私の手元に『長興会誌 耽津江畔』という冊子がある。長興会事務局編集、1979年に刊行されている。
戦前「外地」に住んでいて、日本の敗戦で引揚げてきた人々が、学校の同窓生や居住地を同じくした人々のつながりで、「〜会」というのが作られていた。朝鮮居住者の場合、戦後比較的早くできた組織もあったようだが、表立った活動が始まるのは1965年の日韓国交正常化以降ではないだろうか。
70年代から80年代にかけて名簿の整理や、思い出や近況報告、韓国訪問記などを集めた会誌の出版が盛んに行われ、この『耽津江畔』もそうしたものの一つである。その後90年代以降になると、多くの会が、会員の高齢化などで解散したり活動を停止したりした。
全羅南道長興郡。その中心の長興邑の街中には耽津江が流れている。東は宝城郡、西は康津郡、北は和順郡、南は多島海に面している。まっすぐ海を渡ると済州島の城山に至る。
公共交通機関で行くには今でも不便な田舎町なのだが、ここには裁判所の支所が置かれており、この地方一帯の司法の中心地である。
1909年11月、大韓帝国の司法権が日本に侵奪され、11月1日付で統監府裁判所に司法権が移譲された。統監府は光州に地方裁判所を設置し、長興に光州裁判所の支所を設置した。韓国併合後、それが朝鮮総督府に引き継がれた。
長興支院・支庁100周年推進委員会『長興支院・支庁100周年』2009
こうした地方にも内地人は早くから移住しており、1921年刊行の『朝鮮総督府統計年報 大正9年』によると、長興とその近隣の郡の内地人は以下の通りである。
| 戸数 | 男 | 女 | 計 | 朝鮮人人口 | |
| 宝城郡 | 100 | 429 | 319 | 748 | 83,310 |
| 和順郡 | 87 | 141 | 112 | 253 | 92,246 |
| 長興郡 | 218 | 372 | 320 | 592 | 71,939 |
| 康津郡 | 182 | 382 | 324 | 706 | 60,604 |
長興は、裁判所関係の法曹関係者が多く、それに林業関係者、農業従事者などである。
私の母方の祖父は、木曽山林学校を卒業したのち統監府時代に朝鮮にわたり、林業関係の仕事をしていた。韓国併合後は朝鮮総督府の木浦の林業事務所で勤務した。1916年に、この全羅道林業事務所が長興に移転することになったため、祖父母の一家は長興に引っ越した。1918年、山林に投資して山林所有権獲得を目論む山林事業を長興でやろうとしていた朝鮮農林会社に転職してこの地で植林業務にたずさわった。1928年に朝鮮農林会社の取締役となり京城に転居した。この間に、私の母が長興の南洞里127番地で生まれている。
そうした関係もあって、これまで何度か長興を訪問して、証言や資料を集めてきている。そうした中で長興会のことを知ったのだが、長興会もすでに活動を停止していた。結局、事務局の関係資料を私のところで預かることになった。その中に、この『長興会誌 耽津江畔』もあった。
1941年刊行の『朝鮮総督府統計年報 昭和14年』では、長興の人口はこのように記録されている。
| 戸数 | 男 | 女 | 計 | 朝鮮人人口 | |
| 宝城郡 | 349 | 708 | 702 | 1,410 | 102,472 |
| 和順郡 | 145 | 255 | 235 | 490 | 101,327 |
| 長興郡 | 271 | 530 | 549 | 1,079 | 90,077 |
| 康津郡 | 252 | 520 | 544 | 1,064 | 77,477 |
多分、1945年の敗戦時もほぼ1000人程度の内地人が居住していたと思われる。そして、それらの人々は、釜山経由で内地に引揚げるという通常のルートではなく、ヤミ船を借り上げてその船で内地に引き揚げようとしたのである。700〜800人が5隻の船に分乗して順次水門浦から日本を目指したが、無事に九州に上陸できたのは、そのうち3隻だけであった。
