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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 私の手元に『長興会誌 耽津江畔』という冊子がある。長興会事務局編集、1979年に刊行されている。

 戦前「外地」に住んでいて、日本の敗戦で引揚げてきた人々が、学校の同窓生や居住地を同じくした人々のつながりで、「〜会」というのが作られていた。朝鮮居住者の場合、戦後比較的早くできた組織もあったようだが、表立った活動が始まるのは1965年の日韓国交正常化以降ではないだろうか。

 70年代から80年代にかけて名簿の整理や、思い出や近況報告、韓国訪問記などを集めた会誌の出版が盛んに行われ、この『耽津江畔』もそうしたものの一つである。その後90年代以降になると、多くの会が、会員の高齢化などで解散したり活動を停止したりした。

 全羅南道チョルラナムド長興チャンフン郡。その中心の長興邑の街中には耽津江タムジンガンが流れている。東は宝城ポソン郡、西は康津カンジン郡、北は和順ファスン郡、南は多島海に面している。まっすぐ海を渡ると済州チェジュ島の城山ソンサンに至る。

 公共交通機関で行くには今でも不便な田舎町なのだが、ここには裁判所の支所が置かれており、この地方一帯の司法の中心地である。

 1909年11月、大韓帝国の司法権が日本に侵奪され、11月1日付で統監府裁判所に司法権が移譲された。統監府は光州に地方裁判所を設置し、長興に光州裁判所の支所を設置した。韓国併合後、それが朝鮮総督府に引き継がれた。

長興支院・支庁100周年推進委員会『長興支院・支庁100周年』2009


 こうした地方にも内地人は早くから移住しており、1921年刊行の『朝鮮総督府統計年報 大正9年』によると、長興とその近隣の郡の内地人は以下の通りである。

  戸数   男   女   計 朝鮮人人口
宝城郡 100 429 319 748    83,310
和順郡   87 141 112 253    92,246
長興郡 218 372 320 592    71,939
康津郡 182 382 324 706    60,604

 長興は、裁判所関係の法曹関係者が多く、それに林業関係者、農業従事者などである。

 私の母方の祖父は、木曽山林学校を卒業したのち統監府時代に朝鮮にわたり、林業関係の仕事をしていた。韓国併合後は朝鮮総督府の木浦の林業事務所で勤務した。1916年に、この全羅道林業事務所が長興に移転することになったため、祖父母の一家は長興に引っ越した。1918年、山林に投資して山林所有権獲得を目論む山林事業を長興でやろうとしていた朝鮮農林会社に転職してこの地で植林業務にたずさわった。1928年に朝鮮農林会社の取締役となり京城に転居した。この間に、私の母が長興の南洞里127番地で生まれている。

 そうした関係もあって、これまで何度か長興を訪問して、証言や資料を集めてきている。そうした中で長興会のことを知ったのだが、長興会もすでに活動を停止していた。結局、事務局の関係資料を私のところで預かることになった。その中に、この『長興会誌 耽津江畔』もあった。

 

 1941年刊行の『朝鮮総督府統計年報 昭和14年』では、長興の人口はこのように記録されている。

  戸数   男   女   計 朝鮮人人口
宝城郡 349 708 702 1,410  102,472
和順郡 145 255 235    490  101,327
長興郡 271 530 549 1,079    90,077
康津郡 252 520 544 1,064    77,477

 多分、1945年の敗戦時もほぼ1000人程度の内地人が居住していたと思われる。そして、それらの人々は、釜山経由で内地に引揚げるという通常のルートではなく、ヤミ船を借り上げてその船で内地に引き揚げようとしたのである。700〜800人が5隻の船に分乗して順次水門浦から日本を目指したが、無事に九州に上陸できたのは、そのうち3隻だけであった。

 9月26日に120名を乗せて出港した第1船は途中で消息を断ち、全員行方不明になった。しかし、第2船と第3船は無事に到着し、10月27日に最終の第4船と第5船が出港した。第4船は四国出身者を中心とし、第5船は四国以外への引揚者が乗った。第4船が遅れ始めたため、第5船は先行して11月1日に朝鮮海峡を横断するこにとした。暗くなって対馬に接近したが、対馬には立ち寄らずそのまま九州に向けて航行を続けた。そして深夜2時半頃、船尾部分が機雷に接触して大破、船は玄界灘を漂流した。

 12時間後、たまたま通りかかった朝鮮の船が救助に駆けつけて生存者を収容したが、結局、第5船に乗船していた178名中、生きて下関に上陸できたのは19名のみであった。

 すなわち、長興在住内地人のうちそのほぼ3割に当たる280名がヤミ船の引揚げで亡くなったのである。

 

 その詳細な記録が『長興会誌 耽津江畔』に2編掲載されている。ここに再掲して、玄界灘に沈んだ全ての人々の冥福を祈る。

 


この一編を長興引揚げ遭難者の霊に捧ぐ
玄界灘の十二時間

 

北九州市 下川 智

 

