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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

韓国でのアジア映画祭と日本映画(1)から続く…

 

 日本と韓国との間に外交関係が樹立された1965年、この年のアジア映画祭は5月に京都で開かれた。翌1966年の第13回アジア映画祭について、韓国代表団からはソウル開催を求める声があがったが、結局マレーシアのシンガポールで開かれることになった。

 この当時、韓国では日韓基本条約の締結に反対する激しい街頭デモが連日続いていた。朴正煕政権は反対運動を力で抑え込み、6月22日に日韓双方が日韓条約に署名した。しかし、その後もソウルでは、国会での条約批准を阻止しようとデモが続いた。8月中旬にソウルには「衛戍令」が出されて、デモの鎮圧に軍隊が投入される事態になった。 

 

 ちょうど時を同じくして、シンガポールがマレーシアから分離独立し、予定されていたアジア映画祭の開催を辞退した。これを受けて、10月になってソウルでの開催が決まった。「衛戍令」は9月末に解除されていた。

 

 1966年5月に再びソウルで開かれた映画祭に、日本からは劇映画5本と非劇映画5本、映画関係者・男女俳優、それにオブサーバーなど36名が参加した。

 

 映画祭の前日の『東亜日報』の紙面を見てみると、アジア映画祭の記事のすぐ横に、「日本映画上映許可 来年から」という記事がある。韓国政府の公報部が、日本の映画輸入について、教育・文化映画から順次劇映画にまで範囲を広げていくとの方針を示したとの内容である。

 

 これは、前年の日韓条約の批准反対運動に対して、朴正煕政権が出したいわゆる7・13公約に沿ったものである。7・13公約の中で、日本文化の受容については、慎重に段階的に行う方針を示している。拒否・拒絶ではなく、受容を前提とした「公約」であった。

 

 

 1962年の映画祭では、くじ引きで日本映画が1本だけ上映されたが、1966年の映画祭では出品された5本の日本映画すべてがソウル市民会館で上映された。

  • にっぽん泥棒物語(東映)
  • バンコックの夜(東宝)
  • 暖春(松竹)
  • 妻の日の愛のかたみに(大映)
  • 四つの恋の物語(日活)

 

 『朝鮮日報』の日本の俳優陣の紹介記事では、女優ばかりだった映画祭に船越英二が参加したこと、船越英二と西尾三枝子が、韓国語で挨拶したことが紹介されている。今とは違って、日本の大学で韓国・朝鮮関係の学科があるのは、全国で天理大学と大阪外語大学(1963年開設)の2校だけ、第二外国語で韓国語・朝鮮語を教える大学は皆無という時代である。

 

 

 ちなみに、町田貢氏は天理大学の朝鮮学科の出身である。敗戦後、日本社会が朝鮮にそっぽを向いた中で朝鮮研究者に研究の場を提供したのが天理教で、この時代の外務省の韓国語専門職には天理大学出身者が多かった。今も「朝鮮学会」の事務局は天理大学に置かれている。

 

 それとともに、この記事では、訪韓した松竹のみち加奈子について、

(日本の女優一行の)中には、国産映画「総督の娘チョンドゲタル」に出演した路加奈子もいる

と紹介している。

 

 「総督の娘」は、1965年に世紀商事セギサンサが製作した映画で、主演は申榮均シンヨンギュンと路加奈子、監督は趙肯夏チョグンハ。路加奈子の出演は世紀商事が松竹の社長と直談判して実現させた。1965年4月15日の『朝鮮日報』は、韓国映画に初めて日本女優が出演するに至る経緯も含めて詳しく報じている。

 

 すなわち、この時期には、激しい日韓条約締結反対デモの一方で、日韓国交正常化後の日韓映画交流を見据えて、すでに日韓の映画人の連携も行われ始めていたのである。

 

 1966年のアジア映画祭の時点では、「総督の娘」はすでに完成し、ポスターもできていた。ところが、公報部から上映許可が下りないままペンディングになっていた。そして、その後も上映許可が出ないままお蔵入りとなった。

 

 日韓の国交正常化を力ずくで進めた朴正煕政権は、「倭色ウェセク」というレッテルを貼って日本モノを抑制してみせ、その「国民感情への配慮」というポーズを国民の不満のはけ口とし、国民を懐柔しようとしていた。

