◆銀馬アパート
この映画の舞台は、大峙洞という設定。撮影も実際に大峙洞にある銀馬アパートで行われた。外側に廊下がついている古いタイプの高層マンション、14階建ての建物である。
1978年の8月に最初の分譲が行われているので、築40年を越える。同時期に建てられたマンションの多くは建て替えが進んでいて、外廊下のあるものはあまり残っていない。
住居は27.5坪なので、リビング・キッチンに部屋が3つ。一番大きい部屋を両親が使い、中間の部屋を兄デフンが使い、一番狭い部屋を姉スヒと妹ウニが使っている。
この銀馬アパートから一ブロック南に行くと良才川があり、それを渡ったところに2010年までソウル日本人学校があった。現在の日本人学校は、麻浦区上岩洞のデジタルメディアシティにある。
この日本人学校があった敷地の南側に隣接して京畿女子高校がある。京畿女子高校は、植民地時代に京畿公立女子高等普通学校として斎洞(現在の憲法裁判所の場所)に校舎があった。高等普通学校というのは、朝鮮人の中等教育機関に与えられた名称である。1945年の日本の敗戦で日本人が引揚げた後、貞洞の旧第一高等女学校の校舎に学校を移した。そして、1988年に、現在の開浦洞に移転した。
ウニの姉のスヒは、すぐ近くにあるソウルで一番の女子校京畿女高には行けずに、バスで聖水大橋を渡って漢江の北側の女子高校に通学しているという設定である。
◆漢文塾
日本語の世界では、漢字教育とは文字を教えることであり、漢文というのは国語の一部として漢字とは別に学ぶ科目である。しかし、韓国では漢字を学ぶということ自体が漢文という言語を学ぶものということになる。
日本語では、漢字は文字の一種とされるので、かなと漢字を混在させることが古くから行われてきた。しかし、朝鮮の王朝時代にはハングルと漢字を混ぜて使うことはしなかった。ハングル文はハングルだけで、漢文は漢字だけで書かれた。植民地支配下で、ハングルと漢字を混在させることが行われ、解放後もそれが引き継がれた。しかし一方で、ハングル漢字混用をやめるべし、韓国語はハングルだけで書くべきだとするハングル専用の主張が強まった。1950年代後半からハングル専用の方向へ進んでいった。
1975年には中高の教科書で漢字の併記などが復活したが、漢字離れは急速に進み、漢字は読めても書けない、ハングルだけの方が読み書きが楽という世代が育ってきた。
ワープロやパソコン、スマホなどでは漢字変換はしないのが普通。それで不便はないので漢字を混ぜて使おうなどとは誰も言い出さない。
それでも日常生活では漢字が必要になる。また、大学で国文学や韓国史・東洋史などをやる場合は、どうしても漢字が必要になる。そのような場合には、別の語学として漢文を学んできた。それも学校教育の場ではなく、主として学院(塾)に通って学んだ。
これは1980年代後半の新聞広告。このように、漢文は、英語や日本語、中国語とならんで宣伝されている。漢字を文字として教えるのではなく、漢文を言語として教えるのである。
ヨンジ先生が黒板に書いていたのは、『明心寶鑑』の「交友篇』の一節である。『明心寶鑑』は高麗の民部尙書・芸文館大提学秋適が、1305年に中国の古典などから金言名句を集めて編纂した書物である。
黒板にはこう書かれている。
交友篇 相識滿天下 知心能幾人
日本語の世界でこれを読むと、返点をつけて、
相識滿二天下一 知レ心能幾人
相識るは天下に満つるも、心を知るはよく幾人ならん
と読む。つまり読むときから古典の日本語として読むのである。
韓国ではこれを
相識滿天下 知心能幾人
상식만천하 지심능기인
サンシンマンチョンハ ジシムヌンギイン
と読む。返点などはない。ひたすら頭から韓国語漢字音で読む。
意味は「知り合いは世間にたくさんいるが、ほんとうに分かり合えている人は何人いるだろうか」となるのだが、そのように読もうとはしない。あくまでも「サンシンマンチョンハ ジシムヌンギイン」と読むのである。