 長興引揚者は約八百名から九百名位かと思いますが、之が五隻のヤミ船に分乗して出発しました。そしてそのうち三隻は無事帰国いたしましたが、一隻は私共の乗っておりました生存者僅か十九名の難破船です。又、残りの一隻は遂に一名の生存者もありませんでした。このようにして長興出身者の約三分の一が引揚げの時に亡くなるという悲しい結末に終りました。
 さて、トラックの荷物の上に乗って長興を出発し水門浦近くの小さな港からヤミ船で出発しまことしたことは皆様ご承知の通りであります。長興を発つまでに、あるいは船に乗るまでに、いろいろの出来ごとがありましたが、ここでは省略いたします。
 私共一七八名を乗せたヤミ船は昭和二〇年十一月一日の夜中に対馬に到着。このまゝ直ちに出発するか或はここで一夜を明かしして翌朝明るくなってから出発するかで船内で話し合いが行なわれました。その結果、一日も早く帰国したい人が多く直ちに出発することになった訳であります。後から考えたことですが浮遊機雷のウヨウヨしている玄界灘をヤミ夜に通過することは危険と言うよりは無謀なことでした。
 その日の真夜中、すなわち十一月二日午前二時頃、突如船尾に鈍い音がしました。心配していた浮遊機雷に触れたのです。船尾付近の者は勿論即死したと思われます。家族と別行動で只一人乗っておられた郵便局長の小川芳夫さんがこの付近に居られたようです。
 機雷に当たった場合、鉄船ならばすぐ沈むのですが木造船のため沈まないで済みましたが、然し船内はみるみるうちに海水に浸されはじめました。木造船のためふだんでも船の底に水がたまるため若い者が交代でポンプで水をくみあげる当番をしていましたがちょうどその時私は当番で甲板の上で勤務しておりました。
 まもなく狭い昇降口から次々に人々が甲板に上ってきました。昇降口は前と後に一ヶ所づつありましたがウシロのほうは機雷に当たって使えず前のほうの一ヶ所だけだったと思います。大勢の人がまっ暗やみの中を只一つしかない狭い昇降階段を上るのは大変なことです。その内に私の母と兄の姿が見えたので私から声をかけましたが混雑のためすぐ見失いました。何時間かの後におそらく母が海に落ち、これを助けようとして兄も一緒に波にさらわれたと思います。甲板に上ることが出来ないので約三分の一、六〇名位の方達は船内で溺死したと思われます。
 何とかして甲板にたどり着いた人たちも暗夜の激浪に次々に飲まれていったようです。漸く夜のあけそめた頃、そこは荒浪狂う玄界灘の真只中、絵に見るような文字通りの難破船の姿です。水面上に僅かに残る場所には幾時間が前まで祖国に帰れる喜びを語り合っていた人々が必死にしがみついておりました。そしてそこには、この世の生き地獄が展開されているのです。
気が狂って両腕に子供を抱いたまゝ立って笑い続けている男は郵便局の宇津木さん。
足を材木か何かにはさまれて首だけは海面上に出してはいるが動くことが出来ず、うめきながら海水をかぶり続けているのは皆川さんのお父さん。
 ぬれた髪をウシロに長くたらして波にさらわれまいと必死にロープにつかまっている人。これは中川邑長さんのおくさん。これを見ながらそばにも行けず大声で励まし続けるのは当時十九歳位の中川さんの息子さん。
 私の妹、時子たち数人が近くでうづくまっていました。あとで考えたのですが立っていた方が波もかぶらず疲れも少なくてすむのですが、その時はそこまで考え及ばず、「頑張るんだよ」とだけしか言えなかったことを残念に思っております。或は立っている気力もなかったのかもしれません。
 私や三森さんたち数人は立ったまゝロープにつかまって時に肩や背中を叩きあって寒さを防いでおりました。
 このような悲惨な光景をくりひろげながら難破船は定期航路から遠く離れたところにいるらしく船影一つ見当たりません。夜が明けてからも必死にしがみつく人々を強引にむしり取ってゆく大波、力尽きて船から落ちてゆく人々。そのうちに島が見え始めました。実際には相当の距離なのですが泳ぎつけると思ったのかあるいは半ば気が狂ったのか、それとも無理を承知してか若い男の何人かがこの島目指して泳ぎ出しました。然しみんな数分で見えなくなってしまいました。
 やがて難破船は日本海のほうに流され始めました。これでは永久に救われる道はありません。と思ってか誰かが思いきってイカリを降ろしました。底のない深い海にイカリを降ろしましたからたまりません。イカリを降ろした途端に船は転覆し始めました。船の甲板が海の下に沈み、船の丸い底が海面に現れてくるのです。
 私はひっくり返りつゝある船に四ツンバイになりながら移動して行って海面に沈んだ船底にまたがることができました。そのためにヒザから上は全然濡れないですみました。この転覆によって、この時まで生き残っていた五、六〇名の人達は一瞬にして海に投げ出されました。昼の一時ごろのことでした。
 せまい船底にまたがって周囲を見回したときに私は又々、凄惨な有様を見ました。
 丸い船底によじ登ろうとしても滑って登れない者、船の上から手をかそうにもそばに寄りつくことが出来ない。
 海の中では二人が漸く船にしがみついた。するとその足に別の一人がしがみつく。だから上に上がることが出来ない。おぼれる者ワラをもつかむで更にその足にしがみついて列が続いておりました。この人達はみんな水面の下で目をつぶって前の人の足にしがみついたまま今しがた死んだばかりの人達なのです。その中に私の妹幸子がおりました。妹の足を今井さんのお父さんがつかんでおりました。黒潮おどる玄界灘の水はすみきったようにキレイでその時の姿が今もハッキリ浮かんできます。
 船の周りでは板切れにつかまって船底に近づこうと努力している人が沢山おりました。山田顕治さんもその一人でその時のお姿をよく覚えております。然し又この時も次々に何人かが亡くなってゆきました。
 ようやく三〇名ほどの人が船底にはい上がりました。その中に私の妹時子がおりました。当時二〇才位だった時子は私に「みんな死んでしまったネ…」と言いました。ボロボロになった服で、それでも太ももをかくそうとするしぐさがいじらしく見えました。
 海面から僅かしか出ていない丸い船底には次々に波が押しよせてきます。体の弱っている者はその波にさらわれてゆくのです。妹がアッというまにさらわれました。椅子に腰かけたまゝのような格好で、こちらを向いたまま波に乗ってグングン遠ざかっていくのです。お互いに顔を見ながら早い黒潮に乗って遠ざかっていく。手をあげることもできず、一言もものも言えず、涙も出ずただお互いに見つめるだけです。まもなく沈んでいきました。
 同じようにして戸田さんがヒザの上にしっかり子供さんを抱いて波に腰掛けたまゝの姿で離れてゆきました。室さんも遠ざかってゆきました。こうして何人かが荒波にむしり取られて遠く波間に消えてゆきました。
 小林和歌子さんのお話ではおぢいさんが力つきて船底から手を離してゆく時「和歌子、先に行って待っているよ」と言ってお経を唱えながら沈んでいったそうです。
 沢山の荷物が浮かんでいるのを見てか一隻の朝鮮の船が近づいてきたのは、それから約一時間後のことでした。救助船が船底に接触した瞬間に私はとび移りました。その内に接触がうまく出来なくなりひとりひとりロープで助けあげられました。ヤミ船の朝鮮人船員のうち、生き残っていた最後の一人がロープで引揚げの時に力つきて海に落ちて死にました。
 救助船の中では三森さんが娘さんと抱き合って泣いておられたのが印象的でした。こうして助けあげられた者は一七八名のうち僅かに二〇名だけでした。
 然しその中の一人、大阪君が助かった安心感からか、今まで張りつめていた力が抜けたのか、或は助かる前に頭を打っていたのか私共も随分はげまし続けたのですが下関に着くまでに船内で亡くなりました。
 救助完了の時見た私の時計は午後二時十分を示しておりました。機雷に当たってからちょうど十二時間の死闘でした。この救助船がせめて一時間早くこの付近を通行していたら六〇名ばかりの命が助かっていたでしょう。惜しいことでした。
 一家全滅の家族も多く、私もかけがえのない最愛の肉親八名を失い只一人生き残りました。私は全国の遺族全員に対して当時の状況をお知らせいたしました。その結果、沢山の手紙が参りました。わざわざ実情を訪ねにおいでた方もあり遺骨探しに九州まで来られた方もあり又、私の証言書により戸籍の抹消が出来た方も何人かありました。
 泣いて泣いて泣き続けた半年間、悲しい悲しい思い出です。あれから早くも三〇余年。こうして当時の長興の方々に遭難の模様を知って頂いて亡き人々の霊も浮かばれることでございましょう。毎朝静かに亡き人々の霊安かれと仏壇に灯明をあげて、ご冥福を祈り続けているものでございます。   

合掌

 


 

引揚記

 

熊本県 三森 義一

 

