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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 もうかなり前からだが、韓国のホテルの部屋でテレビを見ることがほとんどなくなった。時間がないこともあるが、チャンネルが多すぎる。チャンネルを回しても、どこで何をやっているのかがさっぱりわからない。

 「チャンネルを回す」は日本語では死語になりつつあるのようだが、韓国では今でも「채널을チャネルル 돌리다トルリダ(チャンネルを回す」と使う。

 1980年前後までは、テレビのチャンネルはロータリー式で、回すものだった。あっちを見たりこっちを見たりと、ガチャガチャガチャとチャンネルを渡り歩くと、「壊れるからやめなさいっ!!」と怒られた。それがボタン式のチャンネルになり、リモコンで操作するようになると、日本語では「回さなく」なった。

 しかし、韓国では依然として「돌리다」ともいう。「리모컨으로リモコヌロ 채널을 돌리다」ともいう。直訳すれば「リモコンでチャンネルを回す」だが、リモコンで実際に回すわけではない…。

 私が最初に韓国に住んだ1981年。帰国する留学生から譲り受けた白黒テレビはロータリー式チャンネルだった。多分こんなのだったと思う。

1978年の新聞広告より サムソンイコノテレビジョン

 

 放送は、KBSの1・2・3とMBCの4局だったが、これ以外にAFKNという在韓米軍のテレビ放送が受信できた。KBS/MBCは、平日は午前10時になると一旦放送が終了し、夕方5時半から夜の放送が12時まで。12時になると、愛国歌エグッカが流れて放送終了になる。

 これに対して、AFKNは朝から夜中まで通しで放送していた。つまり、平日の昼間はAFKNしか映らなかった。

 日祭日は、昼の12時以降も放送があり、昼下がりの午後も韓国語のテレビが見られるのだが、せっかく高い金を出して買った受像機で平日の昼間は観るものがないというのはもったいない。そこに登場したのがビデオデッキであった。韓国の一般家庭にはビデオが広く普及していた。

 


 

 韓国のテレビ放送が始まったのは、1962年1月15日。

 この記事によれば、KBSのテレビ局の開局は1961年12月31日で、放送の開始は翌年1月15日。12月中にテレビセットの契約を受け付け、1月4日に日本から船便で仁川インチョン港にテレビセット約7000台が到着した。各契約者には1月15日の放送開始までに放送文化協会を通じて受像機が届けられ、10日以内に第2便も日本から到着するという。

 1962年の年初といえば、前年5月16日の軍事クーデターで朴正煕パクチョンヒが実権を握り、国家再建最高会議議長に就いていた時期である。日韓会談は暗礁に乗り上げたままで膠着状態にあった。日本政府が有償・無償5億ドルを出すことを取り決めた「金・大平メモ」が交わされるのは、この年の11月になってからのことである。
 このような時期に、日本からテレビセットを輸入して韓国のテレビ放送は始められたのである。

 この間の事情は、朝日新聞ソウル特派員だった真崎光晴が記事にしている。日韓の国交はまだなかったが、1960年の4・19 学生革命の後、5月から日本人特派員のソウル駐在が認められていた。

 真崎特派員のこの記事によれば、韓国放送文化協会が豊田通商を通してゼネラル(現在の富士通ゼネラル)のテレビを輸入する契約を結び、その受像機が放送開始までに輸入されたのである。外貨不足の中で200万ドルもの日本製品を輸入してテレビ放送の開始を急いだ背景には、北朝鮮に先駆けて放送を始めたいという朴正煕議長の政治的思惑があったとされている。

 その後、4月に追加で12,400台の輸入契約が結ばれ、三洋と東芝の日本製テレビが約1/3の台数を占めた。

 

 こうして1962年1月15日にKBSの初のテレビ放送電波が9チャンネルで流れた。

 

 

 この番組表からわかるように、この時、すでにもう一つ別の局がチャンネル3・12でテレビ放送を流していた。AFKN-TV、在韓米軍のテレビ放送局である。

 

 AFKN-TVは、1957年の9月に南山ナムサンの上にテレビ局を開局してテレビ放送を始めていた。

 

 そして、1964年には民放の東洋テレビトンヤンTVTBCが開局し、1969年末には文化放送ムナバンソンMBCのテレビ放送も始まり、テレビ4局時代が始まった。

  2チャンネル AFKN

  7チャンネル TBC

  9チャンネル KBS

 11チャンネル MBC

 

 1970年前後は、経済指標で比較すると北朝鮮の方が韓国を上回っており、韓国では電力不足と食糧不足が深刻であった。生産現場への電力供給を優先して家庭での電力消費を抑えるため、テレビ放送は、放送時間が朝の時間帯と夜の17時から21時までの時間帯に制限されていた。

 それでも、1972年には、南山の放送施設の横に南山タワーが建設され、テレビ塔としてだけでなく、ソウルの観光名所として脚光を浴びるようになった。

 

 ところが、1973年秋、第4次中東戦争でオイルショックが世界を襲った。日本ではトイレットペーパーの買い占め騒動が起こった。韓国では、各家庭のテレビの電力消費を抑えるために放送時間の削減に踏み切り、朝の放送を全面的に中止させた。韓国のチャンネルは、夕方5時台から夜11時までしか映らなくなった。

 

 放送時間短縮後の1974年1月17日の『東亜日報トンアイルボ』にこんな記事が出ている。

 釜山プサンなど南部の海岸地帯で日本のテレビ視聴が増えているという。アンテナを改造すれば、対馬や山陰地方のテレビ電波を受信できた。釜山では日本のテレビ放送の視聴率が22%にのぼるという。記事では、韓国の放送時間が縮小されたことと関連づけているが、それ以前から行われていたものと思われる。ドリフの全員集合もやっていたし、歌謡番組や映画劇場などもやっていた。日本のテレビ放送の受信を禁じる法律があるわけではないので、規制されることはなく、その後80年代に入ってもこの状態が続いた。

 日本のチャンネルの周波数と、韓国の受信機のチャンネル設定は多少ズレてはいたが韓国用のテレビで日本のNHK・民放の番組を視聴することはできた。

 この時期は、日本では、白黒テレビからカラーテレビへの移行期であった。韓国のサムソンやクムソンでもカラーテレビ受像機の開発を始め、1974年には生産を始めた。しかし、朴正煕政権は、消費電力が大きいカラーテレビ受像機を抑制するため、カラー放送を認めなかったばかりか、国内での国産カラー受信機の販売も禁じた。 

