韓国自転車事情—開化期から大韓帝国期 | 一松書院のブログ

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 1980年代の韓国で自転車というと思い出すのはこのような風景。そして、荷台が大きな運搬用の自転車。

 その当時のソウルでは、自転車が通学や通勤に使われることはなく、荷物運び用の自転車以外はほとんど見かけることがなかった。歩道は段差が大きくて自転車が走るのは到底無理。車道はバスや自動車が競い合っていて、自転車ごときに道を譲ってはくれない。大量の荷物を積んで横柄に走る自転車だけが何とか走れていた。

 

 韓国の人、特に1980年代までのソウル育ちの女性で自転車に乗れないというのは珍しくない。まだ日本への渡航が難しかった1980年代のはじめに日本にやってきた韓国人学生が、「日本では女の人が自転車に乗るんですね( ꒪⌓꒪)!」と驚いたことがあった。こちらはその驚きぶりに驚いたのだが…。

 『韓国の社会指標』で、「通勤・通学 利用交通手段分布」をみてみると、1990年・95年・2000年のソウル市内での自転車利用率は0.6%にすぎない。

 

 ところが、最近はソウル市内のあちこちで普通に自転車を見かける。地下鉄にもそのまま自転車を載せている。日本だと、折りたたんでケースに入れないと電車や地下鉄には自転車は持ち込めない。それに、ソウルで自転車に乗る人は、本格的なファッション、いわゆる「チャリダー」スタイルが目に付く。

 

 今の韓国で、自転車ライフが注目を浴びるようになったのは1990年代の半ば以降のこと。

 

 1996年には、汝矣島ヨイドにできた自転車広場が注目され、この年の秋には漢江ハンガンの河川敷に自転車道路計画が発表された。日常生活での自転車利用の広まりというよりは、レジャーや健康のためのサイクリング志向が急増した。

 

 そして、2009年には地下鉄に自転車をそのまま持ち込めるようになった。

今や、こんな風景は珍しくない。

 


 

 『韓国の社会指標』でみると、通勤・通学に自転車を使用する人が、2005年は0.9%、20010年には1.5%まで上昇している。

 


 では、そもそもいつ頃自転車は朝鮮で乗られるようになったのだろうか。

 

 話は一気に19世紀にまで遡る。

 


 

 日本では、自転車は明治維新前後に持ち込まれたとされる。

 私の祖父が小学生の頃の逸話を書き残している。曽祖父が徳川慶喜の典医だったので、明治維新以降は静岡で徳川慶喜の屋敷の向かいに住んでいた。1878年生まれの祖父は慶喜の息子の遊び相手をしていた。この逸話は1880年代後半から1890年頃のことであろう。

 又ある時期に、慶喜が夢中になったのは自転車乗りであった。そもそも如何なる手順で入手したかは不明であるが、慶喜は一時南蛮渡来の別品自転車を入手し、スマ―トな洋服を着て、それにうちまたがり、静岡市内を縦横無尽に走りまわったのであった。尤もその頃、自転車は我が国にも存在し、私なども得意になって、盛んに乗り回したものだが、それは勿論木造、鉄の太い輪のついた粗品で、ゴットンゴットンと、絶えず罵声の如き怒号の如き音を放って走った。そして、通行人に、自転車事故の警戒をさせた。それで当時、自転車事故は一件もなかった。
 慶喜の南蛮渡来の別品自転車は無論ゴム輪で、銀輪目を射る如き国宝自転車であった。そして慶喜は、銀鞭を振って自転車に鞭うちつつ、意気高らかに走ったのではないかと思われるが、実は左にあらず、慶喜の銀輪自転車にはイナセな黒鴨仕立ての若き別当一人先行して、敢えて憚るところがなかった。

 つまり、慶喜の自転車の前に露払いが一人ついて自転車を走らせていたというのである。

 この「南蛮渡来の別品自転車」というのは、「ローバー安全型自転車(Rover Safety Bicycle)」であろう。

 上掲の自転車は、現存する1886年製の「安全自転車」(自転車文化センター所蔵)である。ほぼ現在の自転車の形状に近い。徳川慶喜はこんな自転車に乗っていたのだろうか…。意外なほどスマートで、確かに「別品」である。

 

