1933年9月、翌週には秋夕を迎えるという9月26日の夜11時頃。漢江にかかる人道橋から一人の女性が投身自殺した。人道橋は、1917年に今の漢江大橋がかかっているところに架けられた橋で、京城観光の名所になったが、橋からの投身自殺の多いことでも有名だった。
9月27日の夕刊各紙は、漢江に身を投げたこの女性がカフェ・エンゼルの「女給」金峰子、本名金甲順だと伝えた。
『京城日報』1933年9月27日夕刊
『毎日申報』1933年9月27日夕刊
『朝鮮日報』1933年9月27日夕刊
植民地時代の京城の鍾路。ソウルとなってからも20数年前まではパゴダ公園と呼ばれ、今はタプコル公園と呼ばれている公園がある。ここは高麗時代の円覚寺址で、当時の十層石塔が残っている。1930年代には、パゴダ公園の西側に京城府立図書館の鍾路分室があり、その南側、鍾路に面したところにカフェ・エンゼルがあった。
三重出版京城支店『京城精密地図』(1933)
1937年に刊行された『大京城寫眞帖』には、エンゼルの写真と下の説明文が掲載されている。
エンゼルは、1926年の開業となっている。
日本内地で、カフェが女給の接待を伴うサービスを売り物にする業態になっていくのは、関東大震災の後から。1920年代半ばに大阪の赤玉カフェが京城に出店し、これ以降、京城でもこの手のカフェが増えていったという。
エンゼルの経営者は石井米松。しかし、実際は富豪両班の閔泳徽の長男で東一銀行頭取として経済界で名を馳せた閔大植の「日本人のお妾さん」が運営していたと当時の朝鮮語の雑誌『別乾坤』が暴露している。
「엔젤」카페는 물건너 친구의 영업이라더니 실상 알고보면 민보국 대감의 아들- 현재 동일은행 두취 민대식(閔大植)씨의 일본 마마가 하는 것이다. 말하자면 민대감댁 양반 며누리가 카페업을 하는 셈이다.
エンゼルは、あっちの人が営業していることになっているが、実際は閔輔國(泳徽)の息子、現在の東一銀行頭取閔大植の日本人妾がやっている。いわば閔大監の両班の家の嫁がカフェをやっているようなもんだ。
(『別乾坤』1932年11月号 萬華鏡)
女給やボーイは朝鮮人で客も朝鮮人が多かったが、日本人の新村一雄が支配人をやっていた。
このエンゼルの金峰子の自殺については、『東亜日報』も9月27日の夕刊で伝えている。しかし、他紙が若い男性医師の存在をほのめかして男女間の恋愛に絡む自殺と報じたのに対し、『東亜日報』だけは、峰子を名乗る金甲順が共産党の秘密連絡員で、上海の活動家との連絡が発覚しそうになったために自殺したという記事を書いた。
『東亜日報』1933年9月27日夕刊
さらに、翌日の朝刊でも、『東亜日報』は紙面の1/3を使って金峰子秘密連絡員説の続報を大々的に掲載した。
『東亜日報』1933年9月28日朝刊
この日、日本語の『朝鮮新聞』も「大きな謎に包まれ 秋風に散る美女 カフェエンゼルの女給」という記事を掲載し、金峰子の売れっ子ぶりや才能を紹介しながら医者のパトロンがいたことを紹介した。ただ、後段に、「某容疑もかけられてゐた これらが一原因?」という記事を挿入してある。「某容疑」の「某」とは、共産主義に関わることを匂わす常套句である。『東亜日報』の連絡員説を意識したものであろう。
『朝鮮新聞』1933年9月28日
ところが、翌28日、金峰子と親しかった男性と報じられていた盧炳雲が行方不明になった。この事実が報じられると、この事件は、「実らぬ恋」の果てに自殺した峰子と、その後を追った京城帝大医学部卒のエリート医師炳雲の悲恋ロマンスとして世間の耳目を集めることになった。