 しかし、AFKNは早くからカラー放送を始めており、釜山あたりで見られる日本のテレビ放送もカラーになっていた。カラーテレビの受像機さえあれば、韓国国内でもカラーでテレビ映像を見られる環境にはなっていた。そのため、米軍の基地内の売店PX(Post Exchange:酒保)からの横流しルートなどで、カラーテレビが韓国の闇市場にも出回った。

 1978〜9年になると、ビデオデッキが流入し始めた。夜しか韓国語の放送がなく、しかもカラー放送が行われる見通しもない中で、さまざまな非公式ルートでビデオデッキが国外から入ってきた。

 

 ちなみに、初の国産VHSデッキが発売されるのは1982年のことである。これによって、一段と普及が加速化したが、その前からすでに多くの家庭にビデオデッキがあった。

 この時期にはレンタルビデオ屋が急増した。ビデオレンタルといっても大きな店を構えているわけではなく、電話するとアジョッシが「큰 거예요クンゴエヨ? 작은 거예요チャグンゴエヨ?」と尋ねる。大きいのがVHS、小さいのはβ。それを確認した上でカゴにめぼしいビデオカセットを入れて持ってきてくれる。Sony信仰が強かったので、βのシェアが結構大きかったように思う。

 

 2020年1月に韓国で公開された映画「남산의 부장들(邦題:南山の部長たち:2021年1月公開予定)」で、1979年10月の朴正煕大統領暗殺事件の数日前に大統領と警護室長が言葉を交わす場面がある。

大統領閣下! 業界ではカラーテレビを売りたいと騒いでますが…

国民がオレをカラーで見られるのはいいんだが、オレは白黒が好みだ

閣下は白黒がお似合いです!

 これは映画の台詞であって、このあと二人とも射殺されてしまったので本当にこのような話をしたのか確認のしようもない。しかし、この1979年10月末という時期には、カラーテレビを販売したい、カラーテレビを放送したい、カラーテレビが見たいという欲求が韓国社会で高まっていたことは事実である。

 

 朴正煕暗殺事件の後、1979年12月12日の粛軍クーデターで実権を握り、1980年5月の光州事件を力で圧殺して権力の座に登り詰めた全斗煥チョンドゥファンは、国民のカラー放送願望に迎合して歓心を買った。その一方で、マスコミを牛耳ってこれを最大限に利用しようとした。

 

 1980年11月10日に、全斗煥政権はカラーテレビ放送の開始を大々的に打ち上げた。

 その数日後には、新聞、通信社、放送局の再編・統廃合を発表して、強権的にマスコミを政権のコントロール下に置いた。

 

 これによって、TBCテレビはKBSテレビに吸収されて消滅、MBCは株式の7割をKBSが取得して公営放送化され、テレビから民間放送が姿を消して、KBS1・2・3とMBCという4局体制に再編された。

 

 翌年5月には、朝の時間帯のテレビ放送を復活させて、80年代前半の全斗煥時代のテレビ放送体制が出来上がった。放送時間を増やすことで、国民の人気取りをするとともに世論操作にも利用していた。

 これは、1981年6月29日午後9時からのMBCニュースデスクである。この時は、大統領夫妻のマレーシア訪問の特集であったが、特集でない通常のニュースでも、冒頭で必ず全斗煥大統領の動静が伝えられ、夫人李順子イスンジャ女史ヨサがしばしば登場した。当時こんな言葉が流行った。

학사ハクサ 위에 석사ソクサ, 석사 위에 박사バクサ, 박사 위에 육사ユクサ, 육사 위에 보안사ポアンサ, 보안사 위에 여사ヨサ

学士の上に修士、修士の上に博士、博士の上に陸士(陸軍士官学校)、陸士の上に保安司(保安司令部)、保安司の上に女史(大統領夫人李順子)

 そういえば、どこかの国にも…

 

 1984年5月、NHKが衛星放送を開始した。しかし、衛星の故障などで予定通りには進まず、1986年初めに打ち上げられた放送衛星を使った15チャンネルのNHK総合テレビの番組を中心にした難視聴地域向け放送が行われていた。BS2の11チャンネルは、この年末になって試験放送が始められた。

 

 1986年の初夏、日本の大使館員が、大韓航空の趙重勲会長の付岩洞プアムドンの自宅に日本の衛星放送を受信するパラボラアンテナが設置されていることを聞き込んできた。自社の大韓航空機を使って日本からアンテナやチューナーなどの機材を持ち込んだものと思われた。大使館は、早速機材一式を本国に発注して韓国に搬入して、自国の在外公館(文化院)の屋上にパラボラアンテナを設置した。放送衛星に向けてアンテナの方向や仰角を調整するのに相当手間取ったが、数日間かかって調整して日本のBS放送がソウルで受信できるようになった。これがソウルで日本のテレビ放送を受信した初期の出来事である。当時のパラボラアンテナは、1.6メートルの巨大なものであった。

 

 その後、パラボラアンテナの改良などもあり、次第にコンパクトな機材で日本の衛星放送が受信できるようになっていった。それに、日本からの機材の輸入自由化などもあり、日本の衛星放送受信施設は高級マンションなどを中心に急速に普及していった。

 

 

 新聞では、「低俗文化」の流入を危惧する論調の記事が繰り返し書かれたが、実際にはBS放送では、韓国の視聴者が期待するようなバラエティとか、映画や歌謡番組、それに深夜番組系はほとんど放送されていなかった。大相撲の本場所が始まると、昼過ぎからは序二段、三段目、幕下の相撲が延々と続くばかりで、日本の「大衆文化」を期待してアンテナを立てた韓国人から、「なんで日本のテレビはこんなにつまらないのか!」と文句をいわれた。私のせいではないのだが…

 韓国側からすると、国家領域を越えた電波の漏洩問題との指摘があった一方で、NHK側からは、視聴料を支払っていないのに受信するのは問題だとする声が上がって失笑をかった。

 

 1986年の民主化宣言からソウルオリンピックを経て、韓国のテレビ放送も大きく変わり始めた。1991年12月にソウル放送SBSが新たにテレビ放送を開始した。11年ぶりに民放局が復活したのである。また、在韓米軍のVHFテレビ放送が使っていた2チャンネルの周波数帯がアメリカ側から韓国に返還されることになった。AFKNがUHF放送に転換するための費用22億ウォンあまりは韓国側で負担した。