 大衆歌謡でも、李美子イミジャのヒット曲「冬柏トンベクアガシ」が倭色歌謡として規制され、大衆に人気を博していた多くの楽曲が同様に排除され始めるのも、この時期である。

 

 この1966年のソウルアジア映画祭は、その過渡期に開かれた。表面的には、日本映画が受け入れられそうにも見えたが、それはほんのひと時の幻想であった。

 

 この映画祭では、主演男優賞と主演女優賞を韓国が取り、特別賞9部門のうち6部門で韓国が受賞した。『東亜日報』は号外を出している。

 

 日本映画では、「にっぽん泥棒物語」で山本薩夫が監督賞を受賞した。上掲の号外でも写真入りで紹介されている(「號外」のすぐ下)。

 

 

 ところが、映画祭の2ヶ月後の7月、映画祭の実行委員長だった申相玉シンサンオク、審査委員の宋在弘ソンジェホン、審査委員長で高麗コリョ大学教授の呂石基ヨソッキが検察に召喚された。5月の映画祭で監督賞を受賞した山本薩夫が日本共産党員であり、共産主義者に票を入れた韓国の審査委員は韓国の反共法に抵触する疑いがあるというのである。

 『朝鮮日報』の記事には、審査段階での投票の詳細も記載されている。映画祭事務局内部からの情報提供などがあったのかもしれないが、その裏事情まではわからない。

 

 この事件は、立件・起訴されることはなかったが、日韓の映画交流にも暗雲を投げかけることになった。さらに、韓国の政府当局が、日本人俳優の出演や日本映画の上映について、方針を示さないまま保留にし続けた。日韓の映画交流はストップし、日本映画の韓国での一般上映も事実上不可能ということになった。

 

この記事の最後の段落にあるように、

倭色が色濃く出ているものでなく健全なものであれば公報部長官の許可を得て製作することができるというのが公報部関係者の見解。問題は、「倭色」の限界線、それに「健全だ」とする基準なのだが。

 その後、1990年代後半に至るまで、「日本の音楽は禁止」「日本の映画は禁止」などと明文化された条項や指示はどこにもないにも関わらず、日韓双方で「日本文化は禁止されている」と言われてきた。しかし、実態は「定義のない倭色」の認定と、「健全」と「退廃」との曖昧な線引きによって排除されていたのである。


 1972年、ソウルでの3回目のアジア映画祭が開催された。日本側は、戦後初の有料公開が実現するとして12本の作品を持ち込んだ。『毎日新聞』は5月17日付で「韓国進出の一歩? 日本映画 27年ぶり有料公開」と肯定的な論調の記事を書いた。

 しかし、終了後に掲載された『読売新聞』の「あんぐる」では、この映画祭について否定的な評価を下している。

 これによれば、日本映画制作者協会はその前年にアジア映画祭の解散を提案し、加盟国の要望で存続となったが、アジア映画祭はノンコンペの映画見本市という位置付けでの開催となった。日本が出品した「緋牡丹博徒」」「座頭市あばれ火祭り」「男はつらいよ 寅次郎恋歌」の3本の映画は、上映が取り消されたこともあり、韓国が日本映画の輸入を認めていないことへの不満を吐露している。

 

 アジア映画祭そのものへの韓国人の関心も低下していた。

 日本映画では、「家族」(1970)、「片足のエース」(1971)、「なつかしき笛や太鼓」(1967)、「急行列車」(1967)、「惜春」(1967)など9本の日本映画が一般公開されたが、これに関連して、5月20日の『京郷新聞』はこのように伝えている。

 20代の金さんは日本映画への好奇心で1000ウォン出して「なつかしき笛や太鼓」を観たが、字幕がなかったのでセリフがわからず、まるで文化映画を観てるようだったという。

 市民会館のスタッフによれば、日本映画が始まると20代の若者の中にはセリフがわからないと途中で出ていくこともある。同時上映の中国映画や香港映画は、字幕が英語か中国語なので、40代の観客の中には英語や中国語はわからないからと日本映画が終わると出ていくことも多いという。