 ちょうどこの時期のものと思われる自転車の写真が『朝鮮日報』のデータベースにも残されている。

 朝鮮からアメリカに亡命してアメリカの市民権をとった徐載弼ソジェピルが、現地で撮ったとされるもので、これも「安全自転車」である。

朝鮮日報データベースより

 

 徐載弼は、1884年に金玉均キムオッキュン朴泳孝パクヨンヒョらと共に甲申政変を起こすが、失敗して日本へ亡命した。その後、アメリカに渡りコロンビア医科大学夜間部に進学、在学中にアメリカ市民権を得て、1893年に大学を卒業した。

 

 その徐載弼が、朝鮮に戻れるようになったとき、朝鮮に自転車を持ち込んで最初に自転車に乗ったとされている。それ以前に、外国人が朝鮮に自転車を持ち込んだことがあったが、朝鮮人として初めて朝鮮の地で自転車に乗ったのは徐載弼とする説が有力である。

 

 日清戦争後、徐載弼はアメリカから朝鮮に戻り、清と朝鮮の華夷的な関係を国際法的関係に改める運動を始め、独立門や独立館を建てた。その「独立」とは清との「宗属関係」からの脱却を意味した。「独立協会」を組織して『独立新聞』を刊行した人物として知られる。ブログ参照

 

 徐載弼が最初に自転車に乗ったという話は、1928年12月発行の『別乾坤ビョルコンゴン』第16・17号に掲載されている「各界・各方面で一番最初の人物」という記事の中に出てくる。最初にまげ(サントゥ)を切った人・欧米に留学した人・自動車に乗った人・洋服を着た人・新式の結婚をした人などとともに、最初に自転車に乗った人ということで、このように書かれていた。

各界各面 第一 먼저 한 사람     觀相者  
(前略)
그런데 지금으로부터 32년 전 丙申年에 徐載弼박사는 남 먼저 자전차를 타고 다니엿다. 그는 甲申年 金玉均 정변 때 멀니 米國에 망명하야 그 나라에 입적까지 하엿다가 그후 13년만에 (丙申年) 정부의 초빙에 의하야 귀국함에 米國에서 타던 자전차를 가지고 와서 타고 다니엿는데 그때에 尹致昊씨는 그에게 자전차 타는 법을 배워가지고 또 米國에 주문을 하야다가 타고 다니엿다. 우에 말한 것과 가티 그 때만 하야도 아즉 일반의 지식이 몽매한 까닭에 그들의 자전타 차고 다니는 것을 보고 퍽 신기하게 생각하야 별별 말을 다 하되 徐씨는 서양에 가서 양인의 축지법을 배워가지고 하루에 몃 백리 몃 천리를 마음대로 다니더니 尹씨는 代代家傳의 借力藥이 잇서서 南大門을 마음대로 훌훌 뛰여 넘어 다니녀니하고 또 자전차를 안경차니 쌍륜차니 하는 별명까지 지여섯다. 그리하야 獨立協會時代에도 여러 사람들이 徐씨나 尹씨를 보면 조화꾼이라고 負商패들이 함부로 덤비지를 못하며 또 한참 접전할 때에 그가 포위 중에 저 자전차 鍾을 한 번 울니연 여러 사람이 무슨 대포나 터지는 듯이 㥘을 내이고 도망하며 속담에 『眼鏡갑오』라는 말이 꼭꼭 맛는다고 떠드럿섯다. 지금에 그 일을 생각하면 또한 격세의 感이 업지 안타.

 

(前略)

ところで、今から32年前の丙申年に徐載弼博士は誰より先に自転車に乗っていた。 彼は甲申年の金玉均政変の時、遠く米国に亡命してその国の国籍をとったが、その後13年ぶり (丙申年)に政府の招聘によって帰国すると、米国で乗っていた自転車を持ってきて乗り回した。その時、尹致昊ユンチホ氏は彼に自転車の乗り方を教えてもらい、米国に発注して乗り回した。そのころはまだ人々は自転車をよく知らなかったので、彼らが自転車に乗るのを見てとても驚き、いろいろなことを言った。徐載弼氏は西洋に行って西洋人の縮地法を教わり、一日に何百里と千里を自在に行き来し、尹致昊氏は代々家伝の借力薬を使って南大門を越えて自在に走り回り、自転車に眼鏡車とか双輪車といった呼び名も付けた。そして独立協会の頃には、多くの人が徐載弼氏や尹致昊氏のことを「走禍輩」と呼んで、褓負商ポブサンの連中でもむやみに飛びかかることができなかった。また両者が対峙している時、彼が包囲された中で自転車のベルをひとたび鳴らすと、大砲が放たれたように泡を食って逃げ出した。ことわざに『眼鏡甲午』という言葉がぴったりだと言われた。今そのことを思うと、まさに隔世の感がある。