『朝鮮中央日報』1933年9月29日
『東亜日報』の記事からも、金峰子の某組織連絡員説は影を潜めた。特段の訂正記事もないまま、『東亜日報』の記事も、28日の夕刊からは、盧炳雲の後追い自殺と彼が残した遺書のことなどに触れる内容に一変した。扱いもやや遠慮がちに。
一方、『朝鮮日報』と『毎日申報』は、それぞれに金峰子と盧炳雲との書簡や、残された遺書を入手し、盧炳雲が京城で結婚していた女性や娘の写真やインタビューなどを紙面に大々的に掲載した。また、内地人向けの日本語の新聞『京城日報』と『朝鮮新聞』でも大きく取り上げられた。
盧炳雲は、咸鏡南道の北清の出身で、19歳で京城の養正高等普通学校に入学した。高等普通学校は朝鮮人の中等教育を行う教育機関で、内地人子弟が通った京城中学や龍山中学に相当する学校である。盧炳雲は、京城に出てくる前、早婚の風習によって故郷の北清ですでに結婚していたが、京城には単身で出てきて養正高普に通った。この当時は、「高等普通学校の生徒の5分の3は既婚者」だったともいわれる。
養正高普は、今のソウル駅の西側、阿峴洞へ越えていく道の右側、現在の孫基禎体育センターの場所にあった。今も当時の校舎が2棟残っている。ベルリンオリンピックのマラソン金メダルの孫基禎と銅メダルの南昇龍は、スカウトされてこの養正高普で学んだ。この学校はスポーツ有力校というだけでなく、有数の進学校でもあった。優等生は京城帝国大学に進学した。盧炳雲もそうしたエリート学生の一人で、1927年の成績優秀朝鮮人学生として『中外日報』で写真入りで紹介されている。
この年、盧炳雲は京城帝大予科に入り、1929年に京城帝大医学部に入学している。そして1933年の3月に卒業して内科の篠崎哲四郞教室の助手となった。
この時の医学部入学73名中24名が朝鮮人。朝鮮人学生は内地人よりはるかに狭き門をくぐらねばならなかった。京城帝国大学が設立された1924年度には、朝鮮に居住する日本人子弟の在学生は人口1万人当たり19.1人。これに対して朝鮮人の在学生は0.6人に過ぎなかった。朝鮮人の場合、京城帝大に入れるのは日本人学生の1/32であった。京城帝大に入れた朝鮮人学生は超エリートであり、出世競争の勝者ともみなされた。
その勝者の盧炳雲が、カフェの女給金峰子の後追い自殺をしたのである。各紙の記者は取材に走った。
1933年9月29日の『毎日申報』は、盧炳雲が自殺した後、彼が京城で一緒に暮らしていた女性に取材して、盧炳雲とその周辺についての詳しい記事を掲載している。
日本語紙の『朝鮮新聞』も盧炳雲の京城の妻に取材している。
盧炳雲は、上述のように故郷北青に本妻がいたが、京城で9年前に知り合った朴という女性と4年前に結婚した。重婚状態になったのか事実婚(同棲)だったのかは不明である。この女性との間に3歳の長女喜婉と1歳の次女英傑がいた。『毎日申報』誌面の右の写真は朴夫人と次女であろう。9年前といえば、盧炳雲が北青から京城に出てきて養正高普に入った年。この頃に知り合って京城帝大医学部に入った時点で婚姻関係になったということになる。昌信洞に住んでいて、その後青葉町3丁目14番地に引っ越したという。同じ青葉町内の64番地に朴夫人の実家があり、事件後そこに身を寄せていたという。ひょっとしたら、盧炳雲は朴夫人の実家に寄留して養正高普に通っていたのかもしれない。学生結婚で子供もいたとなると、妻の実家からはかなりの援助を受けていたとも考えられる。
