丸善京城支店 | 一松書院のブログ

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 丸善は、1869年に福沢諭吉の弟子の早矢仕はやし有的ゆうてきによって創業された。洋書の輸入販売で外国の学術情報の紹介に貢献しただけでなく、西欧の服飾品や高級文具などの商品を販売し、文化人・知識人に顧客が多かったとされる。

 石川啄木は、盛岡中学を中退して上京し、東京滞在中に書いた日記「秋韷笛語しゅうらくてきご」の1902年11月17日に、

午前は読書。午後は日本橋の丸善書店へ行つて、"Hamlet By Shakespeare" "Longfellow's poem" のSelectionとを買つて来た。
若い者が丸善の書籍室に這入つて、つらつら自分の語学の力をはかなむ心の生ずるのは蓋し誰しもの事であらふ。ああ自分も誠に羨ましさに堪えられなかつた。

と記している。

 

 石川啄木は、1910年8月29日に韓国が併合されると、9月9日に「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く」と詠んだ。

 

 丸善は、併合翌日の8月30日の『東京朝日新聞』に、伊藤伊吉『独学韓語大成』と前間恭作『韓語通』の広告を載せ、「朝鮮に行け、朝鮮に行け」「朝鮮は最早外国に非ざる也」「此二書だにあらば八道山河到る処に横行して富を攫むを得べき也」と、はしゃいだキャッチコピーで朝鮮語学習書を宣伝した。

 

 「朝鮮に行け、朝鮮に行け」と煽り立てた割には、丸善自体の朝鮮進出は遅かった。

 『丸善百年史』(1980)には次のような逸話が紹介されている。

大正の終りから昭和初期にかけて、丸善の古い顧客の大沢勝氏が細菌学の教授として京城大学に教鞭をとっておられた。そのころは京城には丸善の駐在所があるだけで所員が時々大学に出掛け、洋書の注文を受けていた。これが定期的でなかったので大学の方でも不便を感じていた。そこで大沢教授はその頃京城駐在所を監督していた昔馴染の司忠現会長と相談して、恒久的な施設を置くように話を進めたが、さてその場所を何処にするかということでハタとつまり、結局、同教授が学生課長を兼務していたのを好機に、このうちの空き部屋を提供して売店を開かせたという。つまり丸善は最初に京城大学構内に売店を開き、これが本社の拡張政策に従って、京城出張所開設となり、大学構内から外に進出し、更に支店に昇格するようになったというのである。

 京城帝国大学の開学は1924年である。

 

 大沢勝は東京帝大医学部を卒業後、1919年に朝鮮総督府医院の医官となり、翌年には京城医学専門学校の教授を兼任した。その後1922年から1年間欧米に留学し、1926年4月から京城帝大医学部教授となった。京城医専の頃から丸善と付き合いがあり、京城帝大教授就任後に学内に丸善の売店をおいたのだろう。

 

 ただ、これはあくまでも「売店」の設置であって、丸善としての正式の京城出店は、黄金町の京城出張所開設がはじまりとされている。

 丸善が京城へ進出したのは、昭和5年6月20日京城府黄金町1-167に出張所を開設した時に始まる。その後昭和11年10月1日、出張所から支店に昇格した京城支店は、本町二丁目に店舗を設け、支店長諏訪多房之助以下約50名の社員をもって開店し、わが国の前進基地である朝鮮の文化興隆の一翼を担つた。

 1930年に黄金町1丁目の出張所は、現在の乙支路入口ウルチロイック8番出口を上がったロッテホテル新館の前あたりにあった。『大京城府大観』にはこのように描かれている。

 この黄金町の丸善については、京城中学1932年卒業生の同窓会誌『仁旺ヶ丘』(1982)に、花園一郎が「京城の丸善」をいう一文を寄せている。

 初年生のころ江頭靖之君と下校の道すじは府庁前から黄金町通り。三井物産の斜め向かい雅叙園の路地のそばに、入り口のガラス戸にソコニーペガサス朝鮮総代理店と金文字のある殺風景なセメント壁の二階屋の事務所建物が、いつの間にか、丸善京城出張所と、金文字が変わっていた。

