一松書院のブログ -56ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1924年7月15日付『東亜日報』に掲載された京城名物は、館洞の独立館と橋北洞の独立門である。いずれも、華夷システムから国際法システムへの地域秩序の転換点で、「独立協会」が関係して建てられた建造物である。

 

 資料は結構早くから集めていたのだが、私の研究分野と関わるものなので、どうやって書くか思案しているうちに時間がかかってしまった。かなりの長文になってしまったが、最後までお読みいただきたい。

 


 

 左は、Google地図の航空写真、右は1936年の『大京城府大観』である。正確に重なるわけではないが、大体こんなものだろう。現在の西大門刑務所歴史館は、植民地統治下の西大門刑務所の北側部分に建物を移築したもので、死刑執行場から南側の部分は、現在は西大門独立公園となって31独立運動記念塔などが建てられている。そうしたことも、「独立協会」の「独立」と、日本の植民地支配からの「独立」とが混同される一因ともなっている。

 

 

 まず『東亜日報』の記事から見ていきたい。

 館洞の名物として取り上げられているのは独立館である。

館洞 独立館

◇この独立館は、昔の慕華館です。いろいろ全部をお話ししてもせんないこと。涼しい夕暮れ時におもしろく読んでいただき、昔の恥と新たな悲しみとを一緒に洗い流しましょう。
◇他の話はさておき、「妖怪トッケビ」の話をしましょう。「慕華館」の妖怪というと馴染みがないかもしれませんが、「毋岳ムア館」の妖怪なら知らない人はないでしょう。毋岳館が慕華館なのだそうです。昔、少年数人が、この建物で眠っていると妖怪たちがやって来て、おお、判書大臣か政丞大臣ではなかろうか、といったのだそうです。それを伝え聞いた度胸の座った少年が、夜中に慕華館に行ったところ、妖怪たちがたくさ集まっていて入れない。拳を振り回して入っていくと、無理やり大臣が入ってこられたと妖怪たちが言ったのだそうです。その後、その少年は大臣にはなったのですが、すれすれのところでなれたのだといわれています。
◇今妖怪がいたら聞きたいことがたくさんあります。まず聞きたいことは、おそらくみなさんが考えていることでしょう。ところで、本物の妖怪たちは人間の妖怪どもに背中を押されてどこかに行ってしまったたようです。

 文中に、ハングルで「무아관ムアグァン」と出てくる。現在、この場所の北側にある地下鉄3号線の駅は「毋岳チェ」と表記されている。「毋」は「母」とは別字で、「없을 」、日本語では音は「ブ」、訓は「なかれ」。上の拙訳では「무아관ムアグァン」を「毋岳ムア館」としたが、この地名表記には「舞鶴」や「無学」を当てた異説もあり不確定である。

 

 何かを、あるいは誰かを揶揄しているのだろうが、これだけを読んだのではよくわからない。

 

 一方、独立門は橋北洞の名物として取り上げられている。

橋北洞 独立門
◇橋北洞の大通り沿いに独立門があります。その形だけを見るとフランスのパリの凱旋門と似ています。この門は、独立協会が発足した時に徐載弼という人の発案で建てられたものです。上部に彫り込まれている「독립문」という三文字は、李完用が書いたものです。李完用というのはほかでもない、あの朝鮮貴族令の侯爵閣下です。
◇この独立門には、それ以前に大国勅使というのが往来していた時に延詔門という赤く塗った門がありました。この延詔門が迎恩門と名前が変わってからかなりの月日が流れましたが、今でも一般には延詔門と呼ばれています。延詔門の石柱は今でも残っています。以前はぐるっと鉄の鎖があったのですが、独立門ができてから誰かが切断したのだそうです。束縛されていたものが解放されたが如く鎖が断ち切られたのです。
◇数年前の三一運動の時、独立門の上に太極旗がくっきりと描き出され、それを消すために警察署が「ポンプ」まで持ち出したことがありました。人の手では描けないところなので、妖怪の仕業といわれたものでした。

 

 1921(大正10)年修正測図京城西北部の1万分の1地図では、独立館と独立門は、このような位置関係になる。

 

拡大したのが下図。独立館トンニップグァンは現在はない。また、この地図に表記されている独立門の位置は、1979年に移動される前のもので、現在の独立門トンニンムンの位置とは異なる。

 

 

 上述のように、この二つの建造物には「独立協会」が関係していた。

 

 この「独立」という2文字が、簡単そうにみえてややこしいのである。

 「独立」は、19世期末から20世紀初頭にかけて、新しく受容された国際法概念のもとで使われるようになった訳語なのだが、その意味するところは揺れていた。東アジアの国際関係自体も複雑に揺れ動いていた時代である。今日においても、歴史概念として「独立」という漢字語の意味するところがきちんと整理されず、十分に理解されているとは言い難い。

 「独立」「属国」の意味するところは今でこそ「わかりきったこと」とされるが、日本が明治維新から膨張政策を進めて、対外侵略にのめり込む時期の用法・意味には、変遷があり一定ではなかった。
 元々、ヘンリー・ホイートンの『Elements of International Law』を中国語に翻訳した『万国公法』では、「Independent」は漢字で「自主」と表記された。Sovereign Stateは「自主之国」である。当初、「独立」は、地域の秩序からはずれた「孤立」状況を意味する意味合いが強かった。諸橋の『大漢和辞典』に中国古典の例を引いて「ただ一人で立っている・他からかけ離れて存在すること」とされる意味である。その後次第に「Independent」の訳語として「独立」が定着していくことになる。

 

 1896年4月7日、徐載弼ソジェピル尹致昊ユンチホ兪吉濬ユギルチュンなどを中心に『独立新聞』が創刊され、7月2日には啓蒙団体である「独立協会」が設立された。

 

