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「金虎門事件」の宋学先について、管轄の鍾路警察署は、事件の翌日(1926年4月29日)付で「京鍾警高秘第4769号 吊侯者殺害に関する件」と題する宋学先の供述調書を京城地方法院検事正あてに送っている。その中に、宋学先が
幼時本町絵葉書書店に於て陳列しありし伊藤公暗殺犯人安重根の写真に対し鮮人等の賞賛し居りたるを思い出し
と述べたとの一節がある。
『東亜日報』は、報道解禁後の記事で、宋学先が実際に狙ったのは朝鮮総督斎藤実だったが、佐藤虎次郎を斎藤総督と誤認して襲撃したもので、宋学先が伊藤博文を暗殺した安重根を崇拝していたと袖見出しに書いている。
また、宋学先の第1回公判を伝える『時代日報』の記事では、「平素から安重根を崇拝」と見出しを立てて、裁判長と宋学先のやりとりを伝えてる。その中で安重根に関して次のようなやりとりが書かれている。
裁判長:幼い時に、伊藤博文を殺害した安重根の写真を見たことがあるか。
被告:ある。
裁判長:安重根についてはどう考えているか。
被告:偉大な人物だと常日頃あこがれていた。
果たして、宋学先が見たという「本町絵葉書書店に於て陳列しありし伊藤公暗殺犯人安重根の写真」とはどのようなものだったのだろうか。
宋学先は、1897年2月19日に天然洞で生まれた。北阿峴洞の北側にあたる。安重根が伊藤博文を暗殺した1909年10月には満12歳、翌年2月には満13歳になった。父親の事業が失敗して一家離散状態で不遇な暮らしをしていた頃である。
本町通りは、現在の明洞の中、退渓路の一本北側を東西に走る通りで、当時の京城随一の繁華街であった。内地人にとってはショッピングや外食の賑やかな通りだったが、貧しい朝鮮人にとっては生存のための糧を求める場所であった。1926年の事件当時、宋学先は本町通の入り口に当たる朝鮮銀行前で立ちん坊をして日雇いの職探しをしていた。
この本町には、2丁目の角に日之出商行という絵葉書や額縁を専門に扱う店があった。『大京城寫眞帖』(1937)によれば、1906年の創業だから1909〜10 年には店はすでに本町にあった。
三重出版社京城支店『京城精密地図』1933
国際日本文化研究センターの「朝鮮写真絵はがきデータベース」では、日之出商行発行の絵葉書が614枚ヒットする。その中には、本町2丁目の日之出商行の自分の店舗の写真を使った絵葉書がある。物産共進会ポスターから1915年頃に撮影されたと思われる。
店頭に各種絵葉書が展示されており、通りすがりの朝鮮人が覗き込んでいる姿が写されている。
日本では、日露戦争の1905年頃に絵葉書ブームが起きていた。石井研堂『明治事物起原』には、「絵葉書の最も盛んに行はれたるは三十七八年征露の役、在外将卒慰問に之を使用したるに起り、好事者の間に絵葉書熱沸騰したり」とある。1905年9月には上野で絵葉書展覧会が開かれ、来場者は1万人以上に及んだという。こうした中で、絵葉書の制作技術の向上、販売の組織化や流通網の整備・拡充が一気に進んだ。
(向後恵里子(2010)「日本葉書会—日露戦争期における絵葉書ブームと水彩画ブームをめぐって—」『早大教育学部学術研究』第58号)
1906年に開業した京城の日之出商行も、この流行の波にのり、流通システムを利用して自社の絵葉書だけはなく、日本国内各地の絵葉書や外地・外国の絵葉書も取り扱っていた。
宋学先の言った「本町絵葉書書店」とは、この日之出商行でほぼ間違いない。
では、日之出商行の店頭に果たして安重根の絵葉書は実際にあったのであろうか。そしてそれはどのようなものだったのだろうか。
安重根の絵葉書については、沿海州の抗日運動団体が1914年に制作したものも含め数種類のものが知られている。
(尹炳奭(2010)「安重根の写真」『韓国独立運動誌研究』37)
ただ、京城本町の日之出商行が扱っていた可能性があるものは、そう多くはない。私の把握する限りで現存するのはこの2種類である。
一つは、佐賀県立名護屋城博物館が所蔵している絵葉書である(絵葉書1)。
