韓国でのアジア映画祭と日本映画(2) | 一松書院のブログ

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韓国でのアジア映画祭と日本映画(1)から続く…

 

 日本と韓国との間に外交関係が樹立された1965年、この年のアジア映画祭は5月に京都で開かれた。翌1966年の第13回アジア映画祭について、韓国代表団からはソウル開催を求める声があがったが、結局マレーシアのシンガポールで開かれることになった。

 この当時、韓国では日韓基本条約の締結に反対する激しい街頭デモが連日続いていた。朴正煕政権は反対運動を力で抑え込み、6月22日に日韓双方が日韓条約に署名した。しかし、その後もソウルでは、国会での条約批准を阻止しようとデモが続いた。8月中旬にソウルには「衛戍令」が出されて、デモの鎮圧に軍隊が投入される事態になった。 

 

 ちょうど時を同じくして、シンガポールがマレーシアから分離独立し、予定されていたアジア映画祭の開催を辞退した。これを受けて、10月になってソウルでの開催が決まった。「衛戍令」は9月末に解除されていた。

 

 1966年5月に再びソウルで開かれた映画祭に、日本からは劇映画5本と非劇映画5本、映画関係者・男女俳優、それにオブサーバーなど36名が参加した。

 

 映画祭の前日の『東亜日報』の紙面を見てみると、アジア映画祭の記事のすぐ横に、「日本映画上映許可 来年から」という記事がある。韓国政府の公報部が、日本の映画輸入について、教育・文化映画から順次劇映画にまで範囲を広げていくとの方針を示したとの内容である。

 

 これは、前年の日韓条約の批准反対運動に対して、朴正煕政権が出したいわゆる7・13公約に沿ったものである。7・13公約の中で、日本文化の受容については、慎重に段階的に行う方針を示している。拒否・拒絶ではなく、受容を前提とした「公約」であった。

 

 

 1962年の映画祭では、くじ引きで日本映画が1本だけ上映されたが、1966年の映画祭では出品された5本の日本映画すべてがソウル市民会館で上映された。

  • にっぽん泥棒物語(東映)
  • バンコックの夜(東宝)
  • 暖春(松竹)
  • 妻の日の愛のかたみに(大映)
  • 四つの恋の物語(日活)

 

 『朝鮮日報』の日本の俳優陣の紹介記事では、女優ばかりだった映画祭に船越英二が参加したこと、船越英二と西尾三枝子が、韓国語で挨拶したことが紹介されている。今とは違って、日本の大学で韓国・朝鮮関係の学科があるのは、全国で天理大学と大阪外語大学(1963年開設)の2校だけ、第二外国語で韓国語・朝鮮語を教える大学は皆無という時代である。

 

 

 ちなみに、町田貢氏は天理大学の朝鮮学科の出身である。敗戦後、日本社会が朝鮮にそっぽを向いた中で朝鮮研究者に研究の場を提供したのが天理教で、この時代の外務省の韓国語専門職には天理大学出身者が多かった。今も「朝鮮学会」の事務局は天理大学に置かれている。

 

 それとともに、この記事では、訪韓した松竹のみち加奈子について、

(日本の女優一行の)中には、国産映画「総督の娘チョンドゲタル」に出演した路加奈子もいる

と紹介している。

 

 「総督の娘」は、1965年に世紀商事セギサンサが製作した映画で、主演は申榮均シンヨンギュンと路加奈子、監督は趙肯夏チョグンハ。路加奈子の出演は世紀商事が松竹の社長と直談判して実現させた。1965年4月15日の『朝鮮日報』は、韓国映画に初めて日本女優が出演するに至る経緯も含めて詳しく報じている。

 

 すなわち、この時期には、激しい日韓条約締結反対デモの一方で、日韓国交正常化後の日韓映画交流を見据えて、すでに日韓の映画人の連携も行われ始めていたのである。

 

 1966年のアジア映画祭の時点では、「総督の娘」はすでに完成し、ポスターもできていた。ところが、公報部から上映許可が下りないままペンディングになっていた。そして、その後も上映許可が出ないままお蔵入りとなった。

 

 日韓の国交正常化を力ずくで進めた朴正煕政権は、「倭色ウェセク」というレッテルを貼って日本モノを抑制してみせ、その「国民感情への配慮」というポーズを国民の不満のはけ口とし、国民を懐柔しようとしていた。

 大衆歌謡でも、李美子イミジャのヒット曲「冬柏トンベクアガシ」が倭色歌謡として規制され、大衆に人気を博していた多くの楽曲が同様に排除され始めるのも、この時期である。

 

 この1966年のソウルアジア映画祭は、その過渡期に開かれた。表面的には、日本映画が受け入れられそうにも見えたが、それはほんのひと時の幻想であった。

 

 この映画祭では、主演男優賞と主演女優賞を韓国が取り、特別賞9部門のうち6部門で韓国が受賞した。『東亜日報』は号外を出している。

 

 日本映画では、「にっぽん泥棒物語」で山本薩夫が監督賞を受賞した。上掲の号外でも写真入りで紹介されている(「號外」のすぐ下)。

 

 

 ところが、映画祭の2ヶ月後の7月、映画祭の実行委員長だった申相玉シンサンオク、審査委員の宋在弘ソンジェホン、審査委員長で高麗コリョ大学教授の呂石基ヨソッキが検察に召喚された。5月の映画祭で監督賞を受賞した山本薩夫が日本共産党員であり、共産主義者に票を入れた韓国の審査委員は韓国の反共法に抵触する疑いがあるというのである。