 彼らの主張は、華夷システムからの脱却と国際法秩序の受容であった。言い換えれば、華夷システムの中の王朝国家から、国際法システムの主権国家(Sovereign State)に移行させようというものであった。その意味で「独立」が用いられた。

 

 韓国でも日本でも、「独立協会」については、「清からの独立を目指したもの」といわれることがある。また、日清戦争についても「日本が清に朝鮮の独立を認めさせた」戦争などという叙述もみかける。

 「清から独立」という表現からは、それ以前はあたかも「清に従属していた」かのような印象を受けるが、その“従属”に国際法的なニュアンスでの従属を感じるとすれば、それは正しくない。なぜなら、華夷システムにおける「藩属国」は、国際法システムにおける「属国」とは異なるものだからである。

 

 華夷システムにおける規範は、「礼」であり、「事大字小」である。「大につかえ小をあざなう」。「事大」というのを「大に媚びへつらう」ようにみなすことが多いが、今風に言えば「大なるものをリスペクトし、大もまた小なるものをリスペクトする」のである。この互いのリスペクトが、いわば「礼」を媒介とした地域秩序を形成していたとみることができよう。自分よりも相手が「上」「強」「優」と思っていなくても、全体の秩序維持と調和を考えて「リスペクト」するのである。「リスペクト」が日本語で多用されるようになったのは、相手と自分の優劣・主従にとらわれることなく、むしろ自分の品位をも高める表現として便利だったからであろう。それゆえ、カタカナで「リスペクト」なのである。

 つまり、周辺は中華に従属を強いられてきたというのは正しくない。従属が強いられた時期もあったことは事実だが、それは華夷システムの機能の本質ではない。「誇り高き藩属」が存在し得るものだった。

 

 しかし、時代を転換させるには、前の時代に、より否定的な意味づけをし、それを変えようとする動きを正当化しようとする。国際法システムへの移行を求める「独立協会」のメンバーは、華夷システムの時代を中華への「屈辱的な従属」とみなし、中華からの「独立」を主張して、大小相互間の「リスペクト」による華夷秩序の維持を主張する勢力と対立した。「事大」を「従属」と見なして「独立」を求める路線は、華夷システムを主従関係・優劣関係とみなし、その秩序を維持しようとする姿勢を「守旧」「固陋」と決めつけ、その破壊こそが「進歩」と「繁栄」につながるとして、朝鮮侵略、さらには中国侵略を進めていった日本帝国の歴史認識と軌を一にする側面を持つものであった。ただ、すべての人々が日本に同調したわけではない。

 

 独立協会は、華夷システムからの脱却と国際法秩序の受容とを象徴するものとして、1896年 11月に、中国からの勅使を迎えるための迎恩門を壊し、新たに独立門を建てた。また、その横にあった慕華館を独立館と改めた。

 

 上の写真は、現在の社稷サジックトンネルと金化クムファトンネルの間の高架道路下の交差点北東側から、霊泉ヨンチョン市場方面に向かって撮ったものである。独立門と迎恩門の石柱は、現在の位置よりも南東側にあった(後述参照)。

 

 徐載弼を顧問として、会長安駉壽アンギョンス、委員長李完用イワニョンとする独立協会は、参加者数が増加して各地で民衆の参加する万民共同会を開催した。解放後の大韓民国初代大統領となる李承晩イスンマンも独立協会の運営に関わっていた。

 しかし、その後、独立協会の革新的な要求は高宗皇帝やその周辺の守旧的勢力の反発を招き、皇国協会ファングクヒョッペの動員した褓負商ポブサンと衝突するなどして、1899年1月に解散させられた。

 その後、独立協会系の結社が作られたが、中でも宋秉畯ソンビョンジュンが主導した一進会イルジンフェ東学トンハック系の孫秉熙ソンビョンヒ進歩会チンボフェと合体して勢力を伸ばした。宋秉畯は、日露戦争中に日本軍の通訳として従軍して日本との関係を深めていた。

宋秉畯は、政府でも成し遂げられなかった独立の基礎を独立協会が固めたとして、独立協会の伝統を独占しようとした。そのためか、独立協会の建てた独立館に強く執着した。一進会は、自分たちが独立を最も重視する結社であり、独立館の管理・運営を担う権利があると主張した。結局、政府は1905年7月に一進会に独立館の使用を認めた。

김정인『민주주의를 향한 역사 : 시대의 건널목, 19세기 한국사의 재발견』책과함께, 2015

 北西側に国民演説台という六角形の建物を増築して、1907年から盛んに演説会を開催している。

1907年4月の演説会と思われる写真

 しかし、一進会の演説会が開かれたのはこの時期だけで、これ以降の新聞告知はみられない。

 

 1912年6月に刊行された福崎毅一『京仁通覧』には、独立門と独立館について次のような記述が見られる。

 この記事にもあるように、この独立館は、京城居留民団が1909年4月に開学した京城中学校の校舎として一進会から借り入れて利用された。国民演説台を教室として使用したのであろう。

 1910年4月に統監府の官立中学校となり、併合後の8月に朝鮮総督府の中学校となった。11月に慶熙宮跡に建設していた新校舎が完成してここに移転した。

国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より

 

 学校が移転した後の独立館では、東光社が煙草製造を始めた。1911年12月28日に「改良紙巻煙草」を売り出している。翌年1月12日に、宋秉畯がここを訪れて職工たちに訓示したとの『毎日申報』の記事があり、宋秉畯が起業した煙草製造会社とみられる。

 『京仁通覧』に、この東光社の写真が掲載されている。

福崎毅一『京仁通覧』1912

右手の建物が増築された「国民演説台」、その左側の瓦葺きの韓屋が元からある「独立館」。手前の川は1970年代に覆蓋工事で暗渠となり、道路となり、その向こうに側に霊泉ヨンチョン市場ができた。この写真は、現在のウリ銀行独立門支店の位置あたりから撮ったものであろう。

