ファイの小説『ジャカランダ』を読んだ(中盤は読み飛ばした部分もあるが)。フランス語。 すごく面白かった。 フランスに住む少年が母方のルーツであるルワンダを訪れ、ジェノサイドの記憶と向き合っていく物語。母親は祖国のことを全く語らない。主人公ミランはひょんなことからルワンダを訪れそこで友人を作る。フランスに帰国後はルワンダの戦後裁判について論文を書こうとするが上手くいかない、じゃあルワンダに行ってみるかとなり、友達の事業に投資したりでいつの間にか住み着いてしまう。 そこに複線として絡み合うのはステラという少女。ミランより16ほど年下。新生児の時に初めて笑いかけたという謎の縁で、ステラはミランに懐いていく。ステラはルワンダ新世代を代表するエリート少女。お母さんは政府の高官で、自分はエリート私立に通うバイリンガル。「私たちはジェノサイドの記憶を忘れず、未来を作っていきます」的な希望の星だ。 この二人、ジェノサイドを知らない若者がジェノサイドの記憶と向き合うのが本書の物語だ。 そう、これは確かに、ジェノサイド・サバイバーの沈黙と、その子孫たちの探求の物語なのだが、そう片付けるのはもったいない。というのも本筋になるのはあくまでも「現代」に生きる、ジェノサイドを知らない若者たちだからだ。ジェノサイドを生き延びた母親たちからすると、彼らは甘えている。知らないジェノサイドのトラウマのせいで学業成績が落ちたり、せっかく留学させたアメリカの大学をドロップアウトしてしまう。苦しみを知る大人が、子供には希望を残そうと懸命に努力したのに、全てを捨ててソファーでインスタをスクロールするのだ。なんでだよ! Z世代の若者たち(フランスのブルジョワ家庭だったり、アフリカのシンガポールを目指すルワンダで生まれた)には、ジェノサイドの証言を引き出しそれを記録することはあまりに過酷だ。自分探しのキラキラ旅は、すべてを放棄する寝そべり族として終わる。この未来の希望を託された目を輝かせる少年少女が、その役柄を拒否することで時を進めていく。
Netflixで見られる、ノルウェードラマ。災害もの。ネタバレしかしません。ノルウェーから海と太陽を求めてきたブルジョワ家庭四人が主人公。冴えない夫、ブロンドの妻、17歳の娘、自閉症の弟。姉は弟のお守りをさせられ自由がないことにうんざり、夫は妻がホテル従業員にモテることに嫉妬、妻は夫が息子の面倒を見れないことに激怒、そんな感じで大きな子供たちを連れたバカンスって何だか大変そうだなと思いながら見る。災害系の定番で、科学者たちが危険を知らせるがパニックを起こしたくない政府側はもう少し様子を見ましょうと繰り返すだけ。実際に避難しろとなってもみんなが乗れるだけの船はないし仕方ないか。このドラマのいいところはスペインの孤島に来る系の、私たちバカンスというものを知っていますのよ系ブルジョワのすごくつまんなそうなバカンスを見れること。7年くらい前からずっと夏に来ている、それを職場で自慢しているんだろうな夫婦。共働き。母親は自閉症の弟のことしか見ておらず、娘はベビーシッターがわり。姉はその状況を受け入れて、自分がレズビアンであることも親に告げられず、毎年家族でのつまらないバカンスに参加する。夫婦喧嘩は犬も食わないというだけあって、夫婦喧嘩シーンは正直飛ばしたくなるし、飛ばしていいと思う。日本人の役者だとすげー棒演技だなってわかるけど、ノルウェー人だと上手いのか下手なのか正直分からない。 流れはアメリカ人にもわかるくらい単純。家族関係の危機にある四人家族が(自閉症の弟ひとりによってギリギリ繋がっている)、災害を乗り越える中で、家族の絆を取り戻す・・・ そういったお父ちゃんパワーを期待して見ていると、何だか様子がおかしくなる。災害ものの定番だけど、みんなで秩序だって逃げればいいところを「友達を後ろで見つけたから連れて戻る、先に行ってて」とかいって列を逆走。折角乗った飛行機を、「娘を探さないと」といって降りたり・・・。基本的にこの家族が家族や友達を思う身勝手な行為によって秩序が乱され、そこで失われた数秒によって関係ない人々がどんどん死んでいく。でもそんなことを知ったこっちゃない、映画主人公の家族四人だけが問題だからね! 海外の事件、災害で「日本人の怪我人はいない模様です」って一言が流れて、それで「日本人の命だけが大事だっていうのか!」って怒るという一連の流れがある。もちろん、大使館への問い合わせを考えてのことなんだけど、それをグロテスクなまでに誇張しているのがこのドラマ。ノルウェー人を救うぞ!! そのお父ちゃんの救われ方があまりにも救われない。最初に飛び乗った船(金で順番抜かし)で一息ついたところ、赤ちゃん連れの人がくる。父ちゃんはヒーローになろうと自分が代わりに降りる。そうして一度は死を覚悟するも、チャンスがあると分かれば、文字通り他人を踏み退けてボートに飛び乗る、命への執着。こんな醜いヒーローがあるだろうか。この人は、どうやって生き残ったのか、絶対に家族には言わないんだろうな。いかに醜く生き残るかが、いかに美しく死ぬかと明確に対立している(後者もいる、タイタニック的な)。 全般に、災害ものの定石を外すぞ!っていう意識を感じなくもないんだけど、ご都合主義はより一層で、何でそこにリアリティを割くかな?ってところに割いていく。最大多数の幸福的なものがインプットされている日本人から見ると、身近な人を救うことだけを目指し、その結果全体の死者が増えていくことには無関心的な「ハッピーエンド」は結構胸糞が悪いだろう。津波てんでんこの重要性をほぼ毎シーンごとに感じるので、そういった意味でもストレスがたまるかもしれない。
