極私的読書備忘録。(ずいぶん前から院生です→修了しました→就職しました)
ゴリオ爺さん(新潮文庫)Amazon(アマゾン)2010年、2018年に読んでいる。三度目。いやいや、とんでもない傑作だ。バルザックってすげえつまんない小説も結構多いと思うんだけど、やっぱり『ゴリオ爺さん』は最高だ。何がって、その後のフロベールの感情教育とかって完全にこの『ゴリオ爺さん』を下敷きにしているんだよね、その上でその劇的さを全て無くそうとする。あまりにも偉大だから、どうにかしてそれを乗り越えよう、あるいはその物語らしさを否定しようと躍起になる、そういう時代を越える傑作。主人公はラスティニャック。貧乏な田舎貴族の長男で、パリ大学の法学部の学生。友人に医学部生のビアンションがいる。19世紀パリで学生となると、法学部か医学部と相場が決まっている(将来があるのはそれだけだったから)、それにしても小説の中で法学部に登録してみた学生の中退率の高いこと(たいてい勉学に身が入らず、二年目には大学に通わなくなる)。ラスティニャックも大学に行くのは出席の返事をするためだけ(すぐに抜ける)。 なぜかというと、もう弁護士や裁判官の道は諦めたから。小説の主人公には、(夏目漱石の三四郎やフロベールの感情教育のフレデリックと同様に)、勉学で身を立てるか、コネを使って社交界で有名になるか、二つの可能性が開かれている。最初は勉強しようと思うのだけど、悪党ヴォートランの、「弁護士になりたい奴がどれだけいると思っているんだ、それになれたところでそんなみみっちい給料じゃパリの社交界で生きていけないぞ」という悪魔の囁きに惑わされ、早々に勉学を諦める。 ラスティニャックが選ぶのは社交界の道。まず頼るのは親戚のお姉さんボーセアン夫人。パリでも三本の指に入るほどの大貴族。で彼女、田舎から出たばかりで右も左もわからぬ、でも顔を意外と良くて野心家の青年を見て、気まぐれから彼の社交界デビューを後押しする。まずは後だてになる女を見つけないと。そう、社交界の人気者になる=ご婦人たちから狙われるためには、「誰かの彼氏」である必要があるのだ。女は誰かに欲望されている男でないと好きにならない、と。 この社交界の法則を叩き込まれたラスティニャック。手始めに、顔が良くて好きになれそうだと思ったニュッシンゲン男爵夫人デルフィーヌと恋をすることにした。・・・ これがラスティニャックの物語。これだけでもすごく面白い。というか、フロベールやプルーストは、ここだけで物語を完結させると思う。『ゴリオ爺さん』の主役は、なんと言ってもゴリオ爺さん。彼はラスティニャックと同じ下宿に住む隣人だ。この隣人というところが肝。二十歳前後の大学生の隣人である60を超えた男性。経済状況が同じくらいということは、学生からすると取るに足らない存在だろう「俺は将来ビッグになるんだ、こんな下宿に住むのは今だけさ」。でも、そんなゴリオ爺さんのところになんと貴族ご婦人たちがやってくる、どういうことだ? この謎から、ゴリオ爺さんの驚くべき人生が明らかになる。 彼は1789年のフランス革命の時、小麦の不作に乗じて小麦を買い占め、大金を手にした商人。その金を持参金(現在の日本円にして5、6億円ずつ)に、革命後の混乱した社会で、二人の娘を貴族と銀行家とに嫁がせることに成功する。そして娘たちの家を交互に訪れて楽しく暮らしていた。ところがナポレオンの時代が終わり、王政が戻ってくる。革命でがめつく稼いだ商人などが家に出入りしているなんて、恥ずかしい! というわけで娘たちからもあまり家に来ないでと言われるように。最後はリア王。というか、キリストだな。断末魔の苦しみの中、看病にやって来ない娘二人を時に呪いながらも、最後には「祝福する」。 ゴリオ爺さんの埋葬はラスティニャックとビアンション、二人の学生がお金を出し合う。不倫や金遣いの荒さを夫に叱られた娘たちは、葬式にも来ない、葬式代も出さない(というか二人の婿たちが出さなかった)。社交界の現実を身に染みて理解したラスティニャックは、墓地のあるペール=ラシェーズの岡の上からパリを見下ろして叫ぶ「さあ今度は、俺とお前の勝負だ!」。
とんでもないバカ映画だった! 面白い。結構怖いサメ映画だよ。面白いところは、パリオリンピックのトライアスロンにぶつけてきたこと。ご存じのように、オリンピックのトライアスロンはセーヌ川を泳ぐことになっている。だがあんなに汚いセーヌ川で本当に泳げるのか?当日を迎えるまで誰にも分からない。そんなパリ市民の不安(というか野次馬根性)に乗っかって、パリにサメを登場させる。いや海じゃないじゃん。何だけどなぜかこのサメ、淡水に順応してしまったようだ。普通に生きている。この映画の面白い点二つ目は、エコな少女たち。普通のサメ映画ってサメだ怖い逃げよう。何だけど、ここでは「プラスティックの海で苦しみ、人間たちにジェノサイドされているサメたちを救おう!」っていう使命感に溢れた少女たちが「大活躍」する。snsで仲間を集めて、水上警備隊に殺されそうになるサメを海まで導こうとする。ああ、なるほど最近のサメ映画はこういうことにも気を使うんだね、と思わせてからの・・・ひでえ。セーヌ川ってパリジャンの空想を駆り立てるんだろね。透明度0で何が隠れているのやら。そして地下の下水道にもつながっている。ジャン・ヴァルジャンがジャベール警部と追いかけっこをしたあの地下下水道だ。そしてカタコンブにも? 死の上に築かれた都市。 この映画が一番喧嘩を売っているのはパリ市長。どう見てもイダルゴなパリ市長が終始見栄っ張りなだけの女性で、サメの脅威よりもこれまで準備してきたオリンピック(投資額)を優先して被害を拡大していく。 というわけで全方面に喧嘩を売り込むスタイルの、オリンピック便乗サメ映画。トライアスロン選手でこれ見ちゃった人、泳ぎたくなくなるやろなあ。
夏への・・・といえば、当然ハインラインの『夏への扉』なのだけれども、そのタイトルから分かるように、サイエンス・フィクションもの。結構いいアニメ映画だった。かなり君の名はを意識している(お互いに相手の名前を連呼するあたり)。うらしまトンネルに入ると、自分が過去に失った大事なものを取り戻すことができる。ただし、その中では時間の流れが速く、数分そこにいただけで外では一週間が経ってしまう。このトンネルの中で主人公は、幼い頃に亡くなった妹が履いていたサンダルと、二人で飼っていたインコを見つける。今度はもっと奥までいって妹本人を取り戻そう。その企てに乗ったのが転校生の謎な少女。ところがこの映画のいいところは、謎な少女は実は結構普通な女の子で、平凡に見えた主人公の方が、ちょっといっちゃってるってとこ。自分が特別だと思いたい少女は、本物の奇人を前にすることで、彼と同じ世界に入りたいと思うようになる。こうして、二人が別々のものを求めてトンネルへと挑む共同作戦が始まる。いうまでもなく黄泉降りは成功しない。だから黄泉降りで何かを持ち帰ることにゴールはない。その旅の途上で、旅の仲間と得た経験こそが宝なのだ。そういう結果になるだろうことは最初から分かっているのだけれども、なかなかうまくその後も展開していく。妹のことばかり考えて、妹を蘇らせるためには1000年だってトンネルに篭るつもりの主人公。一方のヒロインはダメもとで送ってみた漫画の原稿が評価されて、トンネルに潜って「才能」を発見するという目的を見失っていく。 10代らしい恋愛(というか人間関係)。ある一人と一緒になるためなら、世界を捨ててもいい。そしてそのいっちゃっている魅力と幼稚さが、紙一重で、少女の方が一歩先に大人になっちゃって、それでも別の世界を見続ける彼のことを忘れないのがとてもいい。