また、この記事では、日本が5年前の映画を出品していることも問題視している。1回目、2回目のソウル開催の映画祭に比べると、日本の映画関係者の熱意は低下していた。

 この時の日本映画は、英語の字幕すらなかったようだ。この頃までは、中高年で日本語がわかる人もいた。一方で、若者は学習の機会もなく日本語がわからない。にも関わらず、「韓国人は日本語でいい」という甘えと傲慢さが日本側にあったのであろう。

 

 1976年のアジア映画祭は、またソウルでの開催が予定されていた。

 この年初めに、日本映画制作者協会は、韓国の映画祭実行委員会あてに「日本映画を韓国が輸入しない限り今回のアジア映画祭に参加することはできない」と通告した。

 

 

 しかし、3月になると日本側から間接的に参加の意向が伝えられ、準備が進み始めた。ところが、4月になって開催地がソウルから釜山に急遽変更されることになった。地方文化発展と映画人口の底辺拡大のためとなっているが、開催地変更の真相はよくわからない。

 

 この釜山でのアジア映画祭では、「新幹線大爆破」の高倉健が主演男優賞、「挽歌」の秋吉久美子が主演女優賞を受賞したが、一般公開はなかった。

 

 その後、アジア映画祭は、1981年からはアジア太平洋映画祭と衣替えした。

 


 

 1986年、アジア太平洋映画祭はソウルで開かれた。しかし、この時は作品の一般公開は行われなかった。特に、日本映画の有料上映については「時期尚早」とされた。しかし、前述のように、すでに1962年、1966年の映画祭で日本映画が上映されており、1972年の映画祭では有料の一般公開があった。映画関係者の中には覚えている人はいただろうが、記者の思い込みだろうか。

 

 

 そして、1992年にソウルで開催されたアジア太平洋映画祭では日本映画「遠き落日」「大誘拐」「寒椿」「遊びの時間は終らない」の4本が一般公開された。映画祭での久々の日本映画の一般公開であった。

 

 『毎日新聞』は「日本映画が戦後初めて一般公開された」と報じた。

 

 また、『東亜日報』も「日本映画、解放後初のお目見え」と報じた。

 

 60年代、70年代の日韓の映画交流は忘れさられてしまっていた。同時に、日本映画が韓国では上映できないのは、解放からずっとそうだったとの思い込みが定着していたことにも起因するのであろう。

 


 

 日本製映画の一般映画館での公開は、金大中大統領就任後の1998年10月に国際映画祭での受賞映画の封切りを認めたところから始まった。北野武の「HANA-BI」が初の封切り作品となった。

 

 町田貢『ソウルの日本大使館から―外交官だけが知っている素顔の日韓関係』(文芸春秋社 1999)にこんな記述がある。

 1961年(昭和36年)頃だと思うが、韓国でこのアジア映画祭が行われた。この時日本からも数名の女優が出席し、日本映画も上映されたはずである。映画祭という特別な行事だから入場者も限定されたと思うが、これが韓国ではじめての日本映画上映だったのではないかと思う。

 出席した女優のなかには、当時ニューフェイスとして売り出し中の松原智恵子さんもいた。対日感情の厳しい中での訪韓ということもあり、どういうことに注意しなければならないかのブリーフィングを聞くことを兼ねて、女優さんたち一行が外務省に挨拶に訪れた。私も同席して色々とアドバイスをした記憶がある。

 女優さんたち一行の心配は、映画祭に和服を着て行っても大丈夫かということだった。着てもいいが、もしものことがあるといけないので、街には出ない方がよいと注意したように思う。しかし、帰国後に報告を受けたところによると、和服姿は大人気だった、何も心配することはなかったとのことだった。

 20年前に町田さんの本を最初に読んだときには、「へぇー、そうだったんだ!」とか「あったよなぁ、こんなこと!」と読んだだけだったのだろう。あまり印象に残っていない。あらためて読み直す機会があって、これは何だったんだろうと気になるところが結構たくさんあった。
 今ではさまざまなデータベースが使える。上述のこの部分についてもちょっと調べてみた。

 


 

 この「アジア映画祭」というのは、1953年にマニラで開かれた東南アジア映画制作者連盟の会議で開催が決定されたもので、翌54年に東京で「第1回東南アジア映画祭」が開かれ、その後「アジア映画祭」となった。主催の映画制作者連盟は、大映の永田雅一社長を会長として日本に本部が置かれていた。韓国は1957年の第4回アジア映画祭から参加していた。