 

(中略)

 

 中学の初年級に丸善は無縁な存在だったが二年になって、堤正泰君の父君のお世話で、マツケイという老スコットランド人が英会話を教えに週二回来てくれることになり、マツケイさんが丸善に注文しておいてくれたテキストのイングラムブライアン著“イングリッシュエコー”を買いに、はじめて入った。

 なかは薄暗い。殆どが洋書らしいが、古本屋というより紙屑屋の倉庫か仕切り場なみに雑然とした感、左手のショーケースにタイプライターが二台置いてあるのがピカピカに際立って、あとは東京本店売れ残りの雑書を本棚につめただけみたい。店内には一人の客もない。

 入り口の正面の小さな事務机にセーラー服の少女がひとりで店番、おそらく一日中めったに客がないせいか、びっくりした風に立ち上がった。目の大きな色の白い、薄暗い店内で一しお白い、夢二か虹児の挿し画のように可憐なかわいい子だ。どこの女学校の制服だろう、と思った。女学校のセーラー型制服が、あの頃の、女学校に行けない子のいじらしい憧れであった事を知ったのはずっと後年である。

 注文の本を告げるとうなずいて出してくれて金を払うだけの接触を、その後も一冊終わって次のを買いに行く、第五巻まで同じことを京中卒業まで四回繰り返したほかは、中学生には無縁なこの店に立ち寄るきっかけもなく、下校の途次に前を通るときその子を想う、誰にも語らぬ、恋情というほどもない秘かな関心だった。

 京城の内地人中学生の目から見た初期の丸善出張所である。現在のグレビンミュージアム、1991年までアメリカ文化院として使われていた建物が、三井物産京城支店であった。

 

 もう一つ、朝鮮人の目から見た黄金町の丸善出張所の店内スケッチの記事が残っている。1935年10月の雑誌『三千里』に掲載された「朝鮮人으로 洋書보는 사람들, 丸善會社(朝鮮人で洋書を読む人々、丸善会社)」という記事。丸善が本町2丁目に進出するちょうど1年前である。

朝鮮人で洋書を読む人々

 ソウルの鍾路から黄金町の交差点に向かい、交差点から少し右の方に丸善式会社京城出張所という看板の建物が見える。これが洋書を専門に扱う店である。さほど広くない店内の書架には洋書がずらっと並んでいて、まるで西洋の書店に入ったかのようだ。書店というよりも高貴で閑静な書肆という感じである。

という書き出して始まる。

 店内では、大学か専門学校の教授と思われる紳士が英語の書籍をさがしていたり、京城帝大の帽子をかぶった学生や、法律専門学校の学生がドイツ語の本の棚の前で熱心に法律書に見入っている。そして、朝鮮人の客について次のように書いている。

 書店店主の話では、この書店にくる朝鮮人は全体の客のほぼ三分の一にしかならないという。私がいたあいだも朝鮮人には一人も出会わなかった。

 この三分の一にもならない朝鮮人の客は、その半数が専門学校や大学に通う学生だという。一般社会人では、中等以上の学校で教鞭を取る教授クラスが多く、映画や演劇、小説、その他月刊文芸雑誌などを購読する文化人・芸術家の客がいるという。

 

(中略)

 

 外国語別にみると、英書が最も多く、ついでドイツ語。フランス語はごく少ない。このところの目新しい傾向は、少し前までは多少の取り扱いがあった左翼書籍が全くなくなったこと。購読者が減ったことも一因だが、いろいろと規制が強くなり、最近はほぼ出なくなった。ただ、モスクワの画報などは多少は出ている。

 その他の月刊雑誌や日刊新聞などは売れ行きがよい。「ロンドンタイムス」は毎日65部、「ニューヨークタイムス」も17部ほど出ている。ドイツの「メルニータイプラート」紙などの2、3種のものも出ている。

 雑誌はその種類が非常に多い。ニューヨークや、ベルリンの雑誌その他の演劇、映画、音樂などに関するもの、「アメリカンレビュー」など5、6種があり、月刊雑誌だけでも20数種類にのぼるという。