Netflixですずめの戸締まりをみた。ネタバレ注意。まず、子供と一緒に見てはいけない。怖すぎる。暗すぎる、そして重すぎる。そして、重い映画=芸術的に価値があるというわけではない。新海誠ってオタク向けの作品を作っていたけど、うまく一般向けに修正していっていったと思っていた。つまり、ハイティーンのオタク向けから、子供も楽しめる方向へと行っていたと思っていたから、だいぶ方向が変わったしまったように思う。もちろん、ここに2作品で「災害」が主題の一部になっていたことは分かっていたんだが、それってあくまで味付けというか、本筋は男子高校生が抱くような童貞的理想化恋愛にあったはずなんだよね。でも徐々に、自分のあるいは映画の社会的責任とかそういう方向性に目覚めてしまったのかな、という印象。泣けることは確かなんだけど、泣かせることを目的として作られた作品で、この時代は「泣ける!」ということに映画の1番の価値を置いている、そういうことが残念だ。 君の名は、は素晴らしかった。しかし天気の子、すずめの戸締まり、とどんどんはっきりとしてきた方向性はよくないと思う。君の名は、は日常パートがしっかりと楽しく面白く、そこからの結末への急展開がある。天気の子では序盤から家出状態で(それは本作も一緒)、あまり日常をやっている余裕がない。君の名はの災害は隕石だから、もうどうしようもない運。それを超自然の力で回避するのは許せる。天気の子は異常気象。それを小手先で回避し続けた結果、もう諦めちゃって海に沈む(だったっけ忘れた)、災害よりも二人の愛だよね(だったっけ?)。そしてこのすずめの戸締まり、日本中の地震を止めようとする。地震を起こすのはナマズならぬミミズ。ミミズが出ようとする門(廃墟にある)を一つ一つ閉めていき、日本に二つある(はずの)要石をもう一度しっかりと地面に打ち付けるための旅。まず地震を人力で止めよう(というか能力者たちが陰で奮闘している)という発想が2ちゃんねるのノリで、やったあ、大震災を防げたね!じゃねえんだよ、そのエネルギーどこいくんだよってなる。 リアリズムから離れると新海誠は多分つまらなくなる(本人が作りたいものは何か知らないけど)。君の名はのいいところは、主人公が「真実」を告げたとき、あのおばあちゃんでさえも信じないこと、誰も魔法は信じない、それでも人を動かすためになんとかする。すずめは最初から椅子が走る、猫が喋る。これじゃあ信じる。現実と超自然の間を描かないと面白くない、トドロフの言う通りだ、ペンギン・ハイウェイを見たまえ。 結論としては、見る価値はあるけど、一人で見るべき。廃墟に眠る記憶のテーマとかすごくいいテーマだと思う、実際廃墟って観光資源化してるからね。でも震災を描くって難しいよね。災害を感動のために消費していないと言い切るのが難しい。繰り返すが、子供と一緒に見るのはNG、なんで金曜ロードショーでやった。
ヨーロッパ近代芸術論 ――「知性の美学」から「感性の詩学」へ (単行本 --)Amazon(アマゾン)西洋美術史について学ぼうと思ったら、まずは高階秀爾と三浦篤を読めばいいと思うのだけど、その高階さんの「新刊」が出たと聞いてびっくりした。八十を超えてすごいな(それどころじゃなかった、91歳!の新刊!)。と思ったら、序文のみ書き下ろしで他は自選論文集。主に60年代から90年代にかけて書かれた論文。前半は今更読まなくても良かったかなあと思ってさらさら読んでいたんだけど、後半になると俄然面白くなる。というのも、序盤は60年代でまだ日本がフランス(西洋)を仰ぎ見る時代の論文で時代を感じるし、90年代の論文はというと概説的、教育的なものが多く、どっかで読んだなあ(そりゃそうだ、その後の高階—三浦へとつながる美術史の教科書はこのへんの論文が基になっているのだろう)って感じていた。ところが後半では70年代に書かれた、19世紀のフランス、特に文学と美術の関わりについて専門的な論文がまとめて収録されており、美術史からもこんなに文学に迫れるんだと感銘を受けたわけだ。 「マラルメと造形芸術」の章では、マラルメと印象派画家や象徴派画家との交友が主題となっており、あの詩に似合わず、マラルメがすごくきめ細やかな心遣いの出来る社交人であるという知る人ぞ知る側面がよくわかる。特に面白いのは、サロメに関して。マラルメの詩、エロディアードって当たり前のようにギュスターヴ・モロー、ユイスマンス、ルドン的な、サロメの文脈の中で読みたくなると思うのだけど、その直接の霊感として高階が上げるのが青年時代の親友であったアンリ・ルニョー。なんか名前聞いたことあるなと思ったら、そうあの、オルセー美術館の右側の1番目の部屋にデカデカと《ムーア人の処刑》が飾られていた、アカデミスムの、オリエンタリズムの画家だ! (この本ではルーヴル美術館所蔵となっているから、その後移されたのだろう。こういう情報は本にまとめる時に更新しなかったんだな) 実は《処刑》が話題になった1870年のサロンにルニョーは《サロメ》と題された、お盆を膝の上に乗せたエキゾチックな女性画も出品している。《処刑》と《サロメ》をまとめると、まさにヨハネの首がお盆から浮かび上がるような、マラルメ=モロー=ユイスマンス的な情景が出てくるだろう。つまりここで高階が言いたいのは、知識のない我々はAマラルメとBモロー、あるいはAマラルメとBユイスマンスを見て、AとBとの間に影響関係、因果関係を結ぼうとしてしまうが、そうではなく、両者の共通の霊感としてのCがある、あるいは同時代にはさらに複雑に張り巡らされた引用の網が(まさに間テクスト性)があったことを忘れてはならないということだ。 それで一番素晴らしいと思った論文は「『知られざる傑作』をめぐって」と題されたもの。これほど深くこのバルザックの小品を読み込めるかと驚く。知られざる傑作というタイトルがバルザックには珍しく誘導的な題であることから論は始まる。読者は短編を読み進めながら「傑作」がいつ全貌を明らかにするか固唾を飲んで見守る。ところが最後に日の目を見たのは、ごちゃごちゃに絵の具が塗り固めれられた壁でしかなかった。フレンホーフェルが製作中に自画自賛していた絵は、完成を目指すあまり度を越して塗り重ねたために、気付かぬうちに大失敗に終わっていたのだ。というのが第一層の読み。 第二層の読みでは、混沌とし何が描かれているのかもわからないと評されるその「失敗作」こそが、時代を100年も先取りした大傑作であったというものだ。周知のように、マネ以降、絵画は対象との間の参照関係をなくしていき、自律した表現を模索していく。モデルの影も形も見えない「知られざる傑作」こそが、睡蓮が消えていくモネの晩年の作品、あるいは20世紀の表現的抽象絵画の先駆けなのだ・・・というもの。これはかなり魅力的だが、おそらく贔屓の引き倒しだろう。 第三層で(そしてほとんどのバルザック読者はこう読む)のは、現実と芸術の区別がつかなるなるほどに芸術にのめり込んだ天才芸術家の狂気をそこに見るもの。最初はモデルの女を画布上に「再現」していくのだが、後半では画布上に架空の女を生み出していく。後者の裸婦像はフレンホーフェルが製作中には、いきいきと艶かしく、今にも姿を表すように見えていたのだが、他人が見ると黒い絵の具の壁にしか見えない。他人の目を通して初めてフレンホーフェルも自分の「失敗」に気が付く。途中まで出来ていた「傑作」は、狂気の塗り重ねによって地層の奥深くに埋葬されてしまったのだ。 そして、なぜ「天才」バルザックは現代芸術を100年も先駆けるような「第二の読み」に耐えうる美術理論を、狂ったフレンホーフェルの口から発させることができたのか、ということが問題。それは彼が預言者でも千里眼の持ち主であったわけでもない。まさにマネ、セザンヌらの絵画的革新を遠く準備したドラクロワの《女と鸚鵡》(1827)が霊感源であろうと。というわけで、興味がある章から読むのでもいいし、日本における西洋美術史の成り立ちもなんとなく感じられるし、良かった。