 

※褓負商:全国を行商をする人々だが、行動範囲が広く権力者に利用されることがあった。1898年に、保守派の皇国協会が独立協会を襲撃したが、その際にはその中心となった。

 徐載弼が一人で乗っていただけではなく、開化派の同志尹致昊にも乗り方を教えて自転車を買わせたという。

 尹致昊はこの頃英語で日記を書いていたが、1898年の1月22日に自転車に乗ったという記述がある。

22nd. (1st of 1st Moon, Moo-sool Year). Saturday. Pretty.

 A beautiful day―Practiced bicycle part of the a.m. with Remedios. In the afternoon went to the Palace to congratulate His Majesty on the old style New Year.

 Chang Bong Huan informed me that there are two parties, one Royalists and the other, Russianites: that the latter had some days ago planned to clean out the former, but that the plot fell thro. Whether this was so or not, I don't know, but whoever wants to do anything worth doing will have to cleanse the Palace from the legion of little devils who are driving the country fast into hell.

 

 のどかな日だ。午前中にレメディオス(Remedios)と一緒に自転車の練習。午後、陛下に正月のご挨拶をしに宮中へ行った。
 張鳳煥が知らせてくれたのだが、王室派とロシア派がある。ロシア派が数日前、王室派を掃討する陰謀を企てたが、失敗に終わったという。張鳳煥の話が正しいかどうかは分からない。しかし、正しいことをしたい人なら誰しもが、この国を地獄に陥れている悪党の群れを宮中から除去しなければならない。

『尹致昊日記』五  P.128

※レメディオス:Heliodoro A. dos Remedios

横浜の米国総領事だったクラレンス・グレートハウス(Greathouse, Clarence R.)が1890年に朝鮮の法律顧問として招かれたときに、ゴア人(インド西部のポルトガル領ゴアの人)のレメディオスを帯同した。正式の養子縁組はなかったが、実際には息子と秘書の地位にあった。

 

 開化期に自転車に乗っていたのは、徐載弼や尹致昊だけではなかった。

 

 徐載弼がアメリカで自転車に乗り始めたように、日本で自転車を愛好した朝鮮人がいた。

 高宗国王の第五子の李堈イガン義和ウィファ君)は、1897年に慶應義塾に留学したが、この時に自転車に乗っていたという記録がある。それは日本側の監視報告の中に残されている。

(前略)

朴等ハ殿下カ「ゲール」ノ甘言ニ歁カレ不時ニ誘ハレンコトヲ懸念シ殿下ヘ出京ヲ勸メタルモ殿下ハ「ゲール」ハ歸國スルモノナルカ故ニ從來ノ交誼トシテ橫濱ヘ赴キ告別セサレハ不相濟トテ承諾セラレス終ニ腕車ニテ橫濱ニ至ラルゝ事トナリタルモ殿下ハ「ゲール」ヲ訪問スルヲ止メ眞砂町自轉車屋ニ至リ車一輛ヲ借リ公園地ヲ周遊セラレ居タル爲メ朴ハ殿下ニ出會スルコト能ハス斬ク狼狽セシモノゝ如シ又朴泳孝ハ何事カ殿下ノ感情ヲ損セシモノカ殿下ハ朴泳孝カ公園地ニ至リタルニ之ヲ避ケラルゝ模樣ニテ直ニ橫濱停車場ニ赴キ同日午後四時十五分發汽車ニテ上京セラレタルヲ以テ朴泳孝等ハ其跡ヲ追テ此ノ列車ニテ歸京セリ而シテ殿下ハ同夜終列車ニテ歸寓セラレタリ

右及報告候也

 