 1961年3月にマニラで開催された「第8回アジア映画祭」で、翌年の映画祭をソウルで行うことが決定された。東京、マニラ、香港、シンガポール、クワラルンプールで開催されていたが、順繰りの持ち回りというわけでもなかった。

 ソウルでの1962年映画祭開催が決定された1961年、その前年の4月に4・19学生革命で李承晩イスンマン政権が崩壊し、張勉チャンミョンが国務総理となったが政情は必ずしも安定していなかった。そんな中でソウル開催が決定されたのである。

 当時、張勉政権は日韓会談に前向きで、前年秋から第5次の日韓会談が開かれていた。アジア映画制作者連盟会長の永田雅一は、岸信介や河野一郎などの政治家とも関係が深かった。政情不安定な韓国での開催決定には、韓国側の映画人の熱意だけではなく、日本側の政治的思惑があったとも考えられる。

 ところが、このアジア映画祭のソウル開催発表の2ヶ月後に、朴正煕パクチョンヒ少将による5・16クーデターが起きた。このため、韓国の映画界ではアジア映画祭のソウル開催を危ぶむ声があがっていた。しかし、11月には韓国交通部がホテルの確保などに動き出し、メイン会場となる新しいソウル市民会館も竣工した。

この市民会館は、1972年12月2日にMBC主催公演の終了直後に舞台上の照明装置から出火。死者51名、負傷者76名を出して消失した。その跡地に1978年4月に開館したのが現在の世宗文化会館である。
この市民会館は、1966年と1972年にも「アジア映画祭」の会場となっている。

 

 2月になると、韓国の映画関係者が映画制作者連盟本部のある東京に行って具体的な協議を始めた。まだ日韓間の国交はなかったが、この時すでに、羽田空港と金浦空港を結ぶノースウェストの定期航空路が開設されていた。

 ポスターもできた。

 

 アジア映画祭のソウル開催に向けた動きが水面下で活発になってきた時期、3月22日の『読売新聞』に、当時ソウル特派員だった嶋元謙郎が「日本映画がみたい!」という記事を書いた。3月の時点では、この映画祭で、各国から出品された映画を一般公開するかどうかまだ決まっていなかった。嶋元謙郎の記事は、解放後16年間一度も上映されていない日本映画について、韓国でも一般公開が望まれているという内容である。

 

「ソウル・島元特派員」となっているが、正しくは「嶋元」。
読売新聞紙面では、なぜか「嶋元」ではなく「島元」の表記が多用されている。

 

 嶋元謙郎は、1961年4月に特派員としてソウルに赴任した。1940年に京城三坂通(現在の龍山ヨンサン厚岩洞フアムドン)の三坂小学校を卒業し、京城中学在学中に敗戦で内地に引揚げたという経歴の嶋元は、読売新聞入社後は、政界に人脈を広げた。ソウル赴任後は、同僚記者だった渡邉恒雄や大物フィクサー児玉誉士夫などとともに日韓交渉の裏面工作に深く関与した。その後も韓国の大統領官邸にフリーパスで入れる日本人記者として名を馳せた。

 その嶋元謙郎が、5月開催の映画祭について一般の関心がまだなかった3月という早い段階で、特派員としてはただ一人記事を書いている。記事の最後では「懸案解決の土台を作ろう」という日韓外相会談での共同コミュニケを引用しているのも興味深い。

 

 アジア映画祭に関する新聞報道が、日本と韓国の双方で本格的に始まったのは4月16日からである。

 

 

 

 韓国の新聞では、日本から出品される映画についても写真入りで詳細に紹介された。

 この時の映画祭に、日本からは5本の劇映画と5本のドキュメンタリー映画が出品され、アジア映画制作者連盟会長の永田雅一など30名の映画関係者が参加したと報じられている。

 

 この女優陣が外務省を訪問したのだろうが、町田貢氏の本にある松原智恵子の名前は挙がっていない。しかし、この映画祭の審査委員を務めた毎日新聞文化部の記者草壁久四郎が、映画祭終了後の5月19日に『毎日新聞』に掲載した「アジア映画祭に参加して」という記事には、当時の国家再建最高会議議長(大統領権限代行)の朴正煕と握手する松原智恵子の写真が出ている。