 

 東光社が最初に売り出したのは、「美人」「東光」「天鶏」「京城」。発売前日の12月27日には『毎日申報』に、発売当日の28日には『京城新報』(京城日報の前身)に全面広告を出している。

 

 デザインはほぼ同じで見出しは日本語だが、『毎日申報』の本文は漢字ハングルの朝鮮語である。『京城新報』には、

帝國の新領土たる朝鮮半島をして將來卓越なる煙草生産地たらしめ以て國宗の大富源を開發し尚且つ幾多の可憐の子弟婦女に適當の職業を與へ聖世の下善良の生活を得せしめんとするの微衷に外ならす

とあるのだが、この部分が朝鮮語の方は抜け落ちている。さすがの一進会系の東光社といえどもこれを朝鮮語で書くのは憚られたのであろう。

東光社の煙草

国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より

 

 1921年4月に「朝鮮専売令」が施行され、7月1日に朝鮮の煙草の製造と販売は、朝鮮総督府専売局に移された。煙草工場施設や設備は専売局が全て買い取り、仁義洞の旧東亜煙草会社と義州路の旧朝鮮煙草工場に生産・販売が集約された。東光社もこの時に消滅した。

 

 煙草工場が廃された後も、建物自体は独立館として存続していた。1923年にハワイの学生音楽団が訪朝した時の記事に独立館を訪問したとの記事がある。


 また、このブログで取り上げているように、1924年7月15日付『東亜日報』にも京城の館洞の名物として掲載された。

 

 さらに、1933年2月に種痘の接種場として「館洞独立館」が指定されている。『東亜日報』『京城日報』に記載されている。


 また、1935年8月24日に撮影した航空写真をもとに、地図絵師小野三正が描いた『大京城府大観』には、独立館と国民演説台と思われる建造物が「旧独立館」として記載されている。
 

 

 ところが、1937年7月刊行の朝鮮地方行政学会『京畿地方の名勝古蹟』の「迎恩門の石柱と独立門」の項には、

昔は此の附近に慕華舘があつて、明の使節を歡迎接するに當てたものだが、後獨立舘と改稱し、今は取り除かれて跡を留めない。

と記されている。

 すなわち、この建物は1935年後半から1936年にかけて撤去されたと考えられる。

 

 韓屋の独立館は、1996年に西大門独立公園造成事業計画の一環として元の位置より約350m北東側に復元されている。復元された独立館の案内板には、

일본제국주의자들은독립운동 탄압의 일환으로써 이 건물을 철거해버렸다.

日本帝国主義者は、独立運動弾圧の一環として、この建物を撤去してしまった。

とあるが、「弾圧によって撤去された」とは考えにくい。宋秉畯は1925年2月に急死して、その後財産の相続を巡ってゴタゴタが続いていた。そうした中で、独立館の土地や建物が売却された可能性が考えられる。

 

 一方、独立門については、今日に至るまで残っているのだが、幾度かの変遷を経て今日に至っている。

 1896年に建てられた独立門は、30年以上経過した1927年頃には倒壊のおそれがでてきた。そのため、1928年に京城府が京畿道からの補助金4100円で大規模な修理をしている。

 

 さらに、1935年には、朝鮮古蹟名勝天然記念物保存委員会の審議を経て、独立門が古蹟第58号に、迎恩門の石柱が古蹟第59号に指定されている。

 

『朝鮮寶物古蹟名勝天然記念物要覽』(朝鮮總督府 1937)

 

 上述した独立協会の歴史的事実を知らずに、 “日本の侵略からの「独立」” だけを念頭において考えると、日本が「独立」を冠した朝鮮のものを修理したり文化財に指定することに首を傾げる向きもあろう。しかし、これは、日本が朝鮮を植民地支配をして独立運動を弾圧したことと矛盾しない。独立協会が建てた独立門は、“中国からの「独立」”を意味する。さらに、華夷的な「藩属」を国際法的な「従属」と曲解することで、「中国に従属していた朝鮮」という屈辱的な歴史観を朝鮮の人々に与え、日清戦争を通じて、日本がその従属を断ち切ってやったという「恩恵」を押し付けるのに好都合だったからである。

 こうした歴史の歪曲が、独立門を消滅の危機から救ったのは皮肉ではあるが…。

 

 西大門郵便局から独立門の横を通って霊泉までの電車が開通したのは1935年10月1日である。それ以降に発行された絵葉書に、当時の独立門の写真が残っている。

この写真を拡大すると、上部の「독립문」の両側に解像度の関係でやや不鮮明ではあるが、太極旗が彫られているのを確認することができる。

 

 独立門は、太極旗を残したまま植民地支配からの解放を迎えた。

 

 1970年代に入ると、すでに路面電車は廃止されたが、車の交通量も増えて道路が拡張され、独立門トンニンムン迎恩門ヨンウンムンの石柱は道路上に取り残された形になった。

 

 

 1976年11月に、漢江に新たに架けられた城山大橋ソンサンテギョから市内中心部に直接つながる城山大路建設の計画が立てられた。金化クマトンネルと社稷サジックトンネルを新たに掘削して、二つのトンネルを高架道路で繋ぎ、延世ヨンセ大学の正門前から梨花イファ女子大の裏を通って社稷公園、光化門クァンファムン前につながる道路が建設されることになった。

 この道路建設に伴って、独立門は北側に移設されることになった。

 

 移設のための解体工事は1979年3月19日に始まり、翌年3月31日に竣工し、現在の位置に移された。

 