9月26日に120名を乗せて出港した第1船は途中で消息を断ち、全員行方不明になった。しかし、第2船と第3船は無事に到着し、10月27日に最終の第4船と第5船が出港した。第4船は四国出身者を中心とし、第5船は四国以外への引揚者が乗った。第4船が遅れ始めたため、第5船は先行して11月1日に朝鮮海峡を横断するこにとした。暗くなって対馬に接近したが、対馬には立ち寄らずそのまま九州に向けて航行を続けた。そして深夜2時半頃、船尾部分が機雷に接触して大破、船は玄界灘を漂流した。
12時間後、たまたま通りかかった朝鮮の船が救助に駆けつけて生存者を収容したが、結局、第5船に乗船していた178名中、生きて下関に上陸できたのは19名のみであった。
すなわち、長興在住内地人のうちそのほぼ3割に当たる280名がヤミ船の引揚げで亡くなったのである。
その詳細な記録が『長興会誌 耽津江畔』に2編掲載されている。ここに再掲して、玄界灘に沈んだ全ての人々の冥福を祈る。
この一編を長興引揚げ遭難者の霊に捧ぐ
玄界灘の十二時間
北九州市 下川 智
長興引揚者は約八百名から九百名位かと思いますが、之が五隻のヤミ船に分乗して出発しました。そしてそのうち三隻は無事帰国いたしましたが、一隻は私共の乗っておりました生存者僅か十九名の難破船です。又、残りの一隻は遂に一名の生存者もありませんでした。このようにして長興出身者の約三分の一が引揚げの時に亡くなるという悲しい結末に終りました。
さて、トラックの荷物の上に乗って長興を出発し水門浦近くの小さな港からヤミ船で出発しまことしたことは皆様ご承知の通りであります。長興を発つまでに、あるいは船に乗るまでに、いろいろの出来ごとがありましたが、ここでは省略いたします。
私共一七八名を乗せたヤミ船は昭和二〇年十一月一日の夜中に対馬に到着。このまゝ直ちに出発するか或はここで一夜を明かしして翌朝明るくなってから出発するかで船内で話し合いが行なわれました。その結果、一日も早く帰国したい人が多く直ちに出発することになった訳であります。後から考えたことですが浮遊機雷のウヨウヨしている玄界灘をヤミ夜に通過することは危険と言うよりは無謀なことでした。
その日の真夜中、すなわち十一月二日午前二時頃、突如船尾に鈍い音がしました。心配していた浮遊機雷に触れたのです。船尾付近の者は勿論即死したと思われます。家族と別行動で只一人乗っておられた郵便局長の小川芳夫さんがこの付近に居られたようです。
機雷に当たった場合、鉄船ならばすぐ沈むのですが木造船のため沈まないで済みましたが、然し船内はみるみるうちに海水に浸されはじめました。木造船のためふだんでも船の底に水がたまるため若い者が交代でポンプで水をくみあげる当番をしていましたがちょうどその時私は当番で甲板の上で勤務しておりました。
まもなく狭い昇降口から次々に人々が甲板に上ってきました。昇降口は前と後に一ヶ所づつありましたがウシロのほうは機雷に当たって使えず前のほうの一ヶ所だけだったと思います。大勢の人がまっ暗やみの中を只一つしかない狭い昇降階段を上るのは大変なことです。その内に私の母と兄の姿が見えたので私から声をかけましたが混雑のためすぐ見失いました。何時間かの後におそらく母が海に落ち、これを助けようとして兄も一緒に波にさらわれたと思います。甲板に上ることが出来ないので約三分の一、六〇名位の方達は船内で溺死したと思われます。
何とかして甲板にたどり着いた人たちも暗夜の激浪に次々に飲まれていったようです。漸く夜のあけそめた頃、そこは荒浪狂う玄界灘の真只中、絵に見るような文字通りの難破船の姿です。水面上に僅かに残る場所には幾時間が前まで祖国に帰れる喜びを語り合っていた人々が必死にしがみついておりました。そしてそこには、この世の生き地獄が展開されているのです。