 

 そして1995年3月にテーブルテレビ20局が開局して、一気に多チャンネル時代に突入した。

翌年6月にはケーブルテレビ加入者は100万世帯を越え、7月からはKBSの衛星放送も開始された。同時に、放送時間の制限が緩和されていき、終日放送も許容されるようになっていった。

 


 

 2017年8月、韓国で公開された映画「共犯者たち」。日本でも2018年12月に一般公開された。
 李明博 イミョンバク政権と朴槿恵パククネ政権によるメディアへの介入、これに迎合するKBSやMBCの幹部たち、それと闘う現場の放送人たちのドキュメンタリーである。

http://www.kyohanspy.com/

 

 なぜ、李明博や朴槿恵がKBSやMBCの人事に介入し、放送を自分たちの政権のために利用しようとしたのか。それは、韓国のテレビの歴史を振り返るとよくわかる。独裁政権のやり方を踏襲しようとしたのである。それと闘う人々もその歴史があるが故に妥協せず戦い続けるのである。

 

 そして、それは日本社会にとっても決して他人事ではないのである。

 1980年代の韓国で自転車というと思い出すのはこのような風景。そして、荷台が大きな運搬用の自転車。

 その当時のソウルでは、自転車が通学や通勤に使われることはなく、荷物運び用の自転車以外はほとんど見かけることがなかった。歩道は段差が大きくて自転車が走るのは到底無理。車道はバスや自動車が競い合っていて、自転車ごときに道を譲ってはくれない。大量の荷物を積んで横柄に走る自転車だけが何とか走れていた。

 

 韓国の人、特に1980年代までのソウル育ちの女性で自転車に乗れないというのは珍しくない。まだ日本への渡航が難しかった1980年代のはじめに日本にやってきた韓国人学生が、「日本では女の人が自転車に乗るんですね( ꒪⌓꒪)!」と驚いたことがあった。こちらはその驚きぶりに驚いたのだが…。

 『韓国の社会指標』で、「通勤・通学 利用交通手段分布」をみてみると、1990年・95年・2000年のソウル市内での自転車利用率は0.6%にすぎない。

 

 ところが、最近はソウル市内のあちこちで普通に自転車を見かける。地下鉄にもそのまま自転車を載せている。日本だと、折りたたんでケースに入れないと電車や地下鉄には自転車は持ち込めない。それに、ソウルで自転車に乗る人は、本格的なファッション、いわゆる「チャリダー」スタイルが目に付く。

 

 今の韓国で、自転車ライフが注目を浴びるようになったのは1990年代の半ば以降のこと。

 

 1996年には、汝矣島ヨイドにできた自転車広場が注目され、この年の秋には漢江ハンガンの河川敷に自転車道路計画が発表された。日常生活での自転車利用の広まりというよりは、レジャーや健康のためのサイクリング志向が急増した。

 

 そして、2009年には地下鉄に自転車をそのまま持ち込めるようになった。

今や、こんな風景は珍しくない。

 


 

 『韓国の社会指標』でみると、通勤・通学に自転車を使用する人が、2005年は0.9%、20010年には1.5%まで上昇している。

 


 では、そもそもいつ頃自転車は朝鮮で乗られるようになったのだろうか。

 

 話は一気に19世紀にまで遡る。

 


 

 日本では、自転車は明治維新前後に持ち込まれたとされる。

 私の祖父が小学生の頃の逸話を書き残している。曽祖父が徳川慶喜の典医だったので、明治維新以降は静岡で徳川慶喜の屋敷の向かいに住んでいた。1878年生まれの祖父は慶喜の息子の遊び相手をしていた。この逸話は1880年代後半から1890年頃のことであろう。

 又ある時期に、慶喜が夢中になったのは自転車乗りであった。そもそも如何なる手順で入手したかは不明であるが、慶喜は一時南蛮渡来の別品自転車を入手し、スマ―トな洋服を着て、それにうちまたがり、静岡市内を縦横無尽に走りまわったのであった。尤もその頃、自転車は我が国にも存在し、私なども得意になって、盛んに乗り回したものだが、それは勿論木造、鉄の太い輪のついた粗品で、ゴットンゴットンと、絶えず罵声の如き怒号の如き音を放って走った。そして、通行人に、自転車事故の警戒をさせた。それで当時、自転車事故は一件もなかった。
 慶喜の南蛮渡来の別品自転車は無論ゴム輪で、銀輪目を射る如き国宝自転車であった。そして慶喜は、銀鞭を振って自転車に鞭うちつつ、意気高らかに走ったのではないかと思われるが、実は左にあらず、慶喜の銀輪自転車にはイナセな黒鴨仕立ての若き別当一人先行して、敢えて憚るところがなかった。

 つまり、慶喜の自転車の前に露払いが一人ついて自転車を走らせていたというのである。

 この「南蛮渡来の別品自転車」というのは、「ローバー安全型自転車(Rover Safety Bicycle)」であろう。

 上掲の自転車は、現存する1886年製の「安全自転車」(自転車文化センター所蔵)である。ほぼ現在の自転車の形状に近い。徳川慶喜はこんな自転車に乗っていたのだろうか…。意外なほどスマートで、確かに「別品」である。

 

 ちょうどこの時期のものと思われる自転車の写真が『朝鮮日報』のデータベースにも残されている。

 朝鮮からアメリカに亡命してアメリカの市民権をとった徐載弼ソジェピルが、現地で撮ったとされるもので、これも「安全自転車」である。

朝鮮日報データベースより

 

 徐載弼は、1884年に金玉均キムオッキュン朴泳孝パクヨンヒョらと共に甲申政変を起こすが、失敗して日本へ亡命した。その後、アメリカに渡りコロンビア医科大学夜間部に進学、在学中にアメリカ市民権を得て、1893年に大学を卒業した。

 

 その徐載弼が、朝鮮に戻れるようになったとき、朝鮮に自転車を持ち込んで最初に自転車に乗ったとされている。それ以前に、外国人が朝鮮に自転車を持ち込んだことがあったが、朝鮮人として初めて朝鮮の地で自転車に乗ったのは徐載弼とする説が有力である。

 

