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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

金虎門事件の経緯はこちら↑

 

 

 金虎門で事件が起こると、朝鮮総督府は直ちにその報道を禁止した。

 

 『東亜日報トンアイルボ』は、発生直後にこの事件を察知し、日本人が乗った車が襲撃された顛末を号外で出そうとした。しかし、これは差し止められた。

後日『東亜日報』5月2日付の紙面に掲載された号外

 

 ただ、総督府の報道統制は日本内地では効力を持たない。『東京朝日新聞』は4月29日朝刊で「内地人3名襲撃さる」という「京城特電」を紙面で速報している。さらに、4月30日夕刊にこの事件の詳しい記事を載せた。しかし、事件の状況や被害者の情報、写真などに誤情報が多かった。佐藤虎次郎の写真も全くの別人である。

。 

 

 5月1日の夕刊では佐藤虎次郎が斎藤実総督と誤認されて襲撃されたと伝えているが、依然として不正確な記事が多い。

 その中で、国粋会について言及して、襲撃した宋学先の実家に対して報復の動きがあったと伝える記事がある。

 

 この事件で刺殺された高山孝行は国粋会朝鮮本部の次席理事で、無傷で逃れた池田長次郎も国粋会会員だった。

 


 国粋会朝鮮本部は、大日本国粋会の地方組織として1922年10 月に京城で結成された。大日本国粋会は、1919年10月に政友会の原敬内閣の内務大臣床次竹二郎が、社会主義の動きを封じるため、任侠・渡世人などのヤクザや土建業関係者を組織して東京で旗揚げした右翼団体である。政友会の私兵行動隊でもあった。

 

 国粋会朝鮮本部は、理事長に小野又四郎が就き、分島周次郎が幹事長となった。小野又四郎は質屋経営で成功し、朝鮮本部立ち上げの主導者であった。分島周次郎は京城のヤクザの顔役として声をかけられてこれに加わった。ところが翌1923年8月に、朝鮮新聞社社長牧山耕藏の国粋会朝鮮本部会長就任をめぐって内紛が起き、小野又四郎は理事長を辞任、黄海社の渡邊定一郎が国粋会朝鮮本部の本部長に就任した。

 

 黄海社は、水利干拓事業をやっていた松山常次郎が設立したもので、渡邊定一郎は、もともと鉄道建設に携わっていて黄海社が土建請負業務を始めるに当たって支配人として入社し、後に社長に就任した人物である。松山常次郎は政友会の代議士となっていたので、国粋会とのつながりは政友会の線からかもしれない。

 

 渡邊定一郎の国粋会朝鮮本部長就任とともに、分島周次郎は幹事長からはずされた。これに不満を持った分島周次郎の「食客」(子分)が、朝鮮ホテルを出たところで渡邊定一郎を襲って重傷を負わせる事件が起きた。分島周次郎は自首して逮捕され、殺人未遂で2年間の禁固刑を言い渡された。実際に服役したのかは定かでない。

 

 その後、どこかの時点で、渡邊定一郎と分島周次郎の間で何らかの手打ちが行われたものと考えられる。分島周次郎は、渡邊定一郎本部長のもとで国粋会朝鮮本部の幹事長に復帰していた。

 


 同行者2人が突然刃物で襲われるという事態になった池田長次郎が、まず連絡したのは分島周次郎だった。前年8月に、長谷川町の京城公会堂で行われた社会主義者中西伊之助の講演会に国粋会会員が棍棒を持って妨害しに行った時は、分島周次郎が先頭に立っていた。暴力沙汰や荒っぽいことは分島周次郎の役回りだった。

 

 車で昌慶宮に乗り付けた分島周次郎は、敦化門で「国粋会の分島だ」と名乗って昌慶宮に入り李王職医務室で高山孝行の遺体と3人の負傷者を確認した。本部長の渡邊定一郎に連絡して、会員を青木堂前に集めるよう依頼し、自分も青木堂に向かった。当時はまだ三越百貨店ができる前で、今の新世界シンセゲデパートの場所は京城府庁だった。青木堂はその西側にあった。午後2時過ぎに青木堂前で落ち合った渡邊定一郎と分島周次郎は、14〜5名の国粋会会員と5台の車に分乗して再び昌徳宮に向かった。

 事件の全貌がわからないまま集まった国粋会会員の中には、襲撃や乱闘を想定して柔道着姿や法被姿で棍棒や木刀を持った者、拳銃で武装した者までいた。2時30分頃、敦化門に到着したが、弔問の要領も決められており、そもそも彼らは敦化門から喪中の昌徳宮に入れるような服装ではない。警備の警官や憲兵は制止しようとした。しかし、渡邊定一郎や分島周次郎は、緊急事態だと居丈高に強行突破をはかり、結局国粋会のメンバーは敦化門から昌徳宮内に入った。その後、警備側の求めもあって30分ほどで全員が金虎門から宮殿外に退去した。


 この国粋会メンバーが起こした騒動は、敦化門前にいた朝鮮の人々の目の前で起きた。その中には、取材のために駆けつけた新聞記者やカメラマンもいた。


 4月30日、宋学先による日本人殺傷事件については依然として報道管制が敷かれていたが、朝鮮語の『時代日報シデイルボ』は、殺傷事件には一切触れないまま、国粋会会員の昌慶宮・敦化門での振る舞いを強く非難する記事を掲載した。

 

不作法の国粋会員と高まる非難

国粋会本部に会員を集合

当局者の責任如何

 

恐れ多く責任を痛感

昌徳宮署長談

 

不謹極まりない態度

黙認した当局者の失態

 国粋会の振る舞いを放置した総督府当局、警備当局の責任を追求したのである。

 