全く更新していなかったので更新。今日、勤め先の最寄駅から帰宅しようとすると、すれ違う男性が片手に本を読みながら歩いてくる。二宮金治郎って最近珍しいよなと思って興味本位にその表紙を覗くと、まさかのプルースト。それもGF版のProustだった!プルーストを原書で電車内で読むのは百歩譲って分かるとして、そのまま改札通るとは・・・。どこぞの先生なのかなと思いつつ、この地Nの文化レベルの高さを思い知った。僕も明日からは負けじとちゃんとした本を電車内で読もうと心を入れ替えた。
イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密(字幕版)Amazon(アマゾン)204円見てみた。エンタメ映画としてはよくできている。ナチスの暗号解読のために呼ばれた天才数学者チューリング。ASDと思われるこの数学オタク(マシーンだけが友達、恋人)が、一人で世界と立ち向かい、ついには戦争の行方を左右することに・・・という感じだ。暗号を解読するきっかけが「愛」だったり、見ていて「僕の考えた最強の科学者」的な描写ばかりなのが、かなりあれだが(ガリレオシリーズ的な嘘くささがあるんだよね)、まあでも出来としてはいいと思う。それに「実話に基づく」話らしいし、同性愛が犯罪だったイギリスで、諜報機関での業績を当然公表できず、数千万人もを救ったのに冷遇されたまま自殺した、となるとこれは。それのみならず、彼のこの時の業績が、現在のコンピューターにつながるというのだから、これぞアインシュタイン並みの天才だ!と感じてしまう。んだけど、やっぱりちょっと盛りすぎじゃねえの?って思う。というのも、第二次大戦ってのは自由対ナチスだとみんな思っているけど、実際はクロスワードオタクが誰を生かすか殺すか決めてたんだよ(暗号を解読したからと言ってすぐにそれに対処したら暗号を変えられるから)、俺は世界の恩人か、それとも犯罪者か、どちらだ? とかそんな問いかけ。つまり世界の見方が、天才たちが裏で操っている、っていうそれこそ陰謀論そのものにしか見えない幼稚極まるもの(これ戦場で戦ったイギリスの軍人の家族たちキレないんかな?)。ASDなギークの天才としてのチューリングの描写とか、あまりにもステレオタイプだし。寄宿舎でのいじめと同性愛への目覚め、そして迫害と、ちょっといくらなんでも予想通りすぎるテンプレの詰め合わせなので、それが多少なりとも史実に基づいているとはいえ(映画全体としての史実度は低いらしいが)、チューリングに関する映画というよりも、2010年代のポリティカル・コレクトネスに最も合致した男としてチューリングが選ばれた映画という気がしてしまう。つまり、「同性愛嫌悪の犠牲となり、自殺に追い込まれていった知られざる英雄チューリング」という安っぽい紋切り型に回収されてしまっていいのか? ということだ(自殺かどうか、原因は同性愛への迫害か、それぞれに検証が必要なのにそれがすっ飛ばされ、ポピュラー・カルチャーにおいてはそういう説明が自明視されているとか)。 つまり映画の制作者からしてみれば、チューリングが本当はどういう人だったのかなんてどうでもいいんだなって感じてしまうのだ。科学者なんだから会話の流れを読めないオタクだろ(いくらなんでも誇張しすぎ。変人性を描かないと天才であると描写できないのは甘えだ。)、世紀の発見っていうのはふとした会話の中から出てくるはず(きっかけとか大好きだよね)、同性愛迫害の犠牲者なんだから犠牲者らしくして(でもチューリングは全然隠していなかったんだよね? それに彼はこの映画では巧妙に「マシンだけが恋人」であるかのように描かれていて、彼が男をナンパしたりする積極性を見せないよね)、などなど。科学的業績、軍事的功績をそのまま説明せずに、奇人変人譚で乗り切ろうとしたり、御涙頂戴で誤魔化したりするのはねえ。 スパイ映画としてみたら、ミッション・インポッシブルよりもよっぽどリアリティがないと思う。
街とその不確かな壁Amazon(アマゾン)2,970円1980年に雑誌掲載された同名の中編を40年越しに大幅書き直し。というか、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の世界の終わり編を、ずっと読まされたのが、第一部だった。これのどこが新作だよ! とすごく残念な思いになったところで、ようやく第二部が始まり安心する、こちらは新しい物語だ(ところが後書きを読んだところ、第一部を書いて、村上は一度、できたと思ったそうだから、やっぱりほとんど同じに見える第一部が作家としては大事なのだろう。編集者に文句言われるだろう)。で、第二部は東北の田舎町の奇妙な町営図書館での日々で、それはそこそこ面白い。ただそれがなんだか尻切れとんぼに終わって謎が回収されることなく、また第一部と同じ街に戻っての短い第3部で締められる。村上の小説を大きく分けるとすると、現実世界への関わりを深めた(大学紛争、オウム真理教、震災)時期の小説と、それ以前の個人の内面世界に沈み込むデタッチメントの小説に二分されると思うのだけど、1985年の『世界の終わりと・・・』は後者の代表作。そして僕は断然、1990年代以降の小説の方が好きだ。で、村上は40年前にやり残したこと、多分ユング=河合隼雄的な、人間の無意識の世界についての物語に再び取り組もうとしたと思うのだけれども、それが成功しているようにはあまり思われない。スプートニクの恋人やねじまきどりなど1990年代の彼の小説では井戸という重要なモチーフが続いていて、その具体的なイメージを軸にして河合から学んだであろう人間の無意識についての物事がうまく描かれていたのだけれども、本作(と世界の終わり)では、現実世界には存在していない街、図書館、壁(全て主人公が脳内で作り上げたもの)を軸にしているから、「だからなんなんだよ」っていうツッコミを抑えられない。 ガルシアマルケスのマジックリアリズムについて会話が作中で現れるが、村上は自分がよくマジックリアリズム作家と分類されることを知った上で、現実の非現実の壁の曖昧さを描こうとしていると思うのだが、かつての村上はもっとうまくやっていた。 スプートニクの末尾を読み返して欲しい というか、まあ僕が「世界の終わりと・・・」に全くのめり込めなかっただけなのだが。しかし村上の長編小説もこれが最後かもなあと思いながら読み始めたので、途中からずっと、こんなんで最後にするんじゃねえぞ! となっていた。 村上が老いを描けない、っていう問題についてもなあ。この主人公は「世界の終わり」の彼なので(というか影なので)、欲望がなさそうなんだよね。セクシャルな描写で売れてきた面が村上にあるとすると、彼にとっての老いってのはただ単に「枯れ」なのか、と。