 日清戦争後、徐載弼はアメリカから朝鮮に戻り、清と朝鮮の華夷的な関係を国際法的関係に改める運動を始め、独立門や独立館を建てた。その「独立」とは清との「宗属関係」からの脱却を意味した。「独立協会」を組織して『独立新聞』を刊行した人物として知られる。ブログ参照

 

 徐載弼が最初に自転車に乗ったという話は、1928年12月発行の『別乾坤ビョルコンゴン』第16・17号に掲載されている「各界・各方面で一番最初の人物」という記事の中に出てくる。最初にまげ(サントゥ)を切った人・欧米に留学した人・自動車に乗った人・洋服を着た人・新式の結婚をした人などとともに、最初に自転車に乗った人ということで、このように書かれていた。

各界各面 第一 먼저 한 사람     觀相者  
(前略)
그런데 지금으로부터 32년 전 丙申年에 徐載弼박사는 남 먼저 자전차를 타고 다니엿다. 그는 甲申年 金玉均 정변 때 멀니 米國에 망명하야 그 나라에 입적까지 하엿다가 그후 13년만에 (丙申年) 정부의 초빙에 의하야 귀국함에 米國에서 타던 자전차를 가지고 와서 타고 다니엿는데 그때에 尹致昊씨는 그에게 자전차 타는 법을 배워가지고 또 米國에 주문을 하야다가 타고 다니엿다. 우에 말한 것과 가티 그 때만 하야도 아즉 일반의 지식이 몽매한 까닭에 그들의 자전타 차고 다니는 것을 보고 퍽 신기하게 생각하야 별별 말을 다 하되 徐씨는 서양에 가서 양인의 축지법을 배워가지고 하루에 몃 백리 몃 천리를 마음대로 다니더니 尹씨는 代代家傳의 借力藥이 잇서서 南大門을 마음대로 훌훌 뛰여 넘어 다니녀니하고 또 자전차를 안경차니 쌍륜차니 하는 별명까지 지여섯다. 그리하야 獨立協會時代에도 여러 사람들이 徐씨나 尹씨를 보면 조화꾼이라고 負商패들이 함부로 덤비지를 못하며 또 한참 접전할 때에 그가 포위 중에 저 자전차 鍾을 한 번 울니연 여러 사람이 무슨 대포나 터지는 듯이 㥘을 내이고 도망하며 속담에 『眼鏡갑오』라는 말이 꼭꼭 맛는다고 떠드럿섯다. 지금에 그 일을 생각하면 또한 격세의 感이 업지 안타.

 

(前略)

ところで、今から32年前の丙申年に徐載弼博士は誰より先に自転車に乗っていた。 彼は甲申年の金玉均政変の時、遠く米国に亡命してその国の国籍をとったが、その後13年ぶり (丙申年)に政府の招聘によって帰国すると、米国で乗っていた自転車を持ってきて乗り回した。その時、尹致昊ユンチホ氏は彼に自転車の乗り方を教えてもらい、米国に発注して乗り回した。そのころはまだ人々は自転車をよく知らなかったので、彼らが自転車に乗るのを見てとても驚き、いろいろなことを言った。徐載弼氏は西洋に行って西洋人の縮地法を教わり、一日に何百里と千里を自在に行き来し、尹致昊氏は代々家伝の借力薬を使って南大門を越えて自在に走り回り、自転車に眼鏡車とか双輪車といった呼び名も付けた。そして独立協会の頃には、多くの人が徐載弼氏や尹致昊氏のことを「走禍輩」と呼んで、褓負商ポブサンの連中でもむやみに飛びかかることができなかった。また両者が対峙している時、彼が包囲された中で自転車のベルをひとたび鳴らすと、大砲が放たれたように泡を食って逃げ出した。ことわざに『眼鏡甲午』という言葉がぴったりだと言われた。今そのことを思うと、まさに隔世の感がある。

 

※褓負商:全国を行商をする人々だが、行動範囲が広く権力者に利用されることがあった。1898年に、保守派の皇国協会が独立協会を襲撃したが、その際にはその中心となった。

 徐載弼が一人で乗っていただけではなく、開化派の同志尹致昊にも乗り方を教えて自転車を買わせたという。

 尹致昊はこの頃英語で日記を書いていたが、1898年の1月22日に自転車に乗ったという記述がある。

22nd. (1st of 1st Moon, Moo-sool Year). Saturday. Pretty.

 A beautiful day―Practiced bicycle part of the a.m. with Remedios. In the afternoon went to the Palace to congratulate His Majesty on the old style New Year.

 Chang Bong Huan informed me that there are two parties, one Royalists and the other, Russianites: that the latter had some days ago planned to clean out the former, but that the plot fell thro. Whether this was so or not, I don't know, but whoever wants to do anything worth doing will have to cleanse the Palace from the legion of little devils who are driving the country fast into hell.

 

 のどかな日だ。午前中にレメディオス(Remedios)と一緒に自転車の練習。午後、陛下に正月のご挨拶をしに宮中へ行った。
 張鳳煥が知らせてくれたのだが、王室派とロシア派がある。ロシア派が数日前、王室派を掃討する陰謀を企てたが、失敗に終わったという。張鳳煥の話が正しいかどうかは分からない。しかし、正しいことをしたい人なら誰しもが、この国を地獄に陥れている悪党の群れを宮中から除去しなければならない。

『尹致昊日記』五  P.128

※レメディオス:Heliodoro A. dos Remedios

横浜の米国総領事だったクラレンス・グレートハウス(Greathouse, Clarence R.)が1890年に朝鮮の法律顧問として招かれたときに、ゴア人(インド西部のポルトガル領ゴアの人)のレメディオスを帯同した。正式の養子縁組はなかったが、実際には息子と秘書の地位にあった。

 

 開化期に自転車に乗っていたのは、徐載弼や尹致昊だけではなかった。

 

 徐載弼がアメリカで自転車に乗り始めたように、日本で自転車を愛好した朝鮮人がいた。

 高宗国王の第五子の李堈イガン義和ウィファ君)は、1897年に慶應義塾に留学したが、この時に自転車に乗っていたという記録がある。それは日本側の監視報告の中に残されている。

(前略)