気が狂って両腕に子供を抱いたまゝ立って笑い続けている男は郵便局の宇津木さん。
足を材木か何かにはさまれて首だけは海面上に出してはいるが動くことが出来ず、うめきながら海水をかぶり続けているのは皆川さんのお父さん。
ぬれた髪をウシロに長くたらして波にさらわれまいと必死にロープにつかまっている人。これは中川邑長さんのおくさん。これを見ながらそばにも行けず大声で励まし続けるのは当時十九歳位の中川さんの息子さん。
私の妹、時子たち数人が近くでうづくまっていました。あとで考えたのですが立っていた方が波もかぶらず疲れも少なくてすむのですが、その時はそこまで考え及ばず、「頑張るんだよ」とだけしか言えなかったことを残念に思っております。或は立っている気力もなかったのかもしれません。
私や三森さんたち数人は立ったまゝロープにつかまって時に肩や背中を叩きあって寒さを防いでおりました。
このような悲惨な光景をくりひろげながら難破船は定期航路から遠く離れたところにいるらしく船影一つ見当たりません。夜が明けてからも必死にしがみつく人々を強引にむしり取ってゆく大波、力尽きて船から落ちてゆく人々。そのうちに島が見え始めました。実際には相当の距離なのですが泳ぎつけると思ったのかあるいは半ば気が狂ったのか、それとも無理を承知してか若い男の何人かがこの島目指して泳ぎ出しました。然しみんな数分で見えなくなってしまいました。
やがて難破船は日本海のほうに流され始めました。これでは永久に救われる道はありません。と思ってか誰かが思いきってイカリを降ろしました。底のない深い海にイカリを降ろしましたからたまりません。イカリを降ろした途端に船は転覆し始めました。船の甲板が海の下に沈み、船の丸い底が海面に現れてくるのです。
私はひっくり返りつゝある船に四ツンバイになりながら移動して行って海面に沈んだ船底にまたがることができました。そのためにヒザから上は全然濡れないですみました。この転覆によって、この時まで生き残っていた五、六〇名の人達は一瞬にして海に投げ出されました。昼の一時ごろのことでした。
せまい船底にまたがって周囲を見回したときに私は又々、凄惨な有様を見ました。
丸い船底によじ登ろうとしても滑って登れない者、船の上から手をかそうにもそばに寄りつくことが出来ない。
海の中では二人が漸く船にしがみついた。するとその足に別の一人がしがみつく。だから上に上がることが出来ない。おぼれる者ワラをもつかむで更にその足にしがみついて列が続いておりました。この人達はみんな水面の下で目をつぶって前の人の足にしがみついたまま今しがた死んだばかりの人達なのです。その中に私の妹幸子がおりました。妹の足を今井さんのお父さんがつかんでおりました。黒潮おどる玄界灘の水はすみきったようにキレイでその時の姿が今もハッキリ浮かんできます。
船の周りでは板切れにつかまって船底に近づこうと努力している人が沢山おりました。山田顕治さんもその一人でその時のお姿をよく覚えております。然し又この時も次々に何人かが亡くなってゆきました。
ようやく三〇名ほどの人が船底にはい上がりました。その中に私の妹時子がおりました。当時二〇才位だった時子は私に「みんな死んでしまったネ…」と言いました。ボロボロになった服で、それでも太ももをかくそうとするしぐさがいじらしく見えました。
海面から僅かしか出ていない丸い船底には次々に波が押しよせてきます。体の弱っている者はその波にさらわれてゆくのです。妹がアッというまにさらわれました。椅子に腰かけたまゝのような格好で、こちらを向いたまま波に乗ってグングン遠ざかっていくのです。お互いに顔を見ながら早い黒潮に乗って遠ざかっていく。手をあげることもできず、一言もものも言えず、涙も出ずただお互いに見つめるだけです。まもなく沈んでいきました。