上掲の『毎日申報』紙面左の図版の上部には、妻に宛てた遺書の写真が掲載されている。『毎日申報』は朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙だったこともあり、日本語の総督府機関紙『京城日報』もこの取材結果を共有して記事にしている。
妻朴氏宛て遺書
인제도속이릿가 永遠히돌아오지못할客이된다
가장사랑하는喜婉이를人生다운사람이되게만드시요
最後를付託함니다 이제는 당신께더드릴말슴이업습니다
『京城日報』の日本語表記
今はおん身を欺ることは到底出来ない思ひ悩んで永遠に不帰の客となる。
僕の最愛する長女喜婉には再びかゝる悩みの下に生かす事なく、平和な人生に育て上げてくれ
(「最後を頼む。これ以上あなたに伝える言葉がない」の部分は『京城日報』では省略されている)
長女喜婉へ
희완아잘잇거라 네아비 나는 罪갑으로 永遠히간다
『京城日報』の日本語表記
喜婉よ健に伸びてくれ、父は罪のため永遠の道をゆく
遺書は、これ以外にもう1通あり、それはエンゼルの日本人支配人新村一雄あてに郵送された。この内容は『東亜日報』が「金峯子慰霊文」として報じている。
…전…당신은 왜죽엇나이까? 나만을두고 죽는다면 왜! 혼자 죽엇나이까? 나를두고. 나도 당신의 뒤를 따라가렵니다. 깨끗하게 죽는 방법이 얼마든지잇으나 당신이 이미한강을 택하엿으니 나도 당신이 죽은 한강을 취하려 합니다. 곱게 잠든 당신의 깨끗한 영은 아직 세상에 남어잇는 나를 원망치말고 나를 기다려 주소서…….
あなたはなぜ死んだのですか? 私を置いて死んだのは何故!一人で死んだのですか? 私を置いて。私もあなたの後を追います。きれいに死ぬ方法はたくさんあるけれど、あなたが漢江を選んだのだから、私もあなたが死んだ漢江にしようと思います。 安らかに眠ったあなたの清き霊は、まだこの世に残る私を恨むことなく待っていてください…….
『東亜日報』1933年9月28日夕刊
『東亜日報』は、カフェ・エンゼルを取材していて、支配人新村一雄宛に郵送された盧炳雲の遺書を入手し、『東亜日報』のトクダネになった。峰子秘密連絡員説の裏取り取材をしていたのかもしれない。しかし、この遺書が出てきたことで連絡員説はこれ以上無理と判断したのではなかろうか。
一方、『朝鮮日報』は、金甲順の遺家族である母親をターゲットに取材している。金甲順の生い立ちや盧炳雲が金峰子に送ったラブレターなどを入手し、これを紹介しながら金峰子と盧炳雲の恋と死に焦点を当てた記事を掲載した。
こちらは『毎日申報』とは対照的に、盧炳雲の妻が金峰子を侮辱し、説諭願を受けた警察が女給だというので干渉してきたと、金峰子にきわめて同情的な記事を書いている。
信じた愛人には妻子があり その愛人の妻は侮辱まで
さらに警察は女給だからと干渉
『朝鮮日報』1933年9月28日朝刊
さらに、9月29日の夕刊と30日の朝刊で、かなりの紙面をさいてこの事件を取り上げ、「金峰子と盧炳雲の悲恋哀話」という連載記事を掲載して、金甲順の生い立ちから、盧炳雲との出会い、そして自殺に至る過程を「峰子の側の視点」から描いている。
金甲順は、1904年に忠清北道沃川郡郡西面銀杏里で生まれた。8歳で父親が亡くなったが、なんとか普通学校だけは卒業できた。17歳の時に40歳台の男に嫁いで娘が生まれたが、2年で離婚し実家に戻り、母親の面倒を見ながら娘を育てることになった。しかし、田舎では生計を立てることが難しく、老母と娘を連れて京城に出た。最初は見習い看護婦として働いたが、収入が少なく、スターというカフェの女給となった。その後、カフェ太平洋に移った。