 1987年11月、旧西大門刑務所に置かれていたソウル拘置所の移転にともない、1988年に一部の獄舎などを撤去して独立公園を造成し、1992年西大門ソデムン独立公園として開園した。その後、2008年から再造成工事が行われ、この時に独立門の鉄柵が撤去されて自由に立ち入りができるようになっている。
 


 

 ここまで調べてみたが、『東亜日報』の記事に書かれたことを解明するには至らなかった。

 

 「すれすれのところで大臣になれた」のは誰なのか、本物の妖怪を押しやった「人間の妖怪」とは誰のことを言っているのか。この記事の当時の読者は、独立協会に関係していて大臣になった李完用を思い浮かべたり、一進会を創設して独立館の所有者になっていた宋秉畯が妖怪を追っ払ってしまったと思ったのであろうか。

 

 独立門の「독립문」という文字は李完用のものかどうかについては議論があるようだが、どうやら李完用の書いたものということのようだ。独立門の上部の太極旗は、三一運動の時に妖怪が描いたと言われているものではなく、もともと彫られていたものであろう。警察が持ち出したポンプでも、1928年の大規模修繕でも消されることはなかったのである。

 今年(2020)の年初に、南山北麓の崇義女子大学のキャンパスを訪れた。

 ここは日本の植民地統治下で京城神社があったところだ。これまでキャンパスの中にまで入る機会はなかったが、今回この学校の卒業生とたまたま一緒だったので、何か痕跡でもあればと中まで入ってみることにした。

 

 坂を上がると広場の向こう側に本館がある。本館に近づくと正面玄関の左側に何やら展示されている。近づいてみると、京城神社の礎石などの石造物、神社の写真や配置図、京城神社から大学への沿革などが展示されている。

 

 展示物の状態から、この展示はさほど前からのものではなさそうだ。

 

 崇義女子大学の母体である学校法人崇義学院の前身は、米国北長老会の宣教師サミュエル・オースティン・モフェット博士が1903年10月に平壌に設立した崇義女学校である。1938年3月、崇義女学校は、朝鮮総督府による神社参拝の強要を拒否して、崇実専門学校、崇実中学と共に廃校の道を選んだ。

 展示に、「숭의 정신이 일본제신을 누르다(崇義精神が日本の祭神を制する)」とあるのは、日本による植民地支配に抵抗したことの証として、この京城神社の展示がなされていると宣言しているのである。

 

 日本の敗戦後、ソ連軍が敗戦処理に当たることになった北緯38°線の北側から南に避難する朝鮮の人々、いわゆる「越南民」が少なからず発生した。南側にいた崇義の関係者や同窓生は、1950年にソウルでの学校再建をはかったが、その直後に朝鮮戦争が勃発し、休戦の1953年になってソウルに財団法人崇義学院が設立された。

 その後、その学校用地となったのが、日本の植民地統治下で京城神社が置かれていた場所であった。


 

 京城神社の由来については、アジア歴史資料館の「京城神社(京畿道京城府倭城台町鎮座)及竜頭山神社(慶尚南道釜山府弁天町鎮座)ヲ国幣小社ニ列格ス」という1936年の公文書の「上奏文」に詳しく記載されている。

アジア歴史資料館

 

それに加えて、青井哲人「ソウル・南山の神域化—植民都市と神社境内」『明治聖徳記念学会紀要』第43号(2006)や、崇義女子大学の展示の年表(下掲写真)から日本の敗戦までの京城神社の変遷をまとめてみると下表のようになる。

◆京城神社の変遷

1892年 京城居留民会、天照大神遥拝所設置
1897年 京城居留民会、神社建立を決議
1898年5月 民会代表、伊勢神宮で神宮大麻・神宝の授与を受ける
1898年11月 神殿落成、鎮座祭。南山大神宮創建
1916年 京城神社と改称
1926年3月 氏子会、境内の拡張と社殿造営を決議
1929年9月 新社殿完成、遷座式を行い旧社殿を八幡宮とする
1934年 乃木希典を祀る乃木神社を建てる
1936年8月 京城神社、国幣小社となる。

 

 京城神社とその附属施設を、今の崇義女子大のキャンパスとその周辺の地図と重ね合わせるとこのようになる。

 植民地時代の京城神社については、その造営当時の写真が、「国学院デジタルミュージアム」の宮地直一博士写真資料「京城神社御造営写真帖」に残されており、オンラインで閲覧ができる。

「国学院デジタルミュージアム」宮地直一博士写真資料「京城神社御造営写真帖」

 

 この京城神社の1945年8月15日敗戦以降の変遷については、崇義女子大学の年表には次のように記されている。

1945年の解放とともに京城神社は一部が解体され神社の跡地には一時期檀君聖祖廟が立てられた。

1953年、崇義創立50周年の年、現在の明洞駅近くにある松竹院で再建された

1954年、軍警遺子女院から譲渡を受け、その年6月、この地に移転した

当時、旧神社の境内には7~8棟の神社当時の建造物が残っており、それらの建物はそれぞれ教務室、音楽室、庶務室、校長室として使用された。日本の植民地統治下で最も重要視されていた神社本殿は、教務室として使用され、毎朝の朝礼のたびにここに太極旗が掲げられた。

 

 日本の敗戦直後の京城神社の状況については、京城帝大医学部の講師で、日本人の引揚げ援助にも関わった田中正四が、『痩骨先生紙屑帳』(金剛社 1961)に収録した自身の日記に次のように書き残している。

 

 また、森田芳夫『朝鮮終戦の記録』(巌南堂 1965)には次のような記述がある。

 これらの資料によれば、1945年8月の日本の敗戦のあと、「大韓正民会」によって京城神社は「檀君聖廟」とされ、それを主導したのは京城神社の神職だった洪道載、創氏改名後は徳山孝道と名乗っていた人物だったとなっている。