 翌5月1日、今度は『朝鮮日報チョソンイルボ』が「国粋会事件」としてこの問題を記事で取り上げた。

国粋会事件で
渡邊会頭非難
公職者の間で物議を免れず?
 先日28日午後1時頃に昌徳宮前で突発事件が相次いだ後、国粋会会員10余名が不敬な服装で敦化門を通って宮内に立ち入った事件については一般の非難が多い。この事件について当時国粋会会員を率いてきた国粋会朝鮮本部長渡邊定一郎氏は、京城商業会議所会頭の職にあり、商議評議員その他の公職者から氏の行動を軽率だとする批判があるのは事実。この事件についてはいまだ発表の自由がないため、批判は困難であるが、渡邊氏が全朝鮮を代表する京城商業会議所の会頭という公職にあり、それなりに敬意を欠かさないよう注意をしたことは事実だとしても、国粋会会員が宮中に突入したことが一般の感情を害したことは甚だしく、関係者や一般商界としては甚だしく不名誉だとし、渡邊氏に対して非難の声を聞くことになっており、商業会議所の会頭であることもあって非常に注目される。


 朝鮮総督府が、金虎門事件の報道管制を解いたのはその日5月1日で、『京城日報』と『朝鮮新聞』はすぐに号外を出した。日本人殺傷事件が報じられず、その日何が起こったかが書かれないまま、国粋会の行動への批判ばかりが際立つのはまずいと判断したのかも知れない。

 

 翌5月2日には、朝鮮語各紙も一斉に金虎門事件の記事を掲載した。

 

 事件現場での様子や、宋学先の供述内容は、警察当局から提供された内容がそのまま使われていて、事態の展開や犯人像についての独自取材記事がそれぞれに書かれている。

 

 そうした中で、『東亜日報』は、『時代日報』と『朝鮮日報』がすでに記事にした「国粋会事件」について、当日の現場写真入りで報じた。

 

 『東亜日報』は事件当日、取材を続ける中で、昌慶宮の中を国粋会会員が柔道着姿やゲートル姿で棍棒や木刀を持ってうろつく姿をカメラで捕らえていた。5月2日付の紙面には、

国粋会員の無作法な不敬

事件が起きると頭に血が上った国粋会員がとんでもない格好で棒を携えて宮中に

という袖見出しを付けて、国粋会の会員の写真を掲載した。

 

 日本語紙の『京城日報』と『朝鮮新聞』には、国粋会会員の昌慶宮闖入事件についての記事は見当たらない。ただ、社長の牧山耕藏が一時期「国粋会朝鮮本部会長」への就任が取り沙汰されて、国粋会とは微妙な関係にあった『朝鮮新聞』は、高山孝行の葬儀に国粋会の会員が朝鮮全土から集まるので「警務当局の頭痛」という記事を書いている。国粋会は、あたかも「お荷物」「厄介もの」であるかのような扱いである。

 

 

 高山孝行の葬儀は、5月3日に若草町西本願寺で行われた。雨の中で1500人の参列者という盛大な葬儀であった。この『京城日報』の記事でも、「国粋会」はわざわざ大きな活字が用いられている。

 

 この頃には、朝鮮語の各新聞の報道ぶりは、大韓帝国最後の皇帝の逝去にもかかわらずそれを意に介さないがごとき国粋会会員の立ち振る舞いと、それを傍観して阻止することがなかった総督府の責任追及の方向へ向かっていっていた。すなわち、今日において、ヘイトデモそのものだけでなく、それを放置する行政・政治の責任を問うのと同じである。

 その追求の中心になったのが、朝鮮人弁護士などの法曹界と朝鮮語媒体の言論界であった。

 

 その先鋒は『時代日報』で、「国粋会不敬」を取り上げた記事の横に、金虎門事件の宋学先の家族や阿峴洞アヒョンドンの住居の写真入りの記事を掲載するという、見方によっては非常に挑戦・挑発的ともいえる紙面構成をしている。

 この紙面に「法曹界も奮起!」という記事があるが、5月4日の夕方から朝鮮人弁護士と言論人が集まって、「国粋会不敬問題事件」への弾劾決議を出す方向で話が進んだ。

 

 5月4日午後7時20分から、観水洞クァンスドン国一館クギルグァンで5人の朝鮮人弁護士と新聞記者、約50人が集まり、「京城弁護士新聞記者有志連盟」を結成して、国粋会会員の「不敬」を黙認した当局の責任を追及する決議を採択した。

 1926年5月6日付の朝鮮語の新聞は、4紙全てががこの問題を取り上げた。総督府の御用紙『毎日申報メイルシンボ』までもが記事を掲載している。


『東亜日報』は「国粋会員不敬事件対策集会」の写真入りで記事を掲載した。

 

 

 この4日の集会の内容は、帝国通信社の山副昇を通して鍾路警察署と国粋会に流されていた。翌5日には、分島周次郎が鍾路警察署に出向いて、朝鮮語各紙が問題にしている4月28日当日の国粋会側の行動の経緯と、「有志連盟」の決議への国粋会としての対応について説明している。

検察事務に関する記錄3 京本高秘第2408号 「国粋会員昌徳宮闖入事件に関する件」  

 鍾路警察署は、「朝鮮の治安のため」に、国粋会会員が言動を慎み、自重するように求めている。分島周次郎は、国粋会内部では朝鮮人側と対決するという強硬意見もあるとしつつも、本部長渡邊定一郎の意向としては、山副昇の仲介で時代日報、朝鮮日報、東亜日報の記者たちに接触してコトを収めようとしていると伝えた。分島周次郎は、朝鮮総督府側が自分たちの軽率な行動に不快感を持っていることを知って、内部で強硬派を抑えているというポーズをみせて事態収拾の意向を示した。