明治三十年二月二十七日

神奈川縣知事 中野健明

外務大臣 伯爵 大隈重信 殿

 朴泳孝は甲午更張で改革を主導したが、失脚して再び日本に亡命していた。この時、朴泳孝は義和君との接触を試み、横浜まで出かけていった。しかし、義和君は公園でレンタル自転車に乗っており、そのまま汽車で東京に帰ったというのである

 さらに5月にも義和君は横浜にアンダーウッド(延世大学の前身延禧学校の創設者)を尋ねた時もレンタル自転車に乗っている。

(前略)

居留地百七十九番館「セントラルホテル」ニ赴キ同ホテル滯留外國人「エツチ,ジー,アンダーウツト」ヲ訪ヘリ同人ハ永ク朝鮮國ニ在留セシ者ニテ職業ハ醫師ニシテ宣敎師ナリト云フ然ルニ同人ハ山手邊ニ赴キタル由ニテ不在ナリシヲ以テ同一行ハ同ホテルニ於テ晝餐ヲ爲シ夫ヨリ眞砂町一丁目高木自轉車屋ニ至レリ同所ニハ韓應履モ待合居リ而シテ殿下ハ公園地ニ於テ自轉車ノ演習ヲ爲シ同日午後三時半頃韓應履ノ外同一行ハ再ヒ「セントラルホテル」ニ到リ玉突ノ遊戲ヲ爲シ居ル折柄「アンダーウツト」歸來シタルヲ以テ是ヨリ一同樓上ニ會シ凡ソ三十分間何事カ談話シ(後略)
右及報告候也

明治三十年五月十六日

神奈川縣知事 中野健明

外務大臣 伯爵 大隈重信 殿

 この頃は、自転車が高価であったこともあり、日本各地で貸し自転車が繁盛していたという。

 

 このもう一方の当事者である朴泳孝も日本亡命中に自転車に乗っていたという記録がある。

 1897年10月に朴泳孝は神戸から「木曽川丸」に乗船して下関に向かった。乗船前の神戸での動静報告に次のように記載されている。

大阪農人町野津虎次郞ナルモノ朴ノ知人ナリトテ來訪シ雜談時ヲ移シ後朴ハ單身自轉車ニ乘リ旅館ヲ出テ海岸通ヨリ遊園地及居留地等ヲ經テ程無ク歸館午後一時乘船セリ

 

朴泳孝の歸國報告(兵發秘第四四七號)1898年10月3日  
兵庫縣知事大森鍾一から外務大臣大隈重信  

さらに、下関でも、

朴泳孝ハ一昨三日午後二時同國人黃鐵·李四德·張三良·金商準·安泳中ノ五名ト共ニ縣下馬關ニ入港ノ木曾川丸ヨリ上陸直ニ同地阿彌陀寺春帆樓ニ投宿セリ

朴ハ着關後直ニ伊豫松山ノ山口某及京城「ソアントウ」ノ「ツネヤセイフク」ナルモノニ宛テ着關ノ旨ヲ打電セリ而シテ同人ハ爾後五時過キヨリ單身自轉車ニ乘リ外濱邊ヲ散步シ二十分許ニシテ歸館セリ

 

朴泳孝の歸國說に関する報告(秘第三○六號)1898年10月5日
山口縣知事秋山恕卿から外務大臣大隈重信  

と自転車に乗っている。朴泳孝はレンタルではなく、自分の自転車を船に積んで運んだのであろう。その後、門司に渡るときも自転車を持って行っている。そして、自転車に乗って自分でハガキをポストに入れに行ったりしている。

朴泳孝ハ過般來九州漫遊ノ途ニ上ラントスルノ計圖アル旨聞ヘ居リシカ過ル五日午後五時三十分朴ハ自轉車ヲ携ヘ安泳中ニ行李ヲ持セ馬關ノ僑居ヨリ門司ニ渡來シ旅舍石田屋ニ投シタリシカ安ハ同夕喫飯後馬關ニ歸去シ朴ハ翌朝はかきヲ認メ自轉車ニ跨リ自ラ投凾シタリ其何事ヲ認メアリシカハ不明ナレトモ長崎ノ女學校內ノ某ニ宛テタルモノナリシ趣ニ付多分外國宣敎師ニ托シ敎育中ナル自分ノ娘ニ與ヘタルモノナラン

 

