金虎門事件(2)国粋会と京城弁護士新聞記者有志連盟 | 一松書院のブログ

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金虎門事件の経緯はこちら↑

 

 

 金虎門で事件が起こると、朝鮮総督府は直ちにその報道を禁止した。

 

 『東亜日報トンアイルボ』は、発生直後にこの事件を察知し、日本人が乗った車が襲撃された顛末を号外で出そうとした。しかし、これは差し止められた。

後日『東亜日報』5月2日付の紙面に掲載された号外

 

 ただ、総督府の報道統制は日本内地では効力を持たない。『東京朝日新聞』は4月29日朝刊で「内地人3名襲撃さる」という「京城特電」を紙面で速報している。さらに、4月30日夕刊にこの事件の詳しい記事を載せた。しかし、事件の状況や被害者の情報、写真などに誤情報が多かった。佐藤虎次郎の写真も全くの別人である。

。 

 

 5月1日の夕刊では佐藤虎次郎が斎藤実総督と誤認されて襲撃されたと伝えているが、依然として不正確な記事が多い。

 その中で、国粋会について言及して、襲撃した宋学先の実家に対して報復の動きがあったと伝える記事がある。

 

 この事件で刺殺された高山孝行は国粋会朝鮮本部の次席理事で、無傷で逃れた池田長次郎も国粋会会員だった。

 


 国粋会朝鮮本部は、大日本国粋会の地方組織として1922年10 月に京城で結成された。大日本国粋会は、1919年10月に政友会の原敬内閣の内務大臣床次竹二郎が、社会主義の動きを封じるため、任侠・渡世人などのヤクザや土建業関係者を組織して東京で旗揚げした右翼団体である。政友会の私兵行動隊でもあった。

 

 国粋会朝鮮本部は、理事長に小野又四郎が就き、分島周次郎が幹事長となった。小野又四郎は質屋経営で成功し、朝鮮本部立ち上げの主導者であった。分島周次郎は京城のヤクザの顔役として声をかけられてこれに加わった。ところが翌1923年8月に、朝鮮新聞社社長牧山耕藏の国粋会朝鮮本部会長就任をめぐって内紛が起き、小野又四郎は理事長を辞任、黄海社の渡邊定一郎が国粋会朝鮮本部の本部長に就任した。

 

 黄海社は、水利干拓事業をやっていた松山常次郎が設立したもので、渡邊定一郎は、もともと鉄道建設に携わっていて黄海社が土建請負業務を始めるに当たって支配人として入社し、後に社長に就任した人物である。松山常次郎は政友会の代議士となっていたので、国粋会とのつながりは政友会の線からかもしれない。

 

 渡邊定一郎の国粋会朝鮮本部長就任とともに、分島周次郎は幹事長からはずされた。これに不満を持った分島周次郎の「食客」(子分)が、朝鮮ホテルを出たところで渡邊定一郎を襲って重傷を負わせる事件が起きた。分島周次郎は自首して逮捕され、殺人未遂で2年間の禁固刑を言い渡された。実際に服役したのかは定かでない。

 

 その後、どこかの時点で、渡邊定一郎と分島周次郎の間で何らかの手打ちが行われたものと考えられる。分島周次郎は、渡邊定一郎本部長のもとで国粋会朝鮮本部の幹事長に復帰していた。

 


 同行者2人が突然刃物で襲われるという事態になった池田長次郎が、まず連絡したのは分島周次郎だった。前年8月に、長谷川町の京城公会堂で行われた社会主義者中西伊之助の講演会に国粋会会員が棍棒を持って妨害しに行った時は、分島周次郎が先頭に立っていた。暴力沙汰や荒っぽいことは分島周次郎の役回りだった。

 