初めて太平洋カフェで酒瓶の栓を抜いた甲順は、華やかな空気、妖気あふれる光、ホールをつんざくような女給たちの作り笑いの声、このすべてが嫌だった。ある時、自分の周りを取り巻くすべてのものをみながら、茫然と立ち尽くす自分を発見した時、地獄を見下ろしているかのようにも感じた。しかし、その度に背中をつっついてくるのは、無邪気な同僚の女給たちだった。「ミネちゃん!なんでそんなにボーッとしてるの? こっちでウイスキーでも一杯やんなさいよ。すっきりするわよ」 ちゃらんぽらんで賑やかな女給たちは、その瞬間を愉快にやり過ごすしかなかった。
『朝鮮日報』1933年9月30日
こうして、金甲順は2月にはエンゼルの女給となった。
『朝鮮新聞』には、自殺の翌日にエンゼルの同僚にインタービューした記事がある。
金甲順が、母親と娘の住居として選んだのは堅志洞44番地、現在の鍾閣から安国洞交差点に向かう道の左側、曹渓寺があるあたりである。
この家には、盧炳雲が金甲順に送った手紙などが残されていた。それを『朝鮮日報』が入手して9月30日付の「金峰子と盧炳雲の悲恋哀話」の2回目で紹介している。
この記事には、盧炳雲が残した「愛の方程式」の写真が掲載されている。
Rは盧炳雲のイニシャル、Kは金峰子、すなわち金甲順のイニシャル。RとKとをプラスするとL、RKからKがなくなると「死(Death)」でD。Lは、Loveとも考えられるし、Deathに対して生の意味でLiveとも解釈できる。
そして、この2番目の方程式が現実のものとなった。
この『朝鮮日報』の連載の最後には、盧炳雲が送ったと思われる文章が転載されている。
文末に「原文日本文」とある。盧炳雲は京城帝大の学生だったので日本語は相当できたであろうが、金甲順は地方の普通学校卒である。どの程度日本語ができたのであろうか。どのような「日本文」だったのか気になるが、『京城日報』や『朝鮮新聞』は入手できなかったのであろう。日本語の原文は出てこない。
〈参考訳〉
澄みわたる秋風は軽くRとKの胸をかすめて
Kの胸は静かに波打つ。
Rよ!Kは今日のように
楽しいというより神々しく美しい感じは
恐らく初めてだろう。
澄みわたる夕暮れの如く
Rよ!永久に、そして美しく
あなたは私を愛するだろう。
美しく心通じる今日のこの戯れよ!
永遠に私たちから離れないでおくれ…….
盧炳雲の京城の妻朴夫人に取材した『毎日申報』や『朝鮮新聞』の記事によれば、盧炳雲が峰子と最初に出会ったのは前年11月だという。金峰子がエンゼルに移ったのはこの年の2月なので、盧炳雲と金峰子の出会いはカフェスターかカフェ太平洋だったことになる。
その後、朴夫人は何度か金峰子と直接会って別れるように言っていた。しかし、別れる気配はなく、盧炳雲は勤務先の大学も辞めてしまった。思い悩んだ朴夫人は、9月中旬になって、鍾路警察署に金峰子に対する「説諭願」を出した。
「説諭願」というのは、契約や婚姻などの私的な関係に警察が介入し、解決困難なもめ事を警察の権威で「説諭」して収拾するものであった。必ずしも願出人の願うように収まるとは限らないが、警察が民事に積極的に介入することで国家権力が人々の生活をコントロールする仕掛けであった。
朴夫人の「説諭願」を受理した鍾路警察署では、9月26日午後3時30分頃に高等係の警察官2人が金甲順の住居を訪ね、盧炳雲からの手紙など24通を押収した。令状もなしに警察が民事に介入する時代だった。そして、翌日の午前8時に鍾路署に金甲順本人が出頭するよう命じて立ち去った。1時間ほどして帰宅した金甲順は、その状況を母親から伝え聞いた。夕方5時ごろ、エンゼルの同僚2人と一緒にカフェに出勤し、客と痛飲したのち、夜10時半すぎに店を出てその客たちと車で漢江まで行き、そこで投身自殺した。