朴等ハ殿下カ「ゲール」ノ甘言ニ歁カレ不時ニ誘ハレンコトヲ懸念シ殿下ヘ出京ヲ勸メタルモ殿下ハ「ゲール」ハ歸國スルモノナルカ故ニ從來ノ交誼トシテ橫濱ヘ赴キ告別セサレハ不相濟トテ承諾セラレス終ニ腕車ニテ橫濱ニ至ラルゝ事トナリタルモ殿下ハ「ゲール」ヲ訪問スルヲ止メ眞砂町自轉車屋ニ至リ車一輛ヲ借リ公園地ヲ周遊セラレ居タル爲メ朴ハ殿下ニ出會スルコト能ハス斬ク狼狽セシモノゝ如シ又朴泳孝ハ何事カ殿下ノ感情ヲ損セシモノカ殿下ハ朴泳孝カ公園地ニ至リタルニ之ヲ避ケラルゝ模樣ニテ直ニ橫濱停車場ニ赴キ同日午後四時十五分發汽車ニテ上京セラレタルヲ以テ朴泳孝等ハ其跡ヲ追テ此ノ列車ニテ歸京セリ而シテ殿下ハ同夜終列車ニテ歸寓セラレタリ

右及報告候也

 

明治三十年二月二十七日

神奈川縣知事 中野健明

外務大臣 伯爵 大隈重信 殿

 朴泳孝は甲午更張で改革を主導したが、失脚して再び日本に亡命していた。この時、朴泳孝は義和君との接触を試み、横浜まで出かけていった。しかし、義和君は公園でレンタル自転車に乗っており、そのまま汽車で東京に帰ったというのである

 さらに5月にも義和君は横浜にアンダーウッド(延世大学の前身延禧学校の創設者)を尋ねた時もレンタル自転車に乗っている。

(前略)

居留地百七十九番館「セントラルホテル」ニ赴キ同ホテル滯留外國人「エツチ,ジー,アンダーウツト」ヲ訪ヘリ同人ハ永ク朝鮮國ニ在留セシ者ニテ職業ハ醫師ニシテ宣敎師ナリト云フ然ルニ同人ハ山手邊ニ赴キタル由ニテ不在ナリシヲ以テ同一行ハ同ホテルニ於テ晝餐ヲ爲シ夫ヨリ眞砂町一丁目高木自轉車屋ニ至レリ同所ニハ韓應履モ待合居リ而シテ殿下ハ公園地ニ於テ自轉車ノ演習ヲ爲シ同日午後三時半頃韓應履ノ外同一行ハ再ヒ「セントラルホテル」ニ到リ玉突ノ遊戲ヲ爲シ居ル折柄「アンダーウツト」歸來シタルヲ以テ是ヨリ一同樓上ニ會シ凡ソ三十分間何事カ談話シ(後略)
右及報告候也

明治三十年五月十六日

神奈川縣知事 中野健明

外務大臣 伯爵 大隈重信 殿

 この頃は、自転車が高価であったこともあり、日本各地で貸し自転車が繁盛していたという。

 

 このもう一方の当事者である朴泳孝も日本亡命中に自転車に乗っていたという記録がある。

 1897年10月に朴泳孝は神戸から「木曽川丸」に乗船して下関に向かった。乗船前の神戸での動静報告に次のように記載されている。

大阪農人町野津虎次郞ナルモノ朴ノ知人ナリトテ來訪シ雜談時ヲ移シ後朴ハ單身自轉車ニ乘リ旅館ヲ出テ海岸通ヨリ遊園地及居留地等ヲ經テ程無ク歸館午後一時乘船セリ

 

朴泳孝の歸國報告(兵發秘第四四七號)1898年10月3日  
兵庫縣知事大森鍾一から外務大臣大隈重信  

さらに、下関でも、

朴泳孝ハ一昨三日午後二時同國人黃鐵·李四德·張三良·金商準·安泳中ノ五名ト共ニ縣下馬關ニ入港ノ木曾川丸ヨリ上陸直ニ同地阿彌陀寺春帆樓ニ投宿セリ

朴ハ着關後直ニ伊豫松山ノ山口某及京城「ソアントウ」ノ「ツネヤセイフク」ナルモノニ宛テ着關ノ旨ヲ打電セリ而シテ同人ハ爾後五時過キヨリ單身自轉車ニ乘リ外濱邊ヲ散步シ二十分許ニシテ歸館セリ

 

朴泳孝の歸國說に関する報告(秘第三○六號)1898年10月5日
山口縣知事秋山恕卿から外務大臣大隈重信  

と自転車に乗っている。朴泳孝はレンタルではなく、自分の自転車を船に積んで運んだのであろう。その後、門司に渡るときも自転車を持って行っている。そして、自転車に乗って自分でハガキをポストに入れに行ったりしている。

朴泳孝ハ過般來九州漫遊ノ途ニ上ラントスルノ計圖アル旨聞ヘ居リシカ過ル五日午後五時三十分朴ハ自轉車ヲ携ヘ安泳中ニ行李ヲ持セ馬關ノ僑居ヨリ門司ニ渡來シ旅舍石田屋ニ投シタリシカ安ハ同夕喫飯後馬關ニ歸去シ朴ハ翌朝はかきヲ認メ自轉車ニ跨リ自ラ投凾シタリ其何事ヲ認メアリシカハ不明ナレトモ長崎ノ女學校內ノ某ニ宛テタルモノナリシ趣ニ付多分外國宣敎師ニ托シ敎育中ナル自分ノ娘ニ與ヘタルモノナラン

 

朴泳孝一行の動靜報告(高秘第七九八號)1898年11月8日  
福岡縣知事曾我部道夫から外務大臣大隈重信  

 朴泳孝は、1907年に再度韓国に戻り、李完用イワニョン内閣で宮内府大臣となったのだが、この時に自転車を持ち帰ったのだろうか… そうした資料は出てこないのでわからない。

 

 韓国のいくつかのサイトに、日本で撮ったという写真が掲載されている。出所不明だが撮影時期は1885年頃だと推定されている。

左から、朴泳孝・徐光範ソグァンボム・徐載弼・尹致昊である。1897年にアメリカで死去した徐光範をのぞき、この3人はその後自転車で走り回っていたということになる。

 