 朝鮮の学究的人士は、国際的に広く知識を求める意味でも、必ずやこの丸善はおとずれるべきである。

 この黄金町の丸善出張所は、洋書の専門店で、バーバリーのコートや万年筆やインクなどは扱っていなかったようだ。

 

 『丸善百年史』によれば、この1年後の1936年に、丸善は京城一番の繁華街、本町に進出する。

その後昭和11年10月1目、出張所から支店に昇格した京城支店は、本町二丁目に店舗を設け、支店長諏訪多房之助以下約50名の社員をもって開店し、わが国の前進基地である朝鮮の文化興隆の一翼を担つた。

 

(中略)

 

 ところが開店の翌年に日華事変が起り、軍事輸送優先のため一般貨物の取り扱いが一時不円滑になり、営業上相当の打撃をうけたが、それも短期間の一時的な現象で、輸送の障害が解消されると俄に活気を呈した。更に15年末には朝鮮総督府の配慮を得て、洋書の輸入も可能になり、営業状況も好転し、従業員数も百余名を数うる大世帯になった。そこで開店後2、3年で店舗の狭隘を感ずるようになったので、本館裏手の空地に115.5平方メートルの総三階建コンクリート煉瓦建の店舗を増築することになり、16年9月に竣工し、一偉容を加えた。

  『大京城寫眞帖』(中央情報鮮溝支社 1937)に本町の丸善京城支店の写真が載っている。

 前掲の『仁旺ヶ丘』には、東京帝大の1年生になった花園一郎が夏休みで京城に戻って、この新しい本町の丸善を訪れた時の話が記されている。

 本町の丸善の店は支店に昇格していた。入るのは初めてであった。東京の日本橋店によく行って、市電の中で若い女に会釈されて驚いて誰かと見れば洋書係の女店員だったり、本を見ていると店のエライらしい人—春の字の名の人だったと記憶がある—が近づいて挨拶をくれるほどに通ったので、京城の店にはトンと用がなかった。

 新店は本店そっくりのたたずまいと匂いでまさしく“丸善”であった。

 幾年ぶりかに見る彼の少女は、目を見張るほど“おとな”になっていた。勝手知った古参のねえさん店員で、あと入りの女店員に君臨していた。こちらを、覚えがあると見る顔つきも自若として、まだ学生をつづけている自分に、世慣れにおくれた引け目を感じさせられた。

 ひょっとすると、この店内の写真の中に花園一郎の見知った「古参のねえさん店員」がいるのかもしれない。韓服ハンボクの女店員が写っているのも興味深い。壁に貼ってあるのは、1935〜1936年に平凡社から刊行された小林一郎著『法華經大講座』の広告である。
 

 探してみたら、尾崎新二『もう僕は京城っ子には戻れない』(世界日報社 1995)に転載されている竹崎昇造「想い出の本町入り口付近 昭和12、3年頃)という地図に「丸善」の記載があった。竹崎昇造は南山小学校13回(1938年)卒業で、敗戦時には朝鮮鉄道に勤務していた。

 

 1933年の『京城精密地図』(三重出版社京城支店)と照らし合わせてみると「本町ビル」の西隣「美人屋」とあるあたりが、その場所であろうか。

本館裏手の空地に115.5平方メートルの総三階建コンクリート煉瓦建の店舗を増築することになり、16年9月に竣工し、一偉容を加えた。

 竣工した1941年はすでに戦時体制下にあって、そのせいか華やかな広告は見当たらない。この時期の丸善は、書籍・雑誌だけでなく、文房具や洋物雑貨、化粧品、煙草などを扱う店として広告を打っていたようだ。

 


 

 1945年8月15日、日本は敗戦した。

 

 朝鮮半島の北緯38度線以南の日本軍の武装解除と植民地支配の事後処理を行うため、朝鮮に入ったアメリカ軍政当局は、本籍が内地にある内地人の内地引揚げと、内地人名義の企業を「敵産」としてアメリカ軍政の管理下に置くものとした。ただ、敗戦処理がどのように進められるのかは不透明で、不動産の処理などでは混沌とした状況がその後も続いた。

 

