1926年4月28日、昌慶宮の前で日本人3人を乗せた車が刃物を持った男に襲われ一人が死亡、もう一人が重傷を負った。男は宋学先、29歳。警察官2名も重傷を負ったこの事件は、宋学先が斎藤実総督刺殺を狙った「金虎門事件」と呼ばれている。
1926年4月25日、大韓帝国最後の皇帝であった純宗(李坧)が亡くなった。京城の新聞各紙は4月26日付の夕刊で危篤を伝え、27日付け朝刊で「李王薨去」を伝えた。大韓帝国が消滅させられると、先代の皇帝高宗は李太王とされ、純宗皇帝は李王とされていた。宮内府は李王職という役所に変えられた。
26日の夜半には、多くの朝鮮の人々が敦化門の門前を埋め、哀悼の意を示した。
朝鮮総督府、警察当局、憲兵隊は全国から要員を集めて、昌徳宮周辺の警備体制を固めた。高宗の葬儀をきっかけに起きた1919年の「31独立運動」のように、葬儀を契機に日本の植民地支配に対する反発が吹き出すことを恐れていた。
弔問については、「要領」が公表された。(イ)の朝鮮王室の近親関係者は内殿で、(ロ)総督以下従六位勲六等以上、会社・銀行の重役、赤十字社、愛国婦人会、在郷軍人会の幹部などは仁政殿で、(ハ)それ以外は敦化門の前で弔意を表するものとされた。
すなわち、朝鮮人の大半は、敦化門外で叩頭するしかなかった。それに対して、内地人はそれなりの格好で弔問に行けば、仁政殿前まで入ることができた。厳密な身分チェックが行われたわけではなかった。
朝鮮土地経営会社の監査役で「国粋会朝鮮本部」次長理事だった高山孝行と、京城天然氷会社社長で学校組合議員池田長次郎は、27日夜の京城公職者の会合で顔を合わせ、弔問に行く約束をした。個人的な弔問であって職務上のものではない。
翌28日の午前中、高山孝行は、手配してあった中央タクシーの車で、同じ吉野町一丁目に住む佐藤虎次郎と旭町1丁目の池田長次郎を乗せて昌徳宮に向かった。佐藤虎次郎は、朝鮮農林株式会社取締役、元政友会の衆議院議員で、「同民会」の常任理事であった。「同民会」は1924年に「内鮮融和」を掲げて佐藤虎次郎が立ち上げたものであった。
3人はモーニングにシルクハット、フロックコートに山高帽という洋風の正装で、タクシーで敦化門に乗り付けた。タクシーとはいってもダッジの6人乗りの高級車で、今でいえば高級ハイヤーである。車は敦化門から昌徳宮内に乗り入れ、仁政殿での弔問をすませた。午後1時10分過ぎ、弔問を終えた3人は再び車に乗り込み、帰りは敦化門ではなく金虎門から宮殿外に出た。
10 年ほど前まで、昌慶宮観光は専属案内員付きのグループ見学のみに制限されていた。見学終了時にツアーガイドたちが、それぞれの団体観光客をこの金虎門の外で待ち受けていた。
王朝時代には、この門は臣下たちが宮廷の出入りに使用する門であった。
3人の日本人弔問客が乗った中央タクシーのダッジ車は、幌の屋根はあるが側面は開いていた。
金虎門から宮殿外に出た時には、運転手渡邊有正が左側の運転席、助手岡本正雄がその右側の助手席に座り。後部座席は、運転手の後ろに高山孝行、中央に佐藤虎次郎、右端に池田長次郎が座った。
当時のダッジ車と同型車
車は、金虎門を出てそのまま真っ直ぐ大通りを横切って鍾路方面に南下する狭い路地に入ってしまった。道が狭い上朝鮮の群衆がいたため、高山孝行が運転手の渡邊に、敦化門前の大きな道に戻って斎洞方向(今の3号線安国駅のある交差点方向)に向かうよう指示した。人混みの中で助手岡本の誘導でなんとかUターンし終わったところで、一人の朝鮮人が刃物を手にして左側のステップに足をかけて飛び乗った。その男は宋学先。宋学先は、後部座席左側の高山孝行の左胸を刺し、中央の佐藤虎次郎の上腹部と右胸を刺した。この間に池田長次郎は右側から車外に飛び降りた。
後の取り調べで、宋学先は次のように自供している、朝鮮総督斎藤実を刺殺しようと金虎門付近で待っていた。そこに日本人3人が後部座席に座った車が通りかかった。その後を追って路地で方向転換をしているところで追いつくと、周りから「あれは総督だ」という朝鮮語が聞こえた。後部座席中央に座った男、すなわち佐藤虎次郎が総督であろうと狙いを定め、車に飛び乗って佐藤虎次郎とその手前の高山孝行を刺したという。