一話目が面白すぎて最後まで見た。熊谷市役所で働く主人公の女性33歳。交通事故で死ぬと真っ白な部屋。奥には市役所の受付のようなところがあって事務的に死後の生を案内される。それがなんとグアテマラ南東部のオオアリクイ。このワードで全て持っていったな。ところがなんと、その来世に納得できなかった人には、今世をやり直す道もある。このように明らかにマンガの『死役所』(2018)を念頭に置いた冒頭。からの安藤サクラの味を存分に生かした北熊谷コメディ。本ドラマが出てきた土壌としては、ラノベ原作アニメなどでここ10年以上雨後の筍のように増え続けた異世界転生ものがある。それらが10代から30代の(読者も歳をとっていくから)男性をメインターゲットにしていたとすると、本作は30代女性がターゲット。 そして異世界転生ものが、前世の知識を使って無双する一方で、本作では前世の記憶を使ってもなんだか笑える程度にしか世界を変えられない。そこが面白い(つまり震災とか、リーマンショックとかは全く話題に出てこない)。その点においても、6話あたりまでが完全にコメディで、終盤の三話くらい?で「大きな物語」が突如現れて、大団円へと一直線。 本作のポイントは三点ある。第一に日本人の死生観への介入。第二に30代女性。第三に北関東的地元愛の再発見である。 ここ10年ほどのラノベ的異世界転生ものは、日本人の(特に若い男性)死生観に重大な問題を引き起こしている。異世界転生は現世でうだつの上がらない平凡な男が、その知識を活かして異世界(あるいは来世)で無双する、という大枠を持つ(その内部で細かい差異化を図っている)。極端に孤独で退屈な人生であっても来世(異世界)では幸福になれるという逆転の希望は、現世を大切に生きようとする、あるいは現世に喜びを見出そうとする意欲を損なってしまう。特にさしたる宗教的バックグラウンドのないままに普及した異世界転生的死生観によるこの問題を、転生という同じ枠組みを使って打破しようとしたのが本作である。おそらく仏教的な輪廻転生に基づき、人生の中で積み上げた徳によって転生する生命が決まる。そのため二周目では必死に徳を積み重ねようとする。しかしその徳と転生先の繋がりが、人間的な観点からすると不明瞭なところがまた面白い。あれほど徳を重ねたのに、オオアリクイの次はサバなのだ。 第二と三について。本作は北関東的地元愛を再定義する作品である。いわゆるマイルドヤンキーの特徴としては大都市の郊外に住み、地元から出ずに、20代で結婚し子供が生まれ、戸建に住み車はヴェルファイアに乗りたい、だろうか。それに対立するのが東京に出てキャリアを重ね、30では結婚せずに、あるいは結婚してもDINKsを続ける、という人生か。そこからこぼれ落ちるのは、地元から出ずに、そして結婚もしないという生き方だろう。そして、主人公たち四人の女性は30代において皆そうである。主人公は3、4、5周目では東京に出てくるが、最後にはわざわざ北熊谷に帰る。それはなぜか。誰も傷つけないためである。 人生をやり直すならば、誰もが成功者になれると普通は考える。勉強もできるし、人間関係でも失敗しないし、悪い男にも引っかからない。でも本作はそのような形で人生を改変するのではない。ただ徳を積む(これはエゴだが)、そして友人を救うためだけにやり直す。だから市役所職員→薬剤師→テレビ局のディレクター→研究医→パイロット、となるわけだが、これを決して職業の序列化というわけではない(この辺がうまく考えられている)。口の悪い主人公は地元で音楽の道を諦めきれずに離婚し出来ちゃった結婚をした福ちゃんのことを、人生の失敗者だと思いそうになる(一周目、二周目)。だがそんな彼にも子供ができたことを知り、夢破れ、離婚したからこそたどり着いたその今を肯定し、改変を諦める(実は脇役の男たちは皆そうである。嫌っていた中学の先生が痴漢冤罪で捕まりそうになるのを主人公がなん度も助けるのも、彼が新婚で子供が生まれる直前だから)。この物語は言い換えると、中学時代は仲良かったけど今は全然違う人生を歩んでいるよね、という30代の諦念を、青春的40代という夢で圧倒しようとする物語である。たまたま同じ地域に生まれただけの同級生がその後階層分化していくのを当然だとみなすのではなく、職業こそ違えどみんな同じ地元の仲間というパワーで押し切ろうとする、カズオイシグロのいう「縦の旅行」を可能とする地元愛の復権を高らかに叫ぶ物語である。 そのユートピアでどうしても不都合になる出来事がある。それが結婚、妊娠、出産だ。主人公を含む仲良し3人組(4人組)アラサー、アラフォー「女子」は、月に2回のペースで食べに集まる。それが可能なのはとりもなおさず、彼女らがみな独身で、その多くは実家暮らしだからだ。そのような中学の青春の延長としての30代という夢は、通常は誰かの結婚によって途切れる。このドラマにおいて、脇役たちの多くは結婚し、とくに男たちは結婚と子供を持つことによって存在を許されている一方で、主人公の女性たちだけにはそのイベントが免除、あるいは排除されている。そこがこのユートピアの限界であるのかもしれない。将来はみんなで同じ老人ホームに入って女子会を死ぬまで続けようという彼女たちの夢は、結婚の有無によって左右されない夢である。それゆえに、このドラマは最大でも40歳までしか描くことが出来ず、その後は想像に委ねられる。 少年漫画が18歳以上を描けないとしたら(多くの人は高校まで行くので高校生活という共通のベースがある、その先は分化)、職業ドラマは35歳以上を描けないのではないか。そのような制約まで感じてしまった。いずれにしても素晴らしいドラマだった。面白かった。
三宅『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で、この映画が分析のネタにされていたので見てみた。いい映画だ。大学時代に付き合ったカップルが、就職を機に心が離れていき最後には別れる、というストーリーなのだが、おそらく見る人の年齢や背景によって大まかに二つの読みに分かれると思う。1、絹(有村架純)側 大学時代は同じ映画、本を読み、同じような服を着ていた二人。文化の価値もわからない俗物どもばかりの世界で、二人だけは分かり合えた。二人とも大学卒業後就職はせず、フリーターとして自由気ままに暮らしていた。ところがその一年後、カレである麦(菅田将暉)が就職してから様子がおかしい。休みの日になっても、これまで好きだった漫画や本も読まず、映画館に行っても心は上の空。本の趣味も変わり、今では本棚に並ぶのは自己啓発書やビジネス本ばかり。もはやSwitchすらできず、できるのはスマホゲーム(パズドラ)だけ。