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』などでは、ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》(1831)について、背景にノートルダム寺院の双塔が見えることを指摘した上で、それがこの角度で見えるのはセーヌ左岸の五区だが、1830年の七月革命のとき、バリケードが築かれたのはむしろパリの右岸であると書かれてある。つまり、パリの特定の場所を描いたのではなく、ここがパリのどこかであることを漠然と示す記号として、パリを象徴するノートルダムの塔が描かれたのだと(現代のドラマで、パリでの物語であることを示すために、屋根裏部屋の窓からエッフェル塔を見させるみたいなものか)。 そんなものかなと思っていたのだけど、その説明を読んだ時からちょっと引っ掛かりがあった。なんで、この塔が左岸から見られていると断定できるのだろう? 鈴木による説明では、大聖堂はみなさんご存知のように西側が正面で、この絵の中では明らかに西側の塔を南から見ている、という風に言っている。確かに塔の右側に建物が続いていて、左側は途切れているようにも見える(煙で隠れている)から、そうかなあとも思っていた。 でも今日、よくよく見てみると、塔の右側に続いている建物、どう見ても大聖堂ではない。そうではなくて、大聖堂よりも近くにある六階建てくらいのアパルトマン群なのだ。そうすると、この塔が南から見られているという説明がかなり怪しくなる。というのも、ノートルダム寺院はシテ島の南岸に位置しており、その南側はすぐに川になっているから、そんな建物が林立するスペースはない。じゃあこれはどこから見られた風景なのか。Googleマップでストリートビューしながら探していると、やはり左岸からこのように見えるところはなさそうだ。一方で右岸にはかなり近い候補地が一瞬で見つかる。なんと、パリ市庁舎前のグレーヴ広場だ。革命と密接に結びついたこの広場から南を見た時、アパルトマン群の向こう側に二つの塔が突き出ている、ほとんど一致。 ただ、実際には二つの塔はほぼ重なっている。それがずらされて、はっきり二本に見えているのは、絵画的な演出として十分理解できる。 大発見ちゃうかな、と思って調べてみると、なんのことはないフランス語版のウィキペディアに書いてあった(というかそこで引用されている文献に)。グレーヴ広場から見たノートルダム寺院に見えるけど、この広い広場はバリケードで封鎖できないし、正確にこの角度で見えるところないよと。でも、まあ、左岸説より、はるかに説得力ある。問題は、日本語空間だけでなく、フランス語で検索しても、なぜか左岸からの景色だと断定しているものがとても多いこと。例えば、Leur orientation sur la rive gauche de la Seine est inexacte. Les maisons entre la cathédrale et la Seine sont imaginaires.「左岸からの向きは不正確。カテドラルとセーヌ川の間の家々は想像による」なんて書いちゃってるけど、これはなんでこうなっちゃったんだろうね。二重に矛盾があったら、もしかして前提が間違ってるんじゃないか、って思った方がいいよね。多分、この手の文章が別のサイトで大量に見つかるのは、みんながちゃんと確かめずにコピペを繰り返しているから。フランス語wikiはその点かなり優秀。
新年度にMacをアップデートすべきではない。こんな当たり前のことを忘れていた。持ち運び用のMacBook Airのバージョンが10ぐらいだったのを、一気にVentura13.3に三段階くらいアップデートした。というのも、それまで自宅用のiMacがMonterey12だったことが原因なのか、徐々に同期されなくなることが増えていたから。新年度始まるし、今のうちに・・・と思ったのがまずかった。Ventura13.3になったMBAを快適に使っていたのだが、メールに添付されているPDFを開けないことが度々あった。というか、10個中3〜4個のPDFは開けなかった。これじゃあ仕事にならない。それどころか、今まで自分が開いていた既存のフォルダの中のPDFすらも開けないのがあることが判明した。もしかして、これじゃあ過去の書類読めないんじゃ・・・。Mac、PDF開けない、とかで検索しても全く原因が分からなかったのだが、ふと思い立ってVentura、PDF、開けないで検索したら一瞬で解決策が見つかった。Ventura 13.3での不具合(フ… - Apple コミュニティdiscussionsjapan.apple.com原因はよく分からないのだが、濁点とかがファイル名に含まれていると開けないという状況らしい。PDFのファイル名を選択、濁点を取り除けば無事に開ける。そしてこのリンク先にもあるように、単にファイル名を選択し、何も変えずにenterするだけでも、なぜか開けるようになっている。というわけで、一応問題は解決したが、なんとも腑に落ちないことだった。
暇と退屈の倫理学(新潮文庫)Amazon(アマゾン)792円新しく訪れた街で、たまたま入った丸善で見つけた本。とてもよかった。仕事の始まらない3月中に、なんとなく落ち着かないけどやることが見つからない時期に読んだのがよかったのかもしれない。國分功一郎は退屈を三つに分類する。人間の不幸は皆、部屋の中にとどまっていられないことから生ずるとパスカルはいう(引用は不正確です)。退屈から逃れるために、かりそめの目的(ウサギを狩る、大学に合格する、会社で出世する=気晴らし)を設定し、それに邁進することで、人間という存在の悲惨さから目を逸らそうとしている。目的達成のためには時間を無駄にしたくない、モモの時間泥棒みたいにあくせくと時間を大切にして暇に直面することから逃れている。これが第一。次に、パーティーで大勢と楽しく喋り、飲み食いしながら、ふと「なんとなく退屈だなあ」と思う。パーティーという「気晴らし」の真っ只中なのに、それにのめり込めない。第一が仕事や夢やらの「奴隷」になることで幸福である(ように思い込んでいる)のとは対照的に、この第二ではその気晴らしの最中にふと退屈を感じてしまう。次から次へと忙しく娯楽に飛びつき消費し続けながらも、ますます「ああ、退屈だなあ」と思う現代人は多くこの状態を生きている。そして、第三では退屈に直面し、それこそが自由であることに気がつき、決断する(動物とはちがう!)。しかしハイデガーが肯定的に取り上げるこの第三段階が結局は第一段階とイコールであることに國分は注意を促す。確かに、側から見ると「仕事の奴隷」であるように見えるかもしれないが、それは彼らが退屈という自由に自覚的になった上で、決意して選び取った彼らの自由の結実であることは確かであるように思われる。となると、退屈の第二形式こそが最も重要なのではないか? こうして議論は深みを増していく。この本が面白いのは、パスカル、ルソー、ハイデガー、コジェーヴと名前がぽんぽん出て来て、哲学・思想へのイニシエーションとなっていると同時に、工芸ではモリス、生物学からのユクスキュルの環世界、精神医学からは刺激をもたらすものを意味する「サリエンシー」など、領域横断的に暇と退屈の倫理学を形成することを試みていることだろう。