この「説諭願」で警察が動いたことについて、『朝鮮日報』は「警察은女給이라고干渉(警察は女給だからと干渉)」と、警察と朴夫人のやり方とを批判的に報じている。
一方、『東亜日報』は、この「説諭願」に基づく鍾路署による金甲順の住居への捜索を思想犯にからむ家宅捜索と誤解したのであろう。ちょうどこの時期に、間島(現在の延辺朝鮮族自治州)での共産党主導の抗争事件の公判が開かれ、また朝鮮共産党再建事件の公判が開かれていた。そこに社会的な関心が集中していたし、新聞では、まだ潜伏中の活動家への捜索が行われていると報じていた。『東亜日報』も紙面の多くを使って「共産党の事件」を報じていた。そうした中で、鍾路署が動いた翌日に当事者が投身自殺した。そうしたことが『東亜日報』の誤報につながったのであろうが、かなり初歩的なミスである。
共産党の事件・公判を報じる『東亜日報』1933年9月26日朝刊紙面
この日の午後に鍾路署の警察官が金甲順の家を訪れ、夜に金甲順が漢江で投身自殺をした
朝鮮総督府の朝鮮語機関紙『毎日申報』は、わざわざ『東亜日報』の誤報を引用して、それをキッパリと否定している。
세상에서는 구구한 추즉이만어 공산당원으로 그비밀이 탈노될가바 그 후환을 두려워 죽엇다는 말까지 잇게 되엇스나…
世上にはいろいろな推測が多く、共産党員でその秘密が漏れることを心配して死んだというような話まで出ていたが…
『毎日申報』1933年9月29日
こうして、この事件は、「実らぬ恋」の果てに自殺した女給峰子と、その後を追った青年医師炳雲の悲恋ロマンスとして世間の耳目を集めることになった。有名カフェエンゼルの女給投身自殺と、京城帝大医学部卒エリート医師の後追い自殺という話題性に加えて、各新聞の取材合戦もあって、様々な角度から報じられ—誤報も含め—、スキャンダルとして人々の関心を引くことになった。
この事件が起きて1ヶ月後の11月1日発売の日本語の雑誌『朝鮮及満洲』11月号(第312号)には、「悲恋物語 河畔の追慕心中」という記事が掲載された。筆者は山寺譲二。上述の記事などをもとにドキュメンタリータッチで書かれてはいるが、事実関係において不正確なところもあり、創作された部分が多い。
翌年1月、コロンビアレコードから「峰子의 노래」が発売された。続いて、翌月には「炳雲의 노래」が発売された。歌っているのはどちらも蔡奎燁(長谷川一郎)である。
영겁에 흘으는 한강의 푸른물
봉자야 네뒤 따라 내 여게 왓노라
오 님이어 그대여 나의 천사여
나 홀로 남게 두고 어데로 갓나
永劫に流れる漢江の青い水
峰子よ、君のあとを追ってここまできた
きみは僕の天使
私一人を残してどこへ行くのか
수면에 날아드는 물새도 쌍쌍
아름다운 한양의 가을을 읊건만
애끗는 하소연 어데다사뢰리
나의천사 봉자야 어데로갓노
水面に飛びかう水鳥も対をなす
美しい漢陽の秋を詠むが
切ないこの思い、どこに訴えようか
私の天使峰子よ、どこへいった
그대를위하야서 피까지주엇거든
피보다도더붉은 우리의사랑
한강깁흔물속에 님뒤를따르니
천만년영원히 그품에 안어주
きみのために血まで捧げたが
血よりももっと赤い私たちの愛
漢江の深い水の中に君の後を追う
千万年永遠にその胸に抱いておくれ
このレコードの発売以降は、この事件は忘れられて行った。
盧炳雲の残された娘、喜婉と英傑はその後どうなったのだろうか。また、金甲順の老母と娘のその後も気になるところだが、知る手がかりは皆無である。





