麦は社会(仕事)によって壊された。人に100%の献身を要求する現代の仕事社会が、いかにして人間を壊していくのかの物語。2、麦側 大学時代に知り合った二人。お互いに確かに同じようなサブカルが好きだった。絹といつまでも一緒にいたいから、自分は就職を決意。就職後は今までの自分がいかに能天気に生きていたのか思い知る。親の仕送り5万円が大学卒業後も続くと当てにして、絵を描いてネットで一枚1000円(後に三つで1000円に、いらすとやに負ける)で売って、好きなことを仕事にしているふり。そんなかつての自分のバカらしさが今ではよく分かる。だからこそ、いつまでも変わらない絹のことが理解できない。なんでせっかく就職した会社を辞めて、イベント会社(怪しいイケメン社長に勧誘で)でやりがいを求めて働くとか言い出すのか?3、サブカルクソ野郎批判 二つとか言いながら三つ目。絹も麦も、世間をバカにして、文化を分かっている自分達に酔っていた。でも彼らの文化ってのが、なんつうか浅いんだよね。二人とも読書家を自認していると思うのだが、読んでいる本って芥川賞をとりそうな系、「純文学ですよ!」っていう短中編を読んで、それを読む自分に酔っている感じ。こんな人たち、一昔前では読書家とすら呼べなかったと思うんだよね。本棚にプルーストもカフカもフォークナーも、スタインベックにガルシア=マルケスにバルザックもない。現代日本人作家しか読まないなんて、それは本読みじゃないだろう。 その浅さっていうのは映画の中でも結構批判的に描かれていて、二人は通なライブとかに行く分かっている若者だと自認しているんだけど、ある日二人でイヤホンを分けながら曲を聴いているとそれを見たファミレスの隣人に、「君ら音楽好きじゃないでしょ」と話しかけられ、レコーディングにおけるLとRの作り上げ方について一時間も説教を喰らう。そしてあろうことか、五年後?彼らはその説教を、さも自分のオリジナルの考えであるかのように、別の人に説教しているのだ・・・彼らは文化を好きなのではなく、文化が好き!な私が好きなのだ。 それが特徴的に現れているのが二人の靴で、二人とも真っ白なジャックパーセルを履いていて、それによって「分かってるじゃん!」となって恋に落ちる。これがナイキだったらただの上位スクールカーストカップルだし、NBだったら健康オタクだ…とはならない絶妙のラインをついているよね。ナイキで被っても同じ文化を共有している可能性は低いけど、ジャックパーセルなんてわざわざそれを目指さないと履かないでしょと(高校時代はこんなどうでもいいことでみんなこだわっていたよねと思い出す)。4、文化=消費批判 二つとか言いながら四つ目。これもほぼ3に繋がるのだけど、文化の享受という点において絹と麦には根本的な違いがある。麦は自分で映像作品を作り、絵を描くことで自分を表現していた。そしてその絵が三枚1000円で買い叩かれることで、現実にぶち当たり、就職する(絵を続けるよ、と言いながら就職後は一枚も描かない)。他方の絹は、おそらく何も製作はしない。完全な文化の受容者。そして自分の思う文化を受容せず、別の文化を受け入れている人たちを上から目線で裁き続ける。攻殻機動隊は良くて、実写版魔女の宅急便はだめ。今村夏子は良くて、自己啓発本はだめ。基本的に僕もその選択自体についてまあそりゃそうだよね、と思うのだけれども、その「正しい」文化を選び取れている自分がそれによって偉くなっていると思い、「間違った選択」をするようになる麦のことを嫌いになっていく。そして絹の文化享受は常に、完成品にお金を出すことによってしかなされない。駅前のチェーン店ではなく、商店街の老夫婦が営むパン屋さんで惣菜パンを買う、という一見すると微笑ましい、エモい行動ですら、全て資本主義の枠内でしか行われない。5、社会階層の違い 五つ目。これは本作ではあまり触れられないのだが、絹と麦は本質的に社会階層が違う。絹の親は電通の社員で、都内に豪邸を持っている。麦の親は新潟?の花火職人で、いつか仕事を継いでほしいと思っている。二人は東京の大学に通っていたので、生活圏は被っているが、絹は実家暮らしで、麦は安アパート暮らし。絹は粋狂で、麦と同じ貧乏生活を体験してみる(アパートに転がり込む、就活を辞めて麦と同じくフリーターになる、駅徒歩30分の団地で二人暮らし)のだけれども、根本的に金がなくなる恐怖を感じる感性がない。だから、金のために働き、それで人格が変わってしまった絹を理解できない。なんでそんなに仕事、金のことしか考えられなくなったの?もう今村夏子のピクニックは理解できないの? でも麦からすると、そういうモラトリアム生活をいつまでも続けていられないのは当たり前(大学卒業後、数ヶ月はもったのが驚きだが)。二人は同棲当初からかなり金遣いが荒く、なんとなく世帯年収800万はないと厳しそうな生活を送っているのだが、ところがどっこいほぼ無職なんだなこれが(親の仕送りだよね)。親の生活水準をそのまま維持している絹(そして実際にはそれが維持不可能であることに無自覚)と、それを維持するために必死に働く麦というコントラストが生まれてしまう。 というわけで、五年前に見たら、絹の肩を持って「自己啓発本とパズドラしかできなくなるまで人間を追い込む、現代日本社会(労働)は狂っている」と思っていだろうけども、今だと違うなあ。もちろん働きながら本を読める社会を作るべきだと思うんだけれども、その読書(文化)ってのが極めて受動的で資本主義的なものとしてしか生き残っていないことを批判すべきなんだろうな。文化を青二才の占有物ではなく、大人の手に取り戻すべきだ。