 ちなみに、草壁久四郎はその後毎日映画社社長を経て映画評論家となった人物である。

 

 

 この時に映画祭に出品された日本映画は、「椿三十郎」(東宝)、「上を向いて歩こう」(日活)、「妻は告白する」(大映)、「裸ん子」(東映)など5本だったとされている。もう1本は、『朝鮮日報』にある「오끼나와부르스オキナワブルス」のようだが、確認できない。

 

 これらの日本映画は、全てが一般公開されたのではなく、くじ引きで5本のうちの1本だけが一般向けにも公開されたという。『読売新聞』がAP通信を引用するかたちで記事を載せている。

 

 

 当時のソウル市民会館の大劇場は3000人収容だったので、関係者やマスコミ、招待客以外の一般観客もかなりの人数に上ったと思われる。


 「上を向いて歩こう」は、企画水の江滝子、監督舛田利雄で、坂本九、浜田光夫、高橋英樹、吉永小百合、芦田伸介などという錚々たる出演者の青春映画なのだが、韓国では「パッとしなかった」。前年のベネチア国際映画祭で、「用心棒」の三船敏郎が最優秀男優賞を取ったこともあって、「椿三十郎」への期待が大きかったこともあったのかもしれない。

 

 

 金賞は、申相玉シンサンオク監督の「お母さんと離れ座敷のお客さん(사랑방 손님과 어머니)」が受賞した。

 

 その他の各賞は以下のように報じられている。


 

 この映画祭の後、日韓会談については、11月12日に対日請求権問題を政治決着させた大平正芳外相と金鍾泌キムジョンピル中央情報部長による「金・大平メモ」が作成され、12月にソウルで大野伴睦と朴正煕が会談して、植民地支配についての日本の責任を曖昧にしたままでの国交正常化に道筋をつけた。

 この映画祭が、こうした日韓の外交交渉に直接的な影響を与えたわけではないだろう。しかし、停滞したままだった日本と韓国との関係を動かす雰囲気作りには役立ったのであろう。

 

韓国でのアジア映画祭と日本映画(2)…に続く

 1990年代後半、PC通信からインターネットに移行していく時期、Windows95とか98だったが、やり方がわかれば日本からも韓国のサイトにアクセスできるようになってきた。ただ、便利な韓国サイトを利用しようとすると、住民登録番号(주민등록번호)を要求された。外国人には住民登録番号はないので、ここで断念ということが結構あった。

 

 1990年代の半ば、韓国の一般紙・経済紙・英字新聞などの新聞記事情報が検索・閲覧できる韓国言論財団の韓国ニュースデータベース(KINDS)が出来たが、住民登録番号を入力して登録しないとタイトルの検索はできるが、記事内容の閲覧はできなかった。また、韓国の国会図書館と国立中央図書館でも文献情報データベースが使えるようになったが、登録には住民登録番号が必要だった。
 

 そのうち、本格的なインターネット時代に移行すると、国外在住者用の登録サイトが別途用意されたり、住民登録番号以外でも本人確認ができるようになってきた。しかし、韓国のサイト利用では、住民登録番号で断念せざるを得なかったことが印象に残っている。

 今回のコロナ騒ぎでは、韓国ではこの住民登録番号が感染者の追跡に利用されているとか、個人情報保護との絡みで問題があるとか、韓国の住民登録番号が日本でも何かと話題になった。

 

 韓国の住民登録証に記載されている13桁の番号、これが現行の住民登録番号である。

 

 韓国の「住民登録法」は、1962年6月20日に施行された。30日以上一定の場所を居住地とする場合、その居住地の市長、あるいは邑長、面長に届け出なければならないというもの。この登録法では、特別な番号の付与は定められていなかった。

 

 この住民登録法以前は、「寄留法」で居住地の洞里籍簿が作成されていた。この「寄留法」というのは、日本の植民地時代の1942年10月15日に施行された「朝鮮寄留令」にまでさかのぼる。

