韓国でのアジア映画祭と日本映画(1) | 一松書院のブログ

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 町田貢『ソウルの日本大使館から―外交官だけが知っている素顔の日韓関係』(文芸春秋社 1999)にこんな記述がある。

 1961年(昭和36年)頃だと思うが、韓国でこのアジア映画祭が行われた。この時日本からも数名の女優が出席し、日本映画も上映されたはずである。映画祭という特別な行事だから入場者も限定されたと思うが、これが韓国ではじめての日本映画上映だったのではないかと思う。

 出席した女優のなかには、当時ニューフェイスとして売り出し中の松原智恵子さんもいた。対日感情の厳しい中での訪韓ということもあり、どういうことに注意しなければならないかのブリーフィングを聞くことを兼ねて、女優さんたち一行が外務省に挨拶に訪れた。私も同席して色々とアドバイスをした記憶がある。

 女優さんたち一行の心配は、映画祭に和服を着て行っても大丈夫かということだった。着てもいいが、もしものことがあるといけないので、街には出ない方がよいと注意したように思う。しかし、帰国後に報告を受けたところによると、和服姿は大人気だった、何も心配することはなかったとのことだった。

 20年前に町田さんの本を最初に読んだときには、「へぇー、そうだったんだ!」とか「あったよなぁ、こんなこと!」と読んだだけだったのだろう。あまり印象に残っていない。あらためて読み直す機会があって、これは何だったんだろうと気になるところが結構たくさんあった。
 今ではさまざまなデータベースが使える。上述のこの部分についてもちょっと調べてみた。

 


 

 この「アジア映画祭」というのは、1953年にマニラで開かれた東南アジア映画制作者連盟の会議で開催が決定されたもので、翌54年に東京で「第1回東南アジア映画祭」が開かれ、その後「アジア映画祭」となった。主催の映画制作者連盟は、大映の永田雅一社長を会長として日本に本部が置かれていた。韓国は1957年の第4回アジア映画祭から参加していた。

 1961年3月にマニラで開催された「第8回アジア映画祭」で、翌年の映画祭をソウルで行うことが決定された。東京、マニラ、香港、シンガポール、クワラルンプールで開催されていたが、順繰りの持ち回りというわけでもなかった。

 ソウルでの1962年映画祭開催が決定された1961年、その前年の4月に4・19学生革命で李承晩イスンマン政権が崩壊し、張勉チャンミョンが国務総理となったが政情は必ずしも安定していなかった。そんな中でソウル開催が決定されたのである。

 当時、張勉政権は日韓会談に前向きで、前年秋から第5次の日韓会談が開かれていた。アジア映画制作者連盟会長の永田雅一は、岸信介や河野一郎などの政治家とも関係が深かった。政情不安定な韓国での開催決定には、韓国側の映画人の熱意だけではなく、日本側の政治的思惑があったとも考えられる。

 ところが、このアジア映画祭のソウル開催発表の2ヶ月後に、朴正煕パクチョンヒ少将による5・16クーデターが起きた。このため、韓国の映画界ではアジア映画祭のソウル開催を危ぶむ声があがっていた。しかし、11月には韓国交通部がホテルの確保などに動き出し、メイン会場となる新しいソウル市民会館も竣工した。

この市民会館は、1972年12月2日にMBC主催公演の終了直後に舞台上の照明装置から出火。死者51名、負傷者76名を出して消失した。その跡地に1978年4月に開館したのが現在の世宗文化会館である。
この市民会館は、1966年と1972年にも「アジア映画祭」の会場となっている。

 

 2月になると、韓国の映画関係者が映画制作者連盟本部のある東京に行って具体的な協議を始めた。まだ日韓間の国交はなかったが、この時すでに、羽田空港と金浦空港を結ぶノースウェストの定期航空路が開設されていた。

 ポスターもできた。

 

 アジア映画祭のソウル開催に向けた動きが水面下で活発になってきた時期、3月22日の『読売新聞』に、当時ソウル特派員だった嶋元謙郎が「日本映画がみたい!」という記事を書いた。3月の時点では、この映画祭で、各国から出品された映画を一般公開するかどうかまだ決まっていなかった。嶋元謙郎の記事は、解放後16年間一度も上映されていない日本映画について、韓国でも一般公開が望まれているという内容である。