ゴリオ爺さん(新潮文庫)Amazon(アマゾン)2010年、2018年に読んでいる。三度目。いやいや、とんでもない傑作だ。バルザックってすげえつまんない小説も結構多いと思うんだけど、やっぱり『ゴリオ爺さん』は最高だ。何がって、その後のフロベールの感情教育とかって完全にこの『ゴリオ爺さん』を下敷きにしているんだよね、その上でその劇的さを全て無くそうとする。あまりにも偉大だから、どうにかしてそれを乗り越えよう、あるいはその物語らしさを否定しようと躍起になる、そういう時代を越える傑作。主人公はラスティニャック。貧乏な田舎貴族の長男で、パリ大学の法学部の学生。友人に医学部生のビアンションがいる。19世紀パリで学生となると、法学部か医学部と相場が決まっている(将来があるのはそれだけだったから)、それにしても小説の中で法学部に登録してみた学生の中退率の高いこと(たいてい勉学に身が入らず、二年目には大学に通わなくなる)。ラスティニャックも大学に行くのは出席の返事をするためだけ(すぐに抜ける)。 なぜかというと、もう弁護士や裁判官の道は諦めたから。小説の主人公には、(夏目漱石の三四郎やフロベールの感情教育のフレデリックと同様に)、勉学で身を立てるか、コネを使って社交界で有名になるか、二つの可能性が開かれている。最初は勉強しようと思うのだけど、悪党ヴォートランの、「弁護士になりたい奴がどれだけいると思っているんだ、それになれたところでそんなみみっちい給料じゃパリの社交界で生きていけないぞ」という悪魔の囁きに惑わされ、早々に勉学を諦める。 ラスティニャックが選ぶのは社交界の道。まず頼るのは親戚のお姉さんボーセアン夫人。パリでも三本の指に入るほどの大貴族。で彼女、田舎から出たばかりで右も左もわからぬ、でも顔を意外と良くて野心家の青年を見て、気まぐれから彼の社交界デビューを後押しする。まずは後だてになる女を見つけないと。そう、社交界の人気者になる=ご婦人たちから狙われるためには、「誰かの彼氏」である必要があるのだ。女は誰かに欲望されている男でないと好きにならない、と。 この社交界の法則を叩き込まれたラスティニャック。手始めに、顔が良くて好きになれそうだと思ったニュッシンゲン男爵夫人デルフィーヌと恋をすることにした。・・・ これがラスティニャックの物語。これだけでもすごく面白い。というか、フロベールやプルーストは、ここだけで物語を完結させると思う。『ゴリオ爺さん』の主役は、なんと言ってもゴリオ爺さん。彼はラスティニャックと同じ下宿に住む隣人だ。この隣人というところが肝。二十歳前後の大学生の隣人である60を超えた男性。経済状況が同じくらいということは、学生からすると取るに足らない存在だろう「俺は将来ビッグになるんだ、こんな下宿に住むのは今だけさ」。でも、そんなゴリオ爺さんのところになんと貴族ご婦人たちがやってくる、どういうことだ? この謎から、ゴリオ爺さんの驚くべき人生が明らかになる。 彼は1789年のフランス革命の時、小麦の不作に乗じて小麦を買い占め、大金を手にした商人。その金を持参金(現在の日本円にして5、6億円ずつ)に、革命後の混乱した社会で、二人の娘を貴族と銀行家とに嫁がせることに成功する。そして娘たちの家を交互に訪れて楽しく暮らしていた。ところがナポレオンの時代が終わり、王政が戻ってくる。革命でがめつく稼いだ商人などが家に出入りしているなんて、恥ずかしい! というわけで娘たちからもあまり家に来ないでと言われるように。最後はリア王。というか、キリストだな。断末魔の苦しみの中、看病にやって来ない娘二人を時に呪いながらも、最後には「祝福する」。 ゴリオ爺さんの埋葬はラスティニャックとビアンション、二人の学生がお金を出し合う。不倫や金遣いの荒さを夫に叱られた娘たちは、葬式にも来ない、葬式代も出さない(というか二人の婿たちが出さなかった)。社交界の現実を身に染みて理解したラスティニャックは、墓地のあるペール=ラシェーズの岡の上からパリを見下ろして叫ぶ「さあ今度は、俺とお前の勝負だ!」。
とんでもないバカ映画だった! 面白い。結構怖いサメ映画だよ。面白いところは、パリオリンピックのトライアスロンにぶつけてきたこと。ご存じのように、オリンピックのトライアスロンはセーヌ川を泳ぐことになっている。だがあんなに汚いセーヌ川で本当に泳げるのか?当日を迎えるまで誰にも分からない。そんなパリ市民の不安(というか野次馬根性)に乗っかって、パリにサメを登場させる。いや海じゃないじゃん。何だけどなぜかこのサメ、淡水に順応してしまったようだ。普通に生きている。この映画の面白い点二つ目は、エコな少女たち。普通のサメ映画ってサメだ怖い逃げよう。何だけど、ここでは「プラスティックの海で苦しみ、人間たちにジェノサイドされているサメたちを救おう!」っていう使命感に溢れた少女たちが「大活躍」する。snsで仲間を集めて、水上警備隊に殺されそうになるサメを海まで導こうとする。ああ、なるほど最近のサメ映画はこういうことにも気を使うんだね、と思わせてからの・・・ひでえ。セーヌ川ってパリジャンの空想を駆り立てるんだろね。透明度0で何が隠れているのやら。そして地下の下水道にもつながっている。ジャン・ヴァルジャンがジャベール警部と追いかけっこをしたあの地下下水道だ。そしてカタコンブにも? 死の上に築かれた都市。 この映画が一番喧嘩を売っているのはパリ市長。どう見てもイダルゴなパリ市長が終始見栄っ張りなだけの女性で、サメの脅威よりもこれまで準備してきたオリンピック(投資額)を優先して被害を拡大していく。 というわけで全方面に喧嘩を売り込むスタイルの、オリンピック便乗サメ映画。トライアスロン選手でこれ見ちゃった人、泳ぎたくなくなるやろなあ。
夏への・・・といえば、当然ハインラインの『夏への扉』なのだけれども、そのタイトルから分かるように、サイエンス・フィクションもの。結構いいアニメ映画だった。かなり君の名はを意識している(お互いに相手の名前を連呼するあたり)。うらしまトンネルに入ると、自分が過去に失った大事なものを取り戻すことができる。ただし、その中では時間の流れが速く、数分そこにいただけで外では一週間が経ってしまう。このトンネルの中で主人公は、幼い頃に亡くなった妹が履いていたサンダルと、二人で飼っていたインコを見つける。今度はもっと奥までいって妹本人を取り戻そう。その企てに乗ったのが転校生の謎な少女。ところがこの映画のいいところは、謎な少女は実は結構普通な女の子で、平凡に見えた主人公の方が、ちょっといっちゃってるってとこ。自分が特別だと思いたい少女は、本物の奇人を前にすることで、彼と同じ世界に入りたいと思うようになる。こうして、二人が別々のものを求めてトンネルへと挑む共同作戦が始まる。いうまでもなく黄泉降りは成功しない。だから黄泉降りで何かを持ち帰ることにゴールはない。その旅の途上で、旅の仲間と得た経験こそが宝なのだ。そういう結果になるだろうことは最初から分かっているのだけれども、なかなかうまくその後も展開していく。妹のことばかり考えて、妹を蘇らせるためには1000年だってトンネルに篭るつもりの主人公。一方のヒロインはダメもとで送ってみた漫画の原稿が評価されて、トンネルに潜って「才能」を発見するという目的を見失っていく。 10代らしい恋愛(というか人間関係)。ある一人と一緒になるためなら、世界を捨ててもいい。そしてそのいっちゃっている魅力と幼稚さが、紙一重で、少女の方が一歩先に大人になっちゃって、それでも別の世界を見続ける彼のことを忘れないのがとてもいい。