 

 他方、「弁護士新聞記者有志連盟」は、ますます攻勢を強めた。日本政府の内閣総理大臣若槻禮次郎 、陸軍大臣宇垣一成、宮内大臣一木喜徳郎に以下のような電文を送りつけた。

去る4月28日、国粋会員渡邊定一郎以下十数名の昌徳宮突入事件を徹底的に審査し、その救正策を講じることを望む。

 朝鮮軍司令官森岡守成、警務局長三矢宮松には「有志連盟」の決議文を送り、斎藤実総督には直接手渡しすることを求めた。

 

 さらに、前年、国粋会によって中西伊之助の講演会を妨害された中央労働青年会が、「有志連盟」にメンバーを送るなど、この動きは朝鮮人社会の社会主義団体をも巻き込んで広がっていた。

 

 「有志連盟」は、朝鮮総督への直接面談を求めていたが、これは5月15日に実現している。「有志連盟」の金炳魯キムビョンノ金俊淵キムジュニョンが、朝鮮総督斎藤実に決議文を直接手渡している。

 金炳魯は日本大学法科を出た弁護士で朝鮮弁護士協会会長、金俊淵は東京帝大卒の朝鮮日報記者でモスクワ特派員を経験していた。いずれも翌年創設される新幹会に加わることになる。

 

 この面談の席で朝鮮総督斎藤実はこう言ったという。

私はまだこの事件について詳細な報告を受けていないが、この事件については精査して適切に処理したい。

 どこかでよく聞くセリフである。権力者が使う言い逃れの常套句は、100年前も今も変わることがない。

 

 日本の植民地支配下で、日本人の団体である国粋会を問題視して、総督府や軍の責任を追求する朝鮮人団体の代表が、朝鮮総督と面談して自分たちの決議を総督に手渡したというのは、画期的な出来事だといえる。

 純宗の服喪という中で、国粋会会員の軽挙妄動があったとはいえ、朝鮮総督が面談の場に出て来ざるを得ないところまで追い込んだのは、朝鮮の知識人にとっては大きな成果であった。たとえそれが、当初の目的を達成することなく終わったとしても…。

 

 『朝鮮日報』「東亜日報』『時代日報』の朝鮮語各紙はこれを5月16日の紙面で報じた。

 

 朝鮮語新聞でも、総督府の御用紙だった『毎日申報』はこの記事を載せていない。日本語の『京城日報』『朝鮮新聞』にも、記事が見当たらない。

 

 

 6月10日に予定されていた純宗の国葬を無事に乗り切るため、見せかけの妥協が必要であったのであろう。総督府側は、国粋会の非を認めるがごときポーズをとることで、統治者としての責任をうやむやにし、最後は一気に「有志連盟」の動きを強権的に封じ込めた。

 

 斎藤総督から、言い逃れに過ぎないとはいえ調査と処分についての発言があったことを受けて、「有志連盟」は、5月18日に朝鮮総督府の警務局長三矢宮松との面談を実現させた。その面談の結果を「有志連盟」のメンバーに報告する内部報告会が、5月20日午後4時から鍾路の基督教青年会館で行われた。さらに、この場で、「国粋会不敬事件」に関する一般大衆向けの演説会を5月24日に開催することが決まった。

 ところが、この報告会は、警務局によって「人心を惑わす恐れあり」として禁止されたのである。

 

 これ以降、「京城弁護士新聞記者有志連盟」の動きは封じ込めれて、6月10日の純宗の国葬に向かっていく。6.10 独立運動が起きたことは事実だが、3.1運動のような広がりを持つには至らなかった。それでも『東亜日報』は一面トップに

いたるところで朝鮮○○万歳を高唱

の見出しを持ってきた。

1926年6月11日付東亜日報

 

 これ以降、金虎門事件は、宋学先の裁判と、死刑判決、処刑の記事しか新聞紙面には報じられなくなる。国粋会の問題は不問に付された。

 

 そして、翌年には、京城弁護士新聞記者有志連盟のメンバーも深く関わって「新幹会」が結成されるのである。

 

金虎門事件(3)宋学先と安重根
へ続く。

 1926年4月28日、昌慶宮の前で日本人3人を乗せた車が刃物を持った男に襲われ一人が死亡、もう一人が重傷を負った。男は宋学先ソンハクソン、29歳。警察官2名も重傷を負ったこの事件は、宋学先が斎藤実総督刺殺を狙った「金虎門事件」と呼ばれている。

 

 

 1926年4月25日、大韓帝国最後の皇帝であった純宗(李坧)が亡くなった。京城の新聞各紙は4月26日付の夕刊で危篤を伝え、27日付け朝刊で「李王薨去」を伝えた。大韓帝国が消滅させられると、先代の皇帝高宗は李太王とされ、純宗皇帝は李王とされていた。宮内府は李王職という役所に変えられた。

 26日の夜半には、多くの朝鮮の人々が敦化門の門前を埋め、哀悼の意を示した。

 

 朝鮮総督府、警察当局、憲兵隊は全国から要員を集めて、昌徳宮周辺の警備体制を固めた。高宗の葬儀をきっかけに起きた1919年の「31独立運動」のように、葬儀を契機に日本の植民地支配に対する反発が吹き出すことを恐れていた。

 

 弔問については、「要領」が公表された。(イ)の朝鮮王室の近親関係者は内殿で、(ロ)総督以下従六位勲六等以上、会社・銀行の重役、赤十字社、愛国婦人会、在郷軍人会の幹部などは仁政殿で、(ハ)それ以外は敦化門の前で弔意を表するものとされた。

