「白鯨」日記 -2ページ目

9月19日 白鯨とは白人のゲイってわけでもなかろうが

 ゲイっぽいのである。
 白鯨だから白人のゲイってわけでもないだろうが、どうも怪しい。

 第10章のタイトルは「親友」。
 「黒ん坊」の人形を抱きかかえている「食人種」であるクィークェグが、実は単純な魂の持ち主であることを看破した主人公イシュメールは、「彼の頭が骨相学上すぐれたものである」と言う。
 もう完璧な人種差別者であること間違いなしのイシュメール、クィークェグを「ジョージ・ワシントンの食人種版」と、褒めてんだかけなしてんだか、さっぱりわからん表現を繰り出す。

 で、「たしかに野蛮ではある」クィークェグに真の優しさを覚え、「キリスト教徒の親切が空っぽのものであることが分かった以上、俺は異教徒と友だちになってみよう」という、宗教観の希薄な極東の丸顔親父には、何を思い切ってるのかさっぱり分からん思い切った行動をとるのである。

 二人は喫煙を通して親しみを覚える。
 クィークェグに至っては「これからは夫婦になりましょう、と言った」。
 もちろん、食人種の野蛮人たちの親しみを表現する言葉だそうだが、でも、ねえ。

 「額を私の額に刷り寄せ、私の腰をしっかり抱きかかえ」て言われたら、普通、どう思う?

 翻訳者もどう思ったのか知らんが、表現がなんとも怪しい。
 「かくしてわたくしとクィークェグともまた、気のあった親愛な伴侶として、心の蜜月に臥所をともにしたわけだ」って、妙にねちっこくない?

 第11章「寝間着」では、夜が明けるまで語り合った二人は、肌の温かさを感じながら親愛の情を感じる。
 で、クィークェグの生い立ちを耳にするわけだが。

 真のクリスチャンを自称する者がゲイってこともなかろうが、そう言えばこの小説、ほとんど女性が出て来ないし、妙な男くささがある。

 考え…過ぎ…か。

 新潮文庫版122ページ。426ページまではまだまだだが、まだ登場人物紹介だぜ。
 

9月13日 今度は長い説教、捕鯨おたくの独白か?

 さて「白鯨」、ついに牧師の長い説教に至る。

 「罪と罰」で手紙が長かったように、「白鯨」、やたらと前戯が長い。これで最後までいかせてくれなかったら文庫本を叩き付けるところである。

 80ページから86ページまでは、主人公イシュメールが滞在するニューベドフォードの街に関する説明である。
 品のない国際都市といったところだろうか。食人種が歩き回り(と書いているのだ)、様々な島からやって来た鯨取りたちが姿を見せる。
 ニューベドフォードほど大邸宅が立ち並ぶ街はないとイシュメールは言う。
 なぜなら鯨でうるおっているからだ。

 ご存知の通り、米国は鯨油でランプの灯をともした。石油発見前夜である。
 そう、今や世界的反捕鯨国家である米国は、その昔、鯨油のために捕鯨しまくった殺鯨国家だったのである。
 
 で、「このほかならぬニュー・ベドフォードに『捕鯨者の教会堂』がある」とある。
 すごいぞ、こっから。マップル牧師は、「階段を使う代わりに、海中のボートから船に乗り込むときに使うような、垂直な横梯子」を使って説教壇に上がる。
 立ち上がったマップル牧師は、「右舷は通路へ、さあさあ、左舷の方へ寄って——左舷も通路へ出て右舷へ!甲板中央、甲板中央」と、まるで船の中のように振る舞うんである。
 落合のマンションで冷静に文庫本を読んでる丸顔日本人中年からすると、カルト教にしか見えんな。

 で、延々と説教が続く。第9章は文字通り「説教」。95ページから108ページまで説教三昧だ。
 いやんなる。まじで。
 
 非常にはしょって言うと「あなたたち捕鯨者は罪深い。
 が、それを後悔すること、懺悔することで、神はあなたを救い、最上の喜びを与える」と。ちとはしょり過ぎだが。 
 その喜びっつうのは、つまるところ巨大なる鯨を捕獲し、海から戻ることであると。

 なんつうか、捕鯨を巡る様々な環境、情報をじっくりと読者に知らしめる、捕鯨おたくの独白みたいにすら感じてきたぞ。

 結局、物語に進展はない。100ページ過ぎても皆目、どんな物語になるのか検討もつかん。 
 イシュメールとクィークェグが主要人物となることは分かるのだが。

 ということで新潮文庫版上巻109ページ。426ページにたどり着くまで、じっと忍耐の人である。

9月6日 部屋と絵と登場人物をみっちり紹介——物語は始まらない

 さてさて「白鯨」。実は訳文がかなり古式ゆかしい。
 主人公イシュマールがたどり着いた宿は、旅宿「汐吹亭」。
 さて、ここからも延々と部屋の描写が続く。っつうか、宿の壁に架けられた絵の描写。
 何を隠そう、鯨が書かれている、ってことを伝えるために2ページくらい割くんだから、現代の小説ではおよそ考えられない悠長さだ.

 イシュマールは部屋を借りたいがない。
 夕食(肉と馬鈴薯と蒸し団子)をとり、「銛打ちと同じベッドで寝るのを我慢するなら一泊できる」と言われる。同じベッド(ちなみに同衾と表現)。穏やかじゃない。

 イシュマール、一度は木のベンチで眠ることも考えたが、さてさて、銛打ちと会ってもいないのに悪い想像ばかりして柔らかいベッドに眠るのを拒むこともあるまいと気を変える。
 ああ、はっきりすりゃいいじゃん。眠る所に悩むことがそんなに物語と関係あるんかい。

 さて、部屋で待つイシュマールのもとへ銛打ちが現れる。差別用語の連続だ。
 ビーバーの毛皮の帽子を取ると髪の毛は一本もない。なもんでイシュマール、たまげてしまう。
 そんなにびっくりするか?

 服を脱ぐと市松模様のくろいものが付いているってことは入れ墨と思うが。
 イシュマール、「南海の捕鯨船に乗せられて来た、このキリスト教国に上陸した忌まわしい蛮族かなにか」っつうんだから穏やかじゃない。

 そんな銛打ちがベッドに潜り込んで来たもんだからイシュマール、叫び声を上げてしまう。
 宿の親父を呼ぶと親父、無責任に大笑いする。
 この銛打ちが、どうやらこの小説「白鯨」の主要人物になるらしいクィークェグだ。

 夜中は「殺すぞ」なんて大げんかをしておきながら、朝起きたらクィークェグはイシュマールを抱きかかえるようにして寝ている。
 こでイシュマール、「わたしの受けた感動は異様なほどであった」って、なんでよ。

 イシュマールが言うには、継母に受けた罰を思い出すんだそうな。
 午後2時からずーっと寝てなくちゃいけない罰。
 そのとき、何やら幽霊のような超自然的な何かに手を握られていた恐怖を感じた、とイシュマールは言う。
 そのときを、クィークェグに抱きしめられて寝ていたことで思い出した、っつったら普通、感動するんじゃなくて怖いんじゃないの?

 ということで、なんでこんなに長い文章をかけて登場人物を紹介するのか、高スピードで駆け抜けて行く現代人には理解できぬまま、新潮文庫版上巻79ページまで。
 426ページまでたどり着くのはいつ?