 韓国の新聞検索システムで調べると、1899年の『独立新聞』に掲載された自転車の広告が出てくる。開利ケリ洋行が7月12日付と29日付の紙面に出したもので、「자전거チャジョンゴ(自転車)」ではなく「자행거チャヘンゴ(自行車)」と表記している。開利洋行は、所在地が「貞洞チョンドンの新大闕の前」となっている。すなわち、現在の徳寿宮トクスグンの前あたりであろう。広告文によれば、アメリカ製の自転車とともに、前照灯やベル、空気ポンプ、サドル、車輪などの部品販売もしていた。

 

1901年8月1日の『皇城新聞』にも広告があるが、これは「紙廛(紙屋)」が自転車を「譲ります」といった広告であろう。

 

 

 さらに、1902年8月30日の『皇城新聞』には、日本勢力の京城での拠点だった倭城台に店を構える山本商店で、アメリカ製の自転車を販売し乗り方の教習も行うという広告を出している。

 

 

 1904年に日露戦争が起きると、日本軍では自転車を伝令や偵察で使用した。H.W. Wilsonの『Japan's fight for freedom』には、「コサック兵から逃げる日本軍の伝令」という挿絵や、自転車が配備されている部隊の写真が掲載されている。 日露戦争中、日本軍の兵站基地とされた大韓帝国にも多くの自転車が持ち込まれた。

 

 1907年になると、京城の街中でも自転車が相当増えたものと思われる。興味深いのは、7月7日付の『大韓毎日申報』のこの記事である。

苧洞チョドンの十字路(今の明洞聖堂ミョンドンソンダン交差点あたりか)で韓国人が自転車を貸していた。日本人がその自転車を借りていったが、返却時に車輪が壊れていたので、車輪の代金を弁償するよう求めた。すると明日持ってくるといって立ち去ろうとしたので日本人の巡査に突き出した」という内容である。

 すなわち、日本と同じように京城にも自転車のレンタルがあったのである。

 

 また、7月10日の『皇城新聞』には、農商工部(今の光化門グァンファムン交差点の教保キョボビルのあるところ)の前を鉄製品を運搬していた朝鮮人に日本人の乗った自転車がぶつかり、運搬していた人が重傷を負ったという記事が出ている。

 

さらに、自転車の競技会が旧訓錬院の前庭で開かれたという記事もあり、この時期にかなり広く自転車が普及してきていたことを窺わせる。

 

 1907年の『最新京城全図』(ソウル歴史博物館所蔵)で見るとこのようになっている。この頃、自転車がこの街を走っていたのである。

 

 この頃の釜山(1906年)と平壌(1907年)の絵葉書で自転車が写っっているものがある。残念ながら京城のものは年代が特定できない。

 

 その一方で、この時期には、自転車をめぐって日本人と朝鮮人の間で摩擦があったことを窺わせる記事が散見される。

 

夜8時過ぎに南大門の外で自転車に乗っていた子供が日本人に自転車を奪われそうになったが、なんとか逃れた。しかし、殴られて重傷を負った。

 

純宗皇帝が昌徳宮に還御しようとした際、敦化門の前を自転車で横切ろうとした日本人を主殿院警視が捕まえて日本の巡査に引き渡した。

 

 日露戦争後、大韓帝国を「保護国」として統監府を置いて干渉を強める日本と、それに抵抗する大韓帝国という構図の中で、1907年7月のハーグ密使事件と高宗皇帝退位以降、様々な面で日本と韓国の間に摩擦が強まっていた。自転車をめぐっての摩擦や葛藤もその例外ではなく、いろいろな事件が起きていたということだろう。


 

 植民地時代、そして解放後の韓国における自転車については、また機会を改めてまとめることにしたい。

 1924年6月25日から8月15日まで、京城府内の100の洞と町の名物102個を取り上げて紹介する連載記事「一百洞町・一百名物」が『東亜日報』に掲載された。単に名物を載せるのではなく、どの洞・町内で何を名物として取り上げるか—名物は東亜日報の記者が選ぶ—を、読者が事前投票で当てるという読者参加型企画である。

 6月中に1週間通して毎日、その予告記事が掲載された。

ソウルは85カ所の洞と101カ所の町があります。その洞内・町内には必ず名物があるものです。例えば、鍾路には鍾閣、西小門には阿片窟といった具合です。

 ここで、鍾路の鍾閣と西小門の阿片窟が例として挙げられていた。鍾路の鍾閣は6月25日の1回目で取り上げられたが、西小門の阿片窟は記事が見当たらない。そもそも西小門町は指定の洞・町にも入っていない。

 

 西小門町の名前の由来になった西小門ソソムンは、正式名称は昭義門ソウィムン。1914年に門は撤去された。

 東側の光煕門クァンヒムンと同じように、城内で亡くなった人はこの門から遺体が運び出されたりした。そのため西小門外、現在のエオゲから孔徳コンドクあたりにかけて墓地が多くあった。

 そして、併合後、この西小門の内側(上掲の写真は外側から撮ったもの)には中国人が多く居住するようになった。

 

 朝鮮の中国人は、1906年には全土で3,361人であったものが、1910年の韓国併合時には11,818人、1916年には14,904人と増加していた。

 1923年5月の『京城日報』にこのような記事が出ている。

 

 中国人は、内地人や朝鮮人の半分以下の労賃で働くという。要するに、中国人の労働者は、朝鮮人以上に搾取できる対象とされた。総督府は、中国人の雇用は雇用者全体の1/3までに制限せよという通達を出しているが、労賃の安い中国人の雇用が多くなっているというのである。この頃から、朝鮮に渡ってくる中国人労働者が次第に増加するようになった。

 

 こうした流れの中で、京城中心部にも中国人が多く暮らす地区ができていった。1926年2月の『京城彙報』に、1925年10月現在の京城府内の人口が掲載されている。

  朝鮮人    245,349人
  内地人    84,696人
  中国人    5,875人

この5,875人に過ぎなかった中国人の40%以上にあたる2,411人が、貞洞、西小門町、太平通2丁目、長谷川町、北米倉町に集中して居住していた。

 

 

 西小門町だけで見ると、

    戸数   人口
  朝鮮人    145戸  583人
  内地人  119戸  586人
  中国人  109戸  668人

と、人口で言えば中国人が最多である。上記の地区以外の洞・町では、貫鉄洞(301人)や漢江通13番地(139人)が多い。こうした集住地区以外では、個別にホットク屋や食堂などを営んでいたようだ。

 