Fight Club (字幕版)Amazon(アマゾン)今日丸善で買った國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』でファイト・クラブが例で挙げられていたので見てみた。そういえば、最近読んだ別の本でもファイト・クラブが例示されていたな。現代消費社会について語る上でほとんど必須の教養だったらしい。何となくタイトルから頭空っぽで見るイケメンがボクシングをする系の映画だと思っていたけど、全く違った。マトリックスと同年、1999年の作品。なるほど、今から思えば、この二作が21世紀への橋渡しだったのか。一方は陰謀論へ、他方は・・・何だろう、多分SNSで退屈を紛らわせようと頽落している姿へのアンチテーゼか。どちらも現代社会への強烈な問題意識から、視聴者を目覚めよ、って揺り動かした末に、その先の目覚めた末路がそれ以上の地獄だってところに共通点がある。あと、ファイト・クラブを例示する人ってやっぱり、わかってるんだな。みんなちゃんと映画の前半部分から引用する。それがファイト・クラブのルールなんだろう。本当に面白い映画だった。なんていうかな、確かにドラマと映画って媒体的には似ているし、特にNetflixとかだとその区別が付かないんだけど、『ファイト・クラブ』のような本物の映画は、SNSやドラマ的な暇つぶし、気晴らしの正反対にあるんだなってことを思い出させてくれる。二十歳の頃って、社会派ドラマ(笑)とか「リアルだよねぇ」と笑って見ている「社会人」の頽落ぶりを笑っていたけど、それを笑えなくなってきた今この映画を見ると、なおさら身に沁みるものがある。
モーパッサン伝Amazon(アマゾン)4,000〜11,820円ロシア系フランス人の小説家、伝記作家アンリ・トロワイヤによる伝記『モーパッサン伝』(1989)の翻訳、2023年3月。翻訳者はモーパッサン研究家の足立和彦氏。モーパッサンの生涯って知っているようで知らないことが意外と多い。母親がフロベールの友達で、その縁もあり少年時代からフロベールの薫陶を受け、形だけゾラの傘下で自然主義作家みたいに『脂肪の塊』デビューし大成功、しかし若い頃にかかった梅毒で狂気に陥り、43歳でなくなる。これだけでも十分波瀾万丈だが、モーパッサンの場合は文学史の教科書には載せられないようなやばいエピソードが多すぎる。まだ役所で働いていた頃に、鈍臭い同僚の肛門に悪ふざけのつもりで定規を突っ込んで、数日後に彼は死んでしまう。それにショックを受けるどころか、モーパッサンは彼が「滑稽な死に方」をしたことを大笑いしている。(55ページ)何となく東京オリンピックの開会式を直前で降ろされた音楽家っぽい雰囲気を感じるよね。どこまで本当なのだろうかわからないけど、彼がフロベールやゴンクールらに吹聴する武勇伝(主に性に関する)もいちいち下品過ぎて、ノリについていけない。やれ、毎週日曜日にはセーヌ川でボートを漕ぐがそれは毎回必ず肉体関係で終わる(娼婦を連れて行くとかガンゲットで出会うとかかな)、やれ三日間で19回とか。ご婦人たちもその伝説的な性豪の姿に興味津々で、いつでもどこでも自由自在に立たせられる、って話をキャーキャー言いながら聞いているようだ(露出癖があるとかどうとか)。どうやら娼婦や下層民の娘とは出会ってすぐの乱行をして、その伝説で寄ってくる上流のご婦人たちとは恋のゲームを楽しむということらしい、よく分からないけど。 で、ゾラとかはその下品なユーモアに全然ついていけないんだけど、それは多分社会階層のせいでもあるんだろうな。モーパッサンは一応貴族だから、その家柄をかなり鼻にかけているところがあって、だからこそサロンで自由気ままに下品な話をできる。ゾラは半分外国人で技師の息子だから、そんなことができない。あとモーパッサンは正真正銘のミソジニーで女を乱暴に扱えるからこそモテていたタイプ(その繋がりを肯定してはいない、念の為)だけど、ゾラはちょっと女性を偶像視しがちだよね。 つまりモーパッサンってプルーストの描く貴族たちの会話を思い起こさせるんだよね(ていうかモーパッサンって社交界で少年プルーストに会っているんだね)。成り上がりブルジョワのヴェルデュラン夫人のサロンでは一生懸命高尚な芸術の話をするけど、本物の貴族のゲルマント家のサロンではうんこ、おしっこレベルの会話で大爆笑。肩の力が抜けている人が話すと何でも面白く聞こえるのか、結局下世話な話が一番盛り上がるというだけなのか。 さて、そんな下の話ばかりしてしまったけど、この伝記は別に「文豪の隠された秘密」みたいなことをスキャンダラスに暴く系の伝記ではなくて、結構ちゃんと文学史の勉強にもなってしまうのが面白いところ。特に1880年代のゴンクールとの確執(というか売れに売れ、モテにモテたモーパッサンがゴンクールの「芸術家的文体」を擦ったことを根に持った、ゴンクールの一方的な恨みという感じもするが)や、ゾラとの微妙な関係(自然主義の理論はモーパッサンは終始受け入れないんだけど、ゾラの作品はすごく評価しているし、80年代後半になってもゾラのために蒸気機関車に乗れるよう手配したり、勲章をもらえるよう働きかけたりしている。でも根本的なユーモアのセンスが合わない)など、いちいち面白い。モーパッサンを軸にして見てみると1880年代の文壇はこう見えるのかと、新鮮な驚きが多い。 20代での乱行がたたって、モーパッサンは梅毒性髄膜脳炎にかかり狂気に陥っていく。本書によるとそもそも遺伝的に狂気の可能性を孕んでいた上に、梅毒を治療しなかったことが重なり、という風に書かれている。でももちろん母親はそんな不名誉な死因を認めたくないので、否定する(「弟のエルヴェは狂人じゃなかったんです、日射病だったんです。ギィが梅毒なんて、そんな馬鹿な!」みたいな)。20世紀半ばごろまでその作戦は功を奏し?モーパッサンの狂気はむしろ天才性の発露のように捉えられていたのかな? 高校生以下には勧めづらいけど、すごく読んでいて楽しい伝記。
ネットフリックスで見た。昔のトップガン自体は、最初の数十分見た感じで、ああキムタクの元ネタ的な映画か、って一人で納得してみるのをやめた記憶。ところが、この続編?トップガン・マーヴェリックは面白かった。一作目を知らなくても、結構丁寧に思い出しシーンをしてくれるから楽しめる。キムタクもトムクルーズも、ある職業において天才的な主人公が、規律を守らないが故に左遷されて、でもそこから再び立ち上がる物語を得意としてきたと思うのだけど、トムクルーズの本作は、それがとてもいい感じにおじさん化したかつてのヒーローの復活劇となっている。 マーヴェリック(トムクルーズ演じる主人公のコードネーム)は、もう完全におじさんだ。バーに入れば若者集団におじいちゃん扱いされてお財布扱いされた末に放り出されるし、昔の恋人にはもう大きな娘がいる。冷戦はもう終わったから戦闘機乗りなんていらない(これはミッション・インポッシブルか、つまりトムクルーズは、古き良きアメリカのノスタルジーを体現している、だから若いイケメン俳優じゃなく、50過ぎの彼だからこそ演じられる・・・ってもう60歳かよ、すげえな)、無人機に予算を回したい、もうUS Navyなんて時代遅れじゃないか(Nasaみたいに)・・・。本作はロックを聞いて育ってきた世代の、現代への反抗だ。だから、かつてのイケイケのトムクルーズ映画にのめり込めなかった人にこそ合う気がする(もちろん、西部劇が最初からノスタルジーだったように、若いTCの映画も実際には懐旧的なのだが、それがあまり目立たなかったのだろう)。戦闘機も、詳しくないんだけど、めちゃくちゃ古臭いのだと思う。F22でもF35でもなく(これを第五世代戦闘機というらしい)、F18で戦うから、空中戦になったら(第五世代を持っている敵に)落とされるよ!と作戦前に言われる(なんでF18なのか、説明があった気もする)。どころか、最後には骨董品のF14にTCが乗って、懐かしそうにドッグファイト。さて、今回の敵は顔がない。極秘にウランを濃縮しているから、絶対イランか北朝鮮なんだけど、第五世代戦闘機を持っているということはロシアか中国なのだろうか。でもそんな大国の基地を攻撃して戦争にならないとかおかしいから(というか領空に入れんだろう、あと今のアメリカ映画は中国市場を重視するし)、やっぱりイランだな、って思っていると、なんと雪景色。なんだよここは! 敵のパイロットはフルフェイスだから肌の色も分からない。ほとんど宇宙人か、機械と戦っている印象。グローバル社会だもんね、仕方ないね。 こうして核兵器を開発しようとするならずもの国家の基地だけを叩き、敵地に落下した仲間を命を顧みず助けに行く、USA!USA!映画に仕上がっている。軍隊のリクルート活動には最高の映画だろう。 映画としてはとても面白かったし、最後の撃墜シーンとか思わず渾身のガッツポーズをした。でも、この映画ってどうしようもなくアメリカなんだよね・・・。アメスポとしての戦争。