Netflixですずめの戸締まりをみた。ネタバレ注意。まず、子供と一緒に見てはいけない。怖すぎる。暗すぎる、そして重すぎる。そして、重い映画=芸術的に価値があるというわけではない。新海誠ってオタク向けの作品を作っていたけど、うまく一般向けに修正していっていったと思っていた。つまり、ハイティーンのオタク向けから、子供も楽しめる方向へと行っていたと思っていたから、だいぶ方向が変わったしまったように思う。もちろん、ここに2作品で「災害」が主題の一部になっていたことは分かっていたんだが、それってあくまで味付けというか、本筋は男子高校生が抱くような童貞的理想化恋愛にあったはずなんだよね。でも徐々に、自分のあるいは映画の社会的責任とかそういう方向性に目覚めてしまったのかな、という印象。泣けることは確かなんだけど、泣かせることを目的として作られた作品で、この時代は「泣ける!」ということに映画の1番の価値を置いている、そういうことが残念だ。 君の名は、は素晴らしかった。しかし天気の子、すずめの戸締まり、とどんどんはっきりとしてきた方向性はよくないと思う。君の名は、は日常パートがしっかりと楽しく面白く、そこからの結末への急展開がある。天気の子では序盤から家出状態で(それは本作も一緒)、あまり日常をやっている余裕がない。君の名はの災害は隕石だから、もうどうしようもない運。それを超自然の力で回避するのは許せる。天気の子は異常気象。それを小手先で回避し続けた結果、もう諦めちゃって海に沈む(だったっけ忘れた)、災害よりも二人の愛だよね(だったっけ?)。そしてこのすずめの戸締まり、日本中の地震を止めようとする。地震を起こすのはナマズならぬミミズ。ミミズが出ようとする門(廃墟にある)を一つ一つ閉めていき、日本に二つある(はずの)要石をもう一度しっかりと地面に打ち付けるための旅。まず地震を人力で止めよう(というか能力者たちが陰で奮闘している)という発想が2ちゃんねるのノリで、やったあ、大震災を防げたね!じゃねえんだよ、そのエネルギーどこいくんだよってなる。 リアリズムから離れると新海誠は多分つまらなくなる(本人が作りたいものは何か知らないけど)。君の名はのいいところは、主人公が「真実」を告げたとき、あのおばあちゃんでさえも信じないこと、誰も魔法は信じない、それでも人を動かすためになんとかする。すずめは最初から椅子が走る、猫が喋る。これじゃあ信じる。現実と超自然の間を描かないと面白くない、トドロフの言う通りだ、ペンギン・ハイウェイを見たまえ。 結論としては、見る価値はあるけど、一人で見るべき。廃墟に眠る記憶のテーマとかすごくいいテーマだと思う、実際廃墟って観光資源化してるからね。でも震災を描くって難しいよね。災害を感動のために消費していないと言い切るのが難しい。繰り返すが、子供と一緒に見るのはNG、なんで金曜ロードショーでやった。
ヨーロッパ近代芸術論 ――「知性の美学」から「感性の詩学」へ (単行本 --)Amazon(アマゾン)西洋美術史について学ぼうと思ったら、まずは高階秀爾と三浦篤を読めばいいと思うのだけど、その高階さんの「新刊」が出たと聞いてびっくりした。八十を超えてすごいな(それどころじゃなかった、91歳!の新刊!)。と思ったら、序文のみ書き下ろしで他は自選論文集。主に60年代から90年代にかけて書かれた論文。前半は今更読まなくても良かったかなあと思ってさらさら読んでいたんだけど、後半になると俄然面白くなる。というのも、序盤は60年代でまだ日本がフランス(西洋)を仰ぎ見る時代の論文で時代を感じるし、90年代の論文はというと概説的、教育的なものが多く、どっかで読んだなあ(そりゃそうだ、その後の高階—三浦へとつながる美術史の教科書はこのへんの論文が基になっているのだろう)って感じていた。ところが後半では70年代に書かれた、19世紀のフランス、特に文学と美術の関わりについて専門的な論文がまとめて収録されており、美術史からもこんなに文学に迫れるんだと感銘を受けたわけだ。 「マラルメと造形芸術」の章では、マラルメと印象派画家や象徴派画家との交友が主題となっており、あの詩に似合わず、マラルメがすごくきめ細やかな心遣いの出来る社交人であるという知る人ぞ知る側面がよくわかる。特に面白いのは、サロメに関して。マラルメの詩、エロディアードって当たり前のようにギュスターヴ・モロー、ユイスマンス、ルドン的な、サロメの文脈の中で読みたくなると思うのだけど、その直接の霊感として高階が上げるのが青年時代の親友であったアンリ・ルニョー。なんか名前聞いたことあるなと思ったら、そうあの、オルセー美術館の右側の1番目の部屋にデカデカと《ムーア人の処刑》が飾られていた、アカデミスムの、オリエンタリズムの画家だ! (この本ではルーヴル美術館所蔵となっているから、その後移されたのだろう。こういう情報は本にまとめる時に更新しなかったんだな) 実は《処刑》が話題になった1870年のサロンにルニョーは《サロメ》と題された、お盆を膝の上に乗せたエキゾチックな女性画も出品している。《処刑》と《サロメ》をまとめると、まさにヨハネの首がお盆から浮かび上がるような、マラルメ=モロー=ユイスマンス的な情景が出てくるだろう。