韓国でのアジア映画祭と日本映画(番外編) | 一松書院のブログ

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韓国でのアジア映画祭と日本映画(1)

韓国でのアジア映画祭と日本映画(2)

の番外編


 

 1980年、アメリカNBCのテレビドラマとして放送されたジェームズ・クラベル原作の「Shogun」。17世紀初めの日本を舞台にしたストーリーで、日本に流れついたオランダ船のイギリス人航海士をリチャード・チェンバレンが演じ、三船敏郎、島田陽子が出演。撮影は日本で行われ、フランキー堺、目黒祐樹 、高松英郎、金子信雄など、日本の俳優が多数出演していた。

 

 これを125分に編集した映画版が作成され、日本では1980年の11月に劇場公開された。「日米合作」とされていたが、制作国はアメリカということで、韓国でも輸入されて劇場上映が申請された。1981年9月29日の『東亜日報トンアイルボ』は、詳細な解説記事を載せている。

 小説を通して広く知られる「将軍」は、1600年にオランダの帆船に乗って日本に上陸した英国人航海士のアドベンチャーロマン映画。アダムスという航海士が実際に日本で武士になったが、クラベルはこの史実をもとに物語を作った。

 映画「将軍」は、現在、条件付きでの輸入推薦を受けているが、これは、日本の侍の精神や生き方を賞賛するような印象を観客に与えることを憂慮してのもの。しかし、この映画は日本的なものを賛美するものでも野蛮視するものでもない。ビデオを通して、ある程度国内にも紹介されているが、豊臣秀吉の死後、その残党の石田三成側と徳川家康の息詰まる対決を背景に、航海士の通訳の女性との愛、そして生き残るため徳川の武士になって活躍するという冒険談を描いたものだ。彼の目には、日本的な生活様式や命を投げ出す侍の行動がむしろ奇異に映った。

 業界では、条件付き輸入ではあるが、年内には上映できそうだとみている。推薦審査に加わった関係者は、封建日本を理解する上で教育的な効果も期待できる作品と評している。

 クラベルの小説『Shogun』は、1980年、すでに韓国語に翻訳されてセムトから出版されていた。

 この宣伝文に、「『大望テマン』をしのぐ大長編歴史ロマン」とあるが、この『大望』とは、山岡荘八の『徳川家康』に、吉川英治の『宮本武蔵』、司馬遼太郎の『竜馬が行く』などをあわせて韓国語に翻訳した36巻ものの全集で、東西文化社トンソムナサが1975年4月から出版した。正式契約はなかったが、『徳川家康』については山岡荘八の承諾を得ていたという。これが、当時大ベストセラーになり、韓国の政治家や経営者の愛読書にもなった。

 すなわち、近世日本の武将そのものが、おしなべて「倭色ウェセク」とか「国民感情にそぐわない」として忌避されたり排除されていたわけではなかった。ただ、武士道精神を賞賛したり武士の優位性を強調することなどには、強い拒絶反応があったのは事実である。

 

 結局、この映画は「쇼군ショグン」というタイトルでお正月映画としてソウルのピカデリー劇場で封切られた。ピカデリー劇場は、鍾路3街の交差点、団成社ダンソンサと向かい合わせにあった(現在のCGVピカデリー)。

 

 1982年の2月6日にこのピカデリーで、当時ソウル大大学院で建築史を研究していた日本人留学生の友人と一緒に「쇼군ショグン」を観た。結構観客が多くてダフ屋からチケットを買ったような気がする。映画のストーリーよりも韓国人観客の反応に気を取られていた。

 

(参考動画↓↓↓)

https://youtu.be/VUGJH6bnjjU
https://youtu.be/4iW-QGjyIUw

 

 この映画の韓国上映の直前、1981年12月23日に三船敏郎と島田陽子がソウルに来ている。

 

京郷新聞キョンヒャンシンムン』の写真のキャプションによれば、23日の記者会見で、三船敏郎は、

芸術には国境がないように、日韓両国の映画においてもこれからは忌憚なく交流していかねばならない

と述べたとある。この日の午後4時からは小公洞ソゴンドン朝鮮チョソンホテルでレセプションを開き、韓国側から張東輝チャンドンヒ金鎭奎キムジンギュ崔戊龍チェムヨン南宮遠ナムグンウォン尹一峰ユンイルボンなど、韓国映画界の重鎮が出席したとある。『京郷新聞』には文貞淑ムンジョンスク丁允姬チョンユニ兪知仁ユジインなども出席と報じられている。

 この三船敏郎の韓国訪問と、「쇼군」の映画上映は、大きなインパクトがあった。

 

 ところが、この1982年の夏、日本の「教科書問題」が起きた。文部省の教科書検定で「侵略」を「進出」と書き換えさせたという新聞報道で、中国、香港、台湾、そして韓国でも大きな反発を引き起こした。韓国では、日本の「歴史歪曲」に対抗するための募金運動が始まり、それが独立記念館の建設へとつながり、「ドクトヌン ウリタン」が爆発的にヒットして、それまであまり知られていなかった日本とのあいだの領土問題への関心が高まった。日本で「竹島」が知られるようになるまで、その後15年ほどの時間を要した。