 

 すなわち、朝鮮人の大半は、敦化門外で叩頭するしかなかった。それに対して、内地人はそれなりの格好で弔問に行けば、仁政殿前まで入ることができた。厳密な身分チェックが行われたわけではなかった。

 

 朝鮮土地経営会社の監査役で「国粋会朝鮮本部」次長理事だった高山孝行と、京城天然氷会社社長で学校組合議員池田長次郎は、27日夜の京城公職者の会合で顔を合わせ、弔問に行く約束をした。個人的な弔問であって職務上のものではない。

 翌28日の午前中、高山孝行は、手配してあった中央タクシーの車で、同じ吉野町一丁目に住む佐藤虎次郎と旭町1丁目の池田長次郎を乗せて昌徳宮に向かった。佐藤虎次郎は、朝鮮農林株式会社取締役、元政友会の衆議院議員で、「同民会」の常任理事であった。「同民会」は1924年に「内鮮融和」を掲げて佐藤虎次郎が立ち上げたものであった。

 

 3人はモーニングにシルクハット、フロックコートに山高帽という洋風の正装で、タクシーで敦化門に乗り付けた。タクシーとはいってもダッジの6人乗りの高級車で、今でいえば高級ハイヤーである。車は敦化門から昌徳宮内に乗り入れ、仁政殿での弔問をすませた。午後1時10分過ぎ、弔問を終えた3人は再び車に乗り込み、帰りは敦化門ではなく金虎門から宮殿外に出た。

 

 10 年ほど前まで、昌慶宮チャンギョングン観光は専属案内員付きのグループ見学のみに制限されていた。見学終了時にツアーガイドたちが、それぞれの団体観光客をこの金虎門クモムンの外で待ち受けていた。

 王朝時代には、この門は臣下たちが宮廷の出入りに使用する門であった。

 

 3人の日本人弔問客が乗った中央タクシーのダッジ車は、幌の屋根はあるが側面は開いていた。

 金虎門から宮殿外に出た時には、運転手渡邊有正が左側の運転席、助手岡本正雄がその右側の助手席に座り。後部座席は、運転手の後ろに高山孝行、中央に佐藤虎次郎、右端に池田長次郎が座った。

当時のダッジ車と同型車

 

 車は、金虎門を出てそのまま真っ直ぐ大通りを横切って鍾路方面に南下する狭い路地に入ってしまった。道が狭い上朝鮮の群衆がいたため、高山孝行が運転手の渡邊に、敦化門前の大きな道に戻って斎洞方向(今の3号線安国駅のある交差点方向)に向かうよう指示した。人混みの中で助手岡本の誘導でなんとかUターンし終わったところで、一人の朝鮮人が刃物を手にして左側のステップに足をかけて飛び乗った。その男は宋学先。宋学先は、後部座席左側の高山孝行の左胸を刺し、中央の佐藤虎次郎の上腹部と右胸を刺した。この間に池田長次郎は右側から車外に飛び降りた。

 

 後の取り調べで、宋学先は次のように自供している、朝鮮総督斎藤実を刺殺しようと金虎門付近で待っていた。そこに日本人3人が後部座席に座った車が通りかかった。その後を追って路地で方向転換をしているところで追いつくと、周りから「あれは総督だ」という朝鮮語が聞こえた。後部座席中央に座った男、すなわち佐藤虎次郎が総督であろうと狙いを定め、車に飛び乗って佐藤虎次郎とその手前の高山孝行を刺したという。

 

 宋学先は、二人を刺した後、車から飛び降りると斎洞方面へ逃走をはかった。現場付近にいた騎馬警官藤原徳一が事態に気づき、ホイッスルを吹いてあとを追った。ホイッスルに気づいた呉煥弼オファンピル巡査が走ってくる宋学先に組みついたが腹部を刺された。その間に馬に乗った藤原巡査が先回りして斎洞方向の進路を塞いだ。後ろからも警官や憲兵が追って来たため、宋学先は徽文高等普通学校(現在の現代本社ビルの後方)方面へ向かおうとした。馬上の藤原巡査が取り落とした日本刀を拾い上げた宋学先がなおも抵抗したため、憲兵上等兵二枝定一が拳銃を4発発射。その後格闘の末、宋学先は逮捕された。この時に藤原巡査は頭部に髄膜に達する切創を負った。

 

 鍾路警察の書類に、以上のような事件経緯と現場見取り図が残されている。

京鍾警高秘第4769号 大正15年4月29日

鍾路警察から京城地方法院検事正あて

「吊侯者殺害に関する件」

 

ソウル市『観光案内ソウル』1986年2月

 

 私がソウルにいた1980年代初めには、敦化門トナムンの横に建築家金寿根キムスグンの事務所兼ギャラリー「空間コンガン」があった。京城時代に恩賜授産場だったところには、三煥サムファンビルが建っており、ガソリンスタンドとの間の路地を入っていくと「雲堂ウンダン旅館」があった。伽耶琴カヤグムの名手朴貴姫パクギヒがオーナーで、韓屋に泊まれるというので日本からの訪問者も多く利用していた。1989年に廃業して今はオフィステルが建っている。ガソリンスタンドのあったところには、最近「ソウル ウリソリ博物館」がオープンした。それもあって今はこの路地の道幅は広くなっているが、80年代には車は入れなかった。1926年には、路地の入り口から途中までは多少の道幅があったのであろう。

 