つまりここで高階が言いたいのは、知識のない我々はAマラルメとBモロー、あるいはAマラルメとBユイスマンスを見て、AとBとの間に影響関係、因果関係を結ぼうとしてしまうが、そうではなく、両者の共通の霊感としてのCがある、あるいは同時代にはさらに複雑に張り巡らされた引用の網が(まさに間テクスト性)があったことを忘れてはならないということだ。 それで一番素晴らしいと思った論文は「『知られざる傑作』をめぐって」と題されたもの。これほど深くこのバルザックの小品を読み込めるかと驚く。知られざる傑作というタイトルがバルザックには珍しく誘導的な題であることから論は始まる。読者は短編を読み進めながら「傑作」がいつ全貌を明らかにするか固唾を飲んで見守る。ところが最後に日の目を見たのは、ごちゃごちゃに絵の具が塗り固めれられた壁でしかなかった。フレンホーフェルが製作中に自画自賛していた絵は、完成を目指すあまり度を越して塗り重ねたために、気付かぬうちに大失敗に終わっていたのだ。というのが第一層の読み。 第二層の読みでは、混沌とし何が描かれているのかもわからないと評されるその「失敗作」こそが、時代を100年も先取りした大傑作であったというものだ。周知のように、マネ以降、絵画は対象との間の参照関係をなくしていき、自律した表現を模索していく。モデルの影も形も見えない「知られざる傑作」こそが、睡蓮が消えていくモネの晩年の作品、あるいは20世紀の表現的抽象絵画の先駆けなのだ・・・というもの。これはかなり魅力的だが、おそらく贔屓の引き倒しだろう。 第三層で(そしてほとんどのバルザック読者はこう読む)のは、現実と芸術の区別がつかなるなるほどに芸術にのめり込んだ天才芸術家の狂気をそこに見るもの。最初はモデルの女を画布上に「再現」していくのだが、後半では画布上に架空の女を生み出していく。後者の裸婦像はフレンホーフェルが製作中には、いきいきと艶かしく、今にも姿を表すように見えていたのだが、他人が見ると黒い絵の具の壁にしか見えない。他人の目を通して初めてフレンホーフェルも自分の「失敗」に気が付く。途中まで出来ていた「傑作」は、狂気の塗り重ねによって地層の奥深くに埋葬されてしまったのだ。 そして、なぜ「天才」バルザックは現代芸術を100年も先駆けるような「第二の読み」に耐えうる美術理論を、狂ったフレンホーフェルの口から発させることができたのか、ということが問題。それは彼が預言者でも千里眼の持ち主であったわけでもない。まさにマネ、セザンヌらの絵画的革新を遠く準備したドラクロワの《女と鸚鵡》(1827)が霊感源であろうと。というわけで、興味がある章から読むのでもいいし、日本における西洋美術史の成り立ちもなんとなく感じられるし、良かった。
全く更新していなかったので更新。今日、勤め先の最寄駅から帰宅しようとすると、すれ違う男性が片手に本を読みながら歩いてくる。二宮金治郎って最近珍しいよなと思って興味本位にその表紙を覗くと、まさかのプルースト。それもGF版のProustだった!プルーストを原書で電車内で読むのは百歩譲って分かるとして、そのまま改札通るとは・・・。どこぞの先生なのかなと思いつつ、この地Nの文化レベルの高さを思い知った。僕も明日からは負けじとちゃんとした本を電車内で読もうと心を入れ替えた。
イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密(字幕版)Amazon(アマゾン)204円見てみた。エンタメ映画としてはよくできている。ナチスの暗号解読のために呼ばれた天才数学者チューリング。ASDと思われるこの数学オタク(マシーンだけが友達、恋人)が、一人で世界と立ち向かい、ついには戦争の行方を左右することに・・・という感じだ。暗号を解読するきっかけが「愛」だったり、見ていて「僕の考えた最強の科学者」的な描写ばかりなのが、かなりあれだが(ガリレオシリーズ的な嘘くささがあるんだよね)、まあでも出来としてはいいと思う。それに「実話に基づく」話らしいし、同性愛が犯罪だったイギリスで、諜報機関での業績を当然公表できず、数千万人もを救ったのに冷遇されたまま自殺した、となるとこれは。それのみならず、彼のこの時の業績が、現在のコンピューターにつながるというのだから、これぞアインシュタイン並みの天才だ!と感じてしまう。んだけど、やっぱりちょっと盛りすぎじゃねえの?って思う。というのも、第二次大戦ってのは自由対ナチスだとみんな思っているけど、実際はクロスワードオタクが誰を生かすか殺すか決めてたんだよ(暗号を解読したからと言ってすぐにそれに対処したら暗号を変えられるから)、俺は世界の恩人か、それとも犯罪者か、どちらだ? とかそんな問いかけ。つまり世界の見方が、天才たちが裏で操っている、っていうそれこそ陰謀論そのものにしか見えない幼稚極まるもの(これ戦場で戦ったイギリスの軍人の家族たちキレないんかな?)。ASDなギークの天才としてのチューリングの描写とか、あまりにもステレオタイプだし。寄宿舎でのいじめと同性愛への目覚め、そして迫害と、ちょっといくらなんでも予想通りすぎるテンプレの詰め合わせなので、それが多少なりとも史実に基づいているとはいえ(映画全体としての史実度は低いらしいが)、チューリングに関する映画というよりも、2010年代のポリティカル・コレクトネスに最も合致した男としてチューリングが選ばれた映画という気がしてしまう。つまり、「同性愛嫌悪の犠牲となり、自殺に追い込まれていった知られざる英雄チューリング」という安っぽい紋切り型に回収されてしまっていいのか? ということだ(自殺かどうか、原因は同性愛への迫害か、それぞれに検証が必要なのにそれがすっ飛ばされ、ポピュラー・カルチャーにおいてはそういう説明が自明視されているとか)。 つまり映画の制作者からしてみれば、チューリングが本当はどういう人だったのかなんてどうでもいいんだなって感じてしまうのだ。科学者なんだから会話の流れを読めないオタクだろ(いくらなんでも誇張しすぎ。変人性を描かないと天才であると描写できないのは甘えだ。)、世紀の発見っていうのはふとした会話の中から出てくるはず(きっかけとか大好きだよね)、同性愛迫害の犠牲者なんだから犠牲者らしくして(でもチューリングは全然隠していなかったんだよね? それに彼はこの映画では巧妙に「マシンだけが恋人」であるかのように描かれていて、彼が男をナンパしたりする積極性を見せないよね)、などなど。科学的業績、軍事的功績をそのまま説明せずに、奇人変人譚で乗り切ろうとしたり、御涙頂戴で誤魔化したりするのはねえ。 スパイ映画としてみたら、ミッション・インポッシブルよりもよっぽどリアリティがないと思う。