 昭和二〇年八月十五日、大東亜戦争も日本の無条件降伏により終戦となり重大放送の大詔を耳にする。
 公職として邑会議員、学校組合議員、防空監視哨監督、勤労者家族相談員として道知事の嘱託を受け長興一円の勤労者の家庭を巡り生活扶助、医療保護、その他の世話を担当し、又戦時措置法に基き裁判所調停委員等の職務にありて公務の為尽瘁していた。
 終戦後は日本人世話人会の役に在って、八月二十日日本人小学校に集合し引揚げの協議、内地に引揚げずこの地に永住するとの希望者も多数あったが対日感情の悪化と、在留を認めずとの進駐軍の命令により急遽引揚船の雇入れ交渉に奔走する。
 九月二日、日本銀行券の使用不能となり朝鮮銀行券と交換する。
 九月十一日、朝鮮青年隊員が邦人宅を個別に訪問して、治安上の事由で日本刀を押収した。出さぬ訳にもいかず愈々素手となる。処々に事件発生、天皇の耐え難きに耐えの詔勅を繰返す。
 九月二十五日、第一便の引揚船の交渉ができたので治安部に了承を求め、荷物の検査の日取りを決めて貰い、制限の緩和を交渉する。
 九月二十六日、引揚船第一便。水門浦より出港(百二十名)荷物の検査の為警察広場に集合。検査といっても珍しいもの、高価品等は取り上げて制限する。腹が立つが仕方がない。現金も取り上げ、「お前たちは朝鮮に裸で来て財産を得たので帰る時は裸で帰るべきだ」と言う。占領軍の進駐を待つ心境で不安が増すばかり。
 十月三日、第一便の引揚船百二十名は引揚げ途次全員遭難したとの不吉の情報頻り(註帰国後、調査したる処、全員行方不明であった)。
 十月九日、対日感情は益々悪化、邦人間で「日本の地を踏むまでは決して死んではならぬ」との合言葉に励まされる。
 警察官家族の引揚用に機帆船を求めた(四十t級)、外に帆船を求める為交渉準備中。
 十月十五日治安隊に折衝、帰国の為、再検査を求む。四、五十が検査。
 検査を終えトラックにギッシリ積込み荷物の上に人間がしがみ付いて第二便は水門浦に向け邑内を出発した。
 十月十九日、第二便引揚船安着の報に接す。続いて第三便引揚船出発。
 十月二十五日、在留邦人全員引揚げ準備成り既に交渉中の木造帆船二隻約束済み。
 十月二十六日、例に依り荷物の検査を受けて海倉へ向け出発。今日中に出帆できると思いの外、米軍の命令で明二十七日に延びる。現金は一人宛千円、荷物は手に持てる丈と制限される。安良青年隊が又々検査をすると言って身体検査迄された。海倉の倉庫に一泊の止むなくに至り夜間は警備の為監視歩哨を立て、事なきを得た。
 十月二十七日、進駐軍の厳重な検査あり。銃器、刃物等重点的である。日本女性の着物が欲しいらしく、抜き盗られた者もあった。船は契約当初、船頭付九万円で買入れたが愈々出帆直前になって十二万円に値上げせぬなら出帆せぬと言う。止むなく夫々持合わせ者のみから集め、十二万円を支払ってやっと出港する事になった。
 出発の直前、裁判所関係者六名も米軍に引継ぎを完了し漸く間に合う。
 「やれやれこれで皆さんと一緒に内地に帰れる」と喜んで乗込んだ。
 進駐軍は、「こんな船で日本には行けぬ。玄界灘で沈むかも知れない、木浦から汽車で釜山を経由して帰れ」と言うが出港間ぎわで一応予定通り決行することになった。出港するに当り第四便乗船者は主に四国地方出身者で有り、第五便乗船者はその他の地区に引揚げる者が乗り込んだ。
 十月二十七、全羅南道高興郡の小島に碇泊、全員上陸し民家で水を貰い自炊、休息。島の朝鮮人は好意的であった。
 十月二十八日、全羅南道光陽郡地区の島影に碇泊。
 十月二十九日、羅老島の島陰に碇泊。
 十月三十日、慶尚南道南海島に碇泊。
 十月三十一日、毎日潮流を利用し、吹く風のみが頼りの航行である。この日洋上に米軍の巡視船を見たのが最後であった。
 十一月一日、この日朝、愈々朝鮮に別れをつげ朝鮮海峡を横断することになり、大海原に出る。波は穏やかではない、船先と船尾に二人宛交代で警戒の立哨を立てる。
 第四便と航行を共にしていたがその第四便は遂に遅れて見えなくなった。この夜対馬に寄港の予定であったが船頭は対馬は不案内だと言う。明かりも見えず星の光で唯島陰が見えるのみで何処に寄港したものやら見当がつかず誰言うとなく、唐津に直行して早く疲労を癒した方が良いと言う声が多い。一同に賛否を求めた処、全員直航に賛成と言うので船は一路唐津へ向う事に決まった。
 第四便はどんなに航路を転じた事やら連絡さえつかず第五便のみ単独航海を執るの止むなきに至った。
 船内では身動きもならず、足を自由に動かす事さえ出来ない。波は愈々荒れ、船酔いで食事も摂れない者も多い。強風は更に加わり波浪は高い。船体の揺れが激しく甲板は危険であるので皆、船内に入る。
 疲労と船酔いでグッタリして大半が寝込んで居るる。カンテラの灯は今にも消えそうである。用便も非常に危険である。追々壱岐の島陰も見える頃ではなかろうか。
 十一月二日午前二時半頃、突然轟音と共に落雷に遭った様な衝撃だ。船尾部分は瞬間に吹き飛び、硝煙の匂いが鼻を突く。忽ち船内は阿鼻叫喚の騒ぎになった。漆黒の船内に、「落ち着け」と誰かが叫ぶ。船尾に乗船して居た者は即死、忽ち船内は水浸し。死体と荷物が海に浮かび出して居るのが星明かりにぼんやりと見えた。
 浮遊機雷に触れたのであった。船尾の舵の先端が触れたのである。
 吾先に船の甲板に上がろうと喚き泣き叫ぶが甲板は帆布で覆ってあるのでどうする術もない。船先に有る二尺角の出入口から逃れ出る事さえ容易ではない。帆布を剥ぎ取って引揚げようとしても船の屋根は縦横に丸太と抜板で釘付けをしている。その間の穴から上に助けを求めて手を差し上げて居る丈で何一つ器具も持たず唯力一杯踏み外そうとする者もあったがどうにもならない。海水は充満して内部では泣き叫ぶ声も衰え、次々と溺死の外なく、その策さえない。私の母も船内で溺死した。
 半分にちぎれた船体は荒波に翻弄され長い時間が経過した。
 真っ暗な海に段々と東から明るみが増して来て見ると死体と荷物は波濤に揉まれて浮いて居た。船上に生存して居る者はわずか六十名余りで有ろうか。波は荒く船体はミシミシ音を立て片方から壊れていく。万一に備え上着を脱ぎ捨てズボン一つになり何時でも泳げる態勢を執った。薄明に見えた壱岐の島は松林も、島陰さえも見えなくなった。北へ北へと漂流を続けて行って居るのであろう。
 呵責なく襲ってくる大浪に遂に気落ち力尽きた妻は長女、次女、相川政之君の必死の救助も甲斐なく波間に消えて行った。
 宇津木一郎氏(長興郵便局工員)は子供の死体をしっかり胸に抱き、笑い乍らその死顔を見つめている。平素人一倍子煩悩な彼が最愛の一人娘を失って気が狂われたものも無理はない。「波濤が襲ってきたら貴方迄危ない」からと引き立てようとするが座して動かぬ。又襲ってきた大波が去った後、無情にもそこに宇津木氏の姿はなかった。