 

 その「大韓正民会」については、1945年10月25日付の『毎日新報』に次のような記事がある。


자료대한민국사 제1권

大韓正民会結成

『毎日新報』1945年10月25日

檀国天祖が示してくれた確かな指導原理と確実な実践方法を胸に秘め、半世紀を異国で血みどろの闘いをした大韓民国臨時政府を支持し、建国に協力することを目標とした大韓正民会が結成された。 ここでは、全同胞が私心を捨て、民族的本性で和合し、建国偉業を達成できるよう努力することになるが、その綱領と代表委員の名は次の通りである。

◇綱領

一.我々は檀聖を宗靈と崇奉し、その遺訓の具現を期す

一.我々は科学知識の涵養と生活の全面的機械化の促進を期す

一.我々は世界平和のために道義の国家体制の確立を期す

一.我々は労働同胞に労働の喜びと生活安定の確保を期す

一.我々は民族的発展のために民主国家独立を期す。

代表委員:李鍾台 李鍾晟 申泰濟 嚴基德 李揆虎 洪道載 潘榮 孫德榮 申斗永 成甲慶

 ここに、洪道載も「大韓正民会」の代表委員の一人として名前が挙がっている。

 

 ちなみに、『毎日新報』は朝鮮総督府の朝鮮語機関紙の役割を担っていたが、解放後は進歩派朝鮮人社員が自主運営で刊行を継続した。その後、11月10日に米軍政によって停刊とされたが、後に『ソウル新聞』として続刊された。

 

 「大韓正民会」の結成に先立って、10月19日、代表委員である李鍾台と李鍾晟の二人がアメリカから帰還した直後の李承晩を朝鮮ホテルに訪問して会談している。

 

 

 解放直後に「大韓民国臨時政府を支持し、建国に協力する」として結成され、李承晩とも幹部が面談している「大韓正民会」が、京城神社を「檀君聖廟」としたのは合点がいく。しかし、神社庁の資料に、植民地統治下で徳山孝道と名乗る京城神社の神職であったとされている洪道載が代表委員の一人として挙げられているのには違和感がある。

 新聞を検索すると、真珠湾攻撃による日米開戦の直後、1941年12月13日の『毎日新報』に、徳山孝道が、銃後国民赤誠献金という名目で7円を献金したという記事が出ている。

 

 この記事では、徳山孝道の肩書きは「京城神社嘱託」「国防婦人会南山稲荷分会員」で、神職ではない。洪道載は、京城神社や境内の稲荷社に関わりを持つ創氏改名をした朝鮮人として『毎日新報』には載せられている。日本の敗戦とともに、「大韓正民会」が京城神社に乗り込んで「檀君聖廟」とし、それに洪道載も関与していた。洪道載は、単に関与したというだけでなく、「正民会」の代表委員であった。不可解である。

 

 しかし、翌1946年7月28日付の『東亜日報』に、「邪教団“正民会”に断」というヘッドラインの記事が出ていて、その内容にこの不可解さを解く鍵があった。

 この記事は、「正民会」が国家建設を夢想して教徒をたぶらかす「類似宗教」として摘発されたことを報じたものである。「類似宗教」とは、朝鮮総督府がいわゆる「新興宗教」「新宗教」に対して用いた呼称である。

 

 

 この記事によれば、「大韓正民会結成」の前掲の記事で代表委員の3番目に挙げられている申泰濟が教主だという。

 混沌とした政界をいいことに、勝手な国家設計を夢見て愚昧な信者を騙し、私腹を肥やしていたとんでもない新興宗教団体の詐欺事件が、27日、京畿道警察によって一網打尽となった。

 市内城北町13番地に本部を置く正民会は、1924年に組織された新興宗教団体で、信者は20余万名に上る。彼らは解放後、同会の教主申泰済(50)を中心に70人余りの幹部が朝鮮神宮にあった日本人が使っていた神具を全て盗み出して同会の事務所に備え付け、同会の教主申は龍床と称する椅子に座って男女信者を支配し、勝手に国を建てるという名のもとに信者をはじめ各方面から資金を集めた。

 現在帳簿上で1,000万ウォンにも上る。彼らが設計した国家機構と責任者は次のとおりである。

 総理監李禧宰、内務院安道鎬、外務院申斗永、財務院李揆虎、教化院安直煥、正化院申泰喆、立法院安道鎬、正平院金炳溢、抽化院(女)具燃叔、以上9院23局があったが、その中で特に注目されるのは条約局が置かれていたことである。そして警察では教主申泰済を勾留して朝鮮神宮から盗み出した銀貨600ウォンと竹槍10本あまり、木刀1、弓矢10 、それに帳簿20冊余りを押収し、幹部についても手配中である。

(後略)

 洪道載の名前はこの記事には出てこないし、京城神社のことも言及されていない。しかし、朝鮮神宮から神具やその他、銀貨や竹槍、木刀まで持ち出していることから推測すると、朝鮮神宮の内部に正民会側の関係者が入り込んでいて、手引きをしたとも考えられる。

 実は、京城神社に関係していたという洪道載も、申泰濟の宗教団体の信者ではなかったかと思われる。


 申泰濟を教主とする宗教団体は、当初は「正道教」と称していた。村山智順の『朝鮮の類似宗教』(朝鮮総督府調査資料第42輯 1935)にも掲載されている。

 

 もともとは李仙秤の「覚世教」の信者だった申泰濟が、1924年に李仙秤が中国に布教に行っている間に教団を乗っ取り(覚世道真理研究会『覚世道入門』)、1927年に「正道教」と改称したとされる。

 

1927年に正道敎本觀から発刊された申泰濟『正道靈鑑』

 

 1931年には、この「正道教」が江原道の春川で詐欺まがいの布教を行ったとして摘発される事件を起こしている。

 