 宋学先と警察・憲兵との騒乱の間に、無傷だった池田長次郎と渡邊運転手、岡本運転助手は、刺された高山孝行と佐藤虎次郎を乗せた車で敦化門から昌慶宮内に入り、宮中の李王職医務室に二人を運び込んだ。応急手当が施されたが、高山孝行は鎖骨下の動脈からの出血でほぼ即死状態。佐藤の腹部の傷は内臓に達していた。そこに、腹部を刺された呉煥弼巡査と頭部を斬られた藤原徳一巡査も担ぎ込まれた。その後、佐藤虎次郎と藤原徳一は、当時の最先端医療機関である総督府医院に搬送された。呉煥弼は、意識不明の重篤な状態で、西大門の赤十字病院に搬送された。

 

 宋学先は、鍾路警察署に拘留され取り調べを受けた。事件の翌日(1926年4月29日)付の京城地方法院検事正宛「京鍾警高秘第4769号 吊侯者殺害に関する件」に、宋学先の取り調べ内容が残っている。

 

 宋学先については、別のブログに書くことにする。

 藤原徳一は、退院して別府でリハビリをやっているが再起は難しいという記事が11月4日付の『朝鮮新聞』にある。その後は不明。呉煥弼は、『時代日報』に死亡記事が出たが、誤報だと訂正された。1939年の『東亜日報』、1941年の『毎日新報』の朝鮮弓道の大会に競技者として名前が見える。

 佐藤虎次郎は、8月中旬まで3ヶ月以上朝鮮総督府病院に入院していた。退院の時に撮られたと思われる傷跡の写真が、現在横浜開港資料館に残されている。遺族が寄贈した佐藤虎次郎関係資料の中に残されているもので、「朝鮮総督府医院 大正15年8月10日写」と記されている。

 佐藤虎次郎は、この金虎門事件でうけた腹部の傷がもとで、2年後の1928年9月6日に死亡した。64歳であった。

 佐藤虎次郎については、吉良芳恵「佐藤虎次郎 その数奇な一生」『横浜開港資料館館報』第37号(1992年4月)を参照されたい。

 

 ちなみに、佐藤虎次郎の孫は、元東京大学教養学部教授で、大平正芳内閣や中曽根康弘内閣でブレーンを務めた佐藤誠三郎である。

 

 

 ところで、この金虎門事件は、国粋会朝鮮本部が絡んで、思わぬ方向に展開することになったのである。


金虎門事件(2)国粋会と京城弁護士新聞記者有志連盟

 

に続く。

 1933年9月、翌週には秋夕を迎えるという9月26日の夜11時頃。漢江にかかる人道橋インドギョから一人の女性が投身自殺した。人道橋は、1917年に今の漢江大橋がかかっているところに架けられた橋で、京城観光の名所になったが、橋からの投身自殺の多いことでも有名だった。

 9月27日の夕刊各紙は、漢江に身を投げたこの女性がカフェ・エンゼルの「女給」金峰子キムポンジャ、本名金甲順キムカプスンだと伝えた。

『京城日報』1933年9月27日夕刊

 

『毎日申報』1933年9月27日夕刊

 

『朝鮮日報』1933年9月27日夕刊

 

 植民地時代の京城の鍾路。ソウルとなってからも20数年前まではパゴダ公園と呼ばれ、今はタプコル公園と呼ばれている公園がある。ここは高麗時代の円覚寺址で、当時の十層石塔が残っている。1930年代には、パゴダ公園の西側に京城府立図書館の鍾路分室があり、その南側、鍾路に面したところにカフェ・エンゼルがあった。

三重出版京城支店『京城精密地図』(1933)

 

 1937年に刊行された『大京城寫眞帖』には、エンゼルの写真と下の説明文が掲載されている。

 エンゼルは、1926年の開業となっている。

 日本内地で、カフェが女給の接待を伴うサービスを売り物にする業態になっていくのは、関東大震災の後から。1920年代半ばに大阪の赤玉カフェが京城に出店し、これ以降、京城でもこの手のカフェが増えていったという。

 エンゼルの経営者は石井米松。しかし、実際は富豪両班の閔泳徽ミンヨンヒの長男で東一ドンイル銀行頭取として経済界で名を馳せた閔大植ミンデシクの「日本人のおめかけさん」が運営していたと当時の朝鮮語の雑誌『別乾坤』が暴露している。

 「엔젤」카페는 물건너 친구의 영업이라더니 실상 알고보면 민보국 대감의 아들- 현재 동일은행 두취 민대식(閔大植)씨의 일본 마마가 하는 것이다. 말하자면 민대감댁 양반 며누리가 카페업을 하는 셈이다.

エンゼルは、あっちの人が営業していることになっているが、実際は閔輔國(泳徽)の息子、現在の東一銀行頭取閔大植の日本人妾がやっている。いわば閔大監の両班の家の嫁がカフェをやっているようなもんだ。
(『別乾坤』1932年11月号 萬華鏡)

 女給やボーイは朝鮮人で客も朝鮮人が多かったが、日本人の新村一雄が支配人をやっていた。

 


 

 このエンゼルの金峰子の自殺については、『東亜日報』も9月27日の夕刊で伝えている。しかし、他紙が若い男性医師の存在をほのめかして男女間の恋愛に絡む自殺と報じたのに対し、『東亜日報』だけは、峰子を名乗る金甲順が共産党の秘密連絡員で、上海の活動家との連絡が発覚しそうになったために自殺したという記事を書いた。

『東亜日報』1933年9月27日夕刊

 さらに、翌日の朝刊でも、『東亜日報』は紙面の1/3を使って金峰子秘密連絡員説の続報を大々的に掲載した。

『東亜日報』1933年9月28日朝刊

 