 

「ソウル・島元特派員」となっているが、正しくは「嶋元」。
読売新聞紙面では、なぜか「嶋元」ではなく「島元」の表記が多用されている。

 

 嶋元謙郎は、1961年4月に特派員としてソウルに赴任した。1940年に京城三坂通(現在の龍山ヨンサン厚岩洞フアムドン)の三坂小学校を卒業し、京城中学在学中に敗戦で内地に引揚げたという経歴の嶋元は、読売新聞入社後は、政界に人脈を広げた。ソウル赴任後は、同僚記者だった渡邉恒雄や大物フィクサー児玉誉士夫などとともに日韓交渉の裏面工作に深く関与した。その後も韓国の大統領官邸にフリーパスで入れる日本人記者として名を馳せた。

 その嶋元謙郎が、5月開催の映画祭について一般の関心がまだなかった3月という早い段階で、特派員としてはただ一人記事を書いている。記事の最後では「懸案解決の土台を作ろう」という日韓外相会談での共同コミュニケを引用しているのも興味深い。

 

 アジア映画祭に関する新聞報道が、日本と韓国の双方で本格的に始まったのは4月16日からである。

 

 

 

 韓国の新聞では、日本から出品される映画についても写真入りで詳細に紹介された。

 この時の映画祭に、日本からは5本の劇映画と5本のドキュメンタリー映画が出品され、アジア映画制作者連盟会長の永田雅一など30名の映画関係者が参加したと報じられている。

 

 この女優陣が外務省を訪問したのだろうが、町田貢氏の本にある松原智恵子の名前は挙がっていない。しかし、この映画祭の審査委員を務めた毎日新聞文化部の記者草壁久四郎が、映画祭終了後の5月19日に『毎日新聞』に掲載した「アジア映画祭に参加して」という記事には、当時の国家再建最高会議議長(大統領権限代行)の朴正煕と握手する松原智恵子の写真が出ている。

 ちなみに、草壁久四郎はその後毎日映画社社長を経て映画評論家となった人物である。

 

 

 この時に映画祭に出品された日本映画は、「椿三十郎」(東宝)、「上を向いて歩こう」(日活)、「妻は告白する」(大映)、「裸ん子」(東映)など5本だったとされている。もう1本は、『朝鮮日報』にある「오끼나와부르스オキナワブルス」のようだが、確認できない。

 

 これらの日本映画は、全てが一般公開されたのではなく、くじ引きで5本のうちの1本だけが一般向けにも公開されたという。『読売新聞』がAP通信を引用するかたちで記事を載せている。

 

 

 当時のソウル市民会館の大劇場は3000人収容だったので、関係者やマスコミ、招待客以外の一般観客もかなりの人数に上ったと思われる。


 「上を向いて歩こう」は、企画水の江滝子、監督舛田利雄で、坂本九、浜田光夫、高橋英樹、吉永小百合、芦田伸介などという錚々たる出演者の青春映画なのだが、韓国では「パッとしなかった」。前年のベネチア国際映画祭で、「用心棒」の三船敏郎が最優秀男優賞を取ったこともあって、「椿三十郎」への期待が大きかったこともあったのかもしれない。

 

 

 金賞は、申相玉シンサンオク監督の「お母さんと離れ座敷のお客さん(사랑방 손님과 어머니)」が受賞した。

 

 その他の各賞は以下のように報じられている。


 

 この映画祭の後、日韓会談については、11月12日に対日請求権問題を政治決着させた大平正芳外相と金鍾泌キムジョンピル中央情報部長による「金・大平メモ」が作成され、12月にソウルで大野伴睦と朴正煕が会談して、植民地支配についての日本の責任を曖昧にしたままでの国交正常化に道筋をつけた。

 この映画祭が、こうした日韓の外交交渉に直接的な影響を与えたわけではないだろう。しかし、停滞したままだった日本と韓国との関係を動かす雰囲気作りには役立ったのであろう。

 

韓国でのアジア映画祭と日本映画(2)…に続く