「白鯨」日記 -3ページ目

9月4日 まるまる一章、舞台の説明に終始する

 主人公が読者に語りかける。今や天然記念物的な書き方である。「白鯨」の冒頭は、「諸君、見給え」と読み手に声をかけ、最初の舞台となる港の風景を説明する。

 もう一つ、例をとろう。まず諸君は田舎にいたとする、どこかの湖岸地方の高地とする。どこなりと好きな道を歩いてみたまえ、十中九まで諸君は谷にぶつかるだろう、そこには川流の淀みがあるだろう。

 なんて感じで延々と語られる。いやあ、いまどきじゃないよね。なにせ物語が始まらない。主人公が延々と、水夫であることの喜びや偉大さを語り続ける。まどろっこしい。実にまどろっこしい。延々と鯨に関する記述の引用が続いた後、今度は主人公の独り言に付き合うことになる。
 この「まだまだ何もかも先送りな感じ」を楽しめるか、少なくとも我慢できないと、古典文学は味わえませんぜ、親分。

 第二章でやっと物語のきっかけとなる宿が登場。ほっとする。そして、ややドラマチックに情景が描写が入る。

 何という侘しい街々だ。両側はどこまでも、家の集まりではないような黒一色の連なり。そこここに洩れるロウソクの灯は、墓場で働いている灯のようだ。

 まるまる一章分を引用に、続いてまるまる一章分を舞台の説明に使うこの気の長さ。冗長と言えば冗長。丁寧と言えば丁寧。いきなりミサイルを飛ばすんじゃなくて、お互いの自己紹介から始まったという昔の戦争みたいな優雅さっつうか、気の長さっつうか。
 
 ということで、まだ鯨の話ってこと以外分からないまま新潮社文庫版上巻51ページ。上巻終了の426ページまで、まだまだ遠い…。


8月28日 まだ何も始まらない

 古典と最近の小説の最も大きな違いは何か。
 まどろっこしさの有無ではないか。

 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」なんかも前文がすごい。

 「主人公が偉大かわかんないし、読むに値するかって聞かれると結構言葉に窮するし、前置き抜きでいきなり書き出してもよかったかもしんないけど、はしょってしまっていいか迷っちゃうんだよね。いいよ、別に。ちょっと読んだだけで投げ出してもさ。まあいいや、前置きはこれくらいにして、本題に移ろう」

 なんて、最後の1行で済みそうな内容を、だらだらと4ページにわたって語る。本題に関係ある内容はほとんどない。

 高村薫さんの大傑作「レディ・ジョーカー」なんぞも、延々と旧綴りの手紙が続いて、イントロでつまづく読者も多かろうが、あれはちゃんと本題に関係している。
 とはいえ、少数だろう。
 最近の小説で冒頭が長くてなかなか本題に入らないのって。

 古典文学とは耐えることである。

 さてさて、ハーマン・メルヴィルが描いた米国文学史上の傑作と言われる「白鯨」もまた、くどい、しつこい、うざったい、の三拍子だ。

 冒頭9ページから35ページまで、延々と聖書やシェークスピアなど、多くの名著から引用した鯨に関する記述が続く。
 「歴史上、世界中の様々な書物に、鯨は描かれてるんだよ」
 という、著者メルヴィルの愛情と怨念と狂気である。まあ、旧約聖書よりはいいか。

 ということで、飛ばしても結構。後で読み直そう。
 つまり、まだ何も始まってません。主人公ってどんな人?

 新潮文庫版上巻426ページまで、まだまだ先は長い。

8月16日 個人的総括「罪と罰」は意外な娯楽作

 実は予想以上に「罪と罰」、楽しめた。

 なぜと言って、思った以上に俗っぽいからだ。

 なにせ題材が計画殺人(というほど計画的じゃないのがご愛嬌だが)。
 美女との恋や予審判事との丁々発止のやり取り、俗な悪役(ドストエフスキーがお嫌いらしいユダヤ人)の策略とその暴露など、ドストエフスキー、実は割とエンテテイナーと見た。

 スヴェドリガイロフにレイプされかけたドゥーニャのポケットから拳銃が出て来たときは笑った。
 B級ハリウッド映画でもなかなか見られない展開だ。

 それから個性的なキャラクター。
 個人的には予審判事のポリフィーリーに惚れた。
 主人公ラスコーリニコフの殺人を確信していながら、与太話、世間話でラスコーリニコフを振り回し、心理的に追い込んでいくユーモアとサスペンスは、「刑事コロンボ」にも共通する知的カタルシスがあるように思った。
 世代が違えば、「デスノート」の夜神月とエルの腹の探り合いを思い浮かべるかもしれない。

 しかもポルフィーリーは、ラスコーリニコフに好意を抱く。
 犯罪者であるラスコーリニコフが、救い難い悪人とは思っていない。
 未来ある若者と見る。そして自首を勧める。
 ラスコーリニコフがもっと凶悪な犯罪に手を染めていなかったことを不幸中の幸いだったと喜ぶ。
 うん、ポルフィーリーみたいな粋な人に会いたい。

 後半まで醜悪で憎らしくて不快でしょうがないスヴェドリガイロフにも、最終的に愛を感じた。
 ラスコーリニコフの妹ドーニャに好意を寄せ、妻子ある身でありながら交際を迫り、ドーニャを困らせるだけ困らせた男。
 その事実を妻に知られ、間を裂かれながらも、妻の死後、性懲りもなくドーニャの後を追いかけ、金にモノをいわせて接近する。
 ああ、うっとおしい、いやらしい。

 最終的にレイプまでしかけ、抱きかかえたドゥーニャに「いつまでも、どうしても愛せない」と言われる。
 そこで彼女を離す。
 ここで一気に好きになってしまった。
 どうしようもなく駄目な奴が自らの孤独をひしひしと感じる。
 幻覚に襲われ、自殺する。スヴェドリガイロフ、あんたは淋しかったんだな。
 誰かを愛し、愛されたかったんだな。
 
 「『罪と罰』は難解だ」という一般的な印象は、会話と手紙の長さにあるように思う。
 いやあ、長い。
 ロシア人はこんなに饒舌なのかと思うくらい長い。くどい。
 その会話の中で、妙に理屈臭くなる。ここで人は「難解だ」と思ってしまうのではないか。
 しかし、案外物語はシンプルだし、思い切って読んでしまえば、読めてしまうはず。

 ドストエフスキー、少なくとも「罪と罰」は、会話が理屈臭い娯楽作、と見た。