街とその不確かな壁Amazon(アマゾン)2,970円1980年に雑誌掲載された同名の中編を40年越しに大幅書き直し。というか、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の世界の終わり編を、ずっと読まされたのが、第一部だった。これのどこが新作だよ! とすごく残念な思いになったところで、ようやく第二部が始まり安心する、こちらは新しい物語だ(ところが後書きを読んだところ、第一部を書いて、村上は一度、できたと思ったそうだから、やっぱりほとんど同じに見える第一部が作家としては大事なのだろう。編集者に文句言われるだろう)。で、第二部は東北の田舎町の奇妙な町営図書館での日々で、それはそこそこ面白い。ただそれがなんだか尻切れとんぼに終わって謎が回収されることなく、また第一部と同じ街に戻っての短い第3部で締められる。村上の小説を大きく分けるとすると、現実世界への関わりを深めた(大学紛争、オウム真理教、震災)時期の小説と、それ以前の個人の内面世界に沈み込むデタッチメントの小説に二分されると思うのだけど、1985年の『世界の終わりと・・・』は後者の代表作。そして僕は断然、1990年代以降の小説の方が好きだ。で、村上は40年前にやり残したこと、多分ユング=河合隼雄的な、人間の無意識の世界についての物語に再び取り組もうとしたと思うのだけれども、それが成功しているようにはあまり思われない。スプートニクの恋人やねじまきどりなど1990年代の彼の小説では井戸という重要なモチーフが続いていて、その具体的なイメージを軸にして河合から学んだであろう人間の無意識についての物事がうまく描かれていたのだけれども、本作(と世界の終わり)では、現実世界には存在していない街、図書館、壁(全て主人公が脳内で作り上げたもの)を軸にしているから、「だからなんなんだよ」っていうツッコミを抑えられない。 ガルシアマルケスのマジックリアリズムについて会話が作中で現れるが、村上は自分がよくマジックリアリズム作家と分類されることを知った上で、現実の非現実の壁の曖昧さを描こうとしていると思うのだが、かつての村上はもっとうまくやっていた。 スプートニクの末尾を読み返して欲しい というか、まあ僕が「世界の終わりと・・・」に全くのめり込めなかっただけなのだが。しかし村上の長編小説もこれが最後かもなあと思いながら読み始めたので、途中からずっと、こんなんで最後にするんじゃねえぞ! となっていた。 村上が老いを描けない、っていう問題についてもなあ。この主人公は「世界の終わり」の彼なので(というか影なので)、欲望がなさそうなんだよね。セクシャルな描写で売れてきた面が村上にあるとすると、彼にとっての老いってのはただ単に「枯れ」なのか、と。
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』などでは、ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》(1831)について、背景にノートルダム寺院の双塔が見えることを指摘した上で、それがこの角度で見えるのはセーヌ左岸の五区だが、1830年の七月革命のとき、バリケードが築かれたのはむしろパリの右岸であると書かれてある。つまり、パリの特定の場所を描いたのではなく、ここがパリのどこかであることを漠然と示す記号として、パリを象徴するノートルダムの塔が描かれたのだと(現代のドラマで、パリでの物語であることを示すために、屋根裏部屋の窓からエッフェル塔を見させるみたいなものか)。 そんなものかなと思っていたのだけど、その説明を読んだ時からちょっと引っ掛かりがあった。なんで、この塔が左岸から見られていると断定できるのだろう? 鈴木による説明では、大聖堂はみなさんご存知のように西側が正面で、この絵の中では明らかに西側の塔を南から見ている、という風に言っている。確かに塔の右側に建物が続いていて、左側は途切れているようにも見える(煙で隠れている)から、そうかなあとも思っていた。 でも今日、よくよく見てみると、塔の右側に続いている建物、どう見ても大聖堂ではない。そうではなくて、大聖堂よりも近くにある六階建てくらいのアパルトマン群なのだ。そうすると、この塔が南から見られているという説明がかなり怪しくなる。というのも、ノートルダム寺院はシテ島の南岸に位置しており、その南側はすぐに川になっているから、そんな建物が林立するスペースはない。じゃあこれはどこから見られた風景なのか。Googleマップでストリートビューしながら探していると、やはり左岸からこのように見えるところはなさそうだ。一方で右岸にはかなり近い候補地が一瞬で見つかる。なんと、パリ市庁舎前のグレーヴ広場だ。革命と密接に結びついたこの広場から南を見た時、アパルトマン群の向こう側に二つの塔が突き出ている、ほとんど一致。 ただ、実際には二つの塔はほぼ重なっている。それがずらされて、はっきり二本に見えているのは、絵画的な演出として十分理解できる。 大発見ちゃうかな、と思って調べてみると、なんのことはないフランス語版のウィキペディアに書いてあった(というかそこで引用されている文献に)。グレーヴ広場から見たノートルダム寺院に見えるけど、この広い広場はバリケードで封鎖できないし、正確にこの角度で見えるところないよと。でも、まあ、左岸説より、はるかに説得力ある。問題は、日本語空間だけでなく、フランス語で検索しても、なぜか左岸からの景色だと断定しているものがとても多いこと。例えば、Leur orientation sur la rive gauche de la Seine est inexacte. Les maisons entre la cathédrale et la Seine sont imaginaires.「左岸からの向きは不正確。カテドラルとセーヌ川の間の家々は想像による」なんて書いちゃってるけど、これはなんでこうなっちゃったんだろうね。二重に矛盾があったら、もしかして前提が間違ってるんじゃないか、って思った方がいいよね。多分、この手の文章が別のサイトで大量に見つかるのは、みんながちゃんと確かめずにコピペを繰り返しているから。フランス語wikiはその点かなり優秀。