同じようにして戸田さんがヒザの上にしっかり子供さんを抱いて波に腰掛けたまゝの姿で離れてゆきました。室さんも遠ざかってゆきました。こうして何人かが荒波にむしり取られて遠く波間に消えてゆきました。
小林和歌子さんのお話ではおぢいさんが力つきて船底から手を離してゆく時「和歌子、先に行って待っているよ」と言ってお経を唱えながら沈んでいったそうです。
沢山の荷物が浮かんでいるのを見てか一隻の朝鮮の船が近づいてきたのは、それから約一時間後のことでした。救助船が船底に接触した瞬間に私はとび移りました。その内に接触がうまく出来なくなりひとりひとりロープで助けあげられました。ヤミ船の朝鮮人船員のうち、生き残っていた最後の一人がロープで引揚げの時に力つきて海に落ちて死にました。
救助船の中では三森さんが娘さんと抱き合って泣いておられたのが印象的でした。こうして助けあげられた者は一七八名のうち僅かに二〇名だけでした。
然しその中の一人、大阪君が助かった安心感からか、今まで張りつめていた力が抜けたのか、或は助かる前に頭を打っていたのか私共も随分はげまし続けたのですが下関に着くまでに船内で亡くなりました。
救助完了の時見た私の時計は午後二時十分を示しておりました。機雷に当たってからちょうど十二時間の死闘でした。この救助船がせめて一時間早くこの付近を通行していたら六〇名ばかりの命が助かっていたでしょう。惜しいことでした。
一家全滅の家族も多く、私もかけがえのない最愛の肉親八名を失い只一人生き残りました。私は全国の遺族全員に対して当時の状況をお知らせいたしました。その結果、沢山の手紙が参りました。わざわざ実情を訪ねにおいでた方もあり遺骨探しに九州まで来られた方もあり又、私の証言書により戸籍の抹消が出来た方も何人かありました。
泣いて泣いて泣き続けた半年間、悲しい悲しい思い出です。あれから早くも三〇余年。こうして当時の長興の方々に遭難の模様を知って頂いて亡き人々の霊も浮かばれることでございましょう。毎朝静かに亡き人々の霊安かれと仏壇に灯明をあげて、ご冥福を祈り続けているものでございます。
合掌
引揚記
熊本県 三森 義一
昭和二〇年八月十五日、大東亜戦争も日本の無条件降伏により終戦となり重大放送の大詔を耳にする。
公職として邑会議員、学校組合議員、防空監視哨監督、勤労者家族相談員として道知事の嘱託を受け長興一円の勤労者の家庭を巡り生活扶助、医療保護、その他の世話を担当し、又戦時措置法に基き裁判所調停委員等の職務にありて公務の為尽瘁していた。
終戦後は日本人世話人会の役に在って、八月二十日日本人小学校に集合し引揚げの協議、内地に引揚げずこの地に永住するとの希望者も多数あったが対日感情の悪化と、在留を認めずとの進駐軍の命令により急遽引揚船の雇入れ交渉に奔走する。
九月二日、日本銀行券の使用不能となり朝鮮銀行券と交換する。
九月十一日、朝鮮青年隊員が邦人宅を個別に訪問して、治安上の事由で日本刀を押収した。出さぬ訳にもいかず愈々素手となる。処々に事件発生、天皇の耐え難きに耐えの詔勅を繰返す。
九月二十五日、第一便の引揚船の交渉ができたので治安部に了承を求め、荷物の検査の日取りを決めて貰い、制限の緩和を交渉する。
九月二十六日、引揚船第一便。水門浦より出港(百二十名)荷物の検査の為警察広場に集合。検査といっても珍しいもの、高価品等は取り上げて制限する。腹が立つが仕方がない。現金も取り上げ、「お前たちは朝鮮に裸で来て財産を得たので帰る時は裸で帰るべきだ」と言う。占領軍の進駐を待つ心境で不安が増すばかり。
十月三日、第一便の引揚船百二十名は引揚げ途次全員遭難したとの不吉の情報頻り(註帰国後、調査したる処、全員行方不明であった)。
十月九日、対日感情は益々悪化、邦人間で「日本の地を踏むまでは決して死んではならぬ」との合言葉に励まされる。
警察官家族の引揚用に機帆船を求めた(四十t級)、外に帆船を求める為交渉準備中。