 この日、日本語の『朝鮮新聞』も「大きな謎に包まれ 秋風に散る美女 カフェエンゼルの女給」という記事を掲載し、金峰子の売れっ子ぶりや才能を紹介しながら医者のパトロンがいたことを紹介した。ただ、後段に、「某容疑もかけられてゐた これらが一原因?」という記事を挿入してある。「某容疑」の「某」とは、共産主義に関わることを匂わす常套句である。『東亜日報』の連絡員説を意識したものであろう。

『朝鮮新聞』1933年9月28日

 

 ところが、翌28日、金峰子と親しかった男性と報じられていた盧炳雲ノビョンウンが行方不明になった。この事実が報じられると、この事件は、「実らぬ恋」の果てに自殺した峰子ポンジャと、その後を追った京城帝大医学部卒のエリート医師炳雲ビョンウンの悲恋ロマンスとして世間の耳目を集めることになった。

『朝鮮中央日報』1933年9月29日

 

 『東亜日報』の記事からも、金峰子の某組織連絡員説は影を潜めた。特段の訂正記事もないまま、『東亜日報』の記事も、28日の夕刊からは、盧炳雲の後追い自殺と彼が残した遺書のことなどに触れる内容に一変した。扱いもやや遠慮がちに。

 

 一方、『朝鮮日報』と『毎日申報』は、それぞれに金峰子と盧炳雲との書簡や、残された遺書を入手し、盧炳雲が京城で結婚していた女性や娘の写真やインタビューなどを紙面に大々的に掲載した。また、内地人向けの日本語の新聞『京城日報』と『朝鮮新聞』でも大きく取り上げられた。

 

 盧炳雲は、咸鏡南道ハムギョンナムド北清ブクチョンの出身で、19歳で京城の養正ヤンジョン高等普通学校に入学した。高等普通学校は朝鮮人の中等教育を行う教育機関で、内地人子弟が通った京城中学や龍山中学に相当する学校である。盧炳雲は、京城に出てくる前、早婚の風習によって故郷の北清ですでに結婚していたが、京城には単身で出てきて養正高普に通った。この当時は、「高等普通学校の生徒の5分の3は既婚者」だったともいわれる。

 

 養正高普は、今のソウル駅の西側、阿峴洞アヒョンドンへ越えていく道の右側、現在の孫基禎ソンギジョン体育センターの場所にあった。今も当時の校舎が2棟残っている。ベルリンオリンピックのマラソン金メダルの孫基禎と銅メダルの南昇龍ナムスンニョンは、スカウトされてこの養正高普で学んだ。この学校はスポーツ有力校というだけでなく、有数の進学校でもあった。優等生は京城帝国大学に進学した。盧炳雲もそうしたエリート学生の一人で、1927年の成績優秀朝鮮人学生として『中外日報』で写真入りで紹介されている。

 

 この年、盧炳雲は京城帝大予科に入り、1929年に京城帝大医学部に入学している。そして1933年の3月に卒業して内科の篠崎哲四郞教室の助手となった。

 

 この時の医学部入学73名中24名が朝鮮人。朝鮮人学生は内地人よりはるかに狭き門をくぐらねばならなかった。京城帝国大学が設立された1924年度には、朝鮮に居住する日本人子弟の在学生は人口1万人当たり19.1人。これに対して朝鮮人の在学生は0.6人に過ぎなかった。朝鮮人の場合、京城帝大に入れるのは日本人学生の1/32であった。京城帝大に入れた朝鮮人学生は超エリートであり、出世競争の勝者ともみなされた。

 その勝者の盧炳雲が、カフェの女給金峰子の後追い自殺をしたのである。各紙の記者は取材に走った。

 

 1933年9月29日の『毎日申報』は、盧炳雲が自殺した後、彼が京城で一緒に暮らしていた女性に取材して、盧炳雲とその周辺についての詳しい記事を掲載している。

 

 日本語紙の『朝鮮新聞』も盧炳雲の京城の妻に取材している。

 

 

 盧炳雲は、上述のように故郷北青に本妻がいたが、京城で9年前に知り合った朴という女性と4年前に結婚した。重婚状態になったのか事実婚(同棲)だったのかは不明である。この女性との間に3歳の長女喜婉ヒワンと1歳の次女英傑ヨンゴルがいた。『毎日申報』誌面の右の写真は朴夫人と次女であろう。9年前といえば、盧炳雲が北青から京城に出てきて養正高普に入った年。この頃に知り合って京城帝大医学部に入った時点で婚姻関係になったということになる。昌信洞チャンシンドンに住んでいて、その後青葉町3丁目14番地に引っ越したという。同じ青葉町内の64番地に朴夫人の実家があり、事件後そこに身を寄せていたという。ひょっとしたら、盧炳雲は朴夫人の実家に寄留して養正高普に通っていたのかもしれない。学生結婚で子供もいたとなると、妻の実家からはかなりの援助を受けていたとも考えられる。

 

 上掲の『毎日申報』紙面左の図版の上部には、妻に宛てた遺書の写真が掲載されている。『毎日申報』は朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙だったこともあり、日本語の総督府機関紙『京城日報』もこの取材結果を共有して記事にしている。

妻朴氏宛て遺書

인제도속이릿가 永遠히돌아오지못할客이된다

가장사랑하는喜婉이를人生다운사람이되게만드시요

最後를付託함니다  이제는 당신께더드릴말슴이업습니다

『京城日報』の日本語表記

今はおん身を欺ることは到底出来ない思ひ悩んで永遠に不帰の客となる。

僕の最愛する長女喜婉には再びかゝる悩みの下に生かす事なく、平和な人生に育て上げてくれ

(「最後を頼む。これ以上あなたに伝える言葉がない」の部分は『京城日報』では省略されている)

 

長女喜婉へ

희완아잘잇거라 네아비 나는 罪갑으로 永遠히간다

『京城日報』の日本語表記

喜婉よ健に伸びてくれ、父は罪のため永遠の道をゆく

 遺書は、これ以外にもう1通あり、それはエンゼルの日本人支配人新村一雄あてに郵送された。この内容は『東亜日報』が「金峯子慰霊文」として報じている。

…전…당신은 왜죽엇나이까? 나만을두고 죽는다면 왜! 혼자 죽엇나이까? 나를두고. 나도 당신의 뒤를 따라가렵니다. 깨끗하게 죽는 방법이 얼마든지잇으나 당신이 이미한강을 택하엿으니 나도 당신이 죽은 한강을 취하려 합니다. 곱게 잠든 당신의 깨끗한 영은 아직 세상에 남어잇는 나를 원망치말고 나를 기다려 주소서…….