MBC「安重根105年 終わらない戦争」より
下部にこのような日本語のキャプションが入っている。
(伊藤公暗殺者)(安重根)
2014年8月にMBCが放送した「安重根105年 終わらない戦争」の中で名護屋城博物館で取材したものが放映されている。
使われている写真は、旅順の日本領事館に身柄を引き渡されたところで撮影されたものとされている。
尹炳奭前掲論文より
この写真は、共犯者捜索などの目的で朝鮮各地の警察に配布されたとされる。
『大阪毎日新聞』1909年11月10日紙面には、下部の腰縄部分をカットしたものが「伊藤公を暗殺せる兇漢安応七事安重根」として掲載されている。
この絵葉書1についてはこれ以上の手がかりがなく、制作・販売の経緯についてはわからない。
当時出ていたもう一つの絵葉書はこれである(絵葉書2)。
この絵葉書は、韓国で個人が所有しているもので、2015年3月末から6月初旬まで、大韓民国歴史博物館で開かれた「光復70周年特別展(울림, 안중근을 만나다)」でも展示された。
この絵葉書のキャプションには日本語で、
伊藤公を暗殺せし安重根
韓人は古来より暗殺の盟約として無名指を切断するの旧慣ある右手を撮影せしものなり
と書かれている。おもて面には、
郵便はかき(右から)
Union Postale Universelle CARTE POSTALE
の記載がある。アルファベット部分は1908年に制定された国際基準に準拠しているという意味の「万国郵便連合 葉書」の表記で、この時期の絵葉書にはこの文字が印刷されている。
ここで使われている写真は、1909年11月28日の『大阪毎日新聞』に「兇漢安重根の無名指」として掲載された。
『大阪毎日新聞』紙面の画像右側にはこのような解説がある。
兇漢安重根の写真は曩に本紙に掲げしが今茲に掲ぐる写真は其筋に於て秘密に附し未だ世に発表されざるものにして左手の無名指が切断されあるを特徴とす
絵葉書2は、この写真の背景部分を消去し、「韓人は古来より暗殺の盟約として無名指を切断するの旧慣ある右手を撮影せしものなり」とのキャプションを入れて作成されたものである。
「断指」が、親や近親者の病を治すための行為として朝鮮王朝にあったことが『朝鮮王朝実録』に記されており、それが顕彰された例もある。しかし、「暗殺の盟約として」指を切る「旧慣」があった事実は確認できていない。
安重根が薬指(無名指)を切断していたことは、伊藤博文暗殺後に拘束された早い段階から新聞に報じられていた。
切断された左手の薬指については、1909年11月27日、旅順監獄での境警視の尋問に対する供述に詳しく記録されている。
十三.断指ノ目的ハ大韓国ノ独立ヲ計ル為メニシテ、独立スルマテハ、如何ナル方法手段ヲモ撰ハス敢行スル考ナリ断指シタルハ昨年十二月カ今年正月カト思フ「ハリ」金姓方前述ノ宿屋ニテ切断セリ
断指ノ当時ハ民心散乱シ又自分ヲ信スルモノナキヨリ自分ハ国家ノ為メ盡ス熱心ヲ他人ニ示シ民心ヲ収ムルタメ断指シタルモノナリ
故ニ伊藤ヲ殺スノミノ目的ニアラス渠ハ日本皇帝ヲモ欺キ政策ノ誤レルヲ社会ニ公布シ之ヲ破壊セントスルモノアリ此ノ目的ヨリ出テタル結果伊藤ヲ殺シタルナリ
『統監府文書』第7巻 (271)旅順監獄での安重根陳述內容
日本では、江戸時代から「指切りげんまん」などとあるように、改心を示すため、あるいは誓いの証しに指を落とすという行為があった。しかし、遊女や渡世人などの尋常ではない行為、特殊な集団内での行為とされていた。それ故に、「指を落とす」ことが、日本社会で強い好奇の目で見られていた。
この絵葉書2の系統と思われる絵葉書がもう一つ現存している。
それは、幸徳秋水の漢詩が書き込まれて、英文キャプションの入った絵葉書である(絵葉書3)。
この絵葉書3は、大逆事件の資料収集をしていた神崎清が、1960年代の半ばに明治学院大学図書館の沖野岩三郎文庫の巻き物の中から見つけ出した。
