1924年7月15日付『東亜日報』に掲載された京城名物は、館洞の独立館と橋北洞の独立門である。いずれも、華夷システムから国際法システムへの地域秩序の転換点で、「独立協会」が関係して建てられた建造物である。
資料は結構早くから集めていたのだが、私の研究分野と関わるものなので、どうやって書くか思案しているうちに時間がかかってしまった。かなりの長文になってしまったが、最後までお読みいただきたい。
左は、Google地図の航空写真、右は1936年の『大京城府大観』である。正確に重なるわけではないが、大体こんなものだろう。現在の西大門刑務所歴史館は、植民地統治下の西大門刑務所の北側部分に建物を移築したもので、死刑執行場から南側の部分は、現在は西大門独立公園となって31独立運動記念塔などが建てられている。そうしたことも、「独立協会」の「独立」と、日本の植民地支配からの「独立」とが混同される一因ともなっている。
まず『東亜日報』の記事から見ていきたい。
館洞の名物として取り上げられているのは独立館である。
館洞 独立館
◇この独立館は、昔の慕華館です。いろいろ全部をお話ししてもせんないこと。涼しい夕暮れ時におもしろく読んでいただき、昔の恥と新たな悲しみとを一緒に洗い流しましょう。
◇他の話はさておき、「妖怪」の話をしましょう。「慕華館」の妖怪というと馴染みがないかもしれませんが、「毋岳館」の妖怪なら知らない人はないでしょう。毋岳館が慕華館なのだそうです。昔、少年数人が、この建物で眠っていると妖怪たちがやって来て、おお、判書大臣か政丞大臣ではなかろうか、といったのだそうです。それを伝え聞いた度胸の座った少年が、夜中に慕華館に行ったところ、妖怪たちがたくさ集まっていて入れない。拳を振り回して入っていくと、無理やり大臣が入ってこられたと妖怪たちが言ったのだそうです。その後、その少年は大臣にはなったのですが、すれすれのところでなれたのだといわれています。
◇今妖怪がいたら聞きたいことがたくさんあります。まず聞きたいことは、おそらくみなさんが考えていることでしょう。ところで、本物の妖怪たちは人間の妖怪どもに背中を押されてどこかに行ってしまったたようです。
文中に、ハングルで「무아관」と出てくる。現在、この場所の北側にある地下鉄3号線の駅は「毋岳チェ」と表記されている。「毋」は「母」とは別字で、「없을 무」、日本語では音は「ブ」、訓は「なかれ」。上の拙訳では「무아관」を「毋岳館」としたが、この地名表記には「舞鶴」や「無学」を当てた異説もあり不確定である。
何かを、あるいは誰かを揶揄しているのだろうが、これだけを読んだのではよくわからない。
一方、独立門は橋北洞の名物として取り上げられている。
橋北洞 独立門
◇橋北洞の大通り沿いに独立門があります。その形だけを見るとフランスのパリの凱旋門と似ています。この門は、独立協会が発足した時に徐載弼という人の発案で建てられたものです。上部に彫り込まれている「독립문」という三文字は、李完用が書いたものです。李完用というのはほかでもない、あの朝鮮貴族令の侯爵閣下です。
◇この独立門には、それ以前に大国勅使というのが往来していた時に延詔門という赤く塗った門がありました。この延詔門が迎恩門と名前が変わってからかなりの月日が流れましたが、今でも一般には延詔門と呼ばれています。延詔門の石柱は今でも残っています。以前はぐるっと鉄の鎖があったのですが、独立門ができてから誰かが切断したのだそうです。束縛されていたものが解放されたが如く鎖が断ち切られたのです。
◇数年前の三一運動の時、独立門の上に太極旗がくっきりと描き出され、それを消すために警察署が「ポンプ」まで持ち出したことがありました。人の手では描けないところなので、妖怪の仕業といわれたものでした。
1921(大正10)年修正測図京城西北部の1万分の1地図では、独立館と独立門は、このような位置関係になる。
拡大したのが下図。独立館は現在はない。また、この地図に表記されている独立門の位置は、1979年に移動される前のもので、現在の独立門の位置とは異なる。
上述のように、この二つの建造物には「独立協会」が関係していた。
この「独立」という2文字が、簡単そうにみえてややこしいのである。
「独立」は、19世期末から20世紀初頭にかけて、新しく受容された国際法概念のもとで使われるようになった訳語なのだが、その意味するところは揺れていた。東アジアの国際関係自体も複雑に揺れ動いていた時代である。今日においても、歴史概念として「独立」という漢字語の意味するところがきちんと整理されず、十分に理解されているとは言い難い。