 室福市氏の子供(中学一年生?)は船底の釘にズボン下の裾が引掛って取れず、皆が代る代る引張るがどうしても取れず、ナイフでも有れば切り離す事も出来たが時間もなく遂に溺死した。
 生き残りの者は中央の帆柱に抱き付いてその人の肩に次々と重なり合って死を逃れんと掴んで居た。また帆柱から垂れ下って居るロープにしっかり掴っている者も居た。
 その内船体は波状的に襲って来る波浪にバランスを失い横倒しになった。帆柱に抱き付いていた人達は海中に放り出され、やっと四、五人は船に泳ぎ着いた(私もこの内の一人)がこの時二十名余は溺死した。この中に海倉で駆けつけ「これで皆さんと一緒に内地に帰れる」と喜んだ、判、検事さんも居た。夫に妻が、母に子供が縋っていた人たちも諸共に死んだ。一度船を離れた人々にロープも無い、救助の方法がないのだ。もう少しもう少しと手を差し伸べ、足を出してみるがどうにもならない、戸田菊之氏(警防団長)は十才位の二女と諸共に波に呑まれてしまった。室福市氏も同様であった。戸田氏は娘さんをしっかり抱き締め、合掌を組んで沈んで行った。
 太陽旅館の小林氏も力尽きて孫の小林和歌子さんに「和歌子お先に行っているからね、又あの世で逢おうね」との言葉を残し合掌し乍ら波間に消えて行った。
 無情の波濤は更に強く船腹を打ち、横打しにされた船は又更に転覆し船底は空を向いた。その刹那、皆川夫人、宇津木夫人は姿が見えなくなった。その時宇津木夫人は船から二米位の処迄泳ぎついて「助けてー助けてー」と連呼するがどうする術もない。
 森脇巡査は妻子を失って生き甲斐もない、この様に苦しんで、もう助からないと思ったのか、白いシャツをチギって帯状にし、腰に巻いて「皆さん、お先にサヨナラー」と荒れ狂う波の真只中に飛び込んで行った。「早まるな。待てッ」と言ったが既に遅かった。
 下川智氏(金融組合理事)は妹の幸子さんに「さっちゃん一緒に死のうね」と覚悟を決めて居たが「何と馬鹿な事を言うな、奇跡的にも万一にも助かる事が有るのだ、決して早まるな」と叱り、思い止める事が出来た。
 昨日は漁船、飛行機も望見出来たが、時化の為だろう今日は何も見当らない。
 やがて漸く見えた遥かな煙りは我々の期待も空しくその船影も見せなかった。
 午後二時頃であったろうか。誰かが「煙が見える」と叫んだ。一同がその方向に目を向けると遥か彼方に紛れもない発動機船らしい煙が見える。この船を逃して吾々の助かる道はない。白いシャツを着て居る者はそれを脱ぎ力の限り打ち振った。残りの者はそれらの足元をしっかりと支えた。この時一瞬疲労は忘れた。声を限りに助けを求めた。船影が近付いて来るではないか。歓喜に胸が震えた。
 一同は力付いて更に声量を上げた。船影は次第に濃くなり、船体がはっきりと見える。吾々は助かるのだ「皆、元気を出せよ」。ふと船先にいる大坂忠伯君を見ると、ウツラウツラ眠っている、私は近寄って「大坂君、大坂君」と叫んだ。「眼を醒ませ、今救助船が来るぞ、頑張れ」と頬を叩いた。やがて気がついた大坂君は「済みません」と言って元気づいた。
 その刹那又大きな波が来た。慌てて船底にしがみ付いた。波が去り、開いた視野の何処にも長女矩江の姿はなかった。
 大坂君は遭難の際、折れた帆柱に頭を強く打たれたのであろう。時々痛いと局部を撫でていたので極度の疲労がつのって居たのであった。
 船は段々と近付いて甲板の人影が見える。船体に「慶尚南道、松島丸」と書いてあるのが読めた。船上ではロープを手繰ったり船員が上着を脱いだりして居り、愈々救助作業の段取りで有ろう、さかんに手を振っている。すぐ救助するから待てと制止をする手つきであった。
 吾々の難破船の回りを回り乍らロープを投げて呉るが浪は荒く仲々届かない、救助船も大波に揺られ今にも転覆しそうで有る。六度目に投げてくれたロープがやっと届いた。このロープこそが吾々の生命なのだ絶対に離してなるものか。必死に握ったロープの先を舟端にしっかりと結えた。
 一人一人と順番に救助船へ乗り移って行く。随分長い時間の闘いで有った。まさに生き地獄で有った。
 斯うして私等二十名は今、確実に助かった。この時時刻は午後三時三十分。
 船長は吾々の濡れた衣服を手摺りに掛けて乾かして呉れ、船員自身の上服や毛布を与えてくれた。
 吾々は遭難から救助に至る迄の詳細を語り、危険を顧みず吾々二十名を救助して貰った礼を心から申し述べ、三畳敷の室で九死に一生を得て、互いに抱き合って喜んだ。
 船長は長時間食事を摂らない皆さんに急に食事を与えると悪いから茶飲茶碗二杯宛暖かいお粥を上げるからそれで辛抱する様に、そして二時間も経ったら御飯を上げようと言って、お粥で先づ餓を忍んだ。間もなく握り飯に煎子を四、五匹充食べさせて貰いどうやら元気もついた。
 船長の話に依ると慶尚南道から下関に家族を迎えに行く途中、余りの時化に対馬に碇泊し今朝八時ごろ出発して下関へ航行中海上に死体や荷物が浮かんで居る
ので荷物を拾い上げ四方を見渡すと遥かに難破船らしいものから白布を振っているので方向転換して救助に向かって来たと言う。
 更に全員で深い謝辞を述べた。
 船長は明るい内に目的地に着かないと下関港近辺は沈没船が多く危険で有るとのことで速力を増し一路下関へ向かって急行した。
 大坂君は救助された後、極度の疲労から昏睡状態に陥った。船内では如何とも手の施し様もない。下関に八時頃着き、直ちに手近な医者に往診を乞い、手当てをして貰ったが反応もなく遂に不帰の客となった。
 この翌日、下関水上、陸上警察署に遭難の届けを済ませ、市役所へ大坂君の死亡届と火葬の手続き、更に火葬を済ませ遺骨は火葬場に保管して貰い、後日遺族に連絡し引取ることを約して別れた。
 吾々の遭難を伝え聞いた下関在住の朝鮮人が多数訪ねて、朝鮮の実情を聴に来た中にも北海道から朝鮮に引揚げる朝鮮人が、色々と話を聞いて見舞にと四千円を差出された。とても頂けるものでは無いと断ったが強いて置いて立ち去った。
 大坂君の死亡診断書を医者の許へ貰いに行った折、この日本人医師が金を払わねば死亡診断書は渡せぬと言った時、計らずも一円の持合わせもなかった私達にとってこの好意溢れる朝鮮人の見舞金が役に立ったのである。
 吾々が帰国第一歩は皮肉にも朝鮮人の心情の数々に感謝し永遠に忘れる事は出来ない。
 十一月三日午後八時頃下関駅で十九名は再起を契って別れを惜しんだ。
 思えば悲しい、苦しい出来事であった。
 あれから三十二年、生きて帰った者も櫛の歯の欠けるが如く、一人去り二人去り淋しい限りである。記憶と記録の儘にこの一文を記し長興会誌に残し遭難の霊に捧げ度い。