1910年6月1日、幸徳秋水が湯河原で逮捕された時、幸徳秋水はカバンに安重根の絵葉書を所持していたことがわかっている。大逆事件の裁判のため、被告の押収物について裁判所書記が手書きで作成した一覧リストがあった。戦後そのリストを入手した神崎清が、索引を付けて大逆事件記録刊行会『証拠物写』(1964)として刊行した。そのリストにある幸徳秋水の押収物の中に「絵葉書 安重根ノ肖像」とあり、漢詩とキャプション部分が筆写されていた。画像は省略されている。
神崎清が明治学院大学の沖野岩三郎文庫で見つけた絵葉書は、幸徳秋水が逮捕時に押収された絵葉書と同種のものと断定された。神崎清は『この暗黒裁判 革命伝説』(芳賀書店、1967年)にその写真版を掲載した。掲載された画像は非常に画質が悪いが明治学院大学所蔵のものである。
この絵葉書3の写真は、絵葉書2の写真と同じものであるが、上部に幸徳秋水の漢詩の書き込みがある。
舎生取義(生を捨て義を取り)
殺身成仁(身を殺して仁をなす)
安君一挙(安君の一挙)
天地皆振(天地みな震う)秋水題
そして、下部の日本語のキャプション部分に、以下のような内容の英文のキャプションが挿入されている。
安重根
ハルビンで伊藤公爵を暗殺した朝鮮の殉教者。写真にあるように、朝鮮の古い習慣によって切断された左手の薬指は、弑逆の誓いをあらわしている。写真の上部は、卓越した日本の無政府主義者幸徳伝次郎が書いた漢詩で、殉教者の勇敢な行動を賞賛したものである。
英文キャプションの「The cut off Ring-Finger of the left hand represents the oath of a regicide, according to the old custom of the Koreans」は、絵葉書2の日本語のキャプションを英訳したものと考えられる。
この英文を入れたのは、当時サンフランシスコにいた岡繁樹である。岡繁樹は1903年に渡米してサンフランシスコ平民社で活動していた。
1910年6月1日の幸徳秋水らの逮捕に続いて、6月5日に和歌山の新宮で大石誠之助が逮捕された。その押収物の中に、5月26日付で幸徳秋水が大石誠之助宛に送った手紙があった。その末尾に、幸徳秋水は、サンフランシスコの同志が作った「見本」を同封すると書いている。
封入の絵葉書は桑港の同志が作って見本をよこした外に、バクニンとクラボトキンのも出来ている、安重根のは日本製のは発売禁止になったから、是も直ぐやられるだろう。
大石誠之助は、オレゴン州立大学の医学部を卒業し、モントリオール大学やインドのムンバイ大学への留学経験もある英語圏に足掛かりがある同志である。そのため、サンフランシスコの岡繁樹から送られてきた英語のキャプション入りの安重根の絵葉書の「見本」を送ったものと推測される。
ところが、大石誠之助宛の書簡は押収されているのだが、幸徳秋水が書簡に同封してに送ったとする安重根の絵葉書は、大石誠之助の押収品リストには挙げられていない。
当時、新宮で大石誠之助と親しくしていた沖野岩三郎も、6月3日早朝に家宅捜索を受けている。徹底した捜索が行われ、長時間にわたって取り調べも行なわれたのだが、沖野岩三郎は逮捕を免れた。裁判にかけられることがなかったため押収品リストは存在せず、沖野の家宅捜索時にどのようなものがあったかはわからない。ひょっとしたら、安重根の絵葉書はこの時に沖野岩三郎の手許にあったのではないかと思われる。
今でこそ、幸徳秋水が安重根を称賛する漢詩を書いた絵葉書が出てきたら大変なことになる、見逃されるわけがないと思われがちだが、この絵葉書は大逆事件との関わりで問題になることはなかった。幸徳秋水が所持していて押収された絵葉書も、リストでは安重根の肖像部分は省略されているし、裁判でこれが取り上げられることもなかった。
こうした経緯を総合すると、絵葉書3については以下のような展開が考えられる。
- 幸徳秋水が絵葉書2を入手
- 幸徳秋水が絵葉書2に漢詩を書き入れる
- 漢詩入り絵葉書を、幸徳秋水がサンフランシスコの岡繁樹に送る
- 岡繁樹が英文キャプションを付けた原版を作成
- 絵葉書2が発売禁止になる
- 幸徳秋水にサンフランシスコの岡繁樹から絵葉書3の見本が到着
- 見本の1枚を大石誠之助に送り、1枚は幸徳秋水が所持