宋学先は、二人を刺した後、車から飛び降りると斎洞方面へ逃走をはかった。現場付近にいた騎馬警官藤原徳一が事態に気づき、ホイッスルを吹いてあとを追った。ホイッスルに気づいた呉煥弼巡査が走ってくる宋学先に組みついたが腹部を刺された。その間に馬に乗った藤原巡査が先回りして斎洞方向の進路を塞いだ。後ろからも警官や憲兵が追って来たため、宋学先は徽文高等普通学校(現在の現代本社ビルの後方)方面へ向かおうとした。馬上の藤原巡査が取り落とした日本刀を拾い上げた宋学先がなおも抵抗したため、憲兵上等兵二枝定一が拳銃を4発発射。その後格闘の末、宋学先は逮捕された。この時に藤原巡査は頭部に髄膜に達する切創を負った。
鍾路警察の書類に、以上のような事件経緯と現場見取り図が残されている。
京鍾警高秘第4769号 大正15年4月29日
鍾路警察から京城地方法院検事正あて
「吊侯者殺害に関する件」
ソウル市『観光案内ソウル』1986年2月
私がソウルにいた1980年代初めには、敦化門の横に建築家金寿根の事務所兼ギャラリー「空間」があった。京城時代に恩賜授産場だったところには、三煥ビルが建っており、ガソリンスタンドとの間の路地を入っていくと「雲堂旅館」があった。伽耶琴の名手朴貴姫がオーナーで、韓屋に泊まれるというので日本からの訪問者も多く利用していた。1989年に廃業して今はオフィステルが建っている。ガソリンスタンドのあったところには、最近「ソウル ウリソリ博物館」がオープンした。それもあって今はこの路地の道幅は広くなっているが、80年代には車は入れなかった。1926年には、路地の入り口から途中までは多少の道幅があったのであろう。
宋学先と警察・憲兵との騒乱の間に、無傷だった池田長次郎と渡邊運転手、岡本運転助手は、刺された高山孝行と佐藤虎次郎を乗せた車で敦化門から昌慶宮内に入り、宮中の李王職医務室に二人を運び込んだ。応急手当が施されたが、高山孝行は鎖骨下の動脈からの出血でほぼ即死状態。佐藤の腹部の傷は内臓に達していた。そこに、腹部を刺された呉煥弼巡査と頭部を斬られた藤原徳一巡査も担ぎ込まれた。その後、佐藤虎次郎と藤原徳一は、当時の最先端医療機関である総督府医院に搬送された。呉煥弼は、意識不明の重篤な状態で、西大門の赤十字病院に搬送された。
宋学先は、鍾路警察署に拘留され取り調べを受けた。事件の翌日(1926年4月29日)付の京城地方法院検事正宛「京鍾警高秘第4769号 吊侯者殺害に関する件」に、宋学先の取り調べ内容が残っている。

宋学先については、別のブログに書くことにする。
藤原徳一は、退院して別府でリハビリをやっているが再起は難しいという記事が11月4日付の『朝鮮新聞』にある。その後は不明。呉煥弼は、『時代日報』に死亡記事が出たが、誤報だと訂正された。1939年の『東亜日報』、1941年の『毎日新報』の朝鮮弓道の大会に競技者として名前が見える。
佐藤虎次郎は、8月中旬まで3ヶ月以上朝鮮総督府病院に入院していた。退院の時に撮られたと思われる傷跡の写真が、現在横浜開港資料館に残されている。遺族が寄贈した佐藤虎次郎関係資料の中に残されているもので、「朝鮮総督府医院 大正15年8月10日写」と記されている。
佐藤虎次郎は、この金虎門事件でうけた腹部の傷がもとで、2年後の1928年9月6日に死亡した。64歳であった。
佐藤虎次郎については、吉良芳恵「佐藤虎次郎 その数奇な一生」『横浜開港資料館館報』第37号(1992年4月)を参照されたい。
ちなみに、佐藤虎次郎の孫は、元東京大学教養学部教授で、大平正芳内閣や中曽根康弘内閣でブレーンを務めた佐藤誠三郎である。
ところで、この金虎門事件は、国粋会朝鮮本部が絡んで、思わぬ方向に展開することになったのである。
に続く。