 丸善も営業を停止し、内地人従業員の主導で事後処理を行おうとした。

 『丸善百年史』には、昭和26年版の『丸善社史』からの転載として、次のような記述がある。

 京城を始め朝鮮各地では戦局がすすみかつ日本軍の敗色が漸く濃くなったころから、反日分子の動きが活発になってきていたが、終戦とともに反日派の活動は愈々活発となり、京城においても、朝鮮人住宅地区に隣接している邦人の住宅・商店などでは朝鮮人による暴行や掠奪による被害が各所に起こった。

 京城支店は市の中心部にあったため何等の被害もなかったが、このような情勢に鑑みて営業の継続が危険であると考え、ただちに店を閉じ内外との取引及販売を一時中止するとともに、諸物品の整理と未収入金の回収に努力した。当時は、諏訪多支店長が昭和18年10月病没の後、福岡支店長斎藤哲朗が京城支店長を兼ねていたが、その時は福岡に在って指示をすることも出来なかったし、指図を受けることも殆どできなかった。職員も徴用や召集で減少していたが、残留社員のうち年長であった江口良雄が支店長職務を代行していたのである。

 既に内地とは通信連絡ができず、一方、日本の軍部や総督府からも何らの指示もなく、社員は全く途方に暮れつつあった。そのうち9月8日、米軍が京城市内に進駐してきたため、人心も次第に静まり、不安も薄らいだが、そのような状況の中で、近く在鮮日本人は、全部本国へ送還されるということも確かになったので、送還後の当支店の管理を朝鮮人社員裵渉(京城府立高等普通学校卒業後、昭和12年11月当支店に採用、のち選ばれて社員資格の待遇を受けていた一人で、今一人社員待遇の朝鮮人も居た)に委任することとなり、9月下旬米軍当事者立ち会いの下に店内の諸物品を棚卸しして現物並びに帳簿を整理し、支店と裵渉との間に、管理委任に関する契約書(米軍当事者サイン)を取交わした。そして8月以後、この時まで復員帰社してきた者を含めて、全支店員に対して9月、10月分の給料を支給した。

 まもなく、当支店の取引銀行であった第一銀行京城支店は、米軍の指示で一切の払出しを停止されたが、このため約四十万円の預金も封鎖されてしまった。

 支店が裵渉に委した当社の財産・商品も、第一銀行京城支店の預金も、その後如何に処分されたかは知るよしもない。それにしても給料だけでもよく支払って置いたものである。その後の支店社員の生活は文字通りの竹の子生活であったが、これらの社員は、日本軍京城連絡所の指令によって、同年10月下旬漸くその大部分の引き上げを行うことが出来た。

 敗戦で植民地支配が崩壊し、それから6年も経ってからの文章にもかかわらず、朝鮮に対しては、何ともまぁ上から目線丸出しの言いぐさである。

 

 朝鮮人の店員は相当数いたのだろうが、社員として扱われた朝鮮人は二人しかいなかったという。その朝鮮人社員の一人裵渉ペソップと物品や帳簿の管理委任の契約書を取り交わしたとある。朝鮮人の管理下に置くことで「敵産」として没収されることを回避しようとしたのかもしれない。

 

 裵渉は1914年生まれ。のちに慶尚北道キョンサンブット金陵クムヌンから国会議員選挙に出馬しており、金陵(金泉キムチョン)出身と思われる。京城で高等普通学校を卒業した後、普成専門学校の法科に入学したが2年で中退。1937年11月に丸善京城支店に採用された。

 

 内地に引き揚げた丸善関係者は、その当時は知るよしもなかっただろうが、解放後の裵渉と丸善について報じた記事がある。1946年2月23日の『中央チュアン新聞』。

丸善書店建物鐘紡との紛糾

市内本町2丁目の丸善書店の朝鮮人従業員は、8.15以降、在庫書籍と商店施設を保管し、京畿道鉱工部に管理引き継ぎ申請をして、昨年12月に保証金を納付して正式に管理手続きを行った。同時に、従業員の代表裵渉氏が管理責任者となり、更生朝鮮の文化開発に貢献しようと、内外書籍の出版、外国書籍の輸入などの事業計画をたて、ソウル大学以下の各専門学校の図書館や文化学術団体などのサポートと、大学の著名教授陣の指導のもとで準備を完了した。ところが、朝鮮実業公司(前鐘紡)から、丸善書店の建物を使用するので24日までに明け渡すよう突然の要求があり、丸善書店では不当な要求だとして拒絶している。しかし、世間では、実業公司が建物の使用を要求することになった経緯について関心を示しており、日本人が所有していた機関を中心に、同様の事例が多発していることもあって、軍政当局の処理に注目が集まっている。これについて、丸善書店支配人の裵渉氏は次のように語っている。