「独立」「属国」の意味するところは今でこそ「わかりきったこと」とされるが、日本が明治維新から膨張政策を進めて、対外侵略にのめり込む時期の用法・意味には、変遷があり一定ではなかった。
元々、ヘンリー・ホイートンの『Elements of International Law』を中国語に翻訳した『万国公法』では、「Independent」は漢字で「自主」と表記された。Sovereign Stateは「自主之国」である。当初、「独立」は、地域の秩序からはずれた「孤立」状況を意味する意味合いが強かった。諸橋の『大漢和辞典』に中国古典の例を引いて「ただ一人で立っている・他からかけ離れて存在すること」とされる意味である。その後次第に「Independent」の訳語として「独立」が定着していくことになる。
1896年4月7日、徐載弼、尹致昊、兪吉濬などを中心に『独立新聞』が創刊され、7月2日には啓蒙団体である「独立協会」が設立された。
彼らの主張は、華夷システムからの脱却と国際法秩序の受容であった。言い換えれば、華夷システムの中の王朝国家から、国際法システムの主権国家(Sovereign State)に移行させようというものであった。その意味で「独立」が用いられた。
韓国でも日本でも、「独立協会」については、「清からの独立を目指したもの」といわれることがある。また、日清戦争についても「日本が清に朝鮮の独立を認めさせた」戦争などという叙述もみかける。
「清から独立」という表現からは、それ以前はあたかも「清に従属していた」かのような印象を受けるが、その“従属”に国際法的なニュアンスでの従属を感じるとすれば、それは正しくない。なぜなら、華夷システムにおける「藩属国」は、国際法システムにおける「属国」とは異なるものだからである。
華夷システムにおける規範は、「礼」であり、「事大字小」である。「大に事え小を字なう」。「事大」というのを「大に媚びへつらう」ようにみなすことが多いが、今風に言えば「大なるものをリスペクトし、大もまた小なるものをリスペクトする」のである。この互いのリスペクトが、いわば「礼」を媒介とした地域秩序を形成していたとみることができよう。自分よりも相手が「上」「強」「優」と思っていなくても、全体の秩序維持と調和を考えて「リスペクト」するのである。「リスペクト」が日本語で多用されるようになったのは、相手と自分の優劣・主従にとらわれることなく、むしろ自分の品位をも高める表現として便利だったからであろう。それゆえ、カタカナで「リスペクト」なのである。
つまり、周辺は中華に従属を強いられてきたというのは正しくない。従属が強いられた時期もあったことは事実だが、それは華夷システムの機能の本質ではない。「誇り高き藩属」が存在し得るものだった。
しかし、時代を転換させるには、前の時代に、より否定的な意味づけをし、それを変えようとする動きを正当化しようとする。国際法システムへの移行を求める「独立協会」のメンバーは、華夷システムの時代を中華への「屈辱的な従属」とみなし、中華からの「独立」を主張して、大小相互間の「リスペクト」による華夷秩序の維持を主張する勢力と対立した。「事大」を「従属」と見なして「独立」を求める路線は、華夷システムを主従関係・優劣関係とみなし、その秩序を維持しようとする姿勢を「守旧」「固陋」と決めつけ、その破壊こそが「進歩」と「繁栄」につながるとして、朝鮮侵略、さらには中国侵略を進めていった日本帝国の歴史認識と軌を一にする側面を持つものであった。ただ、すべての人々が日本に同調したわけではない。
独立協会は、華夷システムからの脱却と国際法秩序の受容とを象徴するものとして、1896年 11月に、中国からの勅使を迎えるための迎恩門を壊し、新たに独立門を建てた。また、その横にあった慕華館を独立館と改めた。
上の写真は、現在の社稷トンネルと金化トンネルの間の高架道路下の交差点北東側から、霊泉市場方面に向かって撮ったものである。独立門と迎恩門の石柱は、現在の位置よりも南東側にあった(後述参照)。
徐載弼を顧問として、会長安駉壽、委員長李完用とする独立協会は、参加者数が増加して各地で民衆の参加する万民共同会を開催した。解放後の大韓民国初代大統領となる李承晩も独立協会の運営に関わっていた。
しかし、その後、独立協会の革新的な要求は高宗皇帝やその周辺の守旧的勢力の反発を招き、皇国協会の動員した褓負商と衝突するなどして、1899年1月に解散させられた。
その後、独立協会系の結社が作られたが、中でも宋秉畯が主導した一進会が東学系の孫秉熙の進歩会と合体して勢力を伸ばした。宋秉畯は、日露戦争中に日本軍の通訳として従軍して日本との関係を深めていた。
