もうかなり前からだが、韓国のホテルの部屋でテレビを見ることがほとんどなくなった。時間がないこともあるが、チャンネルが多すぎる。チャンネルを回しても、どこで何をやっているのかがさっぱりわからない。
「チャンネルを回す」は日本語では死語になりつつあるのようだが、韓国では今でも「채널을 돌리다(チャンネルを回す」と使う。
1980年前後までは、テレビのチャンネルはロータリー式で、回すものだった。あっちを見たりこっちを見たりと、ガチャガチャガチャとチャンネルを渡り歩くと、「壊れるからやめなさいっ!!」と怒られた。それがボタン式のチャンネルになり、リモコンで操作するようになると、日本語では「回さなく」なった。
しかし、韓国では依然として「돌리다」ともいう。「리모컨으로 채널을 돌리다」ともいう。直訳すれば「リモコンでチャンネルを回す」だが、リモコンで実際に回すわけではない…。
私が最初に韓国に住んだ1981年。帰国する留学生から譲り受けた白黒テレビはロータリー式チャンネルだった。多分こんなのだったと思う。
1978年の新聞広告より サムソンイコノテレビジョン
放送は、KBSの1・2・3とMBCの4局だったが、これ以外にAFKNという在韓米軍のテレビ放送が受信できた。KBS/MBCは、平日は午前10時になると一旦放送が終了し、夕方5時半から夜の放送が12時まで。12時になると、愛国歌が流れて放送終了になる。
これに対して、AFKNは朝から夜中まで通しで放送していた。つまり、平日の昼間はAFKNしか映らなかった。
日祭日は、昼の12時以降も放送があり、昼下がりの午後も韓国語のテレビが見られるのだが、せっかく高い金を出して買った受像機で平日の昼間は観るものがないというのはもったいない。そこに登場したのがビデオデッキであった。韓国の一般家庭にはビデオが広く普及していた。
韓国のテレビ放送が始まったのは、1962年1月15日。
この記事によれば、KBSのテレビ局の開局は1961年12月31日で、放送の開始は翌年1月15日。12月中にテレビセットの契約を受け付け、1月4日に日本から船便で仁川港にテレビセット約7000台が到着した。各契約者には1月15日の放送開始までに放送文化協会を通じて受像機が届けられ、10日以内に第2便も日本から到着するという。
1962年の年初といえば、前年5月16日の軍事クーデターで朴正煕が実権を握り、国家再建最高会議議長に就いていた時期である。日韓会談は暗礁に乗り上げたままで膠着状態にあった。日本政府が有償・無償5億ドルを出すことを取り決めた「金・大平メモ」が交わされるのは、この年の11月になってからのことである。
このような時期に、日本からテレビセットを輸入して韓国のテレビ放送は始められたのである。
この間の事情は、朝日新聞ソウル特派員だった真崎光晴が記事にしている。日韓の国交はまだなかったが、1960年の4・19 学生革命の後、5月から日本人特派員のソウル駐在が認められていた。
真崎特派員のこの記事によれば、韓国放送文化協会が豊田通商を通してゼネラル(現在の富士通ゼネラル)のテレビを輸入する契約を結び、その受像機が放送開始までに輸入されたのである。外貨不足の中で200万ドルもの日本製品を輸入してテレビ放送の開始を急いだ背景には、北朝鮮に先駆けて放送を始めたいという朴正煕議長の政治的思惑があったとされている。
その後、4月に追加で12,400台の輸入契約が結ばれ、三洋と東芝の日本製テレビが約1/3の台数を占めた。
こうして1962年1月15日にKBSの初のテレビ放送電波が9チャンネルで流れた。
この番組表からわかるように、この時、すでにもう一つ別の局がチャンネル3・12でテレビ放送を流していた。AFKN-TV、在韓米軍のテレビ放送局である。
AFKN-TVは、1957年の9月に南山の上にテレビ局を開局してテレビ放送を始めていた。