 この時の「朝鮮寄留令」の趣旨は、徴兵や徴用など、戦争への動員円滑化と、配給などの窮乏体制維持のための仕掛けであった。内地では「市民世帯調査台帳」が作成された。すなわち、人々の移動が常態化した中で、戦争に内地人・朝鮮人を動員するために作られたものだったといえる。90日以上居住する目的で本籍外の場所に居所を定めたものを「寄留者」とし、内地人、朝鮮人にかかわらず全て「寄留簿」に記載するものとされた。推測だが、内地人よりも朝鮮人に貧民や流浪民が多かった分、記載漏れも多かったと思われる。

 

 1945年の解放後、アメリカ軍政がこの「朝鮮寄留令」をそのまま引き継いで内地人が引揚げでいなくなったあとの住民把握のために使われた。1948年5月10日に行われた制憲国会議員の選挙は、この「朝鮮寄留令」の寄留届に基づいて実施され、その後建国された大韓民国にもこの法制が引き継がれた。

 

 1960年の4・19 学生革命を経て1961年の軍事クーデターで権力の座についた朴正煕パクチョンヒは、国家再建最高会議議長時代に「旧法整理事業」を進めた。その中で、1962年に「寄留法」は「住民登録法」へと改められたのである。

 しかし、1964年に北朝鮮のスパイが虚偽登録していたことが発覚するなど、その欠陥が指摘された。そのため、1965年に、14歳から65歳までの1,600万人に住民登録証を発給し、所持を義務付けるものとした。この住民登録証には、番号が入れられたが、それは個人の識別番号ではなく紙幣に記載されるような一連番号であった。

 

 1968年1月、北朝鮮の武装部隊31名が韓国軍部隊を偽装して北側からソウル市内にまで浸透して、青瓦台チョンアデの裏の北岳山ブガクサン山麓での銃撃戦で韓国の軍人・警察官と民間人の計68名が死亡するという事件が起きた(1・21事態)。

 この事件を契機に、住民登録法施行令の改訂が検討され、一人ひとりに固有番号を与えることで北朝鮮からの工作員の摘発と治安維持をはかろうとした。

 この年10月までに登録を完了して11月から年末にかけて住民登録証が発給された。

 この時の朴正煕大統領の固有番号は「110101-100001」。夫人の陸英修ユギョンスは「110101-200001」、娘の朴槿恵パククネが「110101-200002」だったという説もある。この時の番号は12桁で、生年月日などは入っていない任意の番号だった。大統領とその家族の番号は、シンプルでいかにも大統領特権で作ったようなお手盛り番号。大統領を辞めてもこの番号が朴正煕の終生の番号になるはずだった。この時点では…

 

 現行の住民登録番号は13桁である。これに変わったのは1975年のことである。1972年の維新憲法で、独裁体制を固めた朴正煕政権が管理体制の強化を図ったものである。

 



 満17歳以上の国民は、指定された場所で本人確認をして指紋を採取されて、この新しい住民登録証を受け取ることとされた。

 上掲記事にあるように、住民登録番号は、生年月日・性別・届け出地域番号・届け出順序を組み合わせたものである。朴正煕大統領は「171114-1・・・・・・」となったはずだが具体的な番号は確認できない。

 

 この13桁の数字は、ある種の計算をして最後に得られた数字が、最終桁の検証数字と一致するという規則性で作られており、これによって番号自体の真偽が判別できるようになっている。


1983年 6月30日からKBS1で「離散家族探しイサンカジョクチャッキ」のテレビ放送が流された。この年は秋までずっとこの離散家族探しの番組でもちきりだった。

 

その時に、日本から来た知人に、「韓国では個人番号とかできっちり管理されているはずなのになぜ探せないのか」と尋ねられた。確かに韓国では個人が番号で国家によって管理されている。しかし、住民登録番号で管理される住民登録は、個人に個別に付与された番号であって、データーベース化されていたわけではない。しかも出生地などの情報は入っていない。親子・兄弟・姉妹だといって、それぞれの番号が類推できるわけではない。バラバラの場所で暮らす家族や親戚は、それぞれがバラバラの場所でそれぞれの住民登録番号が付与されただけなので、この番号を離散家族探しの手掛かりにすることは不可能だったのである。

 

 おまけに、1990年代の後半になっても、ネットワークを通して住民登録のデータベースが照合できる体制にはなっていなかった。

 冒頭書いたように、韓国ではブロードバンドの普及がいち早く進んだが、インターネット利用にあたって実名制へと向かった。1990年代後半にはすでに住民登録番号の入力を求めるサイトが増えてきた。