宋秉畯は、政府でも成し遂げられなかった独立の基礎を独立協会が固めたとして、独立協会の伝統を独占しようとした。そのためか、独立協会の建てた独立館に強く執着した。一進会は、自分たちが独立を最も重視する結社であり、独立館の管理・運営を担う権利があると主張した。結局、政府は1905年7月に一進会に独立館の使用を認めた。
김정인『민주주의를 향한 역사 : 시대의 건널목, 19세기 한국사의 재발견』책과함께, 2015
北西側に国民演説台という六角形の建物を増築して、1907年から盛んに演説会を開催している。
1907年4月の演説会と思われる写真
しかし、一進会の演説会が開かれたのはこの時期だけで、これ以降の新聞告知はみられない。
1912年6月に刊行された福崎毅一『京仁通覧』には、独立門と独立館について次のような記述が見られる。
この記事にもあるように、この独立館は、京城居留民団が1909年4月に開学した京城中学校の校舎として一進会から借り入れて利用された。国民演説台を教室として使用したのであろう。
1910年4月に統監府の官立中学校となり、併合後の8月に朝鮮総督府の中学校となった。11月に慶熙宮跡に建設していた新校舎が完成してここに移転した。
国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より
学校が移転した後の独立館では、東光社が煙草製造を始めた。1911年12月28日に「改良紙巻煙草」を売り出している。翌年1月12日に、宋秉畯がここを訪れて職工たちに訓示したとの『毎日申報』の記事があり、宋秉畯が起業した煙草製造会社とみられる。
『京仁通覧』に、この東光社の写真が掲載されている。
福崎毅一『京仁通覧』1912
右手の建物が増築された「国民演説台」、その左側の瓦葺きの韓屋が元からある「独立館」。手前の川は1970年代に覆蓋工事で暗渠となり、道路となり、その向こうに側に霊泉市場ができた。この写真は、現在のウリ銀行独立門支店の位置あたりから撮ったものであろう。
東光社が最初に売り出したのは、「美人」「東光」「天鶏」「京城」。発売前日の12月27日には『毎日申報』に、発売当日の28日には『京城新報』(京城日報の前身)に全面広告を出している。
デザインはほぼ同じで見出しは日本語だが、『毎日申報』の本文は漢字ハングルの朝鮮語である。『京城新報』には、
帝國の新領土たる朝鮮半島をして將來卓越なる煙草生産地たらしめ以て國宗の大富源を開發し尚且つ幾多の可憐の子弟婦女に適當の職業を與へ聖世の下善良の生活を得せしめんとするの微衷に外ならす
とあるのだが、この部分が朝鮮語の方は抜け落ちている。さすがの一進会系の東光社といえどもこれを朝鮮語で書くのは憚られたのであろう。
東光社の煙草
国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より
1921年4月に「朝鮮専売令」が施行され、7月1日に朝鮮の煙草の製造と販売は、朝鮮総督府専売局に移された。煙草工場施設や設備は専売局が全て買い取り、仁義洞の旧東亜煙草会社と義州路の旧朝鮮煙草工場に生産・販売が集約された。東光社もこの時に消滅した。
煙草工場が廃された後も、建物自体は独立館として存続していた。1923年にハワイの学生音楽団が訪朝した時の記事に独立館を訪問したとの記事がある。

また、このブログで取り上げているように、1924年7月15日付『東亜日報』にも京城の館洞の名物として掲載された。
さらに、1933年2月に種痘の接種場として「館洞独立館」が指定されている。『東亜日報』『京城日報』に記載されている。


また、1935年8月24日に撮影した航空写真をもとに、地図絵師小野三正が描いた『大京城府大観』には、独立館と国民演説台と思われる建造物が「旧独立館」として記載されている。

ところが、1937年7月刊行の朝鮮地方行政学会『京畿地方の名勝古蹟』の「迎恩門の石柱と独立門」の項には、
昔は此の附近に慕華舘があつて、明の使節を歡迎接するに當てたものだが、後獨立舘と改稱し、今は取り除かれて跡を留めない。
と記されている。
すなわち、この建物は1935年後半から1936年にかけて撤去されたと考えられる。
韓屋の独立館は、1996年に西大門独立公園造成事業計画の一環として元の位置より約350m北東側に復元されている。復元された独立館の案内板には、
일본제국주의자들은독립운동 탄압의 일환으로써 이 건물을 철거해버렸다.