十月十五日治安隊に折衝、帰国の為、再検査を求む。四、五十が検査。
検査を終えトラックにギッシリ積込み荷物の上に人間がしがみ付いて第二便は水門浦に向け邑内を出発した。
十月十九日、第二便引揚船安着の報に接す。続いて第三便引揚船出発。
十月二十五日、在留邦人全員引揚げ準備成り既に交渉中の木造帆船二隻約束済み。
十月二十六日、例に依り荷物の検査を受けて海倉へ向け出発。今日中に出帆できると思いの外、米軍の命令で明二十七日に延びる。現金は一人宛千円、荷物は手に持てる丈と制限される。安良青年隊が又々検査をすると言って身体検査迄された。海倉の倉庫に一泊の止むなくに至り夜間は警備の為監視歩哨を立て、事なきを得た。
十月二十七日、進駐軍の厳重な検査あり。銃器、刃物等重点的である。日本女性の着物が欲しいらしく、抜き盗られた者もあった。船は契約当初、船頭付九万円で買入れたが愈々出帆直前になって十二万円に値上げせぬなら出帆せぬと言う。止むなく夫々持合わせ者のみから集め、十二万円を支払ってやっと出港する事になった。
出発の直前、裁判所関係者六名も米軍に引継ぎを完了し漸く間に合う。
「やれやれこれで皆さんと一緒に内地に帰れる」と喜んで乗込んだ。
進駐軍は、「こんな船で日本には行けぬ。玄界灘で沈むかも知れない、木浦から汽車で釜山を経由して帰れ」と言うが出港間ぎわで一応予定通り決行することになった。出港するに当り第四便乗船者は主に四国地方出身者で有り、第五便乗船者はその他の地区に引揚げる者が乗り込んだ。
十月二十七、全羅南道高興郡の小島に碇泊、全員上陸し民家で水を貰い自炊、休息。島の朝鮮人は好意的であった。
十月二十八日、全羅南道光陽郡地区の島影に碇泊。
十月二十九日、羅老島の島陰に碇泊。
十月三十日、慶尚南道南海島に碇泊。
十月三十一日、毎日潮流を利用し、吹く風のみが頼りの航行である。この日洋上に米軍の巡視船を見たのが最後であった。
十一月一日、この日朝、愈々朝鮮に別れをつげ朝鮮海峡を横断することになり、大海原に出る。波は穏やかではない、船先と船尾に二人宛交代で警戒の立哨を立てる。
第四便と航行を共にしていたがその第四便は遂に遅れて見えなくなった。この夜対馬に寄港の予定であったが船頭は対馬は不案内だと言う。明かりも見えず星の光で唯島陰が見えるのみで何処に寄港したものやら見当がつかず誰言うとなく、唐津に直行して早く疲労を癒した方が良いと言う声が多い。一同に賛否を求めた処、全員直航に賛成と言うので船は一路唐津へ向う事に決まった。
第四便はどんなに航路を転じた事やら連絡さえつかず第五便のみ単独航海を執るの止むなきに至った。
船内では身動きもならず、足を自由に動かす事さえ出来ない。波は愈々荒れ、船酔いで食事も摂れない者も多い。強風は更に加わり波浪は高い。船体の揺れが激しく甲板は危険であるので皆、船内に入る。
疲労と船酔いでグッタリして大半が寝込んで居るる。カンテラの灯は今にも消えそうである。用便も非常に危険である。追々壱岐の島陰も見える頃ではなかろうか。
十一月二日午前二時半頃、突然轟音と共に落雷に遭った様な衝撃だ。船尾部分は瞬間に吹き飛び、硝煙の匂いが鼻を突く。忽ち船内は阿鼻叫喚の騒ぎになった。漆黒の船内に、「落ち着け」と誰かが叫ぶ。船尾に乗船して居た者は即死、忽ち船内は水浸し。死体と荷物が海に浮かび出して居るのが星明かりにぼんやりと見えた。
浮遊機雷に触れたのであった。船尾の舵の先端が触れたのである。
吾先に船の甲板に上がろうと喚き泣き叫ぶが甲板は帆布で覆ってあるのでどうする術もない。船先に有る二尺角の出入口から逃れ出る事さえ容易ではない。帆布を剥ぎ取って引揚げようとしても船の屋根は縦横に丸太と抜板で釘付けをしている。その間の穴から上に助けを求めて手を差し上げて居る丈で何一つ器具も持たず唯力一杯踏み外そうとする者もあったがどうにもならない。海水は充満して内部では泣き叫ぶ声も衰え、次々と溺死の外なく、その策さえない。私の母も船内で溺死した。