 車で昌慶宮に乗り付けた分島周次郎は、敦化門で「国粋会の分島だ」と名乗って昌慶宮に入り李王職医務室で高山孝行の遺体と3人の負傷者を確認した。本部長の渡邊定一郎に連絡して、会員を青木堂前に集めるよう依頼し、自分も青木堂に向かった。当時はまだ三越百貨店ができる前で、今の新世界シンセゲデパートの場所は京城府庁だった。青木堂はその西側にあった。午後2時過ぎに青木堂前で落ち合った渡邊定一郎と分島周次郎は、14〜5名の国粋会会員と5台の車に分乗して再び昌徳宮に向かった。

 事件の全貌がわからないまま集まった国粋会会員の中には、襲撃や乱闘を想定して柔道着姿や法被姿で棍棒や木刀を持った者、拳銃で武装した者までいた。2時30分頃、敦化門に到着したが、弔問の要領も決められており、そもそも彼らは敦化門から喪中の昌徳宮に入れるような服装ではない。警備の警官や憲兵は制止しようとした。しかし、渡邊定一郎や分島周次郎は、緊急事態だと居丈高に強行突破をはかり、結局国粋会のメンバーは敦化門から昌徳宮内に入った。その後、警備側の求めもあって30分ほどで全員が金虎門から宮殿外に退去した。


 この国粋会メンバーが起こした騒動は、敦化門前にいた朝鮮の人々の目の前で起きた。その中には、取材のために駆けつけた新聞記者やカメラマンもいた。


 4月30日、宋学先による日本人殺傷事件については依然として報道管制が敷かれていたが、朝鮮語の『時代日報シデイルボ』は、殺傷事件には一切触れないまま、国粋会会員の昌慶宮・敦化門での振る舞いを強く非難する記事を掲載した。

 

不作法の国粋会員と高まる非難

国粋会本部に会員を集合

当局者の責任如何

 

恐れ多く責任を痛感

昌徳宮署長談

 

不謹極まりない態度

黙認した当局者の失態

 国粋会の振る舞いを放置した総督府当局、警備当局の責任を追求したのである。

 

 翌5月1日、今度は『朝鮮日報チョソンイルボ』が「国粋会事件」としてこの問題を記事で取り上げた。

国粋会事件で
渡邊会頭非難
公職者の間で物議を免れず?
 先日28日午後1時頃に昌徳宮前で突発事件が相次いだ後、国粋会会員10余名が不敬な服装で敦化門を通って宮内に立ち入った事件については一般の非難が多い。この事件について当時国粋会会員を率いてきた国粋会朝鮮本部長渡邊定一郎氏は、京城商業会議所会頭の職にあり、商議評議員その他の公職者から氏の行動を軽率だとする批判があるのは事実。この事件についてはいまだ発表の自由がないため、批判は困難であるが、渡邊氏が全朝鮮を代表する京城商業会議所の会頭という公職にあり、それなりに敬意を欠かさないよう注意をしたことは事実だとしても、国粋会会員が宮中に突入したことが一般の感情を害したことは甚だしく、関係者や一般商界としては甚だしく不名誉だとし、渡邊氏に対して非難の声を聞くことになっており、商業会議所の会頭であることもあって非常に注目される。


 朝鮮総督府が、金虎門事件の報道管制を解いたのはその日5月1日で、『京城日報』と『朝鮮新聞』はすぐに号外を出した。日本人殺傷事件が報じられず、その日何が起こったかが書かれないまま、国粋会の行動への批判ばかりが際立つのはまずいと判断したのかも知れない。

 

 翌5月2日には、朝鮮語各紙も一斉に金虎門事件の記事を掲載した。

 

 事件現場での様子や、宋学先の供述内容は、警察当局から提供された内容がそのまま使われていて、事態の展開や犯人像についての独自取材記事がそれぞれに書かれている。

 

 そうした中で、『東亜日報』は、『時代日報』と『朝鮮日報』がすでに記事にした「国粋会事件」について、当日の現場写真入りで報じた。

 

 『東亜日報』は事件当日、取材を続ける中で、昌慶宮の中を国粋会会員が柔道着姿やゲートル姿で棍棒や木刀を持ってうろつく姿をカメラで捕らえていた。5月2日付の紙面には、