 『朝鮮日報』の記事には、審査段階での投票の詳細も記載されている。映画祭事務局内部からの情報提供などがあったのかもしれないが、その裏事情まではわからない。

 

 この事件は、立件・起訴されることはなかったが、日韓の映画交流にも暗雲を投げかけることになった。さらに、韓国の政府当局が、日本人俳優の出演や日本映画の上映について、方針を示さないまま保留にし続けた。日韓の映画交流はストップし、日本映画の韓国での一般上映も事実上不可能ということになった。

 

この記事の最後の段落にあるように、

倭色が色濃く出ているものでなく健全なものであれば公報部長官の許可を得て製作することができるというのが公報部関係者の見解。問題は、「倭色」の限界線、それに「健全だ」とする基準なのだが。

 その後、1990年代後半に至るまで、「日本の音楽は禁止」「日本の映画は禁止」などと明文化された条項や指示はどこにもないにも関わらず、日韓双方で「日本文化は禁止されている」と言われてきた。しかし、実態は「定義のない倭色」の認定と、「健全」と「退廃」との曖昧な線引きによって排除されていたのである。


 1972年、ソウルでの3回目のアジア映画祭が開催された。日本側は、戦後初の有料公開が実現するとして12本の作品を持ち込んだ。『毎日新聞』は5月17日付で「韓国進出の一歩? 日本映画 27年ぶり有料公開」と肯定的な論調の記事を書いた。

 しかし、終了後に掲載された『読売新聞』の「あんぐる」では、この映画祭について否定的な評価を下している。

 これによれば、日本映画制作者協会はその前年にアジア映画祭の解散を提案し、加盟国の要望で存続となったが、アジア映画祭はノンコンペの映画見本市という位置付けでの開催となった。日本が出品した「緋牡丹博徒」」「座頭市あばれ火祭り」「男はつらいよ 寅次郎恋歌」の3本の映画は、上映が取り消されたこともあり、韓国が日本映画の輸入を認めていないことへの不満を吐露している。

 

 アジア映画祭そのものへの韓国人の関心も低下していた。

 日本映画では、「家族」(1970)、「片足のエース」(1971)、「なつかしき笛や太鼓」(1967)、「急行列車」(1967)、「惜春」(1967)など9本の日本映画が一般公開されたが、これに関連して、5月20日の『京郷新聞』はこのように伝えている。

 20代の金さんは日本映画への好奇心で1000ウォン出して「なつかしき笛や太鼓」を観たが、字幕がなかったのでセリフがわからず、まるで文化映画を観てるようだったという。

 市民会館のスタッフによれば、日本映画が始まると20代の若者の中にはセリフがわからないと途中で出ていくこともある。同時上映の中国映画や香港映画は、字幕が英語か中国語なので、40代の観客の中には英語や中国語はわからないからと日本映画が終わると出ていくことも多いという。

また、この記事では、日本が5年前の映画を出品していることも問題視している。1回目、2回目のソウル開催の映画祭に比べると、日本の映画関係者の熱意は低下していた。

 この時の日本映画は、英語の字幕すらなかったようだ。この頃までは、中高年で日本語がわかる人もいた。一方で、若者は学習の機会もなく日本語がわからない。にも関わらず、「韓国人は日本語でいい」という甘えと傲慢さが日本側にあったのであろう。

 

 1976年のアジア映画祭は、またソウルでの開催が予定されていた。

 この年初めに、日本映画制作者協会は、韓国の映画祭実行委員会あてに「日本映画を韓国が輸入しない限り今回のアジア映画祭に参加することはできない」と通告した。

 

 

 しかし、3月になると日本側から間接的に参加の意向が伝えられ、準備が進み始めた。ところが、4月になって開催地がソウルから釜山に急遽変更されることになった。地方文化発展と映画人口の底辺拡大のためとなっているが、開催地変更の真相はよくわからない。

 

 この釜山でのアジア映画祭では、「新幹線大爆破」の高倉健が主演男優賞、「挽歌」の秋吉久美子が主演女優賞を受賞したが、一般公開はなかった。

 

 その後、アジア映画祭は、1981年からはアジア太平洋映画祭と衣替えした。

 


 

 1986年、アジア太平洋映画祭はソウルで開かれた。しかし、この時は作品の一般公開は行われなかった。特に、日本映画の有料上映については「時期尚早」とされた。しかし、前述のように、すでに1962年、1966年の映画祭で日本映画が上映されており、1972年の映画祭では有料の一般公開があった。映画関係者の中には覚えている人はいただろうが、記者の思い込みだろうか。

 

 

 そして、1992年にソウルで開催されたアジア太平洋映画祭では日本映画「遠き落日」「大誘拐」「寒椿」「遊びの時間は終らない」の4本が一般公開された。映画祭での久々の日本映画の一般公開であった。

 

 『毎日新聞』は「日本映画が戦後初めて一般公開された」と報じた。

 

 また、『東亜日報』も「日本映画、解放後初のお目見え」と報じた。

 

 60年代、70年代の日韓の映画交流は忘れさられてしまっていた。同時に、日本映画が韓国では上映できないのは、解放からずっとそうだったとの思い込みが定着していたことにも起因するのであろう。

 


 

 日本製映画の一般映画館での公開は、金大中大統領就任後の1998年10月に国際映画祭での受賞映画の封切りを認めたところから始まった。北野武の「HANA-BI」が初の封切り作品となった。