半分にちぎれた船体は荒波に翻弄され長い時間が経過した。
真っ暗な海に段々と東から明るみが増して来て見ると死体と荷物は波濤に揉まれて浮いて居た。船上に生存して居る者はわずか六十名余りで有ろうか。波は荒く船体はミシミシ音を立て片方から壊れていく。万一に備え上着を脱ぎ捨てズボン一つになり何時でも泳げる態勢を執った。薄明に見えた壱岐の島は松林も、島陰さえも見えなくなった。北へ北へと漂流を続けて行って居るのであろう。
呵責なく襲ってくる大浪に遂に気落ち力尽きた妻は長女、次女、相川政之君の必死の救助も甲斐なく波間に消えて行った。
宇津木一郎氏(長興郵便局工員)は子供の死体をしっかり胸に抱き、笑い乍らその死顔を見つめている。平素人一倍子煩悩な彼が最愛の一人娘を失って気が狂われたものも無理はない。「波濤が襲ってきたら貴方迄危ない」からと引き立てようとするが座して動かぬ。又襲ってきた大波が去った後、無情にもそこに宇津木氏の姿はなかった。
室福市氏の子供(中学一年生?)は船底の釘にズボン下の裾が引掛って取れず、皆が代る代る引張るがどうしても取れず、ナイフでも有れば切り離す事も出来たが時間もなく遂に溺死した。
生き残りの者は中央の帆柱に抱き付いてその人の肩に次々と重なり合って死を逃れんと掴んで居た。また帆柱から垂れ下って居るロープにしっかり掴っている者も居た。
その内船体は波状的に襲って来る波浪にバランスを失い横倒しになった。帆柱に抱き付いていた人達は海中に放り出され、やっと四、五人は船に泳ぎ着いた(私もこの内の一人)がこの時二十名余は溺死した。この中に海倉で駆けつけ「これで皆さんと一緒に内地に帰れる」と喜んだ、判、検事さんも居た。夫に妻が、母に子供が縋っていた人たちも諸共に死んだ。一度船を離れた人々にロープも無い、救助の方法がないのだ。もう少しもう少しと手を差し伸べ、足を出してみるがどうにもならない、戸田菊之氏(警防団長)は十才位の二女と諸共に波に呑まれてしまった。室福市氏も同様であった。戸田氏は娘さんをしっかり抱き締め、合掌を組んで沈んで行った。
太陽旅館の小林氏も力尽きて孫の小林和歌子さんに「和歌子お先に行っているからね、又あの世で逢おうね」との言葉を残し合掌し乍ら波間に消えて行った。
無情の波濤は更に強く船腹を打ち、横打しにされた船は又更に転覆し船底は空を向いた。その刹那、皆川夫人、宇津木夫人は姿が見えなくなった。その時宇津木夫人は船から二米位の処迄泳ぎついて「助けてー助けてー」と連呼するがどうする術もない。
森脇巡査は妻子を失って生き甲斐もない、この様に苦しんで、もう助からないと思ったのか、白いシャツをチギって帯状にし、腰に巻いて「皆さん、お先にサヨナラー」と荒れ狂う波の真只中に飛び込んで行った。「早まるな。待てッ」と言ったが既に遅かった。
下川智氏(金融組合理事)は妹の幸子さんに「さっちゃん一緒に死のうね」と覚悟を決めて居たが「何と馬鹿な事を言うな、奇跡的にも万一にも助かる事が有るのだ、決して早まるな」と叱り、思い止める事が出来た。
昨日は漁船、飛行機も望見出来たが、時化の為だろう今日は何も見当らない。
やがて漸く見えた遥かな煙りは我々の期待も空しくその船影も見せなかった。
 午後二時頃であったろうか。誰かが「煙が見える」と叫んだ。一同がその方向に目を向けると遥か彼方に紛れもない発動機船らしい煙が見える。この船を逃して吾々の助かる道はない。白いシャツを着て居る者はそれを脱ぎ力の限り打ち振った。残りの者はそれらの足元をしっかりと支えた。この時一瞬疲労は忘れた。声を限りに助けを求めた。船影が近付いて来るではないか。歓喜に胸が震えた。