あなたはなぜ死んだのですか? 私を置いて死んだのは何故!一人で死んだのですか? 私を置いて。私もあなたの後を追います。きれいに死ぬ方法はたくさんあるけれど、あなたが漢江を選んだのだから、私もあなたが死んだ漢江にしようと思います。 安らかに眠ったあなたの清き霊は、まだこの世に残る私を恨むことなく待っていてください…….

『東亜日報』1933年9月28日夕刊

 『東亜日報』は、カフェ・エンゼルを取材していて、支配人新村一雄宛に郵送された盧炳雲の遺書を入手し、『東亜日報』のトクダネになった。峰子秘密連絡員説の裏取り取材をしていたのかもしれない。しかし、この遺書が出てきたことで連絡員説はこれ以上無理と判断したのではなかろうか。

 

 一方、『朝鮮日報』は、金甲順の遺家族である母親をターゲットに取材している。金甲順の生い立ちや盧炳雲が金峰子に送ったラブレターなどを入手し、これを紹介しながら金峰子と盧炳雲の恋と死に焦点を当てた記事を掲載した。

 こちらは『毎日申報』とは対照的に、盧炳雲の妻が金峰子を侮辱し、説諭願を受けた警察が女給だというので干渉してきたと、金峰子にきわめて同情的な記事を書いている。

 

信じた愛人には妻子があり その愛人の妻は侮辱まで

さらに警察は女給だからと干渉

『朝鮮日報』1933年9月28日朝刊

 

 さらに、9月29日の夕刊と30日の朝刊で、かなりの紙面をさいてこの事件を取り上げ、「金峰子と盧炳雲の悲恋哀話」という連載記事を掲載して、金甲順の生い立ちから、盧炳雲との出会い、そして自殺に至る過程を「峰子の側の視点」から描いている。

 金甲順は、1904年に忠清北道沃川郡郡西面銀杏里で生まれた。8歳で父親が亡くなったが、なんとか普通学校だけは卒業できた。17歳の時に40歳台の男に嫁いで娘が生まれたが、2年で離婚し実家に戻り、母親の面倒を見ながら娘を育てることになった。しかし、田舎では生計を立てることが難しく、老母と娘を連れて京城に出た。最初は見習い看護婦として働いたが、収入が少なく、スターというカフェの女給となった。その後、カフェ太平洋に移った。

初めて太平洋カフェで酒瓶の栓を抜いた甲順は、華やかな空気、妖気あふれる光、ホールをつんざくような女給たちの作り笑いの声、このすべてが嫌だった。ある時、自分の周りを取り巻くすべてのものをみながら、茫然と立ち尽くす自分を発見した時、地獄を見下ろしているかのようにも感じた。しかし、その度に背中をつっついてくるのは、無邪気な同僚の女給たちだった。「ミネちゃん!なんでそんなにボーッとしてるの? こっちでウイスキーでも一杯やんなさいよ。すっきりするわよ」 ちゃらんぽらんで賑やかな女給たちは、その瞬間を愉快にやり過ごすしかなかった。

『朝鮮日報』1933年9月30日

 こうして、金甲順は2月にはエンゼルの女給となった。

 

 『朝鮮新聞』には、自殺の翌日にエンゼルの同僚にインタービューした記事がある。

 金甲順が、母親と娘の住居として選んだのは堅志洞44番地、現在の鍾閣チョンガクから安国洞アングクドン交差点に向かう道の左側、曹渓寺チョゲサがあるあたりである。

 

 この家には、盧炳雲が金甲順に送った手紙などが残されていた。それを『朝鮮日報』が入手して9月30日付の「金峰子と盧炳雲の悲恋哀話」の2回目で紹介している。



 

 この記事には、盧炳雲が残した「愛の方程式」の写真が掲載されている。

 Rは盧炳雲のイニシャル、Kは金峰子、すなわち金甲順のイニシャル。RとKとをプラスするとL、RKからKがなくなると「死(Death)」でD。Lは、Loveとも考えられるし、Deathに対して生の意味でLiveとも解釈できる。

 そして、この2番目の方程式が現実のものとなった。

 

 この『朝鮮日報』の連載の最後には、盧炳雲が送ったと思われる文章が転載されている。

 文末に「原文日本文」とある。盧炳雲は京城帝大の学生だったので日本語は相当できたであろうが、金甲順は地方の普通学校卒である。どの程度日本語ができたのであろうか。どのような「日本文」だったのか気になるが、『京城日報』や『朝鮮新聞』は入手できなかったのであろう。日本語の原文は出てこない。

〈参考訳〉
澄みわたる秋風は

軽くRとKの胸をかすめて

Kの胸は静かに波打つ。

Rよ!Kは今日のように

楽しいというより神々しく美しい感じは

恐らく初めてだろう。

澄みわたる夕暮れの如く

Rよ!永久に、そして美しく

あなたは私を愛するだろう。

美しく心通じる今日のこの戯れよ!