文系研究者になる―「研究する人生」を歩むためのガイドブックAmazon(アマゾン)2,640円今更かよ、と思わないでもないが読んでみた。想定読者の中心は大学院受験を考える学部三年からM1ぐらいかな。かなり易しい日本語で書かれているのは筆者が日本語、日本語教育学の専門家で中国人留学生を多く教えてきたから。石黒先生、五十歳前半なのに、なんともう20人もの博士号取得者が自分の研究室から輩出したらしい。つまり、研究者を育てるという点においては、とんでもない実績を持っている。それも平均4年とかで、単位取得退学とかなしで全員博士号とって修了。もちろん分野によって違うんだろうが、すごいな。(3年在籍、3年留年、3年休学、の合計9年も博士学生を滞留させるなんてブラックな研究室だから近づくな! って言われましても・・・。六年以内で書ける人なんて1割くらいちゃうかな?って分野もあるよね) M1とかの学生に読んでほしいなと思うのは、第五章ゼミ発表のあたり。初めて発表すると、先生や先輩にボコボコにされて、落ち込むと思うんだけど、それは学生を馬鹿にしたいからじゃなくて、学問的訓練として必須だから。この辺は、ゼミを持ち始めた教師に向けても書かれている。どうやって安心して発表できる雰囲気を作りつつ、先輩が後輩を育てていくゼミにしていくか。難しいよね。コメントする側の注意点としてはレベルの低い「発表を潰す」ことは時に必要だが(石黒先生は修士課程で必ず一回は潰しておく、そうしないと修論はできない)、「発表者を潰す」ことは絶対にあってはならないと。「あなたは研究に向いていない」ということは教育倫理違反。 あと重要だなと思ったことは、先輩たちからいろいろコメントをもらった時、それを全部反映させようとしたら、逆に研究の価値が損なわれてしまう危険性。これは指導教員と個別に相談して、「いや、あのコメントは誤解に基づくものだし、あまり関係ないから気にしなくていいよ。むしろ、・・・に注力しないとね。」と方向修正すべきだと。M1とかだと、不適切なコメントも真に受けてしまうから。 あと、初めて知ったのは論文の査読の際、「論文修正報告書」を添付して送るのがいいと。そうなんや、みんなしてるんかなうちの分野では、今度聞いてみよう。 あと、若い査読者の査読結果には「文面が長い、指摘が細かい、評価が厳しいという三つの傾向があり、それが結果として投稿者を傷つけてしまう」には苦笑してしまった。いや全くその通り、「簡潔でゆるめの査読を心がけてちょうどよい」とのこと。「相手の研究レベルを想像しながら一方的に書く」とどうしても筆が乗ってしまうけど、それは対面でのゼミ発表や学会発表とは違うんですよ、っと。 あと、人文系で査読が厳しすぎて、論文が数本しか載らないペラペラの学会誌が増えていることも批判していて、評価は読者に委ねるべきだと。そのかわりに論文賞(年間一人とかではなく、多くの人に)を与えることで差別化を図るべきだと。なるほどね、 だから本書は文系研究者になる方法を教える以上に、文系研究者を育てる方法をみんなで考えよう、というのもあるんだろうね。かつてのように大先生が研究の総決算として博士論文!だった時代はとっくに終わったんだけど、そういう分野ではまだ3〜4年で博士論文なんて書けるわけないという雰囲気が強いし、その強烈な縛りで持って博論に最低限のクオリティーを維持してきたのだと思う。でも石黒先生としては、締め切りがないからみんな博論に9年もかけちゃうんだ、修論を博論の一章にして、学会誌一本、紀要に二本論文を出して、それをまとめて序論と結論つければもうそれでいいじゃん。というスタンスなのだ。そしてそれは確かに文科省が目指している方向でもあるんだろう。思うところがないではないけど。
韓国愛憎 激変する隣国と私の30年 (中公新書)Amazon(アマゾン)880円素晴らしい新書。木村幹先生は京都大学法学部出身。発展途上国について研究したいなと思ったけど、欧米の研究者と渡り合うのはきついし(やはりアフリカやラテンアメリカ、インドなどの研究では、英米仏の研究者が圧倒的に強いらしい)、中東は語学が大変だし、っていうので、「あっ、韓国なら日本語に近いし、強い欧米研究者もいないから、チャンスじゃん」とばかりに、当時は好きでも嫌いでもなかった韓国政治を研究対象に選んだらしい。そして、1992年に修士論文を出し博士課程に進学すると、何と直ちに「愛媛大学にポストがあるから行かないか?」と打診があったと・・・何ちゅう時代だ。やはりバブル、バブルは全てを解決する。でも、そもそもこの時点で韓国への留学経験すらない、だから大学教員になる前に半年だけ留学。そして愛媛大学で四年勤めた後は、今に続く神戸大学時代。そこでもすぐにハーヴァード大学へと留学させられるなど、超エリート研究者。なるほど、90年代までの研究者が博論遅かったのはこういう理由か。で、初めての単行本を博論として京大に提出、その本は賞を受賞。 ここまで見ると、常人では考えられないようなスーパーエリート街道なんだけども、勤務先では苦労が多かったよう。アメリカ帰りの研究者などの中では「より科学的な政治学」なるものが主流となっており、木村先生の行う研究を「それは政治学ではない、それは歴史学ではない」と面と向かって嘲罵することもあったとか。なるほど、昨今でも話題となる話か。レヴァイアサン。そんな彼らを見返すように、毎年二冊本を出し続け、その著作は賞を取り続ける。 だから、右肩上がりの分野での人文系研究者のキャリア形成という面でも(そう、人文系でもそんな分野があるらしい)、とんでもなく面白い本だ。 で、本書を手に取る多くの人が興味を持つ韓国についても、そんな消極的選択による研究者からの視点は、今まで聞いてきたような反日、嫌韓言説とは根本的にずれていて、その距離感がいい。 木村先生が韓国研究者となってからの1990年からの30年間は、韓国にとってはあまりに激動の時代だった。軍事政権化の貧しい国から88年オリンピックで脱したばかりの国が、急激に成長し、97年のアジア通貨危機ではデフォルト寸前まで追い込まれたが、IMFによる構造改革を経て、かえってグローバル経済に向いた国となり2000年以降はあっという間に一人当たりGDPで日本に追いつくまでになった。その変化が急激すぎたために、その間の変化が緩やかだった日本(同時期の山一證券破綻などを、日本は補助金じゃぶじゃぶの護送船団方式で乗り切ろうとし、そのせいでゾンビ企業が増え、景気低迷が長期化した、と韓国はそれ以降もはや日本をモデルとしなくなった)との関係性が変わっていく。