一同は力付いて更に声量を上げた。船影は次第に濃くなり、船体がはっきりと見える。吾々は助かるのだ「皆、元気を出せよ」。ふと船先にいる大坂忠伯君を見ると、ウツラウツラ眠っている、私は近寄って「大坂君、大坂君」と叫んだ。「眼を醒ませ、今救助船が来るぞ、頑張れ」と頬を叩いた。やがて気がついた大坂君は「済みません」と言って元気づいた。
その刹那又大きな波が来た。慌てて船底にしがみ付いた。波が去り、開いた視野の何処にも長女矩江の姿はなかった。
大坂君は遭難の際、折れた帆柱に頭を強く打たれたのであろう。時々痛いと局部を撫でていたので極度の疲労がつのって居たのであった。
船は段々と近付いて甲板の人影が見える。船体に「慶尚南道、松島丸」と書いてあるのが読めた。船上ではロープを手繰ったり船員が上着を脱いだりして居り、愈々救助作業の段取りで有ろう、さかんに手を振っている。すぐ救助するから待てと制止をする手つきであった。
吾々の難破船の回りを回り乍らロープを投げて呉るが浪は荒く仲々届かない、救助船も大波に揺られ今にも転覆しそうで有る。六度目に投げてくれたロープがやっと届いた。このロープこそが吾々の生命なのだ絶対に離してなるものか。必死に握ったロープの先を舟端にしっかりと結えた。
一人一人と順番に救助船へ乗り移って行く。随分長い時間の闘いで有った。まさに生き地獄で有った。
斯うして私等二十名は今、確実に助かった。この時時刻は午後三時三十分。
船長は吾々の濡れた衣服を手摺りに掛けて乾かして呉れ、船員自身の上服や毛布を与えてくれた。
吾々は遭難から救助に至る迄の詳細を語り、危険を顧みず吾々二十名を救助して貰った礼を心から申し述べ、三畳敷の室で九死に一生を得て、互いに抱き合って喜んだ。
船長は長時間食事を摂らない皆さんに急に食事を与えると悪いから茶飲茶碗二杯宛暖かいお粥を上げるからそれで辛抱する様に、そして二時間も経ったら御飯を上げようと言って、お粥で先づ餓を忍んだ。間もなく握り飯に煎子を四、五匹充食べさせて貰いどうやら元気もついた。
船長の話に依ると慶尚南道から下関に家族を迎えに行く途中、余りの時化に対馬に碇泊し今朝八時ごろ出発して下関へ航行中海上に死体や荷物が浮かんで居る
ので荷物を拾い上げ四方を見渡すと遥かに難破船らしいものから白布を振っているので方向転換して救助に向かって来たと言う。
更に全員で深い謝辞を述べた。
船長は明るい内に目的地に着かないと下関港近辺は沈没船が多く危険で有るとのことで速力を増し一路下関へ向かって急行した。
大坂君は救助された後、極度の疲労から昏睡状態に陥った。船内では如何とも手の施し様もない。下関に八時頃着き、直ちに手近な医者に往診を乞い、手当てをして貰ったが反応もなく遂に不帰の客となった。
この翌日、下関水上、陸上警察署に遭難の届けを済ませ、市役所へ大坂君の死亡届と火葬の手続き、更に火葬を済ませ遺骨は火葬場に保管して貰い、後日遺族に連絡し引取ることを約して別れた。
吾々の遭難を伝え聞いた下関在住の朝鮮人が多数訪ねて、朝鮮の実情を聴に来た中にも北海道から朝鮮に引揚げる朝鮮人が、色々と話を聞いて見舞にと四千円を差出された。とても頂けるものでは無いと断ったが強いて置いて立ち去った。
大坂君の死亡診断書を医者の許へ貰いに行った折、この日本人医師が金を払わねば死亡診断書は渡せぬと言った時、計らずも一円の持合わせもなかった私達にとってこの好意溢れる朝鮮人の見舞金が役に立ったのである。
吾々が帰国第一歩は皮肉にも朝鮮人の心情の数々に感謝し永遠に忘れる事は出来ない。
十一月三日午後八時頃下関駅で十九名は再起を契って別れを惜しんだ。
思えば悲しい、苦しい出来事であった。
あれから三十二年、生きて帰った者も櫛の歯の欠けるが如く、一人去り二人去り淋しい限りである。記憶と記録の儘にこの一文を記し長興会誌に残し遭難の霊に捧げ度い。
合掌
因に救助船は慶尚南道南海郡三東面弥力里六二八番地 松島丸 三十トン 船長 金容淑


