 実はこの頃には、韓国のパソコン通信上などで、住民登録番号の検算方法がかなり広く知れ渡っていた。1975年の住民登録番号の制定時から、住民登録証の真偽を見分ける検算方法は警察や軍などでは実際に使われていた。しかし、それは機密事項であった。北朝鮮に知られると偽造した住民登録番号の住民登録証ができてしまう。とはいえ、実際には北朝鮮は早くから知っていたと思うのだが…。

 

 その方法は、今はウェブサイトでも公開されている。例えば『朝鮮日報』のサイトにはこんな記事がある。

주민등록번호 가짜 구별, 끝번호로 알 수 있죠

http://newsteacher.chosun.com/site/data/html_dir/2013/12/11/2013121100060.html

 この記事では、「ドゥリの住民登録番号」830422-1185600を例にしているが、なぜか計算が間違っている。わざわざ数値を間違えたとも思えないが、計算してみると説明と合わない。仕方がないので、640713-1018433で計算の仕方を説明する。

住民登録番号

  640713-1018433

最初の6桁は、1964年7月13日生まれの人物の住民登録番号であることを示している。ここで住民登録番号の最後の桁の数だけを除く。

  640713-101843

このそれぞれの桁の数字に、順番に2~9までの数をかけて、全体を足して合計を得る。

(6x2)+(4x3)+(0x4)+(7x5)+(1x6)+(3x7)+(1x8)+(0x9)+(1x2)+(8x3)+(4x4)+(3x5) =151

ここで得られた151を11で割り、余りの数を得る。

  151 ÷ 11 = 13 あまり 8

11から割った余りの8を引くと3になる。

  11 - 8 = 3

この数字が、住民登録番号の最後の桁の数字と 一致すれば、その住民番号は真である。

従って、640713-1018433は正しい住民登録番号と判定される。

 ただし、検算式で法則に合致していることが検証できるだけで、この番号が実在するかどうかはわからない。

 韓国の音楽サイト有料化が進んだ2003年あたりまでは、住民登録番号の入力を求めるサイトでは、この検算方式で真偽をチェックしていたらしい。この当時、このギャク手をとって「주민등록생성기(住民登録生成機)」というサイトが韓国にあって、「本物と判定される架空の住民登録番号」を作ることができた。自分の実際の住民登録番号を晒したくないという人も結構いたのである。

 

 しかし、その後、住民登録番号と個人とを照合できるシステムが導入され、検算式をクリアーする番号だけでは通らなくなった。それに加えて、携帯電話番号での確認やPIN番号の導入などで、住民登録番号だけでの本人確認というのはネット上でも日常生活でもなくなりつつある。

 

 2020年1月1日からは、耐久性とセキュリティを大幅に強化した新しい住民登録証が導入されている。 

行政安全部のサイトから

① 色変換:光の方向によって太極文様の色が変化
② 影付き文字:名前(ハングル部分)と住民登録番号
③ レーザー印刷:住所などをレーザー印刷
④ 多重レーザー画像:角度によって白黒写真と生年月日がホログラム表示
材質:ポリ塩化ビニールからポリカーボネートに変更
裏面の指紋:シリコンなどで複製を防止

 さらに、今年(2020)10月の登録からは、住民登録番号の後ろの地域番号4桁が消え、ハイフンから後ろは性別を表示する最初の桁を除いた残りの6桁に任意の番号が付与されることになっている。出身地が推定されることで特定の地域に対する差別意識が生まれる懸念などが指摘されてきたためだとされる。

 

 任意の番号でもネットで照合ができるようになった今の環境であれば問題ない。もう「住民登録生成機」の出る幕はなくなっている。

 

 さて、日本の「マイナンバー」とやらはどうなるのだろうか。

 私は、カードなんぞを作る気はさらさらないのだが… 火葬場で燃やしてもらえなくなったりはしないだろうか( ꒪⌓꒪)

 

 ところで、韓国の行政安全部の見本が、なぜ女性の写真に洪吉童ホンギルドンという名前になっているのか。住民番号の7桁目、性別表示も女性の「2」になっている。

 気になる。