永遠に私たちから離れないでおくれ…….

 盧炳雲の京城の妻朴夫人に取材した『毎日申報』や『朝鮮新聞』の記事によれば、盧炳雲が峰子と最初に出会ったのは前年11月だという。金峰子がエンゼルに移ったのはこの年の2月なので、盧炳雲と金峰子の出会いはカフェスターかカフェ太平洋だったことになる。

 その後、朴夫人は何度か金峰子と直接会って別れるように言っていた。しかし、別れる気配はなく、盧炳雲は勤務先の大学も辞めてしまった。思い悩んだ朴夫人は、9月中旬になって、鍾路警察署に金峰子に対する「説諭願」を出した。

 

 「説諭願」というのは、契約や婚姻などの私的な関係に警察が介入し、解決困難なもめ事を警察の権威で「説諭」して収拾するものであった。必ずしも願出人の願うように収まるとは限らないが、警察が民事に積極的に介入することで国家権力が人々の生活をコントロールする仕掛けであった。

 

 朴夫人の「説諭願」を受理した鍾路警察署では、9月26日午後3時30分頃に高等係の警察官2人が金甲順の住居を訪ね、盧炳雲からの手紙など24通を押収した。令状もなしに警察が民事に介入する時代だった。そして、翌日の午前8時に鍾路署に金甲順本人が出頭するよう命じて立ち去った。1時間ほどして帰宅した金甲順は、その状況を母親から伝え聞いた。夕方5時ごろ、エンゼルの同僚2人と一緒にカフェに出勤し、客と痛飲したのち、夜10時半すぎに店を出てその客たちと車で漢江まで行き、そこで投身自殺した。

 

 この「説諭願」で警察が動いたことについて、『朝鮮日報』は「警察은女給이라고干渉(警察は女給だからと干渉)」と、警察と朴夫人のやり方とを批判的に報じている。

 

 一方、『東亜日報』は、この「説諭願」に基づく鍾路署による金甲順の住居への捜索を思想犯にからむ家宅捜索と誤解したのであろう。ちょうどこの時期に、間島(現在の延辺朝鮮族自治州)での共産党主導の抗争事件の公判が開かれ、また朝鮮共産党再建事件の公判が開かれていた。そこに社会的な関心が集中していたし、新聞では、まだ潜伏中の活動家への捜索が行われていると報じていた。『東亜日報』も紙面の多くを使って「共産党の事件」を報じていた。そうした中で、鍾路署が動いた翌日に当事者が投身自殺した。そうしたことが『東亜日報』の誤報につながったのであろうが、かなり初歩的なミスである。

 

共産党の事件・公判を報じる『東亜日報』1933年9月26日朝刊紙面

この日の午後に鍾路署の警察官が金甲順の家を訪れ、夜に金甲順が漢江で投身自殺をした

 

 朝鮮総督府の朝鮮語機関紙『毎日申報』は、わざわざ『東亜日報』の誤報を引用して、それをキッパリと否定している。

세상에서는 구구한 추즉이만어 공산당원으로 그비밀이 탈노될가바 그 후환을 두려워 죽엇다는 말까지 잇게 되엇스나…

世上にはいろいろな推測が多く、共産党員でその秘密が漏れることを心配して死んだというような話まで出ていたが…

『毎日申報』1933年9月29日

 こうして、この事件は、「実らぬ恋」の果てに自殺した女給峰子ポンジャと、その後を追った青年医師炳雲ビョンウンの悲恋ロマンスとして世間の耳目を集めることになった。有名カフェエンゼルの女給投身自殺と、京城帝大医学部卒エリート医師の後追い自殺という話題性に加えて、各新聞の取材合戦もあって、様々な角度から報じられ—誤報も含め—、スキャンダルとして人々の関心を引くことになった。

 

 この事件が起きて1ヶ月後の11月1日発売の日本語の雑誌『朝鮮及満洲』11月号(第312号)には、「悲恋物語 河畔の追慕心中」という記事が掲載された。筆者は山寺譲二。上述の記事などをもとにドキュメンタリータッチで書かれてはいるが、事実関係において不正確なところもあり、創作された部分が多い。

 

  翌年1月、コロンビアレコードから「峰子의 노래」が発売された。続いて、翌月には「炳雲의 노래」が発売された。歌っているのはどちらも蔡奎燁(長谷川一郎)である。

영겁에 흘으는 한강의 푸른물

봉자야 네뒤 따라 내 여게 왓노라

오 님이어 그대여 나의 천사여

나 홀로 남게 두고 어데로 갓나

永劫に流れる漢江の青い水
峰子よ、君のあとを追ってここまできた
きみは僕の天使
私一人を残してどこへ行くのか

 

수면에 날아드는 물새도 쌍쌍

아름다운 한양의 가을을 읊건만

애끗는 하소연 어데다사뢰리

나의천사 봉자야 어데로갓노

水面に飛びかう水鳥も対をなす
美しい漢陽の秋を詠むが
切ないこの思い、どこに訴えようか
私の天使峰子よ、どこへいった

 

그대를위하야서 피까지주엇거든

피보다도더붉은 우리의사랑

한강깁흔물속에 님뒤를따르니

천만년영원히 그품에 안어주

きみのために血まで捧げたが
血よりももっと赤い私たちの愛
漢江の深い水の中に君の後を追う
千万年永遠にその胸に抱いておくれ

 

 このレコードの発売以降は、この事件は忘れられて行った。

 盧炳雲の残された娘、喜婉ヒワン英傑ヨンゴルはその後どうなったのだろうか。また、金甲順の老母と娘のその後も気になるところだが、知る手がかりは皆無である。