新年度にMacをアップデートすべきではない。こんな当たり前のことを忘れていた。持ち運び用のMacBook Airのバージョンが10ぐらいだったのを、一気にVentura13.3に三段階くらいアップデートした。というのも、それまで自宅用のiMacがMonterey12だったことが原因なのか、徐々に同期されなくなることが増えていたから。新年度始まるし、今のうちに・・・と思ったのがまずかった。Ventura13.3になったMBAを快適に使っていたのだが、メールに添付されているPDFを開けないことが度々あった。というか、10個中3〜4個のPDFは開けなかった。これじゃあ仕事にならない。それどころか、今まで自分が開いていた既存のフォルダの中のPDFすらも開けないのがあることが判明した。もしかして、これじゃあ過去の書類読めないんじゃ・・・。Mac、PDF開けない、とかで検索しても全く原因が分からなかったのだが、ふと思い立ってVentura、PDF、開けないで検索したら一瞬で解決策が見つかった。Ventura 13.3での不具合(フ… - Apple コミュニティdiscussionsjapan.apple.com原因はよく分からないのだが、濁点とかがファイル名に含まれていると開けないという状況らしい。PDFのファイル名を選択、濁点を取り除けば無事に開ける。そしてこのリンク先にもあるように、単にファイル名を選択し、何も変えずにenterするだけでも、なぜか開けるようになっている。というわけで、一応問題は解決したが、なんとも腑に落ちないことだった。
暇と退屈の倫理学(新潮文庫)Amazon(アマゾン)792円新しく訪れた街で、たまたま入った丸善で見つけた本。とてもよかった。仕事の始まらない3月中に、なんとなく落ち着かないけどやることが見つからない時期に読んだのがよかったのかもしれない。國分功一郎は退屈を三つに分類する。人間の不幸は皆、部屋の中にとどまっていられないことから生ずるとパスカルはいう(引用は不正確です)。退屈から逃れるために、かりそめの目的(ウサギを狩る、大学に合格する、会社で出世する=気晴らし)を設定し、それに邁進することで、人間という存在の悲惨さから目を逸らそうとしている。目的達成のためには時間を無駄にしたくない、モモの時間泥棒みたいにあくせくと時間を大切にして暇に直面することから逃れている。これが第一。次に、パーティーで大勢と楽しく喋り、飲み食いしながら、ふと「なんとなく退屈だなあ」と思う。パーティーという「気晴らし」の真っ只中なのに、それにのめり込めない。第一が仕事や夢やらの「奴隷」になることで幸福である(ように思い込んでいる)のとは対照的に、この第二ではその気晴らしの最中にふと退屈を感じてしまう。次から次へと忙しく娯楽に飛びつき消費し続けながらも、ますます「ああ、退屈だなあ」と思う現代人は多くこの状態を生きている。そして、第三では退屈に直面し、それこそが自由であることに気がつき、決断する(動物とはちがう!)。しかしハイデガーが肯定的に取り上げるこの第三段階が結局は第一段階とイコールであることに國分は注意を促す。確かに、側から見ると「仕事の奴隷」であるように見えるかもしれないが、それは彼らが退屈という自由に自覚的になった上で、決意して選び取った彼らの自由の結実であることは確かであるように思われる。となると、退屈の第二形式こそが最も重要なのではないか? こうして議論は深みを増していく。この本が面白いのは、パスカル、ルソー、ハイデガー、コジェーヴと名前がぽんぽん出て来て、哲学・思想へのイニシエーションとなっていると同時に、工芸ではモリス、生物学からのユクスキュルの環世界、精神医学からは刺激をもたらすものを意味する「サリエンシー」など、領域横断的に暇と退屈の倫理学を形成することを試みていることだろう。
Fight Club (字幕版)Amazon(アマゾン)今日丸善で買った國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』でファイト・クラブが例で挙げられていたので見てみた。そういえば、最近読んだ別の本でもファイト・クラブが例示されていたな。現代消費社会について語る上でほとんど必須の教養だったらしい。何となくタイトルから頭空っぽで見るイケメンがボクシングをする系の映画だと思っていたけど、全く違った。マトリックスと同年、1999年の作品。なるほど、今から思えば、この二作が21世紀への橋渡しだったのか。一方は陰謀論へ、他方は・・・何だろう、多分SNSで退屈を紛らわせようと頽落している姿へのアンチテーゼか。どちらも現代社会への強烈な問題意識から、視聴者を目覚めよ、って揺り動かした末に、その先の目覚めた末路がそれ以上の地獄だってところに共通点がある。あと、ファイト・クラブを例示する人ってやっぱり、わかってるんだな。みんなちゃんと映画の前半部分から引用する。それがファイト・クラブのルールなんだろう。本当に面白い映画だった。なんていうかな、確かにドラマと映画って媒体的には似ているし、特にNetflixとかだとその区別が付かないんだけど、『ファイト・クラブ』のような本物の映画は、SNSやドラマ的な暇つぶし、気晴らしの正反対にあるんだなってことを思い出させてくれる。二十歳の頃って、社会派ドラマ(笑)とか「リアルだよねぇ」と笑って見ている「社会人」の頽落ぶりを笑っていたけど、それを笑えなくなってきた今この映画を見ると、なおさら身に沁みるものがある。