 1920年代後半の西小門町については、1987年5月の『毎日経済メイルキョンジェ新聞』に、当時「韓国マイコム」の社長だった金泳禄キムヨンノクが、幼少の頃のエピソードをコラムを書いている。金泳禄は、1921年生まれで、解放後の韓国政府で財務部の理財局長などを歴任し、65年から71年まで中央日報チュアンイルボの論説委員も務めた。

 

ハイエナの悲願
金泳禄
 幼い頃の特に悲惨な印象というのは長く残るものらしい。私が60年前に通った普通学校(国民学校)は、西小門峠の貞洞だった。その一帯はソウルで最も異国風が漂う中国人街であった
 この通りは特に薄暗くてみすぼらしい。いくつかのホットクの店は人の出入りがあったが、他の家は幽霊の棲み家のように見えた。
 間違って捕まりでもしたら、どこに売られるか分からないという噂もあった。
 道の片隅にはいつもごみが山積みになっていたが、ある日、青白い顔の年寄りがその後ろで長く横になっていた。一見して死を待つばかりなのは明らかだった。世の中でも最もみすぼらしい身なりだった。その傍には、同じような身なりの2〜3人が、彼の最期を看取っていた。登校途中だったので、この光景を奇異に思ったものの、あわただしく通り過ぎた。あんなに凄惨な中でも最期を見守ってくれる友の愛情は貴重なものだと感激しながら。
 教室に入ると隣の席の友人にその話をした。彼の答えはあまりにも唐突だった。
 「バカだなぁ、愛なんて糞食らえだ。それは阿片中毒者だ。金がなくなったから阿片窟から捨てられちまったんだ。周りのやつらはそいつの服を脱がせてそれを売ってアヘンにしようと死ぬのを待っているんだ」
 その光景は今日もなお私の脳裏に白黒写真のように焼き付いている。
(後略)

<韓国マイコム社長>

 1920年代後半に、「ソウルで最も異国風が漂う中国人街」西小門町で貞洞普通学校(朝鮮語を母語とする児童が通う小学校)に通った時の追憶である。その通学路の途中に「阿片窟」があったのである。

 

 実は、『東亜日報』は「一百洞町・一百名物」の連載を始めた1924年の前年11月に、この西小門町の「魔窟」のルポルタージュ記事を載せている。「阿片窟」の写真も一緒に掲載している。

 

 さらに、1927年には開闢社の雑誌『別乾坤』第4号(1927年2月)に、「刺身鬼・阿片魔窟大探査記」という、おどろおどろしいタイトルのルポルタージュ記事が掲載されている。

 

 もちろん、中国人が集住する西小門町全体がすなわち「阿片窟」というわけではない。当時の新聞記事データで「阿片窟」を検索すると、中国人の居住区以外のあちらこちらに「阿片窟」があって、警察の手入れを受けたりしている。しかし、中国人の多い西小門の「阿片窟」が、一番それらしいということもあり、「西大門町の名物」とされていたのであろう。

 

 1920年代の朝鮮の中国人については、「阿片窟」よりも、人件費の安い中国人労働者の流入問題の方に関心が寄せられていた。

 

 1926年末当時の京城府での職工と労働者について調べた統計がある。

  朝鮮人    19,104人
  内地人    1,955人
  中国人      818人

 中国人の職種としては、大工・石工・鍛冶、それに苦力が多かった。

 

 1928年2月〜3月の『朝鮮新聞』は、新義州から陸路で朝鮮に入ってきたり、仁川から海路で芝罘・威海衛・大連などから中国人労働者が続々と朝鮮に来ていて、「中国人と朝鮮人間の労働問題」となる懸念があると報じている。

 

 

 

 これら中国人の流入労働者のほとんどは、朝鮮内の各地方の労働現場へ向かったが、京城及びその近郊に流れ込む労働者も少なくなかった。1929年5月10日の『大阪朝日新聞』はこのように伝えている。

 

 

 日本による朝鮮総督府を通じた植民地統治と侵略政策が、社会経済的矛盾を生み出していたにもかかわらず、日本のマスコミと統治機関は、廉価の労働力「支那人」と「朝鮮労働者」の対立が勝手に起きているがごとき認識であった。その対立において、日本があたかも仲裁者・調停者のごとく振舞うことで、さらなる膨張と侵略に利用しようとさえした。

 

 中国東北部で万宝山事件が起きたのは、このような時期であった。

 1931年7月2日、中国東北部、長春北西の万宝山で、入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との間で農業用水路に関する小競り合いが起こった。これに中国警察が介入すると、日本側もそれに対抗して、朝鮮人の保護を名目に長春の日本領事館から武装警察隊を現地に送った。現地の中国人農民は実力で工事を阻止しようとして、日本の警官と対峙した。その場は、中国警察が中に入って全面衝突は回避され、日本の警察隊の警護の中で7月11日に水路が完成した。


 19世期末、それまでの華夷システムのもとでの朝鮮・清関係から、国際法秩序への移行するプロセスの中で、鴨緑江と豆満江の境界線を巡って、朝鮮と清との間で「勘界会談」が行われた。その後、豆満江・鴨緑江を越えて移住する朝鮮人が増加し始め、それらの人々の保護・管理を巡って朝鮮と清の摩擦がおきた。
 大韓帝国は、「間島」(現在の延辺朝鮮族自治州の一部)の領土領有権を主張していたが、1905年に日本が「保護条約」を結ぶと、日本がこの問題に介入した。1907年に統監府が龍井に「臨時間島派出所」を置いて、越江した朝鮮人の「保護」を名目に、清側の公権力や中国人入植者と対峙した。しかし、1909年に、日本が中国東北部での鉄道権益を手に入れるため、その交換条件として清国の「間島」領有を認めた。その一方で、朝鮮人は日本国政府の「保護」対象であるとして、この地域で朝鮮人を「保護」するという名目で、監視と抑圧を続けるとともに、中国側官民への対抗的な牽制と挑発を繰り返していた。

 中国側からすれば、朝鮮人は日本の中国侵略の「先兵」であり、日本の介入を呼び込む「手先」であった。朝鮮側からすれば、日本は中国との対抗上では有用な面もあるが、朝鮮を侵略して自分たちを豆満江北側にまで押しやった勢力であり、さらには「間島」を中国に売り渡した張本人でもある。しかも、この地域—清王朝発祥の地として19世期末まで立ち入りが禁じられていた—の中国人は朝鮮人よりも後からこの地に入植してきたもので、この地域の開拓、特に水田耕作は朝鮮人の貢献に負うところが大きかった。そのような自負を朝鮮人農民は抱いていた。

