1924年6月25日から8月15日まで、京城府内の100の洞と町の名物102個を取り上げて紹介する連載記事「一百洞町・一百名物」が『東亜日報』に掲載された。単に名物を載せるのではなく、どの洞・町内で何を名物として取り上げるか—名物は東亜日報の記者が選ぶ—を、読者が事前投票で当てるという読者参加型企画である。
6月中に1週間通して毎日、その予告記事が掲載された。
ソウルは85カ所の洞と101カ所の町があります。その洞内・町内には必ず名物があるものです。例えば、鍾路には鍾閣、西小門には阿片窟といった具合です。
ここで、鍾路の鍾閣と西小門の阿片窟が例として挙げられていた。鍾路の鍾閣は6月25日の1回目で取り上げられたが、西小門の阿片窟は記事が見当たらない。そもそも西小門町は指定の洞・町にも入っていない。
西小門町の名前の由来になった西小門は、正式名称は昭義門。1914年に門は撤去された。
東側の光煕門と同じように、城内で亡くなった人はこの門から遺体が運び出されたりした。そのため西小門外、現在のエオゲから孔徳あたりにかけて墓地が多くあった。
そして、併合後、この西小門の内側(上掲の写真は外側から撮ったもの)には中国人が多く居住するようになった。
朝鮮の中国人は、1906年には全土で3,361人であったものが、1910年の韓国併合時には11,818人、1916年には14,904人と増加していた。
1923年5月の『京城日報』にこのような記事が出ている。
中国人は、内地人や朝鮮人の半分以下の労賃で働くという。要するに、中国人の労働者は、朝鮮人以上に搾取できる対象とされた。総督府は、中国人の雇用は雇用者全体の1/3までに制限せよという通達を出しているが、労賃の安い中国人の雇用が多くなっているというのである。この頃から、朝鮮に渡ってくる中国人労働者が次第に増加するようになった。
こうした流れの中で、京城中心部にも中国人が多く暮らす地区ができていった。1926年2月の『京城彙報』に、1925年10月現在の京城府内の人口が掲載されている。
| 朝鮮人 | 245,349人 |
| 内地人 | 84,696人 |
| 中国人 | 5,875人 |
この5,875人に過ぎなかった中国人の40%以上にあたる2,411人が、貞洞、西小門町、太平通2丁目、長谷川町、北米倉町に集中して居住していた。
西小門町だけで見ると、
| 戸数 | 人口 | |
| 朝鮮人 | 145戸 | 583人 |
| 内地人 | 119戸 | 586人 |
| 中国人 | 109戸 | 668人 |
と、人口で言えば中国人が最多である。上記の地区以外の洞・町では、貫鉄洞(301人)や漢江通13番地(139人)が多い。こうした集住地区以外では、個別にホットク屋や食堂などを営んでいたようだ。
1920年代後半の西小門町については、1987年5月の『毎日経済新聞』に、当時「韓国マイコム」の社長だった金泳禄が、幼少の頃のエピソードをコラムを書いている。金泳禄は、1921年生まれで、解放後の韓国政府で財務部の理財局長などを歴任し、65年から71年まで中央日報の論説委員も務めた。
ハイエナの悲願
金泳禄
幼い頃の特に悲惨な印象というのは長く残るものらしい。私が60年前に通った普通学校(国民学校)は、西小門峠の貞洞だった。その一帯はソウルで最も異国風が漂う中国人街であった
この通りは特に薄暗くてみすぼらしい。いくつかのホットクの店は人の出入りがあったが、他の家は幽霊の棲み家のように見えた。
間違って捕まりでもしたら、どこに売られるか分からないという噂もあった。
道の片隅にはいつもごみが山積みになっていたが、ある日、青白い顔の年寄りがその後ろで長く横になっていた。一見して死を待つばかりなのは明らかだった。世の中でも最もみすぼらしい身なりだった。その傍には、同じような身なりの2〜3人が、彼の最期を看取っていた。登校途中だったので、この光景を奇異に思ったものの、あわただしく通り過ぎた。あんなに凄惨な中でも最期を見守ってくれる友の愛情は貴重なものだと感激しながら。
教室に入ると隣の席の友人にその話をした。彼の答えはあまりにも唐突だった。
「バカだなぁ、愛なんて糞食らえだ。それは阿片中毒者だ。金がなくなったから阿片窟から捨てられちまったんだ。周りのやつらはそいつの服を脱がせてそれを売ってアヘンにしようと死ぬのを待っているんだ」
その光景は今日もなお私の脳裏に白黒写真のように焼き付いている。
(後略)<韓国マイコム社長>
1920年代後半に、「ソウルで最も異国風が漂う中国人街」西小門町で貞洞普通学校(朝鮮語を母語とする児童が通う小学校)に通った時の追憶である。その通学路の途中に「阿片窟」があったのである。
実は、『東亜日報』は「一百洞町・一百名物」の連載を始めた1924年の前年11月に、この西小門町の「魔窟」のルポルタージュ記事を載せている。「阿片窟」の写真も一緒に掲載している。