 

合掌


因に救助船は慶尚南道南海郡三東面弥(助)里六二八番地 松島丸 三十トン 船長 金容淑

 

 

銀馬アパートウンマアパトゥ
 この映画の舞台は、大峙洞テチドンという設定。撮影も実際に大峙洞にある銀馬アパートで行われた。外側に廊下がついている古いタイプの高層マンション、14階建ての建物である。

 1978年の8月に最初の分譲が行われているので、築40年を越える。同時期に建てられたマンションの多くは建て替えが進んでいて、外廊下のあるものはあまり残っていない。


 

 住居は27.5坪なので、リビング・キッチンに部屋が3つ。一番大きい部屋を両親が使い、中間の部屋を兄デフンが使い、一番狭い部屋を姉スヒと妹ウニが使っている。
 この銀馬アパートから一ブロック南に行くと良才川ヤンジェチョンがあり、それを渡ったところに2010年までソウル日本人学校があった。現在の日本人学校は、麻浦マポ上岩洞サンアムドンのデジタルメディアシティにある。

 この日本人学校があった敷地の南側に隣接して京畿女子高校キョンギヨゴがある。京畿女子高校は、植民地時代に京畿公立女子高等普通学校として斎洞チェドン(現在の憲法裁判所の場所)に校舎があった。高等普通学校というのは、朝鮮人の中等教育機関に与えられた名称である。1945年の日本の敗戦で日本人が引揚げた後、貞洞チョンドンの旧第一高等女学校の校舎に学校を移した。そして、1988年に、現在の開浦洞ケポドンに移転した。
 ウニの姉のスヒは、すぐ近くにあるソウルで一番の女子校京畿女高には行けずに、バスで聖水大橋を渡って漢江の北側の女子高校に通学しているという設定である。




◆漢文塾
 日本語の世界では、漢字教育とは文字を教えることであり、漢文というのは国語の一部として漢字とは別に学ぶ科目である。しかし、韓国では漢字を学ぶということ自体が漢文という言語を学ぶものということになる。
 日本語では、漢字は文字の一種とされるので、かなと漢字を混在させることが古くから行われてきた。しかし、朝鮮の王朝時代にはハングルと漢字を混ぜて使うことはしなかった。ハングル文はハングルだけで、漢文は漢字だけで書かれた。植民地支配下で、ハングルと漢字を混在させることが行われ、解放後もそれが引き継がれた。しかし一方で、ハングル漢字混用をやめるべし、韓国語はハングルだけで書くべきだとするハングル専用の主張が強まった。1950年代後半からハングル専用の方向へ進んでいった。

 1975年には中高の教科書で漢字の併記などが復活したが、漢字離れは急速に進み、漢字は読めても書けない、ハングルだけの方が読み書きが楽という世代が育ってきた。
 ワープロやパソコン、スマホなどでは漢字変換はしないのが普通。それで不便はないので漢字を混ぜて使おうなどとは誰も言い出さない。

 それでも日常生活では漢字が必要になる。また、大学で国文学や韓国史・東洋史などをやる場合は、どうしても漢字が必要になる。そのような場合には、別の語学として漢文を学んできた。それも学校教育の場ではなく、主として学院(塾)に通って学んだ。
 これは1980年代後半の新聞広告。このように、漢文は、英語や日本語、中国語とならんで宣伝されている。漢字を文字として教えるのではなく、漢文を言語として教えるのである。



 

 ヨンジ先生が黒板に書いていたのは、『明心寶鑑ミョンシンボガム』の「交友篇』の一節である。『明心寶鑑』は高麗の民部尙書・芸文館大提学秋適チュジョックが、1305年に中国の古典などから金言名句を集めて編纂した書物である。

 黒板にはこう書かれている。

交友篇 相識滿天下 知心能幾人

 日本語の世界でこれを読むと、返点をつけて、

相識滿天下心能幾人
相識るは天下に満つるも、心を知るはよく幾人ならん

と読む。つまり読むときから古典の日本語として読むのである。
 韓国ではこれを

相識滿天下 知心能幾人
상식만천하 지심능기인
サンシンマンチョンハ ジシムヌンギイン

と読む。返点などはない。ひたすら頭から韓国語漢字音で読む。
 意味は「知り合いは世間にたくさんいるが、ほんとうに分かり合えている人は何人いるだろうか」となるのだが、そのように読もうとはしない。あくまでも「サンシンマンチョンハ ジシムヌンギイン」と読むのである。
韓国語の普通の会話でも出てくる「사이비サイビ」「어차피オチャッピ」「좌우지간ジャウジガン」「우선ウソン」などという単語は、この漢文の読みから取り入れられてもの。それぞれ、「似而非」「於此彼」「左右之間」「于先」といった漢文の読みからきている。

 ヨンジ先生は、ソウル大学の学生で休学中という設定だが、彼女も学校教育では漢字を学習していない。多分漢文塾に行ったのだろう。ハングルの書体に比べて、チョークで板書された漢字がぎこちない。ヨンジ先生役のキムセビョックが書いたのだろうが、流暢に漢字を板書されるよりはこの方が違和感がなくてよかったと思う。

◆「切れた指」
 万引き事件で関係がギクシャクしたしまったウニとジスクの二人を前にしてヨンジ先生は歌を歌う。

잘린 손가락 
잘린 손가락 바라보면서 소주 한잔 마시는 밤  
덜걱덜걱 기계소리 귓가에 남아 하늘 바라 보았네 
잘린 손가락 묻고 오는 밤 
시린 눈물 흘리던 밤 
피묻은 작업복에 지나간 내청춘 이리도 서럽구나 
하루하루 지쳐진 내몸 
쓴 소주에 달래며 고향두고 떠나오던 날 
어머님 생각하며 술에 취해 
터벅 손묻은 산을 헤매어 다녔다오 
터벅터벅 찬소주에 취해 헤매고 다녔다오
 

切れた指
切れた指を見つめながら焼酎一杯飲む夜
がたがた機械の音が耳元に残って空を眺めた
切れた指を埋めてくる夜
冷めた涙を流した夜
血のついた作業服に過ぎ去った私の青春、こんなにも悲しい
一日一日、疲れ果てた私の体
苦い焼酎でなぐさめ、故郷を捨ててきた日
母さんのことを思って酒に酔い
とぼとぼと指を埋めた山をさまよった
とぼとぼと冷たい焼酎に酔ってさまよった

 

 「切れた指(잘린 손가락」。シンガーソングライターのキムスチョルが1988年に出した曲で、現場の事故で指を切断した労働者を歌ったもの。

 1988年というと、1987年の民主化闘争で盧泰愚の「民主化宣言」を引き出した後、「運動圏ウンドンコン」の学生たちがキャンパスや街頭から、労働争議の場や劣悪な労働環境の場へと活動の中心を移していった時期である。

 ヨンジ先生は、「だいぶ長く休学していたから…」と言っている。ひょっとすると彼女は88学番ハッポンとか89学番、つまりソウル大の入学はこの曲が歌われていた頃だったということかもしれない。

聖水大橋ソンスデギョ崩落事故
 1994年10月21日午前7時38分頃に聖水大橋の約50mの橋梁が崩落した。聖水大橋は、1977年4月に着工、1979年10月16日に完成したもので、完成からたった15年しか経たずに橋が落ちるという衝撃は大きかった。朴正煕パクチョンヒ大統領時代の開発独裁による経済成長戦略のほころびが露呈したとも言われ、それは、不幸にも翌年の三豊サムプン百貨店の倒壊事故でも再確認されることにもなった。

 聖水大橋の崩落した橋梁部分を走行中のワゴン車1台と乗用車2台が落下し、江南方向から走ってきて崩落部分に差し掛かった16番市内バスが前方に一回転して逆さまになって落下した。裏返しで落ちたため車体が自重で押し潰され、バスでの犠牲者が29人と多数にのぼった。

 この16番バスは、ソウル大公園—舎堂駅—高速バスターミナル—新沙駅—狎鴎亭駅—聖水大橋—鷹峰洞—馬場洞—新踏駅—長安市場—徽慶女子中高—長位洞—樊洞という路線で走っていた。


 聖水大橋を渡った先の鷹峰洞ウンボンドンを過ぎたところに舞鶴女子高校ムハンニョゴがあり、江南カンナムから通学していたこの舞鶴女高の生徒9人が死亡した。

 この時に墜落したバスは、事故の3年前に偶然撮影された写真が残っている。1991年に『世界日報セゲイルボ』が撮影したもので、増水した中浪川チュウナンチョンの横の道を水しぶきを揚げて走る16番の市内バスの姿が写っている。

 