 

 そうした現地の複雑な事情を知ってか知らずか、京城の日本語新聞2紙は、中国側の農民・警察と、朝鮮人農民とそれを助ける日本領事館と警察という図式でこれを報じた。

 

 

 

 さらに、朝鮮語の新聞『朝鮮日報』は、長春支局長金利三に加えて新義州支局の申栄雨記者を現地に送り、万宝山三姓堡での朝鮮農民の開拓状況と中国側との摩擦について「万宝山三姓堡同胞受難記」と題した連載記事を、6月21日から5回にわたって連載していた。そして、7月2日の衝突について、かなり誇張された記事が7月3日の『朝鮮日報』に掲載された。

 

 この衝突が朝鮮内で報じられると、朝鮮各地で中国人に対する襲撃事件が発生した。7月3日深夜から、朝鮮各地で朝鮮人が中国人居住区に集団で押しかけ、中国人や中国人商店を襲撃する事件が起きた。特に、仁川や平壌では激しかった。

 

 京城では、中国人襲撃のターゲットになったのは、西小門町一帯であった。

 

 

 この中国人に対する襲撃事件で、中国人の死者は109人、負傷者は160人であったとされる。

 

 この時に現場で取材に当たっていた朝鮮日報長春支局長金利三は、現地の朝鮮人に拉致されて「日本側の情報に誘導されて記事を書いた」という自己批判をさせられた上に、その後射殺された。万宝山事件の、複雑で微妙な対立構図をそのまま現した不可解な事件であった。

 

 新義州や仁川から入ってきていた中国人労働者の多くは、定住目的というよりは春から秋にかけての季節的出稼ぎが目的であった。中国人に対する集団的な攻撃が各地で発生すると、その後中国人労働者の朝鮮への渡航は激減した。朝鮮への渡航が減ったのは、万宝山事件の影響だけでなく、同じ年の9月18日に奉天(現瀋陽)郊外で日本軍が起こした柳条湖事件の影響もあった。

 

 中国人労働者の減少によって朝鮮人の雇用機会が増えて社会が安定するという日本語新聞の記事がある。その一方で、あてにしていた中国人の労働力が確保できないことで朝鮮のインフラ整備などの事業計画が頓挫するという問題も発生した。

 

 ただ、こうしたところで記事にされた中国人労働者問題は、上述のように出稼ぎ労働者が中心であって、定住の中国人、いわゆる「華僑」の人々の多くはそのまま朝鮮内に留まっていた。

 

 しかし、その定住中国人の人口も日中戦争が始まった1937年に激変する。

 

 『京城彙報』第198号(1938年5月)に1937年12月末日現在の京城府の戸口・人口調査の結果が掲載されている。「府内住居外国人国籍別状況」を見ると、

 

 中華民国   2,005人   △(6,266人)

 

1935年からの1年間で、京城府の中国人は、8,271人から2,005人と、6,266人激減している。日中戦争の影響であることはいうまでもない。

 京城に残った2,005人のうち、4割以上の855人は長谷川町、太平通2丁目、北米倉町、西小門町に居住していた。特に、西小門町では、依然として中国人の人口比が高い。

 

 

 翌1938年12月末現在でも、京城の中国人は2,685人(『京城彙報』第208号 1939年3月)とほとんど同水準である。この後、1941年の真珠湾攻撃で日本は太平洋戦争に突入するが、その時期に京城の中国人がどのような状況にあったか、これを知る資料はまだ見つけられずにいる。

 ただ、朝鮮全土の中国人の総人数でいうと、日中戦争・太平洋戦争の中で増加している。これは定住型の中国人ではなく、季節労働の出稼ぎ労働者を朝鮮半島各地でで使役したことを反映したもので、京城の中国人は増加しなかったのではなかろうか。

 

 日本の敗戦による朝鮮の解放後、1947年10月1日付の『東亜日報』の記事に、京城の人口のことが書かれている。

 

 

 この記事では、ソウルの外国人は5,747人となっているが、これは中国人以外も含むもので、1935年水準までは回復していなかったと思われる。しかし、1946年3月以降、中国人は「74世帯、548人増加している」ということなので、かなりの増加の趨勢にあったとみられる。国共内戦や、その後の中華人民共和国建国で、朝鮮への再渡航が増えたとも考えられる。

 

 解放後も西小門路のところには「阿片窟」があった。

 

 しかし、1950年からの朝鮮戦争で、西小門付近はかなり大きな被害をうけた。西小門の阿片窟も消滅して、市内の他の地域に拡散していった。

 

 1961年に権力を掌握した朴正煕政権は、華僑に対して様々な制約を加えて規制を強めた。西小門路が衰退していく中で、中国人街として最後まで残っていたのは太平路2街テッピョンノイーガであった。しかしその再開発が1971年以降急ピッチで進められことになり、ソウル都心部では、中央郵便局裏の中国大使館前の1ブロックの書店や食堂を除いて、中国人街と呼べる地区は消滅した。

 

ソウル市庁の屋上から見下ろした小公洞ソゴンドンの中国人村

都心の恥部がすぐに再開発される

 

 1970年代の前半までは、市庁前広場のプラザホテルの裏手は中国人が集住する最後の集住地であった。しかし、それはソウルの「都心の恥部」として除去されたのである。

 

◆エピローグ

 1985年に、「雨ふる永東橋」がヒットした時、歌っている歌手の周炫美チュヒョンミが「華僑」の出身だということが話題になったことを覚えている。ベタベタの韓国演歌なのに歌手は中国人!ということだったのだろうか…。違和感が印象に残っている。

 

 1992年8月23日、韓国は電撃的に中華人民共和国と国交を結んで、中華民国と国交を断絶した。明洞の中華民国大使館は、中華人民共和国大使館に敷地建物を明け渡し、中華民国は「台湾」となった。中華学校も管轄が一変した。

 

 今や、小西門の通りは高層ビルが立ち並び裏手に回っても「異国」を感じさせるものは皆無である。プラザホテルの裏手の路地—旧太平通2丁目—も、観光客相手の食堂や飲み屋が立ち並んでいる一角になっている。