かつては垂直関係だったのが、韓国にとっての日本の重要性が薄れ多くの外国のうちの一つとなっていき、水平関係に移っていく。昔は日韓当局者間での会合は、日本語と韓国語の通訳、あるいは韓国側が日本語を話すという形だったのが、みんな英語で話すようになる。 そんな韓国の日本への関心と重要性の低下こそが、昨今の関係悪化につながるのだと。以前は日本との関係が死活問題だったので、政府がコントロールしていた。でも今では韓国政府は日韓問題が深刻化しないように制御する意欲すら持っていない(重要度が低い)ので、それまでも韓国社会で当たり前だった「反日」言説が制御されない状態噴出し、海を越えて日本を刺激するようになった。またインターネットも全てを変えた。朝鮮日報などの韓国の新聞は、日本語の翻訳記事を出すようになったが、閲覧数が多いのはヨン様よりも韓国が日本を批判する記事だった。だから、わざわざ刺激的な記事ばかりを選び翻訳する。それに日本の読者がこれは何事か!と飛びつき、コメントする。こうして、0年代の嫌韓言説は作られていく。嫌韓ブームは韓国の出版社が経済的利益追求のために焚き付けたものでもある。(この構図の裏返しが、日本の国内問題を海外向けに発信する左翼的知識人やメディアへのバッシングにもつながっているんだろうな。)(だから反日と嫌韓はウィンウィンの関係、そんなものに振り回されてちゃあねえ) あと、共同歴史事業への参加の話とか面白かった。2002年当時はお互いにバラ色の未来を夢見ていたのに、お互いに政権が変わるごとに、徐々に仲が険悪になっていく。学術的な話をしようと言っても、お互いの「これが正しい政治学・歴史学」というのはずれていて、神学論争になっちゃう(だから、それは・・・学ではない、と人に言っちゃあいけないよと木村先生はおっしゃるのだ)。日韓関係について考える上で、韓国好きではない韓国研究者による本書は必読本だと思う。あとタイトルもいいよね。韓国懲らしめてやるっておじさんが手に取りそうだもん。
サマータイムレンダ 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)Amazon(アマゾン)627円アニメ『サマータイムレンダ』をNetflixで見た。マンガは最初の数話を読んだことがある。とても良いアニメだった。なんとなく2010年ごろの空気感。なぜか懐かしい。第一の要素は、田舎、夏、ホラー。ひぐらし的な怖さ。第二の要素は、タイムリープ、シュタゲ感。だから懐かしいのか。今調べてみると、マンガは2017年(ウェブなんだね)だが、その元になったのは2008年の赤マルジャンプ読み切りの単話漫画らしいので、この懐かしさはそのせいかと納得した。序盤は自分の影(ドッペルゲンガー)を見かけたら数日後に死ぬ、という田舎の噂話。それが徐々に現実化してくるあたり、ここが一番怖い。中盤以降では、「影」の正体がわかってくるので、もう怖くない。ホラーからバトル物になる。そして、案外そこからが熱くて面白い。お色気ホラーと見せかけて、熱いバトル漫画(というか、ジャンプ的転身?)になっていくんだけど、それぞれに味があっていい。田舎ホラーなんだけど、ちょっと変わっているなと思うのは、田舎の住民たちが全然因習感ないこと。ヒロインは金髪少女(お父さんがアランっていう白人のおじさんだからハーフなのか?でも妹は色黒健康少女なんだよな)だし、東京に逃げた主人公はチョンマゲヘアのおしゃれイケメンになって帰ってくるし、親友は医者の跡取りだし、700人くらい?の島にしては教育水準も経済力も高すぎるんだよな。観光でそんな儲かるんかな。あとお祭りすごい大規模だった。本土(和歌山)から大量の観光客が毎年渡ってくるようだが、それにしてもこの祭り、何が魅力なんだ(花火か?ビーチか?)たぶん海水浴場の清掃活動していたから、大阪方面からの海水浴客が押し寄せるビーチなんだな。だから、田舎ホラーなのに閉塞感がない。鎌倉青春物語みたいな爽快感のあるホラー、もうホラーじゃないな。
黒い町 (ジョルジュ・サンドセレクション 7)Amazon(アマゾン)406〜8,169円ジョルジュ・サンドの小説『黒い町』1861年。出版当時も全く論評されず、100年くらい経ってから、「あのゾラ『ジェルミナール』に先駆けること四半世紀、サンドはすでに労働者小説を描いていた!」っと売り出されてちょっと読まれるようになった小説らしい。確かに、1861年の時点で、刃物職人が集まる谷底の「黒い町」とブルジョワが住む山の手の町を対比させ、さらにはラストでヒロインがユートピア的工場の経営者となり労働環境の改善を図る、と言う意味でかなり先進的にも思われる。 のは、そこまで。実際には、「ジェルミナールより早く・・・」という売り文句に釣られた人にとっては、驚くまでに保守的で、反リアリズムな作品だ。女性が工場経営者・・・と聞いて何かフェミニズム的先進性を期待した人も頭を抱えるに違いない、この小説はあまりにも体制順応的で、反革命的で、そしてブルジョワ階級との結婚以外に労働者の幸福がないように描かれているように見えるからだ。 あらすじとしては、主人公セテぺは優秀な刃物職人。いつかは自分の工房を持って、経営者側に周り、こんな地獄のような谷間を抜け出して山の手に引っ越したいと思っている。彼はもう一つの夢を持っており、それはこんなドブのような中に咲く花、気品のある女性トニーヌと結婚したいということ。 ところがトニーヌは、「いつか一国一城の主人になるんだ!」と言う彼の野心のために、彼との結婚を拒絶する。分不相応な夢を追いかけて目の前の仕事に身が入らない職人なんて嫌なのか。彼女のモットーは、ブルジョワなんかになったら不幸になる。それはブルジョワ旦那と結婚した姉がわずか数ヶ月で捨てられ亡くなった事件を経験しているから。 ややあって、セテぺにはある工場主の娘との縁談が、一方のトニーヌにもお医者様との縁談が持ち上がる。なんと!これでブルジョワになれるね! 一瞬は生活に不自由のない未来に心惹かれた二人。でも、やっぱり相手のことを忘れられない。ああでも、あの人は結婚しちゃうのか!じゃあその幸せは邪魔しちゃだめだ! こうして、セテぺは黒い町を去り(トニーヌが医者と結婚すると思い込んで)フランス全土を巡歴し、職人としての技術を高めていく。そして数年後?「トニーヌが病気で今にも死にそう」という手紙を受け取り、急いで黒い町へと戻る。 「貧乏だし、病で顔も変わっちゃったけど、それでもまだ好きなの?」「もちろんさ!」というトニーヌの妹との問答の末、トニーヌと再会。なんと彼女、もっと美人になって、なおかつあの姉を捨てた義兄(改心した)からの相続財産で工場主となっていた!二人は結婚しめでたしめでたし・・・つまり、なんか背筋が寒くなるような、労働者階級を馴致しようとする小説に見えちゃうんだよね。労働者階級からブルジョワ階級への上昇を夢みた男は過分な欲望を持ったが故に罰せられ、追放される。旅の中で、手工業に真面目に取り組む職人としての真面目さを獲得し、貧乏な労働者となったヒロインとの結婚を、愛ゆえに決意する。そうすると、二人の愛が報われて、相続財産が降り注ぎ、二人は工場主(ブルジョワ)となる。 え、これでいいの? となっちゃう。でも、色々とエクスキューズはあるだろう。まずマルクス資本論の出版前。「労働者と資本家は仲良くね!