 ウニは、姉のスヒが乗っているはずのバスだと電話をするのだが、スヒは舞鶴女高に通っている設定なのだろうか。スニは遅刻して乗り合わせなかったのだが…。

 

金虎門事件はこちらから→金虎門事件(1)事件の経緯

金虎門事件裏話はこちら→金虎門事件(2)国粋会と京城弁護士新聞記者有志連盟

 

 「金虎門事件」の宋学先ソンハクソンについて、管轄の鍾路警察署は、事件の翌日(1926年4月29日)付で「京鍾警高秘第4769号 吊侯者殺害に関する件」と題する宋学先の供述調書を京城地方法院検事正あてに送っている。その中に、宋学先が

幼時本町絵葉書書店に於て陳列しありし伊藤公暗殺犯人安重根の写真に対し鮮人等の賞賛し居りたるを思い出し

と述べたとの一節がある。

 『東亜日報トンアイルボ』は、報道解禁後の記事で、宋学先が実際に狙ったのは朝鮮総督斎藤実だったが、佐藤虎次郎を斎藤総督と誤認して襲撃したもので、宋学先が伊藤博文を暗殺した安重根アンジュングンを崇拝していたと袖見出しに書いている。

 

 

 また、宋学先の第1回公判を伝える『時代日報シデイルボ』の記事では、「平素から安重根を崇拝」と見出しを立てて、裁判長と宋学先のやりとりを伝えてる。その中で安重根に関して次のようなやりとりが書かれている。

裁判長:幼い時に、伊藤博文を殺害した安重根の写真を見たことがあるか。

被告:ある。

裁判長:安重根についてはどう考えているか。

被告:偉大な人物だと常日頃あこがれていた。

 

 果たして、宋学先が見たという「本町絵葉書書店に於て陳列しありし伊藤公暗殺犯人安重根の写真」とはどのようなものだったのだろうか。

 


 

 宋学先は、1897年2月19日に天然洞チョニョンドンで生まれた。北阿峴洞プクアヒョンドンの北側にあたる。安重根が伊藤博文を暗殺した1909年10月には満12歳、翌年2月には満13歳になった。父親の事業が失敗して一家離散状態で不遇な暮らしをしていた頃である。

 

 本町通りは、現在の明洞ミョンドンの中、退渓路テゲロの一本北側を東西に走る通りで、当時の京城随一の繁華街であった。内地人にとってはショッピングや外食の賑やかな通りだったが、貧しい朝鮮人にとっては生存のための糧を求める場所であった。1926年の事件当時、宋学先は本町通の入り口に当たる朝鮮銀行前で立ちん坊をして日雇いの職探しをしていた。

 

 この本町には、2丁目の角に日之出商行という絵葉書や額縁を専門に扱う店があった。『大京城寫眞帖』(1937)によれば、1906年の創業だから1909〜10 年には店はすでに本町にあった。

三重出版社京城支店『京城精密地図』1933

 

 国際日本文化研究センターの「朝鮮写真絵はがきデータベース」では、日之出商行発行の絵葉書が614枚ヒットする。その中には、本町2丁目の日之出商行の自分の店舗の写真を使った絵葉書がある。物産共進会ポスターから1915年頃に撮影されたと思われる。

 店頭に各種絵葉書が展示されており、通りすがりの朝鮮人が覗き込んでいる姿が写されている。


 

 日本では、日露戦争の1905年頃に絵葉書ブームが起きていた。石井研堂『明治事物起原』には、「絵葉書の最も盛んに行はれたるは三十七八年征露の役、在外将卒慰問に之を使用したるに起り、好事者の間に絵葉書熱沸騰したり」とある。1905年9月には上野で絵葉書展覧会が開かれ、来場者は1万人以上に及んだという。こうした中で、絵葉書の制作技術の向上、販売の組織化や流通網の整備・拡充が一気に進んだ。

向後恵里子(2010)「日本葉書会—日露戦争期における絵葉書ブームと水彩画ブームをめぐって—」『早大教育学部学術研究』第58号)

 

 1906年に開業した京城の日之出商行も、この流行の波にのり、流通システムを利用して自社の絵葉書だけはなく、日本国内各地の絵葉書や外地・外国の絵葉書も取り扱っていた。

 

 宋学先の言った「本町絵葉書書店」とは、この日之出商行でほぼ間違いない。

 

 では、日之出商行の店頭に果たして安重根の絵葉書は実際にあったのであろうか。そしてそれはどのようなものだったのだろうか。

 


 安重根の絵葉書については、沿海州の抗日運動団体が1914年に制作したものも含め数種類のものが知られている。
 (尹炳奭(2010)「安重根の写真」『韓国独立運動誌研究』37)

 

 ただ、京城本町の日之出商行が扱っていた可能性があるものは、そう多くはない。私の把握する限りで現存するのはこの2種類である。

 

 一つは、佐賀県立名護屋城博物館が所蔵している絵葉書である(絵葉書1)。

MBC「安重根105年 終わらない戦争」より

 

 下部にこのような日本語のキャプションが入っている。

(伊藤公暗殺者)(安重根)

 2014年8月にMBCが放送した「安重根105年 終わらない戦争」の中で名護屋城博物館で取材したものが放映されている。

 

 使われている写真は、旅順の日本領事館に身柄を引き渡されたところで撮影されたものとされている。

尹炳奭前掲論文より


 この写真は、共犯者捜索などの目的で朝鮮各地の警察に配布されたとされる。

 

 

『大阪毎日新聞』1909年11月10日紙面には、下部の腰縄部分をカットしたものが「伊藤公を暗殺せる兇漢安応七事安重根」として掲載されている。

 

 この絵葉書1についてはこれ以上の手がかりがなく、制作・販売の経緯についてはわからない。

 


 

 当時出ていたもう一つの絵葉書はこれである(絵葉書2)。

 この絵葉書は、韓国で個人が所有しているもので、2015年3月末から6月初旬まで、大韓民国歴史博物館で開かれた「光復70周年特別展(울림, 안중근을 만나다)」でも展示された。

 

 この絵葉書のキャプションには日本語で、

伊藤公を暗殺せし安重根

韓人は古来より暗殺の盟約として無名指を切断するの旧慣ある右手(ママ)を撮影せしものなり

と書かれている。おもて面には、

郵便はかき(右から)

Union Postale Universelle CARTE POSTALE

の記載がある。アルファベット部分は1908年に制定された国際基準に準拠しているという意味の「万国郵便連合 葉書」の表記で、この時期の絵葉書にはこの文字が印刷されている。

 

 ここで使われている写真は、1909年11月28日の『大阪毎日新聞』に「兇漢安重根の無名指」として掲載された。

 

 『大阪毎日新聞』紙面の画像右側にはこのような解説がある。

兇漢安重根の写真は曩に本紙に掲げしが今茲に掲ぐる写真は其筋に於て秘密に附し未だ世に発表されざるものにして左手の無名指が切断されあるを特徴とす

 絵葉書2は、この写真の背景部分を消去し、「韓人は古来より暗殺の盟約として無名指を切断するの旧慣ある右手(ママ)を撮影せしものなり」とのキャプションを入れて作成されたものである。

 

 「断指」が、親や近親者の病を治すための行為として朝鮮王朝にあったことが『朝鮮王朝実録』に記されており、それが顕彰された例もある。しかし、「暗殺の盟約として」指を切る「旧慣」があった事実は確認できていない。

 

 安重根が薬指(無名指)を切断していたことは、伊藤博文暗殺後に拘束された早い段階から新聞に報じられていた。

 

 