国粋会員の無作法な不敬

事件が起きると頭に血が上った国粋会員がとんでもない格好で棒を携えて宮中に

という袖見出しを付けて、国粋会の会員の写真を掲載した。

 

 日本語紙の『京城日報』と『朝鮮新聞』には、国粋会会員の昌慶宮闖入事件についての記事は見当たらない。ただ、社長の牧山耕藏が一時期「国粋会朝鮮本部会長」への就任が取り沙汰されて、国粋会とは微妙な関係にあった『朝鮮新聞』は、高山孝行の葬儀に国粋会の会員が朝鮮全土から集まるので「警務当局の頭痛」という記事を書いている。国粋会は、あたかも「お荷物」「厄介もの」であるかのような扱いである。

 

 

 高山孝行の葬儀は、5月3日に若草町西本願寺で行われた。雨の中で1500人の参列者という盛大な葬儀であった。この『京城日報』の記事でも、「国粋会」はわざわざ大きな活字が用いられている。

 

 この頃には、朝鮮語の各新聞の報道ぶりは、大韓帝国最後の皇帝の逝去にもかかわらずそれを意に介さないがごとき国粋会会員の立ち振る舞いと、それを傍観して阻止することがなかった総督府の責任追及の方向へ向かっていっていた。すなわち、今日において、ヘイトデモそのものだけでなく、それを放置する行政・政治の責任を問うのと同じである。

 その追求の中心になったのが、朝鮮人弁護士などの法曹界と朝鮮語媒体の言論界であった。

 

 その先鋒は『時代日報』で、「国粋会不敬」を取り上げた記事の横に、金虎門事件の宋学先の家族や阿峴洞アヒョンドンの住居の写真入りの記事を掲載するという、見方によっては非常に挑戦・挑発的ともいえる紙面構成をしている。

 この紙面に「法曹界も奮起!」という記事があるが、5月4日の夕方から朝鮮人弁護士と言論人が集まって、「国粋会不敬問題事件」への弾劾決議を出す方向で話が進んだ。

 

 5月4日午後7時20分から、観水洞クァンスドン国一館クギルグァンで5人の朝鮮人弁護士と新聞記者、約50人が集まり、「京城弁護士新聞記者有志連盟」を結成して、国粋会会員の「不敬」を黙認した当局の責任を追及する決議を採択した。

 1926年5月6日付の朝鮮語の新聞は、4紙全てががこの問題を取り上げた。総督府の御用紙『毎日申報メイルシンボ』までもが記事を掲載している。


『東亜日報』は「国粋会員不敬事件対策集会」の写真入りで記事を掲載した。

 

 

 この4日の集会の内容は、帝国通信社の山副昇を通して鍾路警察署と国粋会に流されていた。翌5日には、分島周次郎が鍾路警察署に出向いて、朝鮮語各紙が問題にしている4月28日当日の国粋会側の行動の経緯と、「有志連盟」の決議への国粋会としての対応について説明している。

検察事務に関する記錄3 京本高秘第2408号 「国粋会員昌徳宮闖入事件に関する件」  

 鍾路警察署は、「朝鮮の治安のため」に、国粋会会員が言動を慎み、自重するように求めている。分島周次郎は、国粋会内部では朝鮮人側と対決するという強硬意見もあるとしつつも、本部長渡邊定一郎の意向としては、山副昇の仲介で時代日報、朝鮮日報、東亜日報の記者たちに接触してコトを収めようとしていると伝えた。分島周次郎は、朝鮮総督府側が自分たちの軽率な行動に不快感を持っていることを知って、内部で強硬派を抑えているというポーズをみせて事態収拾の意向を示した。

 

 他方、「弁護士新聞記者有志連盟」は、ますます攻勢を強めた。日本政府の内閣総理大臣若槻禮次郎 、陸軍大臣宇垣一成、宮内大臣一木喜徳郎に以下のような電文を送りつけた。