1910年2月14日に安重根に死刑判決が出たことは、翌15日朝刊で東京で報じられた。さらに安重根が控訴をせずこの死刑が確定したのは19日で、これは21日に報じられている。
舎生取義(生を捨て義を取り)
殺身成仁(身を殺して仁をなす)
という一節は、まさにこの死刑確定を知った幸徳秋水の思いであろう。であれば、その思いを込めた漢詩を絵葉書2に書き込んだのは、2月の中旬ということになる。すなわち、絵葉書2はこの時点で東京で市販されていたことになる。
もう一つ、絵葉書2が2月〜3月に東京で市販されていたことをうかがわせる事例がある。
1910年4月1日発行の『新韓自由鐘』第3号という雑誌の資料が残っている。ただし、残っているのは雑誌の実物ではなく、大韓帝国内部警務局で情報収集のために日本語訳にした『新韓自由鐘』第3号の筆写物である。この雑誌『新韓自由鐘』は、当時東京に留学していた朝鮮人学生の結社「少年会」が出していた回覧雑誌で、明治学院普通部に通っていた李光洙が1・2号の編集を担当していた。李光洙はこの年の3月に卒業しており、他のメンバーが引き継いで3号を出したと思われる。(佐藤飛文解説『明治学院歴史資料館資料集』第8集 2011年)
この第3号に安重根の姿が描かれている。
これは、上述のように韓国内部警務局で日本語訳した時に筆写したものである。回覧誌は写真を転載することはできないので、スケッチか写真が貼られていたのであろう。絵葉書が貼られていた可能性もある。東京の朝鮮人留学生が安重根のこのポーズの絵葉書を入手していたのではなかろうか。
つまり、1910年2月〜3月には、安重根の絵葉書2は市販されていたものと思われる。
東京の朝鮮人留学生たちは、絵葉書2の獄中の安重根の姿を同人誌に載せて思いを馳せた。
幸徳秋水は、市販の絵葉書2を入手して、それに自分の安重根への思いを漢詩で書き込み、それをサンフランシスコの岡繁樹宛に送った。
安重根は1910年3月26日午前10時に旅順監獄で処刑された。
当時、サンフランシスコ在住の朝鮮人向けに発刊されていた週刊新聞『新韓民報』は、1910年3月30日付紙面に安重根の追悼記事を掲載した。
この紙面は、ソウルの安重根記念館に展示されている。
そしてそこには、幸徳秋水の漢詩の入った絵葉書の写真が掲載されている。
写真には幸徳秋水の漢詩が入っているが、絵葉書3の英文キャプション部分はない。そして、「만고의사안중근공(万古の義士安重根公)」というハングルキャプションがついている。
この時、この写真をサンフランシスコで持っていたのは、岡繁樹だけである。従って、これはサンフランシスコ平民社の岡繁樹が、『新韓民報』に提供したものと思われる。
すなわち、絵葉書2に幸徳秋水が漢詩を書き込んだものは、3月末には間違いなくサンフランシスコにあったということである。
この当時、横浜からサンフランシスコまでは船で20日近くかかった。郵便物も船で運ばれるので、東京で投函したこの絵葉書2がサンフランシスコの岡繁樹に届くまでに、1ヶ月程度かかっていたと思われる。そうだとすると、2月中に幸徳秋水は絵葉書を入手し、それに漢詩を書き込んでサンフランシスコの岡繁樹あてに2月下旬には投函したということになる。
岡繁樹は、3月下旬から4月にかけて、幸徳秋水が漢詩を書き込んだ絵葉書2の複製を作りその下部に英文キャプションを入れて見本(絵葉書3)を作成した。それを4月中旬に幸徳秋水宛に発送すると、5月中旬には湯河原にいた幸徳秋水の手許に届いたはずである。
それを5月26日に和歌山新宮の大石誠之助に書簡とともに送った。
その書簡に幸徳秋水は、こう書いている。
安重根のは日本製のは発売禁止になったから、是も直ぐやられるだろう
「日本製の」安重根の絵葉書が発売禁止になったというのは、『東京朝日新聞』1910年4月29日に掲載されているこの記事に書かれたことではないかと思われる。
山口金太郎は、下広尾町で安重根の絵葉書を印刷して「盛んに売却」していたが、4月27日に発売禁止になった。言い換えれば、4月26日までは、東京市内で公然と安重根の絵葉書を買うことができたということである。