 切断された左手の薬指については、1909年11月27日、旅順監獄での境警視の尋問に対する供述に詳しく記録されている。

十三.断指ノ目的ハ大韓国ノ独立ヲ計ル為メニシテ、独立スルマテハ、如何ナル方法手段ヲモ撰ハス敢行スル考ナリ断指シタルハ昨年十二月カ今年正月カト思フ「ハリ」金姓方前述ノ宿屋ニテ切断セリ
断指ノ当時ハ民心散乱シ又自分ヲ信スルモノナキヨリ自分ハ国家ノ為メ盡ス熱心ヲ他人ニ示シ民心ヲ収ムルタメ断指シタルモノナリ
故ニ伊藤ヲ殺スノミノ目的ニアラス渠ハ日本皇帝ヲモ欺キ政策ノ誤レルヲ社会ニ公布シ之ヲ破壊セントスルモノアリ此ノ目的ヨリ出テタル結果伊藤ヲ殺シタルナリ

『統監府文書』第7巻 (271)旅順監獄での安重根陳述內容

 

 日本では、江戸時代から「指切りげんまん」などとあるように、改心を示すため、あるいは誓いの証しに指を落とすという行為があった。しかし、遊女や渡世人などの尋常ではない行為、特殊な集団内での行為とされていた。それ故に、「指を落とす」ことが、日本社会で強い好奇の目で見られていた。

 

 この絵葉書2の系統と思われる絵葉書がもう一つ現存している。

 それは、幸徳秋水の漢詩が書き込まれて、英文キャプションの入った絵葉書である(絵葉書3)。

 

 この絵葉書3は、大逆事件の資料収集をしていた神崎清が、1960年代の半ばに明治学院大学図書館の沖野岩三郎文庫の巻き物の中から見つけ出した。

 

 1910年6月1日、幸徳秋水が湯河原で逮捕された時、幸徳秋水はカバンに安重根の絵葉書を所持していたことがわかっている。大逆事件の裁判のため、被告の押収物について裁判所書記が手書きで作成した一覧リストがあった。戦後そのリストを入手した神崎清が、索引を付けて大逆事件記録刊行会『証拠物写』(1964)として刊行した。そのリストにある幸徳秋水の押収物の中に「絵葉書 安重根ノ肖像」とあり、漢詩とキャプション部分が筆写されていた。画像は省略されている。

 

 神崎清が明治学院大学の沖野岩三郎文庫で見つけた絵葉書は、幸徳秋水が逮捕時に押収された絵葉書と同種のものと断定された。神崎清は『この暗黒裁判 革命伝説』(芳賀書店、1967年)にその写真版を掲載した。掲載された画像は非常に画質が悪いが明治学院大学所蔵のものである。

 

 この絵葉書3の写真は、絵葉書2の写真と同じものであるが、上部に幸徳秋水の漢詩の書き込みがある。

舎生取義(生を捨て義を取り)
殺身成仁(身を殺して仁をなす)
安君一挙(安君の一挙)
天地皆振(天地みな震う)

秋水題

 そして、下部の日本語のキャプション部分に、以下のような内容の英文のキャプションが挿入されている。

安重根

ハルビンで伊藤公爵を暗殺した朝鮮の殉教者。写真にあるように、朝鮮の古い習慣によって切断された左手の薬指は、弑逆の誓いをあらわしている。写真の上部は、卓越した日本の無政府主義者幸徳伝次郎が書いた漢詩で、殉教者の勇敢な行動を賞賛したものである。

 英文キャプションの「The cut off Ring-Finger of the left hand represents the oath of a regicide, according to the old custom of the Koreans」は、絵葉書2の日本語のキャプションを英訳したものと考えられる。

 

 この英文を入れたのは、当時サンフランシスコにいた岡繁樹である。岡繁樹は1903年に渡米してサンフランシスコ平民社で活動していた。

 

 1910年6月1日の幸徳秋水らの逮捕に続いて、6月5日に和歌山の新宮で大石誠之助が逮捕された。その押収物の中に、5月26日付で幸徳秋水が大石誠之助宛に送った手紙があった。その末尾に、幸徳秋水は、サンフランシスコの同志が作った「見本」を同封すると書いている。

封入の絵葉書は桑港の同志が作って見本をよこした外に、バクニンとクラボトキンのも出来ている、安重根のは日本製のは発売禁止になったから、是も直ぐやられるだろう。

 大石誠之助は、オレゴン州立大学の医学部を卒業し、モントリオール大学やインドのムンバイ大学への留学経験もある英語圏に足掛かりがある同志である。そのため、サンフランシスコの岡繁樹から送られてきた英語のキャプション入りの安重根の絵葉書の「見本」を送ったものと推測される。

 ところが、大石誠之助宛の書簡は押収されているのだが、幸徳秋水が書簡に同封してに送ったとする安重根の絵葉書は、大石誠之助の押収品リストには挙げられていない。

 

 当時、新宮で大石誠之助と親しくしていた沖野岩三郎も、6月3日早朝に家宅捜索を受けている。徹底した捜索が行われ、長時間にわたって取り調べも行なわれたのだが、沖野岩三郎は逮捕を免れた。裁判にかけられることがなかったため押収品リストは存在せず、沖野の家宅捜索時にどのようなものがあったかはわからない。ひょっとしたら、安重根の絵葉書はこの時に沖野岩三郎の手許にあったのではないかと思われる。

 今でこそ、幸徳秋水が安重根を称賛する漢詩を書いた絵葉書が出てきたら大変なことになる、見逃されるわけがないと思われがちだが、この絵葉書は大逆事件との関わりで問題になることはなかった。幸徳秋水が所持していて押収された絵葉書も、リストでは安重根の肖像部分は省略されているし、裁判でこれが取り上げられることもなかった。

 

 こうした経緯を総合すると、絵葉書3については以下のような展開が考えられる。

  1. 幸徳秋水が絵葉書2を入手
  2. 幸徳秋水が絵葉書2に漢詩を書き入れる
  3. 漢詩入り絵葉書を、幸徳秋水がサンフランシスコの岡繁樹に送る
  4. 岡繁樹が英文キャプションを付けた原版を作成
  5. 絵葉書2が発売禁止になる
  6. 幸徳秋水にサンフランシスコの岡繁樹から絵葉書3の見本が到着
  7. 見本の1枚を大石誠之助に送り、1枚は幸徳秋水が所持

 

 1910年2月14日に安重根に死刑判決が出たことは、翌15日朝刊で東京で報じられた。さらに安重根が控訴をせずこの死刑が確定したのは19日で、これは21日に報じられている。

舎生取義(生を捨て義を取り)
殺身成仁(身を殺して仁をなす)

という一節は、まさにこの死刑確定を知った幸徳秋水の思いであろう。であれば、その思いを込めた漢詩を絵葉書2に書き込んだのは、2月の中旬ということになる。すなわち、絵葉書2はこの時点で東京で市販されていたことになる。

 

 もう一つ、絵葉書2が2月〜3月に東京で市販されていたことをうかがわせる事例がある。
 1910年4月1日発行の『新韓自由鐘』第3号という雑誌の資料が残っている。ただし、残っているのは雑誌の実物ではなく、大韓帝国内部警務局で情報収集のために日本語訳にした『新韓自由鐘』第3号の筆写物である。この雑誌『新韓自由鐘』は、当時東京に留学していた朝鮮人学生の結社「少年会」が出していた回覧雑誌で、明治学院普通部に通っていた李光洙が1・2号の編集を担当していた。李光洙はこの年の3月に卒業しており、他のメンバーが引き継いで3号を出したと思われる。(佐藤飛文解説『明治学院歴史資料館資料集』第8集 2011年