真面目に労働したら資本家にクラスアップできるよ(実際には結婚による財産相続しか有り得ないけどね!)」っていうメッセージは、僕らにはどこのネオリベの、どこの経営者論理を内面化したバイトリーダーのセリフなんだろうって思うんだけど、もしかしたら当時としては、前向きな言説だったのかもしれない。それにサンドとしても、実際の労働環境の悲惨さはちゃんと知っていたのだけど、それを小説で書くのはあまりに暗いから?書かなかったようだ(だって主人公12歳から働かされてるんだよ)。 だから、やっぱり「ジェルミナールの四半世紀も前に!」というのはセールストークとしては微妙だと思うんだよね。それが通用するのは、ある意味ではかなり形式的な面だけであり、思想的面においてはほとんど正反対だし、ゾラ的観点からはかなり強く批判されて然るべき小説だと思う。ただ『ジェルミナール』をしっかり読み込んでいるフランス人にとってはその類似性は意外にも多くあると思える、例えば労働者の下の町とブルジョワの上の町の、上下対立とか、鍛冶場での火と水のせめぎ合いとか、ただいずれにしても『黒い町』では労働のシーンはあまり深く描かれないので、それ自体の面白さといえるかといわれると微妙か。 だから、この小説の面白みって違うやり方で提示した方がいいと思うんだよなあ。例えば一年後の1862年にはユゴーの『レ・ミゼラブル』が出てくるけど、その御涙頂戴の悲惨趣味、貧困を恋愛の味付けにするような部分への反発が、ゴンクール兄弟の『ジェルミニー・ラセルトゥー』に繋がるわけだけど、やっぱり『黒い町』はそっちの文脈で考えたくなる。善良なブルジョワが理想的な工場を建設して、そこで労働者がニコニコ労働。めでたしめでた・・・それで、いいんかい! っていう反発は、『黒い町』を読むことでとてもよく理解できた。
ネットフリックスで、とてもよかった。今年見たアニメ映画では一番だと思う(そんなにたくさん見てないけど)。1960年ごろから日本全国にできた団地(独立階段、五階建て)って土地に根差しておらず、安普請で、画一的で、無味乾燥・・・そういうイメージが長く続いたと思う。ところが、半世紀も経つと、そこにも長い長い物語が紡がれて、日本人の「ふるさと」を形成する心象風景に組み込まれていく。水没する団地へのノスタルジーというのは実はこの映画オリジナルではない。わりとよく出てくるテーマだ、多分あまりみんなあえて名前を言及しないだけで結構あると思う。「ペンギンハイウェイ」の会社らしいが、こちらの方がずっとよかった。ペンギンハイウェイって、幻想小説の定義の敷居上でうろちょろするので、すごく居心地が悪いのだが、この映画はそうではない。団地が漂流を開始して以降のことは、集団的な「夢」の一種だということが、わりとはっきりとしていて、その上でその夢の中を生きる限りは彼らには現実なのだ。必ず夢オチというハッピーエンドにたどり着けるはずだという期待があるから、この恐ろしい映画も見ていられる。 この映画の恐ろしさというのは、明白に東日本大震災時の津波を連想させることだ。映画の中盤で、同じように漂流した建物が次々とぶつかってくる場面などは、はっきりと現実の津波の映像をモデルとしていることを思わせる。だから、そういう注意はした方がいいと思う。 物語の主軸としては、「こうすけ」と「なつめ」の恋物語なんだけど、いつまでも失った人、物への愛着にとらわれて、自分までも死後の世界へと引き摺り込まれそうになっていく「なつめ」を、「こうすけ」が救い出す物語といったほうがいいか。彼らは小学六年生という設定だが、この年代だと思いがけないほどに喪失が心に傷を残すのだろうか。 「なつめ」は団地に囚われていて、それを救い出すためなら自分の命までも軽く扱ってしまう。「こうすけ」はそれがむかついて仕方がない、俺と一緒に戻ろうぜ。でも、こうすけもまた、なつめを救い出すためなら、自分の命を投げ出してしまう。それもまた、こうすけを好きな女の子や、友達たちには許せない(まあ女の子の怒りはなつめに向かうんだけど)。 なんだかそういうすごく危うくて、繊細な関係性の上に成り立つ、パニック?映画。
長かったが良い映画だった。ネットフリックス。薄々感づいてはいたんだが、ネットフリックスで二時間の映画見るのってきついな。映画館って無理やり拘束するためにあるんだな、ってことを再認識する。ああしないと集中できない体になってしまった、現代人は。ベネディクト16世が生前退位し、フランシスコ教皇が即位したのが2013年。実は2005年、ベネディクト16世が選ばれたコンクラーベの時から、この2人の因縁はあったようだ。フランシスコが予想外に健闘し、二位となっていたと。 この映画に、バチカンの舞台裏とか、スキャンダルとかを期待する人には拍子抜けかもしれないが、この映画は結構キリスト教徒向けだ。つまり、これまで言われてきたのは、ベネディクト16世がこっちこちの保守主義者だったけど、神父の性的虐待事件(あとマネーロンダリングとか内部告発とかあったんだね)で失脚し、イメージ刷新のために改革派で南米人のフランシスコが選ばれた・・・と、その対立を煽るものだったと思う。ところがこの映画では、思想的に鋭く対立する2人が、ローマ教皇という重責を背負えないという共通の苦しみをお互いに打ち明ける中で、お互いの罪を許し、再びカトリックを再建していこうという結構前向きな物語になっているのだ。 だから、映画の前半では、「ああなるほど、フランシスコが主人公で、ベネディクトが悪役だな」って思っていたのだが、フランシスコのアルゼンチン軍事政権時代の「罪」を告白するあたりから、2人がどんどん似ていく。一見するとベネディクトって顔が陰険で、誰からも好かれない(失礼、本人(俳優)が言うのだから)人で、その反面、フランシスコは女性や子供に優しく、いつもニコニコしている陽気な人に見える。ところが、若かりしころのフランシスコは、結構やばい。軍事政権下でイエズス会を守るために政権と交渉し、その結果、仲間たちからは裏切り者扱いされる。というか、3万人も殺されたんだ。大変な時代だ。だから、あの笑顔はそんなに軽くないんだなと。 この映画の肝っていうのは、ベネディクトが「もう神の声が聞こえないんだ!」と告白するところだ。これ、日本人的には「え、教皇なのに神を信じていないって、やばいじゃん」となるだろう。でも、そこからが本番だ。「でも、この二日間、久しぶりに神の声を聞いたよ、思いがけない声だったけどね」と、政敵フランシスコと過ごした二日間を振り返る(この辺は史実とは違うんだろうな、知らんけど)。これは、フランシスコがその直前に話した、昔話に呼応している。昔から司祭になりたかったけど、いつまで経ってもお告げが来なかった、だからもう世俗で生きて、結婚しようと思った。プロポーズに向かう途中で、オルガンが聞こえてふと入った教会で、君を待っていたんだ、と、ある司祭に迎えられ告解。「ああ、これが声なのか」と悟った、と。神の声は、他人の口から聞こえてくる。 また数年前、マザーテレサが晩年神を見失い苦しんでいたという本が出たが、それと同じように思える。普通なら「あんな聖人、教皇でも神を見失うのか」と思うところなのだが、いまやそれこそを売りにしているのだと思う。つまり、あのような人たちでさえ信仰に苦しむのだ、君たちが神に出会えないのは仕方ないよ、その悩みこそが大事なのだと、ちょっとパスカル的なM嗜好だ。つまり、カトリックが置かれている状況は、それほどに深刻なのだと思う。もう能天気にモーガン・フリーマンに頼ればいい時代ではないのだ。