そして、1964年には民放の東洋テレビTBCが開局し、1969年末には文化放送MBCのテレビ放送も始まり、テレビ4局時代が始まった。
2チャンネル AFKN
7チャンネル TBC
9チャンネル KBS
11チャンネル MBC
1970年前後は、経済指標で比較すると北朝鮮の方が韓国を上回っており、韓国では電力不足と食糧不足が深刻であった。生産現場への電力供給を優先して家庭での電力消費を抑えるため、テレビ放送は、放送時間が朝の時間帯と夜の17時から21時までの時間帯に制限されていた。
それでも、1972年には、南山の放送施設の横に南山タワーが建設され、テレビ塔としてだけでなく、ソウルの観光名所として脚光を浴びるようになった。
ところが、1973年秋、第4次中東戦争でオイルショックが世界を襲った。日本ではトイレットペーパーの買い占め騒動が起こった。韓国では、各家庭のテレビの電力消費を抑えるために放送時間の削減に踏み切り、朝の放送を全面的に中止させた。韓国のチャンネルは、夕方5時台から夜11時までしか映らなくなった。
放送時間短縮後の1974年1月17日の『東亜日報』にこんな記事が出ている。
釜山など南部の海岸地帯で日本のテレビ視聴が増えているという。アンテナを改造すれば、対馬や山陰地方のテレビ電波を受信できた。釜山では日本のテレビ放送の視聴率が22%にのぼるという。記事では、韓国の放送時間が縮小されたことと関連づけているが、それ以前から行われていたものと思われる。ドリフの全員集合もやっていたし、歌謡番組や映画劇場などもやっていた。日本のテレビ放送の受信を禁じる法律があるわけではないので、規制されることはなく、その後80年代に入ってもこの状態が続いた。
日本のチャンネルの周波数と、韓国の受信機のチャンネル設定は多少ズレてはいたが韓国用のテレビで日本のNHK・民放の番組を視聴することはできた。
この時期は、日本では、白黒テレビからカラーテレビへの移行期であった。韓国のサムソンやクムソンでもカラーテレビ受像機の開発を始め、1974年には生産を始めた。しかし、朴正煕政権は、消費電力が大きいカラーテレビ受像機を抑制するため、カラー放送を認めなかったばかりか、国内での国産カラー受信機の販売も禁じた。
しかし、AFKNは早くからカラー放送を始めており、釜山あたりで見られる日本のテレビ放送もカラーになっていた。カラーテレビの受像機さえあれば、韓国国内でもカラーでテレビ映像を見られる環境にはなっていた。そのため、米軍の基地内の売店PX(Post Exchange:酒保)からの横流しルートなどで、カラーテレビが韓国の闇市場にも出回った。
1978〜9年になると、ビデオデッキが流入し始めた。夜しか韓国語の放送がなく、しかもカラー放送が行われる見通しもない中で、さまざまな非公式ルートでビデオデッキが国外から入ってきた。
ちなみに、初の国産VHSデッキが発売されるのは1982年のことである。これによって、一段と普及が加速化したが、その前からすでに多くの家庭にビデオデッキがあった。
この時期にはレンタルビデオ屋が急増した。ビデオレンタルといっても大きな店を構えているわけではなく、電話するとアジョッシが「큰 거예요? 작은 거예요?」と尋ねる。大きいのがVHS、小さいのはβ。それを確認した上でカゴにめぼしいビデオカセットを入れて持ってきてくれる。Sony信仰が強かったので、βのシェアが結構大きかったように思う。
2020年1月に韓国で公開された映画「남산의 부장들(邦題:南山の部長たち:2021年1月公開予定)」で、1979年10月の朴正煕大統領暗殺事件の数日前に大統領と警護室長が言葉を交わす場面がある。
大統領閣下! 業界ではカラーテレビを売りたいと騒いでますが…
国民がオレをカラーで見られるのはいいんだが、オレは白黒が好みだ
閣下は白黒がお似合いです!