 さらに、1939年6月28日付で京畿道警察部長発の「京高特秘 第1702号 正道敎の再建運動事件検挙に関する件」には、次のような記載がある。「正道教」は1930年台半ばから教勢が衰え、1937年3月に解散した。しかし、安民煥を中心として復興運動が起き、その中で「朝鮮ニハ上帝ノ親政行ハレ代天公吏トシテ申姓ノ者現ハレ國王ノ位ニ卽キ日本帝國ノ領土ヲ離レテ完全ナル獨立國トナリ自分(安民煥)ハ宰相トナリテ總テノ政治ヲ司リ天地人三界ノ審判ヲ爲スニ至リ」と述べていたことが当局に発覚して、幹部が逮捕・起訴されている。

 

 ところで、洪道載は、1933年に、満洲在住の朝鮮同胞を援助するとして総督府の官舎などを回って古着や金品を集めて、それを着服したとして横領罪で逮捕・起訴されている。この時に洪道載は「槿彰少年軍」の「秘書部長兼外交部長」で、首謀者の一人として逮捕されている。「正道教」との関係をうかがわせるものはこの事件の報道記事には出てこない。しかし「槿彰少年軍」の幹部が、それぞれ国家組織のような肩書きを持っていたとされている。この「槿彰少年軍」も「正道教」となんらかの関係のある組織ではないかと思われる。

 

 残された資料からイメージする限りでは、この「正道教」という団体は、日本の植民地支配は終わると公言する抗日的な言動がみられる一方で胡散臭さも感じさせる組織である。

 

 洪道載は、1945年の敗戦まで、徳山孝道として京城神社の嘱託もしくは神職として関わっていたことは事実であろう。ただ、解放直後の「大韓正民会結成」の文書に代表委員の一人として名を連ねていたことからみると、洪道載は「正道教」の信者として「親日」を装って日本人社会に浸透していた可能性が考えられる。


 京城神社が、解放直後の一時期に「檀君聖祖廟」の看板がかけられたというのは資料的に裏付けられる事実だが、それも「正道教」が、朝鮮神宮で行った神具や備品の持ち去りを京城神社でもやるための一時的な占拠だったとも考えられる。アメリカ軍による軍政体制が整う11月には、旧日本資産の勝手な処分は認めないとの方針が徹底され、「正民会」は京城神社から手を引いたものと思われる。

 

 12月10 日付の『自由新聞』には、神社施設を公園や学校にする案が出されていることが報じられている。それによれば、朝鮮神宮跡は国立公園にし、龍山中学の裏手の護国神社には、京城駅前にあったセブランス医学専門学校の基礎学教室を置く。そして京城神社の跡地には漢方医学校を新設するという案があり、これらの案については、軍政庁の地方課と交渉しているとされている。

 

 

 森田芳夫『終戦の記録』に記載されている神社庁の資料に、「11月には、表札は東洋医学専門学校に変わっていた」とあるが、まだ軍政庁からの認可が下りる前に、「正民会」が退去した後の旧京城神社に表札を出したものであろう。この時期に朝鮮医士会が東洋医学専門学校の設立を決議し、漢方医が設立期成会を組織するなど、設立に向けて動き出していた(『中央新聞』1945年12月3日)。しかし、1946年10月に開校した東洋医学専門学校は、旧東洋医学講習所に置かれ、京城神社跡地は使われなかった。セブランス医学学校の施設も開設されたという記録は目にしていない。ここも実際には使われなかった可能性がある。

 

 京城神社の跡地については、1947年3月21日付の『独立新聞』に「国立警察学校」が置かれているとの記事がある。

 また、朝鮮戦争後の1955年に政治出版社から刊行された『ソウル大観』の付録として添付されているソウル地図では、旧京城神宮の場所に「警察学校」との記載がある。

 

 朝鮮戦争中の1952年4月に、軍と警察の戦死者・殉職者の遺児のための「軍警遺子女院」が乃木神社の建物を使って開設され、最初に69名の子供達がここに収容された。「軍警遺子女院」は、その後1990年10月に「南山院」と改称され、現在も児童福祉施設として運営されている。

 

 一方、旧京城神社の警察学校は、朝鮮戦争で一時休校となったが、その後再開された。しかし、1953年に警察官養成を一本化するとの政府の方針で、各地の警察学校は廃止されてソウルの警察専門学校に初等科と専攻科を置いて行うものとされた(『東亜日報』1953.09.30)。警察専門学校は、旧京城中学の西側に隣接して置かれていたもので、現在の警察博物館の場所にあった。この時に旧京城神社にあった警察学校も閉鎖された。

 この時期、「軍警遺子女院」は運営経費が枯渇して窮地に陥っていた。そのため、警察学校の敷地、すなわち旧京城神社とその周囲の稲荷社や天満宮などを売却してその費用を賄うこととされた。

 

 ちょうどこの時期に、崇義女子中学は避難先の釜山の教会で学校再建の礼拝を行っていた。

 

 

 その後、ソウルに戻って南山洞1丁目の「松竹院」を仮校舎として授業を始めた。朝鮮戦争勃発直前の1950年6月14日にこの場所で開校式を行い、授業を開始していた。しかし、10 日あまりで朝鮮戦争が勃発して3年間の中断を余儀なくされたのである。

 

 

 この「松竹院」があった場所は、植民地時代に日本人向けの映画館「喜楽館」があった場所だと思われる。「喜楽館」は敗戦直後に飛行機が突っ込んで火事になったという(田中正四『痩骨先生紙屑帳』)。その跡地に崇義の関係者が寄宿舎を建てたものと思われる。「松竹」という名称は、崇義の在学生や同窓生が抗日運動のグループでも用いていたものである。

 