実業公司側が、1日に、軍政庁財産管理課のサインのある賃貸借契約書を持ってきて、我々の建物を使用する代わりに鍾路一丁目にある自社所有の建物を使うように言ってきた。そのため、こちらから財産管理課を訪れ、実業公司側の要求の不当性を訴えたところ、許可証を求められたのでそれを渡した。16日になって、その許可証記載の当社住所を削除して鍾路の実業公司所有の建物住所を記入した事務所変更状と、実業公司社長が丸善書店に出したとする約定書をアメリカ人が持参してきた。約定書の内容は、「丸善書店の建物の使用権を敵産管理局から獲得したので、それに代えて鍾路にある自社(実業公司)所有の建物を提供し、運搬費も負担する」というものだった。実業公司が事務室として使用できる建物があるにもかかわらず、このような手続きをすることは理解し難いうえ、鍾路にあるという建物は、現在の使用者が明け渡しを拒んでおり、ここに世間一般に窮状を訴えるものである。

 丸善社屋の明け渡しを要求した朝鮮実業公司チョソンシロップコンサは、鐘紡が朝鮮各地に置いていた工場を「敵産」として接収したアメリカ軍政当局の管理下で、その再稼働を担う企業として発足したものである。鐘紡グループは、戦時下の1942年から化学工業や重工業など直接軍需にかかわる事業部門への多角化を急速に進め、製鉄所や化学工場、練炭工場などを朝鮮で稼働させていた。それら24の工場を引き継ぐことになったのが、この朝鮮実業公司であった。

 バックにアメリカ軍政当局のついた朝鮮実業公司からの要求だったが、裵渉以下の従業員たちは、この危機を乗り切り、旧店舗の場所に丸善として営業を始めるに至ったことが3月7日の『自由チャユ新聞』に報じられている。

丸善ファンソン』新しい出発

朝鮮の唯一の外国書籍販売店だった丸善書店は、8.15の解放以後、各専門大学の教授やその他の有志多数のサポートで、有志何人かで朝鮮の啓蒙運動に役立てている。まず緊急の問題となっている中等学校以上のハングル教科書の編纂と、自然科学の外国書籍の輸入準備を完了したという。

この新聞報道では「丸善」となっているが、3月11日付の『中央新聞』に社告を掲載して、書店名を「太白書籍公司テベッソジョッコンサ」に変更した。

弊社は左記のごとく商号を改称して、我が国の固有文化の発展をはかり、外国文化の輸入で国民の文化水準を向上させ、建国の大業を完遂させることに一層尽力いたす所存につき、江湖諸賢のこれまでに勝るご愛顧とご指導をお願いいたします。

 太白書籍公司は1947年までは、書籍の出版や3階に太白画廊を設置して展覧会を開催した記事などが記事データベースで検索できる。しかし、その後は全く出てこなくなる。

 朝鮮戦争で、旧本町一帯はほぼ壊滅した。1951年7月に国連軍から取材許可を得てソウルに入った『朝日新聞』鈴川勇特派員は、次のようにソウルの街の惨状を伝えた。

 

 こうして「丸善」は名実ともに消滅した。

 

 ちなみに、裵涉は解放後の早い時期から金性洙キムソンジュ韓国ハンググ民主党ミンジュダンに加わっており、組織部の一員として資料に名前が出てくる。1950年5月の第2回国会議員選挙には、慶尚北道金陵選挙区から民主国民党ミンジュクンミンダンの候補として立候補している。その後、民衆党ミンジュンダン院内総務などを歴任して、1973年に政界を引退している。