さらに、1927年には開闢社の雑誌『別乾坤』第4号(1927年2月)に、「刺身鬼・阿片魔窟大探査記」という、おどろおどろしいタイトルのルポルタージュ記事が掲載されている。

もちろん、中国人が集住する西小門町全体がすなわち「阿片窟」というわけではない。当時の新聞記事データで「阿片窟」を検索すると、中国人の居住区以外のあちらこちらに「阿片窟」があって、警察の手入れを受けたりしている。しかし、中国人の多い西小門の「阿片窟」が、一番それらしいということもあり、「西大門町の名物」とされていたのであろう。
1920年代の朝鮮の中国人については、「阿片窟」よりも、人件費の安い中国人労働者の流入問題の方に関心が寄せられていた。
1926年末当時の京城府での職工と労働者について調べた統計がある。
| 朝鮮人 | 19,104人 |
| 内地人 | 1,955人 |
| 中国人 | 818人 |
中国人の職種としては、大工・石工・鍛冶、それに苦力が多かった。
1928年2月〜3月の『朝鮮新聞』は、新義州から陸路で朝鮮に入ってきたり、仁川から海路で芝罘・威海衛・大連などから中国人労働者が続々と朝鮮に来ていて、「中国人と朝鮮人間の労働問題」となる懸念があると報じている。
これら中国人の流入労働者のほとんどは、朝鮮内の各地方の労働現場へ向かったが、京城及びその近郊に流れ込む労働者も少なくなかった。1929年5月10日の『大阪朝日新聞』はこのように伝えている。
日本による朝鮮総督府を通じた植民地統治と侵略政策が、社会経済的矛盾を生み出していたにもかかわらず、日本のマスコミと統治機関は、廉価の労働力「支那人」と「朝鮮労働者」の対立が勝手に起きているがごとき認識であった。その対立において、日本があたかも仲裁者・調停者のごとく振舞うことで、さらなる膨張と侵略に利用しようとさえした。
中国東北部で万宝山事件が起きたのは、このような時期であった。
1931年7月2日、中国東北部、長春北西の万宝山で、入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との間で農業用水路に関する小競り合いが起こった。これに中国警察が介入すると、日本側もそれに対抗して、朝鮮人の保護を名目に長春の日本領事館から武装警察隊を現地に送った。現地の中国人農民は実力で工事を阻止しようとして、日本の警官と対峙した。その場は、中国警察が中に入って全面衝突は回避され、日本の警察隊の警護の中で7月11日に水路が完成した。
19世期末、それまでの華夷システムのもとでの朝鮮・清関係から、国際法秩序への移行するプロセスの中で、鴨緑江と豆満江の境界線を巡って、朝鮮と清との間で「勘界会談」が行われた。その後、豆満江・鴨緑江を越えて移住する朝鮮人が増加し始め、それらの人々の保護・管理を巡って朝鮮と清の摩擦がおきた。
大韓帝国は、「間島」(現在の延辺朝鮮族自治州の一部)の領土領有権を主張していたが、1905年に日本が「保護条約」を結ぶと、日本がこの問題に介入した。1907年に統監府が龍井に「臨時間島派出所」を置いて、越江した朝鮮人の「保護」を名目に、清側の公権力や中国人入植者と対峙した。しかし、1909年に、日本が中国東北部での鉄道権益を手に入れるため、その交換条件として清国の「間島」領有を認めた。その一方で、朝鮮人は日本国政府の「保護」対象であるとして、この地域で朝鮮人を「保護」するという名目で、監視と抑圧を続けるとともに、中国側官民への対抗的な牽制と挑発を繰り返していた。
中国側からすれば、朝鮮人は日本の中国侵略の「先兵」であり、日本の介入を呼び込む「手先」であった。朝鮮側からすれば、日本は中国との対抗上では有用な面もあるが、朝鮮を侵略して自分たちを豆満江北側にまで押しやった勢力であり、さらには「間島」を中国に売り渡した張本人でもある。しかも、この地域—清王朝発祥の地として19世期末まで立ち入りが禁じられていた—の中国人は朝鮮人よりも後からこの地に入植してきたもので、この地域の開拓、特に水田耕作は朝鮮人の貢献に負うところが大きかった。そのような自負を朝鮮人農民は抱いていた。
そうした現地の複雑な事情を知ってか知らずか、京城の日本語新聞2紙は、中国側の農民・警察と、朝鮮人農民とそれを助ける日本領事館と警察という図式でこれを報じた。
さらに、朝鮮語の新聞『朝鮮日報』は、長春支局長金利三に加えて新義州支局の申栄雨記者を現地に送り、万宝山三姓堡での朝鮮農民の開拓状況と中国側との摩擦について「万宝山三姓堡同胞受難記」と題した連載記事を、6月21日から5回にわたって連載していた。そして、7月2日の衝突について、かなり誇張された記事が7月3日の『朝鮮日報』に掲載された。
この衝突が朝鮮内で報じられると、朝鮮各地で中国人に対する襲撃事件が発生した。7月3日深夜から、朝鮮各地で朝鮮人が中国人居住区に集団で押しかけ、中国人や中国人商店を襲撃する事件が起きた。特に、仁川や平壌では激しかった。