 その後、「軍警遺子女院」の運営経費捻出のために売却先を探していた警察学校の敷地を崇義学院が買い取ることで話がまとまった。崇義女子中学は1954年6月に旧京城神社に移転した。

 

 この時期には、まだ京城神社の建物が多く残っていて、神社の本殿は教務室として使用され、その他の建物も音楽室、庶務室、校長室などとして使われた。

 

 その後、建物は取り壊されて新しい校舎や施設が作られていった。

 

 日本の侵略は終わった。植民地支配は幕を閉じた。京城神社は学校になった。

 文字で書けばそれだけのことだが、その過程には実に様々な裏話と紆余曲折と物語があったに違いない。このブログでも、思いもよらぬ事実が出てきたが、それでもその物語のほんの一部にしか過ぎないのである。

映画「迷夢」(1)—分島周次郎と京城撮影所— から続く。


 1936年7月初旬に「近日封切り」と報じられた「迷夢」だったが、実際に封切られたのは10月26日、若草映画劇場で3日間だけの上映であった。新聞の劇場告知には「朝鮮語全発声日本版」となっていて、日本語字幕入りである。しかし、「迷夢」が日本で上映されることはなかった。

 

 その原因になったと思われる事件が大阪で起きていた。

 実は、内地で公開された「洪吉童伝続編」の上映が禁止されてしまったのである。

 「迷夢」が完成して新聞発表を行った十数日後の7月17日、内地発行の『読売新聞』にこのような記事が掲載された。

 

 

 7月15日から大阪パーク劇場で公開された「洪吉童伝続編」は、2週間の上映予定だったにもかかわらず、大阪府警察の保安課によって1週間で上映打ち切りが命じられた。そればかりでなく、それ以降の朝鮮映画の上映は不許可との方針が示され、さらに、大阪だけでなく東京方面への影響もあり得るとも記されている。

 

左側がパーク劇場(邦画館)、右側はパークキネマ(洋画館)

 国立映画アーカイブより

 

 この大阪での朝鮮映画の上映禁止措置は、7月22日付けの『京城日報』で報じられた。

 

 

 この記事には、大阪で上映が禁止された理由の詳細が書かれている。

朝鮮映畫の上映は殆ど全部の觀客が朝鮮人となるのでその結果は折角内地風俗に順應せしめんとする同化運動の障碍となるといふにあるが、右に就て保安課では語る
映畫には別に悪いところはないが特高課内鮮係では半島人の内地同化の障碍となるといふ意見だし、保安課としては多數の半島人が集合し治安衛生上からも思はしくない點が生ずるので今後大阪府では一切朝鮮映畫の上映を許可しない方針である

 「洪吉童伝続編」の前の「薔花紅蓮伝」では観客のほとんどが朝鮮人であった。新たに上映が始まった「洪吉童伝続編」でもその傾向が顕著であった。これに大阪の警察当局が強い警戒感を持ったためだということなのである。

 

 この大阪での上映禁止の決定については『東亜日報』も大きく伝えている。

 

 

 そして、京城の映画関係者は、7月23日午後6時から府民館会議室で会合を開き、大阪に撤回を求めるよう京城府に陳情し、場合によっては大阪にまで出向く方針を打ち出した。

 

 

 この時の会合に参加したのは、京城撮影所の分島周次郎、朝鮮映協の李基世、東和商事映画部京城支社の高仁文、オーケー映画社の尹鍾トク、高麗映画株式会社の李創用、大都映画支社長の園田實生、朝鮮興行株式会社の鄭殷圭、朝鮮映画配給所朴守洗であった。

 実際に、彼らが大阪まで出かけて行ったのかはわからない。

 

 この1936年、82万人ほどの朝鮮半島出身者が内地に居住していた。そのうち28.1%が大阪に暮らしていた。

田村紀之「植民地期の内地在住朝鮮人世帯と常住人口」
『二松学舎大学国際政経論集』 (17) 2011-03

 

 分島周次郎の京城撮影所は、内地で日本人相手の上映を想定して、日本語字幕を挿入した「日本版」を作成したのであろう。それに対して三映社は、観客を確保することを考えて朝鮮人居住者の多い大阪で「薔花紅蓮伝」と「洪吉童伝続編」を公開したのではないだろうか。その結果、多くの朝鮮人観客が来場して、興行としてはそこそこのできだったのだろうが、大阪の保安課から朝鮮人が多すぎると目をつけられてしまった、という推測も成り立つ。 

 

 この大阪での「洪吉童伝続編」の上映打ち切りと朝鮮映画の上映不許可の方針が出されたことが、「迷夢」の封切りが大きく遅れたことと無関係ではないだろう。

 

 文化庁「日本映画情報システム」のデータベースでは三映社が配給した朝鮮映画は「薔花紅蓮伝」「洪吉童伝続編」の2本のみで、「迷夢」はリストにはない。

 

 前述のように、「迷夢」はその後10月26日に若草映画劇場で封切られた。若草映画劇場は東宝系と洋画の封切館であったが、ここで「3日間昼夜3回入替なし」で上映された。

 「迷夢」も「洪吉童伝続編」と同じく「朝鮮語全発声日本版」となっており、日本語字幕は内地での上映を前提に入れられたものであろう。

 

 

 

 この最初の若草映画劇場での封切り上映のあと、「迷夢」がどのように上映されたのか、資料は探せていない。

 「春香伝」や「アリラン峠」、それに「薔花紅蓮伝」「洪吉童伝続編」は、その後も優美館で上映されたことがわかる。優美館は、当初は封切館だったが、他の映画館に比べて設備が悪くなり2番館(再上映館)になっていた。入場料も封切館が30銭だったのに対し、優美館は10 銭だった。そうしたところで再上映されており、地方でも上映されたと思われる。