日本帝国主義者は、独立運動弾圧の一環として、この建物を撤去してしまった。
とあるが、「弾圧によって撤去された」とは考えにくい。宋秉畯は1925年2月に急死して、その後財産の相続を巡ってゴタゴタが続いていた。そうした中で、独立館の土地や建物が売却された可能性が考えられる。
一方、独立門については、今日に至るまで残っているのだが、幾度かの変遷を経て今日に至っている。
1896年に建てられた独立門は、30年以上経過した1927年頃には倒壊のおそれがでてきた。そのため、1928年に京城府が京畿道からの補助金4100円で大規模な修理をしている。
さらに、1935年には、朝鮮古蹟名勝天然記念物保存委員会の審議を経て、独立門が古蹟第58号に、迎恩門の石柱が古蹟第59号に指定されている。
『朝鮮寶物古蹟名勝天然記念物要覽』(朝鮮總督府 1937)
上述した独立協会の歴史的事実を知らずに、 “日本の侵略からの「独立」” だけを念頭において考えると、日本が「独立」を冠した朝鮮のものを修理したり文化財に指定することに首を傾げる向きもあろう。しかし、これは、日本が朝鮮を植民地支配をして独立運動を弾圧したことと矛盾しない。独立協会が建てた独立門は、“中国からの「独立」”を意味する。さらに、華夷的な「藩属」を国際法的な「従属」と曲解することで、「中国に従属していた朝鮮」という屈辱的な歴史観を朝鮮の人々に与え、日清戦争を通じて、日本がその従属を断ち切ってやったという「恩恵」を押し付けるのに好都合だったからである。
こうした歴史の歪曲が、独立門を消滅の危機から救ったのは皮肉ではあるが…。
西大門郵便局から独立門の横を通って霊泉までの電車が開通したのは1935年10月1日である。それ以降に発行された絵葉書に、当時の独立門の写真が残っている。
この写真を拡大すると、上部の「독립문」の両側に解像度の関係でやや不鮮明ではあるが、太極旗が彫られているのを確認することができる。
独立門は、太極旗を残したまま植民地支配からの解放を迎えた。
1970年代に入ると、すでに路面電車は廃止されたが、車の交通量も増えて道路が拡張され、独立門と迎恩門の石柱は道路上に取り残された形になった。
1976年11月に、漢江に新たに架けられた城山大橋から市内中心部に直接つながる城山大路建設の計画が立てられた。金化トンネルと社稷トンネルを新たに掘削して、二つのトンネルを高架道路で繋ぎ、延世大学の正門前から梨花女子大の裏を通って社稷公園、光化門前につながる道路が建設されることになった。
この道路建設に伴って、独立門は北側に移設されることになった。
移設のための解体工事は1979年3月19日に始まり、翌年3月31日に竣工し、現在の位置に移された。
1987年11月、旧西大門刑務所に置かれていたソウル拘置所の移転にともない、1988年に一部の獄舎などを撤去して独立公園を造成し、1992年西大門独立公園として開園した。その後、2008年から再造成工事が行われ、この時に独立門の鉄柵が撤去されて自由に立ち入りができるようになっている。
ここまで調べてみたが、『東亜日報』の記事に書かれたことを解明するには至らなかった。
「すれすれのところで大臣になれた」のは誰なのか、本物の妖怪を押しやった「人間の妖怪」とは誰のことを言っているのか。この記事の当時の読者は、独立協会に関係していて大臣になった李完用を思い浮かべたり、一進会を創設して独立館の所有者になっていた宋秉畯が妖怪を追っ払ってしまったと思ったのであろうか。
独立門の「독립문」という文字は李完用のものかどうかについては議論があるようだが、どうやら李完用の書いたものということのようだ。独立門の上部の太極旗は、三一運動の時に妖怪が描いたと言われているものではなく、もともと彫られていたものであろう。警察が持ち出したポンプでも、1928年の大規模修繕でも消されることはなかったのである。






































