京城では、中国人襲撃のターゲットになったのは、西小門町一帯であった。
この中国人に対する襲撃事件で、中国人の死者は109人、負傷者は160人であったとされる。
この時に現場で取材に当たっていた朝鮮日報長春支局長金利三は、現地の朝鮮人に拉致されて「日本側の情報に誘導されて記事を書いた」という自己批判をさせられた上に、その後射殺された。万宝山事件の、複雑で微妙な対立構図をそのまま現した不可解な事件であった。
新義州や仁川から入ってきていた中国人労働者の多くは、定住目的というよりは春から秋にかけての季節的出稼ぎが目的であった。中国人に対する集団的な攻撃が各地で発生すると、その後中国人労働者の朝鮮への渡航は激減した。朝鮮への渡航が減ったのは、万宝山事件の影響だけでなく、同じ年の9月18日に奉天(現瀋陽)郊外で日本軍が起こした柳条湖事件の影響もあった。
中国人労働者の減少によって朝鮮人の雇用機会が増えて社会が安定するという日本語新聞の記事がある。その一方で、あてにしていた中国人の労働力が確保できないことで朝鮮のインフラ整備などの事業計画が頓挫するという問題も発生した。
ただ、こうしたところで記事にされた中国人労働者問題は、上述のように出稼ぎ労働者が中心であって、定住の中国人、いわゆる「華僑」の人々の多くはそのまま朝鮮内に留まっていた。
しかし、その定住中国人の人口も日中戦争が始まった1937年に激変する。
『京城彙報』第198号(1938年5月)に1937年12月末日現在の京城府の戸口・人口調査の結果が掲載されている。「府内住居外国人国籍別状況」を見ると、
| 中華民国 | 2,005人 | △(6,266人) |
1935年からの1年間で、京城府の中国人は、8,271人から2,005人と、6,266人激減している。日中戦争の影響であることはいうまでもない。
京城に残った2,005人のうち、4割以上の855人は長谷川町、太平通2丁目、北米倉町、西小門町に居住していた。特に、西小門町では、依然として中国人の人口比が高い。
翌1938年12月末現在でも、京城の中国人は2,685人(『京城彙報』第208号 1939年3月)とほとんど同水準である。この後、1941年の真珠湾攻撃で日本は太平洋戦争に突入するが、その時期に京城の中国人がどのような状況にあったか、これを知る資料はまだ見つけられずにいる。
ただ、朝鮮全土の中国人の総人数でいうと、日中戦争・太平洋戦争の中で増加している。これは定住型の中国人ではなく、季節労働の出稼ぎ労働者を朝鮮半島各地でで使役したことを反映したもので、京城の中国人は増加しなかったのではなかろうか。
日本の敗戦による朝鮮の解放後、1947年10月1日付の『東亜日報』の記事に、京城の人口のことが書かれている。
この記事では、ソウルの外国人は5,747人となっているが、これは中国人以外も含むもので、1935年水準までは回復していなかったと思われる。しかし、1946年3月以降、中国人は「74世帯、548人増加している」ということなので、かなりの増加の趨勢にあったとみられる。国共内戦や、その後の中華人民共和国建国で、朝鮮への再渡航が増えたとも考えられる。
解放後も西小門路のところには「阿片窟」があった。
しかし、1950年からの朝鮮戦争で、西小門付近はかなり大きな被害をうけた。西小門の阿片窟も消滅して、市内の他の地域に拡散していった。
1961年に権力を掌握した朴正煕政権は、華僑に対して様々な制約を加えて規制を強めた。西小門路が衰退していく中で、中国人街として最後まで残っていたのは太平路2街であった。しかしその再開発が1971年以降急ピッチで進められことになり、ソウル都心部では、中央郵便局裏の中国大使館前の1ブロックの書店や食堂を除いて、中国人街と呼べる地区は消滅した。
ソウル市庁の屋上から見下ろした小公洞の中国人村
都心の恥部がすぐに再開発される
1970年代の前半までは、市庁前広場のプラザホテルの裏手は中国人が集住する最後の集住地であった。しかし、それはソウルの「都心の恥部」として除去されたのである。
◆エピローグ
1985年に、「雨ふる永東橋」がヒットした時、歌っている歌手の周炫美が「華僑」の出身だということが話題になったことを覚えている。ベタベタの韓国演歌なのに歌手は中国人!ということだったのだろうか…。違和感が印象に残っている。
1992年8月23日、韓国は電撃的に中華人民共和国と国交を結んで、中華民国と国交を断絶した。明洞の中華民国大使館は、中華人民共和国大使館に敷地建物を明け渡し、中華民国は「台湾」となった。中華学校も管轄が一変した。
今や、小西門の通りは高層ビルが立ち並び裏手に回っても「異国」を感じさせるものは皆無である。プラザホテルの裏手の路地—旧太平通2丁目—も、観光客相手の食堂や飲み屋が立ち並んでいる一角になっている。

