韓国語の普通の会話でも出てくる「사이비」「어차피」「좌우지간」「우선」などという単語は、この漢文の読みから取り入れられてもの。それぞれ、「似而非」「於此彼」「左右之間」「于先」といった漢文の読みからきている。
ヨンジ先生は、ソウル大学の学生で休学中という設定だが、彼女も学校教育では漢字を学習していない。多分漢文塾に行ったのだろう。ハングルの書体に比べて、チョークで板書された漢字がぎこちない。ヨンジ先生役のキムセビョックが書いたのだろうが、流暢に漢字を板書されるよりはこの方が違和感がなくてよかったと思う。
◆「切れた指」
万引き事件で関係がギクシャクしたしまったウニとジスクの二人を前にしてヨンジ先生は歌を歌う。
잘린 손가락
잘린 손가락 바라보면서 소주 한잔 마시는 밤
덜걱덜걱 기계소리 귓가에 남아 하늘 바라 보았네
잘린 손가락 묻고 오는 밤
시린 눈물 흘리던 밤
피묻은 작업복에 지나간 내청춘 이리도 서럽구나
하루하루 지쳐진 내몸
쓴 소주에 달래며 고향두고 떠나오던 날
어머님 생각하며 술에 취해
터벅 손묻은 산을 헤매어 다녔다오
터벅터벅 찬소주에 취해 헤매고 다녔다오
切れた指
切れた指を見つめながら焼酎一杯飲む夜
がたがた機械の音が耳元に残って空を眺めた
切れた指を埋めてくる夜
冷めた涙を流した夜
血のついた作業服に過ぎ去った私の青春、こんなにも悲しい
一日一日、疲れ果てた私の体
苦い焼酎でなぐさめ、故郷を捨ててきた日
母さんのことを思って酒に酔い
とぼとぼと指を埋めた山をさまよった
とぼとぼと冷たい焼酎に酔ってさまよった
「切れた指(잘린 손가락」。シンガーソングライターのキムスチョルが1988年に出した曲で、現場の事故で指を切断した労働者を歌ったもの。
1988年というと、1987年の民主化闘争で盧泰愚の「民主化宣言」を引き出した後、「運動圏」の学生たちがキャンパスや街頭から、労働争議の場や劣悪な労働環境の場へと活動の中心を移していった時期である。
ヨンジ先生は、「だいぶ長く休学していたから…」と言っている。ひょっとすると彼女は88学番とか89学番、つまりソウル大の入学はこの曲が歌われていた頃だったということかもしれない。
◆聖水大橋崩落事故
1994年10月21日午前7時38分頃に聖水大橋の約50mの橋梁が崩落した。聖水大橋は、1977年4月に着工、1979年10月16日に完成したもので、完成からたった15年しか経たずに橋が落ちるという衝撃は大きかった。朴正煕大統領時代の開発独裁による経済成長戦略のほころびが露呈したとも言われ、それは、不幸にも翌年の三豊百貨店の倒壊事故でも再確認されることにもなった。
聖水大橋の崩落した橋梁部分を走行中のワゴン車1台と乗用車2台が落下し、江南方向から走ってきて崩落部分に差し掛かった16番市内バスが前方に一回転して逆さまになって落下した。裏返しで落ちたため車体が自重で押し潰され、バスでの犠牲者が29人と多数にのぼった。
この16番バスは、ソウル大公園—舎堂駅—高速バスターミナル—新沙駅—狎鴎亭駅—聖水大橋—鷹峰洞—馬場洞—新踏駅—長安市場—徽慶女子中高—長位洞—樊洞という路線で走っていた。
聖水大橋を渡った先の鷹峰洞を過ぎたところに舞鶴女子高校があり、江南から通学していたこの舞鶴女高の生徒9人が死亡した。
この時に墜落したバスは、事故の3年前に偶然撮影された写真が残っている。1991年に『世界日報』が撮影したもので、増水した中浪川の横の道を水しぶきを揚げて走る16番の市内バスの姿が写っている。
ウニは、姉のスヒが乗っているはずのバスだと電話をするのだが、スヒは舞鶴女高に通っている設定なのだろうか。スニは遅刻して乗り合わせなかったのだが…。