 この第3号に安重根の姿が描かれている。

 これは、上述のように韓国内部警務局で日本語訳した時に筆写したものである。回覧誌は写真を転載することはできないので、スケッチか写真が貼られていたのであろう。絵葉書が貼られていた可能性もある。東京の朝鮮人留学生が安重根のこのポーズの絵葉書を入手していたのではなかろうか。

 

 つまり、1910年2月〜3月には、安重根の絵葉書2は市販されていたものと思われる。

 

 東京の朝鮮人留学生たちは、絵葉書2の獄中の安重根の姿を同人誌に載せて思いを馳せた。

 幸徳秋水は、市販の絵葉書2を入手して、それに自分の安重根への思いを漢詩で書き込み、それをサンフランシスコの岡繁樹宛に送った。


 安重根は1910年3月26日午前10時に旅順監獄で処刑された。

 当時、サンフランシスコ在住の朝鮮人向けに発刊されていた週刊新聞『新韓民報シナンミンボ』は、1910年3月30日付紙面に安重根の追悼記事を掲載した。

 この紙面は、ソウルの安重根記念館に展示されている。

 そしてそこには、幸徳秋水の漢詩の入った絵葉書の写真が掲載されている。

 

 写真には幸徳秋水の漢詩が入っているが、絵葉書3の英文キャプション部分はない。そして、「만고의사안중근공(万古の義士安重根公)」というハングルキャプションがついている。

 

 この時、この写真をサンフランシスコで持っていたのは、岡繁樹だけである。従って、これはサンフランシスコ平民社の岡繁樹が、『新韓民報』に提供したものと思われる。

 すなわち、絵葉書2に幸徳秋水が漢詩を書き込んだものは、3月末には間違いなくサンフランシスコにあったということである。

 

 この当時、横浜からサンフランシスコまでは船で20日近くかかった。郵便物も船で運ばれるので、東京で投函したこの絵葉書2がサンフランシスコの岡繁樹に届くまでに、1ヶ月程度かかっていたと思われる。そうだとすると、2月中に幸徳秋水は絵葉書を入手し、それに漢詩を書き込んでサンフランシスコの岡繁樹あてに2月下旬には投函したということになる。

 

 岡繁樹は、3月下旬から4月にかけて、幸徳秋水が漢詩を書き込んだ絵葉書2の複製を作りその下部に英文キャプションを入れて見本(絵葉書3)を作成した。それを4月中旬に幸徳秋水宛に発送すると、5月中旬には湯河原にいた幸徳秋水の手許に届いたはずである。

 それを5月26日に和歌山新宮の大石誠之助に書簡とともに送った。

 

 その書簡に幸徳秋水は、こう書いている。

安重根のは日本製のは発売禁止になったから、是も直ぐやられるだろう

 「日本製の」安重根の絵葉書が発売禁止になったというのは、『東京朝日新聞』1910年4月29日に掲載されているこの記事に書かれたことではないかと思われる。

 

 山口金太郎は、下広尾町で安重根の絵葉書を印刷して「盛んに売却」していたが、4月27日に発売禁止になった。言い換えれば、4月26日までは、東京市内で公然と安重根の絵葉書を買うことができたということである。

 

 湯河原に滞在していた幸徳秋水は、多分この記事で発売禁止を知って、サンフランシスコの岡繁樹が作った絵葉書3も日本国内では出せないだろうと思い、それを大石に書き送った。日本国内よりも国外での頒布を考えて英文キャプションにしたのだろうから、発禁のショックはほとんどなかったであろうが、当局の出方や動向には常に注意を怠らなかったのである。

 

 このような経緯を総合すると、山口金太郎が4月26日まで「盛んに売却」していたのは、絵葉書2で、幸徳秋水はそれを購入して漢詩を書き入れてサンフランシスコに送り、岡繁樹が英文キャプション入りの絵葉書3の見本を作成した。5月の下旬には、その見本は幸徳秋水の手元に2枚あった。そのような推論が成り立つのである。

 

 2月、3月には、安重根の絵葉書2は東京では普通に市販されていたとすれば、それが絵葉書の流通網を通して京城にも送られて本町通りの日之出商行の店頭を飾っていたとしても不思議はない。

 実際に、現在も韓国国内にこの絵葉書2が残されているという事実がそれを物語っている。

 

 伊藤博文を暗殺した安重根に対して、日本政府、統監府が神経質になっていたことは事実であるが、「日本人」や「日本社会」が、総体として神経質になっていたり、安重根は「日本の敵だ」などと思っていたわけではない。

 1910年3月26日に安重根が死刑に処せられると、大韓帝国で国内治安を担当する内部(内務省)は警戒を強めた。そのような中でも、京城の日本人の写真業者が、安重根の写真を売り出そうとした。

 

 「日本」vs「韓国」などという図式で動いているわけではなかった時代の話である。ヘイトが横行する社会になってしまった今の日本社会では考えられないほど、当時はおおらかであったことを忘れてはならない。
 

●安重根写真発売

日本人の写真業者で安重根氏の写真を多数複写して内外国人に売り出すという。

『大韓毎日申報』は大韓帝国の新聞なので、ここでいう「内国人」は大韓帝国の韓国人のことである。

 

 

 しかし、それは、大韓帝国政府の内部警務局から発売を禁じられている。当然、統監府を通した日本政府の意向が強く働いたものである。

●安重根写真発売禁止

日本人の岩田・菊田などの写真館が安重根氏の写真を複写販売するというのはすでに報道したところであるが、内部(内務省)ではこれを治安を妨害するものとして4日前に発売を禁止していたという。

 岩田写真館は南大門通、菊田写真館は武橋町にあった日本人経営の老舗写真館である。岩田鼎は京城で最も古い写真館主であり、菊田真は日本人居留民会の役職をやったり朝鮮写真師同志会代表という日本人社会でもそれなりの影響力があった人物である。そうした日本人が安重根の写真販売を計画し、それを当局側が慌てて禁止するというのが当時の雰囲気だったのである。

 


 

幼時本町絵葉書書店に於て陳列しありし伊藤公暗殺犯人安重根の写真に対し鮮人等の賞賛し居りたるを思い出し

 それが絵葉書3でないことは確実だが、絵葉書1なのか絵葉書2なのか、あるいはそれ以外の絵葉書だったのか、断定することはできない。しかし、ここで絵葉書2について、絵葉書3の作成過程を検証してみてきたように、安重根の絵葉書は、秘密裏に制作されたり、こっそりと売られていたものではなく、市中で普通に流通していたのである。

 それを幸徳秋水は買って漢詩を書き込み、東京の朝鮮人留学生はそれを買って同人誌に掲載した。そして、それは京城でも流通していたとも考えられる。

 

 本町2丁目の日之出商行の店頭に安重根の絵葉書が飾られていて、通りがかった朝鮮の人々が安重根の写真を見ながら口々に安重根を褒め称えていた。それは、1910年2月から3月の頃であろう。

 宋学先少年はその称賛を聴きながら安重根の獄中で撮られた写真を見つめていたのである。

 

 



追記:2021年2月16日
佐賀県立名護屋城博物館所蔵の絵葉書1について、その後、葉書のおもて面に「京城岩田写真館製版部印刷」とあることを確認した。

これによって、絵葉書1は、南大門通にあった岩田写真館が作成したものであることが判明した。これが3月末に発売禁止となったものであろう。ただ、『大韓毎日申報』がこの情報を得た段階ではすでに絵葉書が完成し、すでに売り出されていた可能性も十分にある。