去る4月28日、国粋会員渡邊定一郎以下十数名の昌徳宮突入事件を徹底的に審査し、その救正策を講じることを望む。

 朝鮮軍司令官森岡守成、警務局長三矢宮松には「有志連盟」の決議文を送り、斎藤実総督には直接手渡しすることを求めた。

 

 さらに、前年、国粋会によって中西伊之助の講演会を妨害された中央労働青年会が、「有志連盟」にメンバーを送るなど、この動きは朝鮮人社会の社会主義団体をも巻き込んで広がっていた。

 

 「有志連盟」は、朝鮮総督への直接面談を求めていたが、これは5月15日に実現している。「有志連盟」の金炳魯キムビョンノ金俊淵キムジュニョンが、朝鮮総督斎藤実に決議文を直接手渡している。

 金炳魯は日本大学法科を出た弁護士で朝鮮弁護士協会会長、金俊淵は東京帝大卒の朝鮮日報記者でモスクワ特派員を経験していた。いずれも翌年創設される新幹会に加わることになる。

 

 この面談の席で朝鮮総督斎藤実はこう言ったという。

私はまだこの事件について詳細な報告を受けていないが、この事件については精査して適切に処理したい。

 どこかでよく聞くセリフである。権力者が使う言い逃れの常套句は、100年前も今も変わることがない。

 

 日本の植民地支配下で、日本人の団体である国粋会を問題視して、総督府や軍の責任を追求する朝鮮人団体の代表が、朝鮮総督と面談して自分たちの決議を総督に手渡したというのは、画期的な出来事だといえる。

 純宗の服喪という中で、国粋会会員の軽挙妄動があったとはいえ、朝鮮総督が面談の場に出て来ざるを得ないところまで追い込んだのは、朝鮮の知識人にとっては大きな成果であった。たとえそれが、当初の目的を達成することなく終わったとしても…。

 

 『朝鮮日報』「東亜日報』『時代日報』の朝鮮語各紙はこれを5月16日の紙面で報じた。

 

 朝鮮語新聞でも、総督府の御用紙だった『毎日申報』はこの記事を載せていない。日本語の『京城日報』『朝鮮新聞』にも、記事が見当たらない。

 

 

 6月10日に予定されていた純宗の国葬を無事に乗り切るため、見せかけの妥協が必要であったのであろう。総督府側は、国粋会の非を認めるがごときポーズをとることで、統治者としての責任をうやむやにし、最後は一気に「有志連盟」の動きを強権的に封じ込めた。

 

 斎藤総督から、言い逃れに過ぎないとはいえ調査と処分についての発言があったことを受けて、「有志連盟」は、5月18日に朝鮮総督府の警務局長三矢宮松との面談を実現させた。その面談の結果を「有志連盟」のメンバーに報告する内部報告会が、5月20日午後4時から鍾路の基督教青年会館で行われた。さらに、この場で、「国粋会不敬事件」に関する一般大衆向けの演説会を5月24日に開催することが決まった。

 ところが、この報告会は、警務局によって「人心を惑わす恐れあり」として禁止されたのである。

 

 これ以降、「京城弁護士新聞記者有志連盟」の動きは封じ込めれて、6月10日の純宗の国葬に向かっていく。6.10 独立運動が起きたことは事実だが、3.1運動のような広がりを持つには至らなかった。それでも『東亜日報』は一面トップに

いたるところで朝鮮○○万歳を高唱

の見出しを持ってきた。

1926年6月11日付東亜日報

 

 これ以降、金虎門事件は、宋学先の裁判と、死刑判決、処刑の記事しか新聞紙面には報じられなくなる。国粋会の問題は不問に付された。

 

 そして、翌年には、京城弁護士新聞記者有志連盟のメンバーも深く関わって「新幹会」が結成されるのである。

 

金虎門事件(3)宋学先と安重根
へ続く。