湯河原に滞在していた幸徳秋水は、多分この記事で発売禁止を知って、サンフランシスコの岡繁樹が作った絵葉書3も日本国内では出せないだろうと思い、それを大石に書き送った。日本国内よりも国外での頒布を考えて英文キャプションにしたのだろうから、発禁のショックはほとんどなかったであろうが、当局の出方や動向には常に注意を怠らなかったのである。
このような経緯を総合すると、山口金太郎が4月26日まで「盛んに売却」していたのは、絵葉書2で、幸徳秋水はそれを購入して漢詩を書き入れてサンフランシスコに送り、岡繁樹が英文キャプション入りの絵葉書3の見本を作成した。5月の下旬には、その見本は幸徳秋水の手元に2枚あった。そのような推論が成り立つのである。
2月、3月には、安重根の絵葉書2は東京では普通に市販されていたとすれば、それが絵葉書の流通網を通して京城にも送られて本町通りの日之出商行の店頭を飾っていたとしても不思議はない。
実際に、現在も韓国国内にこの絵葉書2が残されているという事実がそれを物語っている。
伊藤博文を暗殺した安重根に対して、日本政府、統監府が神経質になっていたことは事実であるが、「日本人」や「日本社会」が、総体として神経質になっていたり、安重根は「日本の敵だ」などと思っていたわけではない。
1910年3月26日に安重根が死刑に処せられると、大韓帝国で国内治安を担当する内部(内務省)は警戒を強めた。そのような中でも、京城の日本人の写真業者が、安重根の写真を売り出そうとした。
「日本」vs「韓国」などという図式で動いているわけではなかった時代の話である。ヘイトが横行する社会になってしまった今の日本社会では考えられないほど、当時はおおらかであったことを忘れてはならない。
●安重根写真発売
日本人の写真業者で安重根氏の写真を多数複写して内外国人に売り出すという。
『大韓毎日申報』は大韓帝国の新聞なので、ここでいう「内国人」は大韓帝国の韓国人のことである。
しかし、それは、大韓帝国政府の内部警務局から発売を禁じられている。当然、統監府を通した日本政府の意向が強く働いたものである。
●安重根写真発売禁止
日本人の岩田・菊田などの写真館が安重根氏の写真を複写販売するというのはすでに報道したところであるが、内部(内務省)ではこれを治安を妨害するものとして4日前に発売を禁止していたという。
岩田写真館は南大門通、菊田写真館は武橋町にあった日本人経営の老舗写真館である。岩田鼎は京城で最も古い写真館主であり、菊田真は日本人居留民会の役職をやったり朝鮮写真師同志会代表という日本人社会でもそれなりの影響力があった人物である。そうした日本人が安重根の写真販売を計画し、それを当局側が慌てて禁止するというのが当時の雰囲気だったのである。
幼時本町絵葉書書店に於て陳列しありし伊藤公暗殺犯人安重根の写真に対し鮮人等の賞賛し居りたるを思い出し
それが絵葉書3でないことは確実だが、絵葉書1なのか絵葉書2なのか、あるいはそれ以外の絵葉書だったのか、断定することはできない。しかし、ここで絵葉書2について、絵葉書3の作成過程を検証してみてきたように、安重根の絵葉書は、秘密裏に制作されたり、こっそりと売られていたものではなく、市中で普通に流通していたのである。
それを幸徳秋水は買って漢詩を書き込み、東京の朝鮮人留学生はそれを買って同人誌に掲載した。そして、それは京城でも流通していたとも考えられる。
本町2丁目の日之出商行の店頭に安重根の絵葉書が飾られていて、通りがかった朝鮮の人々が安重根の写真を見ながら口々に安重根を褒め称えていた。それは、1910年2月から3月の頃であろう。
宋学先少年はその称賛を聴きながら安重根の獄中で撮られた写真を見つめていたのである。
追記:2021年2月16日
佐賀県立名護屋城博物館所蔵の絵葉書1について、その後、葉書のおもて面に「京城岩田写真館製版部印刷」とあることを確認した。

これによって、絵葉書1は、南大門通にあった岩田写真館が作成したものであることが判明した。これが3月末に発売禁止となったものであろう。ただ、『大韓毎日申報』がこの情報を得た段階ではすでに絵葉書が完成し、すでに売り出されていた可能性も十分にある。





