朴泳孝一行の動靜報告(高秘第七九八號)1898年11月8日  
福岡縣知事曾我部道夫から外務大臣大隈重信  

 朴泳孝は、1907年に再度韓国に戻り、李完用イワニョン内閣で宮内府大臣となったのだが、この時に自転車を持ち帰ったのだろうか… そうした資料は出てこないのでわからない。

 

 韓国のいくつかのサイトに、日本で撮ったという写真が掲載されている。出所不明だが撮影時期は1885年頃だと推定されている。

左から、朴泳孝・徐光範ソグァンボム・徐載弼・尹致昊である。1897年にアメリカで死去した徐光範をのぞき、この3人はその後自転車で走り回っていたということになる。

 

 韓国の新聞検索システムで調べると、1899年の『独立新聞』に掲載された自転車の広告が出てくる。開利ケリ洋行が7月12日付と29日付の紙面に出したもので、「자전거チャジョンゴ(自転車)」ではなく「자행거チャヘンゴ(自行車)」と表記している。開利洋行は、所在地が「貞洞チョンドンの新大闕の前」となっている。すなわち、現在の徳寿宮トクスグンの前あたりであろう。広告文によれば、アメリカ製の自転車とともに、前照灯やベル、空気ポンプ、サドル、車輪などの部品販売もしていた。

 

1901年8月1日の『皇城新聞』にも広告があるが、これは「紙廛(紙屋)」が自転車を「譲ります」といった広告であろう。

 

 

 さらに、1902年8月30日の『皇城新聞』には、日本勢力の京城での拠点だった倭城台に店を構える山本商店で、アメリカ製の自転車を販売し乗り方の教習も行うという広告を出している。

 

 

 1904年に日露戦争が起きると、日本軍では自転車を伝令や偵察で使用した。H.W. Wilsonの『Japan's fight for freedom』には、「コサック兵から逃げる日本軍の伝令」という挿絵や、自転車が配備されている部隊の写真が掲載されている。 日露戦争中、日本軍の兵站基地とされた大韓帝国にも多くの自転車が持ち込まれた。

 

 1907年になると、京城の街中でも自転車が相当増えたものと思われる。興味深いのは、7月7日付の『大韓毎日申報』のこの記事である。

苧洞チョドンの十字路(今の明洞聖堂ミョンドンソンダン交差点あたりか)で韓国人が自転車を貸していた。日本人がその自転車を借りていったが、返却時に車輪が壊れていたので、車輪の代金を弁償するよう求めた。すると明日持ってくるといって立ち去ろうとしたので日本人の巡査に突き出した」という内容である。

 すなわち、日本と同じように京城にも自転車のレンタルがあったのである。

 

 また、7月10日の『皇城新聞』には、農商工部(今の光化門グァンファムン交差点の教保キョボビルのあるところ)の前を鉄製品を運搬していた朝鮮人に日本人の乗った自転車がぶつかり、運搬していた人が重傷を負ったという記事が出ている。

 

さらに、自転車の競技会が旧訓錬院の前庭で開かれたという記事もあり、この時期にかなり広く自転車が普及してきていたことを窺わせる。

 

 1907年の『最新京城全図』(ソウル歴史博物館所蔵)で見るとこのようになっている。この頃、自転車がこの街を走っていたのである。

 

 この頃の釜山(1906年)と平壌(1907年)の絵葉書で自転車が写っっているものがある。残念ながら京城のものは年代が特定できない。

 

 その一方で、この時期には、自転車をめぐって日本人と朝鮮人の間で摩擦があったことを窺わせる記事が散見される。

 

夜8時過ぎに南大門の外で自転車に乗っていた子供が日本人に自転車を奪われそうになったが、なんとか逃れた。しかし、殴られて重傷を負った。

 

純宗皇帝が昌徳宮に還御しようとした際、敦化門の前を自転車で横切ろうとした日本人を主殿院警視が捕まえて日本の巡査に引き渡した。

 

 日露戦争後、大韓帝国を「保護国」として統監府を置いて干渉を強める日本と、それに抵抗する大韓帝国という構図の中で、1907年7月のハーグ密使事件と高宗皇帝退位以降、様々な面で日本と韓国の間に摩擦が強まっていた。自転車をめぐっての摩擦や葛藤もその例外ではなく、いろいろな事件が起きていたということだろう。


 

 植民地時代、そして解放後の韓国における自転車については、また機会を改めてまとめることにしたい。