 ただ、「迷夢」については、今のところ京城での再上映の広告などが見いだせていない。

 ひょっとすると「迷夢」は興行的にはあまり成功しなかったのかも知れない。

 

 ここまでの展開から推測すれば、「迷夢」は「洪吉童伝続編」と同じように日本公開を前提に制作されたと考えられる。しかも、朝鮮王朝時代を舞台とした「薔花紅蓮伝」や「洪吉童伝続編」とは違って、1930年代半ばの京城を舞台とした映画であり、日本人観客を念頭に置いて脚本が書かれた可能性も考えられる。

 

 もし、この映画が大阪パーク劇場で上映されていたら、大阪の朝鮮人はこの映画に押しかけたであろうか。

 

 京城の朝鮮人家庭、デパート、ホテル、会社、舞台、舞台の楽屋、学校、美容室、クリーニング、タクシー、南大門から京城駅、龍山通、病院。植民地支配下の朝鮮の京城が次々と映し出される。そして、朝鮮人はこのように暮らしているということを宣伝している映画のようにも見える。

 『韓国映画100選』の解説にも、

「迷夢」は植民地化によって近代化した都市の風景

・・・・・

 急激に変化する都市空間(デパート、ホテル、カフェ、劇場など)と、その空間に近代文化と欲望を運ぶ汽車やタクシーなどが街角を行き来する景色がふんだんに映し出される。近代化されていく1930年代の都市・京城を舞台

とあるように、この映画が、植民地支配のもとで「近代化」した「1930年代の都市・京城」を舞台にしていることは、これまでも指摘されてきている。

 しかし、映画としては、

良妻賢母という儒教的な美徳から抜け出ようとする、従来の経験や価値観とは異なるエスンの欲望のドラマ

のように、封建的な秩序の中で新しい生き方を模索する女性のありようを中心にした解釈や解説が主流である。

 

 ただ、内地で上映して日本人に見せることが意識されていたとすると、この映画はこれまの解釈とはかなり違う性格の映画のように思えてくる。

 植民地朝鮮の京城の街が、支配者側の目線から見た「進歩」「発展」「繁栄」として描かれ、そこで奔放に暮らす「新女性」とその哀れな末路のドラマが展開する。

 

 朝鮮の女性史を研究している井上和枝は、「同時代の朝鮮社会のジェンダー意識ーそれは主として男性知識人のそれであったがーを反映した新女性は「逸脱,放縦,虚栄,奢侈」という形容とともに用いられることが多く」と書いている(「新女性朴仁徳における”近代” “民族” “ジェンダー” “親日“」『国際文化学部論集』12(4) 2012-03)。

 すなわち、「迷夢」のエスンは、男性知識人が描いていた否定的なイメージ「逸脱,放縦,虚栄,奢侈」の「新女性」として描かれている。そしてそれは迷夢に過ぎないとされるのである。

 そこに映し出される「風景」や「街並み」や「舞台」は、単なる背景ではなく。「京城を見せる」という明確な意図で編集されているのではなかろうか。

 その視点から見てみると、京畿道警察部保安課がこの映画を後援したこととも整合性がとれてくる。

 

 

 「迷夢」が封切られた頃、京城撮影所は羅雲奎の監督作品「五夢女」を制作していた。

 

 「五夢女」は、翌年1月20日に団成社で封切られた。「日本版」として封切られたが、この映画も実際に内地で上映されることはなかった。

 

 これ以降、京城撮影所としてはトーキー映画を制作していない。

 


 

 大阪で不許可になった朝鮮映画の内地公開は、全く違うかたちで実現されていくことになった。

 

 ちょうど「迷夢」が公開された1936年の秋に、新興キネマ所属の映画監督鈴木重吉が朝鮮を訪れた。帝国キネマ時代に鈴木に師事していた李圭煥が京城を案内し、その時に自分の新しい作品の構想を鈴木に語った。鈴木は、「そりゃいいね」と言った。それが、「旅路(ナグネ)」という作品である。

 「旅路」は、新興キネマと聖峯映画園の合作というかたちで制作された。

 

 

 撮影や現像・録音などは東京の新興キネマ大泉撮影所で行われた。朝鮮から出演者・スタッフが3等車を乗り継いでやってきて、撮影所前の家を借りて自炊しながら制作に当たったという。この映画の主演文芸峰は「迷夢」の主演女優でもあった。その文芸峰が撮影の合間に入江たか子に会って、「私と同じように声が悪いんで安心した」と言ったら、入江が「遠いところをわざわざ悪口を言いにきて下さって本当にありがとう」と返したというエピソードが紹介されている。

 

 「旅路」は、新興キネマの強力なバックアップで制作され、京城では明治座で4月29日に封切られた。

 

 さらに内地でも、東京の帝劇など3館で5月6日から封切られた。

 

 「本邦最初の純朝鮮トーキー 内地版 日本字幕挿入」となっているが、実際には「薔花紅蓮伝」や「洪吉童伝続編」の方が先に入っている。しかし、この二つの映画のほとんどの観客が内地在住の朝鮮人であったのに対し、「旅路」は本格的に内地の日本人を対象とした映画興行であったとはいえよう。


 

 1938年11月に、朝鮮日報主催で朝鮮初の映画祭が開かれた。映画関係の展示と共に、夕刻から京城府民館で映画の上映会が連日行われた。

 その時に、サイレント映画とトーキー映画についてそれぞれの人気ランキングの投票がおこなわれた。

 

 トーキー映画12本の中で「迷夢」は8番目である。

 

 

 「迷夢」は、内地の日本人を意識しながら制作されたにもかかわらず、1936年夏に朝鮮映画の大阪公開が禁止されたあおりで内地公開ができなくなった不遇の作品なのかも知れない。