これは映画の台詞であって、このあと二人とも射殺されてしまったので本当にこのような話をしたのか確認のしようもない。しかし、この1979年10月末という時期には、カラーテレビを販売したい、カラーテレビを放送したい、カラーテレビが見たいという欲求が韓国社会で高まっていたことは事実である。
朴正煕暗殺事件の後、1979年12月12日の粛軍クーデターで実権を握り、1980年5月の光州事件を力で圧殺して権力の座に登り詰めた全斗煥は、国民のカラー放送願望に迎合して歓心を買った。その一方で、マスコミを牛耳ってこれを最大限に利用しようとした。
1980年11月10日に、全斗煥政権はカラーテレビ放送の開始を大々的に打ち上げた。
その数日後には、新聞、通信社、放送局の再編・統廃合を発表して、強権的にマスコミを政権のコントロール下に置いた。
これによって、TBCテレビはKBSテレビに吸収されて消滅、MBCは株式の7割をKBSが取得して公営放送化され、テレビから民間放送が姿を消して、KBS1・2・3とMBCという4局体制に再編された。
翌年5月には、朝の時間帯のテレビ放送を復活させて、80年代前半の全斗煥時代のテレビ放送体制が出来上がった。放送時間を増やすことで、国民の人気取りをするとともに世論操作にも利用していた。
これは、1981年6月29日午後9時からのMBCニュースデスクである。この時は、大統領夫妻のマレーシア訪問の特集であったが、特集でない通常のニュースでも、冒頭で必ず全斗煥大統領の動静が伝えられ、夫人李順子女史がしばしば登場した。当時こんな言葉が流行った。
학사 위에 석사, 석사 위에 박사, 박사 위에 육사, 육사 위에 보안사, 보안사 위에 여사
学士の上に修士、修士の上に博士、博士の上に陸士(陸軍士官学校)、陸士の上に保安司(保安司令部)、保安司の上に女史(大統領夫人李順子)
そういえば、どこかの国にも…
1984年5月、NHKが衛星放送を開始した。しかし、衛星の故障などで予定通りには進まず、1986年初めに打ち上げられた放送衛星を使った15チャンネルのNHK総合テレビの番組を中心にした難視聴地域向け放送が行われていた。BS2の11チャンネルは、この年末になって試験放送が始められた。
1986年の初夏、日本の大使館員が、大韓航空の趙重勲会長の付岩洞の自宅に日本の衛星放送を受信するパラボラアンテナが設置されていることを聞き込んできた。自社の大韓航空機を使って日本からアンテナやチューナーなどの機材を持ち込んだものと思われた。大使館は、早速機材一式を本国に発注して韓国に搬入して、自国の在外公館(文化院)の屋上にパラボラアンテナを設置した。放送衛星に向けてアンテナの方向や仰角を調整するのに相当手間取ったが、数日間かかって調整して日本のBS放送がソウルで受信できるようになった。これがソウルで日本のテレビ放送を受信した初期の出来事である。当時のパラボラアンテナは、1.6メートルの巨大なものであった。
その後、パラボラアンテナの改良などもあり、次第にコンパクトな機材で日本の衛星放送が受信できるようになっていった。それに、日本からの機材の輸入自由化などもあり、日本の衛星放送受信施設は高級マンションなどを中心に急速に普及していった。
新聞では、「低俗文化」の流入を危惧する論調の記事が繰り返し書かれたが、実際にはBS放送では、韓国の視聴者が期待するようなバラエティとか、映画や歌謡番組、それに深夜番組系はほとんど放送されていなかった。大相撲の本場所が始まると、昼過ぎからは序二段、三段目、幕下の相撲が延々と続くばかりで、日本の「大衆文化」を期待してアンテナを立てた韓国人から、「なんで日本のテレビはこんなにつまらないのか!」と文句をいわれた。私のせいではないのだが…
韓国側からすると、国家領域を越えた電波の漏洩問題との指摘があった一方で、NHK側からは、視聴料を支払っていないのに受信するのは問題だとする声が上がって失笑をかった。
1986年の民主化宣言からソウルオリンピックを経て、韓国のテレビ放送も大きく変わり始めた。1991年12月にソウル放送SBSが新たにテレビ放送を開始した。11年ぶりに民放局が復活したのである。また、在韓米軍のVHFテレビ放送が使っていた2チャンネルの周波数帯がアメリカ側から韓国に返還されることになった。AFKNがUHF放送に転換するための費用22億ウォンあまりは韓国側で負担した。
そして1995年3月にテーブルテレビ20局が開局して、一気に多チャンネル時代に突入した。
翌年6月にはケーブルテレビ加入者は100万世帯を越え、7月からはKBSの衛星放送も開始された。同時に、放送時間の制限が緩和されていき、終日放送も許容されるようになっていった。
2017年8月、韓国で公開された映画「共犯者たち」。日本でも2018年12月に一般公開された。
李明博政権と朴槿恵政権によるメディアへの介入、これに迎合するKBSやMBCの幹部たち、それと闘う現場の放送人たちのドキュメンタリーである。
なぜ、李明博や朴槿恵がKBSやMBCの人事に介入し、放送を自分たちの政権のために利用しようとしたのか。それは、韓国のテレビの歴史を振り返るとよくわかる。独裁政権のやり方を踏襲しようとしたのである。それと闘う人々もその歴史があるが故に妥協せず戦い続けるのである。
そして、それは日本社会にとっても決して他人事ではないのである。