 

 1983年、中曽根康弘が訪韓して、全斗煥チョンドゥファンと会談し、晩餐会後の二次会で「黄色いシャツ」を韓国語で歌った。1984年、全斗煥が日本を公式訪問し、天皇が晩餐会で「不幸な過去があった」と日本による植民地支配に言及した。

 しかし、日本製の映画を韓国で上映するような雰囲気にはならなかった。

 

 この頃、ソウルで唯一日本映画を観ることができる場所があった。斎洞交差点チェドンネゴリにあった日本文化院である。この文化院は1971年にオープンした。1985年には、地下鉄3号線が開通して安国駅アングンヨクができ、「安国駅の上の日本文化院」の方が通りがよくなった。

 各国の文化院と同じく、ここも日本大使館の施設なので、韓国の公権力は及ばない。日本文化院の1階には図書室、2階には展示室と執務スペース、3階には講堂と日本語講習用の講義室があった。

 この講堂で日本の映画を定期的に上映していた。外務省や国際交流基金のストックから、各在外公館からの要望で送られてくるフィルムを上映するのである。文化映画や記録映画などだけでなく、日本の各映画会社が提供する劇映画もあった。ところが、多くの劇映画が韓国での上映は不可となっていた。韓国が日本映画の輸入を認めないという理由からであった。ただ、松竹は一部の劇映画の韓国上映を認めていた。そうした事情で、ソウルの文化院では、年がら年中「寅さんシリーズ」と「幸せの黄色いハンカチ」ばかりやっていた。地方での「ジャパンウィーク」行事でも、若い日本語学習者が関心を持つような「話題の映画」は上映できなかった。

 

 1996年、三船敏郎が出演する2本目の「将軍」映画が韓国で封切られた。1991年にアメリカ・イギリス・日本合作で制作された映画「兜 KABUTO」が、乙支路ウルチロ4ガ国都クット劇場で「将軍前田チャングンマエダ(장군 마에다)」というタイトルで上映された。

 もともとこの映画は前年の3月に封切り予定であった。『東亜日報』も「日本のサムライ映画初上陸」と報じている。

 しかし、この封切りには強い反発が起きた。ちょうど解放から50年目という節目の年だったこともあった。

 映画上映の審査を行った公演倫理委員会の金東虎キムドンホ委員長が辞表を出すという事態にまで至った。

 翌年の6月末になってやっと封切られたが、封切り当日には国都劇場に爆破予告の脅迫電話がかかってきて、警察の厳戒態勢下での上映となった。

 『毎日新聞』はこのような記事を書いている。

 

 予告編を見ても確かに「不思議な映画」で、1982年の「Shogun」の方がサムライ映画らしいと思うのだが。

 

 このような反応の一方で、1996年にはX JAPANの人気が高まり、大学街などではビデオコンサートが開かれるようになっていた。1997年には、レコードも発売された。そうした中で、非商用の日本映画鑑賞会も公然と行われるようになっていた。中でももっとも人気があったのが岩井俊二監督の「ラブレター」であった。1997年3月29日の『ハンギョレ新聞』には、汝矣島ヨイドの芸術文化院で開かれる日本映画祭で日本映画を上映するとの告知が出ている。北野武の「あの夏、いちばん静かな海」、塚本晋也の「TOKYO FIST」、伊丹十三の「マルサの女」とともに岩井俊二の「ラブレター」を上映するとの告知である。汝矣島の芸術文化院は、個人の運営する文化施設で商用の映画館ではないが、日本映画の上映がこのように新聞紙上で告知されるのはそれまでにはほとんど見られなかった。

 日本が制作した映画を、一般の映画館で商売として上映する場合に上映許可が出なかったのであって、日本映画の私的な鑑賞が違法であったわけではない。この頃には、大学生が海外旅行に出かけることも多くなっており、日本でビデオテープを入手することもできるようになっていた。大学のサークルなどでも、日本映画の鑑賞会が開かれていた。

 翌年、5月には、日本映像文化研究会が、日本文化院の講堂で「ラブレター」をはじめ、5本の日本映画の上映を行うことを告知している。

 

 1998年9月の釜山国際映画祭には「四月物語」が出品され、岩井俊二もこの映画祭に出席した。この映画祭でもっとも人気を博したスターは、監督の岩井俊二だった。連日インタビュー記事が掲載され、舞台挨拶で登壇した時には大歓声があがった。

 

 まだ日本映画は一般劇場での上映ができない時代に、この映画のクライマックスで中山美穂が叫ぶ「오겡끼데스까オゲンキデスカ 」は、韓国人が一番よく知っている日本語となった。

 


 1999年、「ラブレター」は韓国の映画館での上映が認められた。

 その公開前、すでに韓国で30万人がビデオなどでこの映画を見ていたと言われた。そして115万人の観客動員を記録したのである。

 

2001年にソウルで購入した2枚組のビデオCDのジャケット