京城神社と崇義女子大 | 一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 今年(2020)の年初に、南山北麓の崇義女子大学のキャンパスを訪れた。

 ここは日本の植民地統治下で京城神社があったところだ。これまでキャンパスの中にまで入る機会はなかったが、今回この学校の卒業生とたまたま一緒だったので、何か痕跡でもあればと中まで入ってみることにした。

 

 坂を上がると広場の向こう側に本館がある。本館に近づくと正面玄関の左側に何やら展示されている。近づいてみると、京城神社の礎石などの石造物、神社の写真や配置図、京城神社から大学への沿革などが展示されている。

 

 展示物の状態から、この展示はさほど前からのものではなさそうだ。

 

 崇義女子大学の母体である学校法人崇義学院の前身は、米国北長老会の宣教師サミュエル・オースティン・モフェット博士が1903年10月に平壌に設立した崇義女学校である。1938年3月、崇義女学校は、朝鮮総督府による神社参拝の強要を拒否して、崇実専門学校、崇実中学と共に廃校の道を選んだ。

 展示に、「숭의 정신이 일본제신을 누르다(崇義精神が日本の祭神を制する)」とあるのは、日本による植民地支配に抵抗したことの証として、この京城神社の展示がなされていると宣言しているのである。

 

 日本の敗戦後、ソ連軍が敗戦処理に当たることになった北緯38°線の北側から南に避難する朝鮮の人々、いわゆる「越南民」が少なからず発生した。南側にいた崇義の関係者や同窓生は、1950年にソウルでの学校再建をはかったが、その直後に朝鮮戦争が勃発し、休戦の1953年になってソウルに財団法人崇義学院が設立された。

 その後、その学校用地となったのが、日本の植民地統治下で京城神社が置かれていた場所であった。


 

 京城神社の由来については、アジア歴史資料館の「京城神社(京畿道京城府倭城台町鎮座)及竜頭山神社(慶尚南道釜山府弁天町鎮座)ヲ国幣小社ニ列格ス」という1936年の公文書の「上奏文」に詳しく記載されている。

アジア歴史資料館

 

それに加えて、青井哲人「ソウル・南山の神域化—植民都市と神社境内」『明治聖徳記念学会紀要』第43号(2006)や、崇義女子大学の展示の年表(下掲写真)から日本の敗戦までの京城神社の変遷をまとめてみると下表のようになる。

◆京城神社の変遷

1892年 京城居留民会、天照大神遥拝所設置
1897年 京城居留民会、神社建立を決議
1898年5月 民会代表、伊勢神宮で神宮大麻・神宝の授与を受ける
1898年11月 神殿落成、鎮座祭。南山大神宮創建
1916年 京城神社と改称
1926年3月 氏子会、境内の拡張と社殿造営を決議
1929年9月 新社殿完成、遷座式を行い旧社殿を八幡宮とする
1934年 乃木希典を祀る乃木神社を建てる
1936年8月 京城神社、国幣小社となる。

 

 京城神社とその附属施設を、今の崇義女子大のキャンパスとその周辺の地図と重ね合わせるとこのようになる。

 植民地時代の京城神社については、その造営当時の写真が、「国学院デジタルミュージアム」の宮地直一博士写真資料「京城神社御造営写真帖」に残されており、オンラインで閲覧ができる。

「国学院デジタルミュージアム」宮地直一博士写真資料「京城神社御造営写真帖」

 

 この京城神社の1945年8月15日敗戦以降の変遷については、崇義女子大学の年表には次のように記されている。

1945年の解放とともに京城神社は一部が解体され神社の跡地には一時期檀君聖祖廟が立てられた。

1953年、崇義創立50周年の年、現在の明洞駅近くにある松竹院で再建された

1954年、軍警遺子女院から譲渡を受け、その年6月、この地に移転した

当時、旧神社の境内には7~8棟の神社当時の建造物が残っており、それらの建物はそれぞれ教務室、音楽室、庶務室、校長室として使用された。日本の植民地統治下で最も重要視されていた神社本殿は、教務室として使用され、毎朝の朝礼のたびにここに太極旗が掲げられた。

 

 日本の敗戦直後の京城神社の状況については、京城帝大医学部の講師で、日本人の引揚げ援助にも関わった田中正四が、『痩骨先生紙屑帳』(金剛社 1961)に収録した自身の日記に次のように書き残している。

 

 また、森田芳夫『朝鮮終戦の記録』(巌南堂 1965)には次のような記述がある。

 これらの資料によれば、1945年8月の日本の敗戦のあと、「大韓正民会」によって京城神社は「檀君聖廟」とされ、それを主導したのは京城神社の神職だった洪道載、創氏改名後は徳山孝道と名乗っていた人物だったとなっている。

 

 その「大韓正民会」については、1945年10月25日付の『毎日新報』に次のような記事がある。


자료대한민국사 제1권

大韓正民会結成

『毎日新報』1945年10月25日

檀国天祖が示してくれた確かな指導原理と確実な実践方法を胸に秘め、半世紀を異国で血みどろの闘いをした大韓民国臨時政府を支持し、建国に協力することを目標とした大韓正民会が結成された。 ここでは、全同胞が私心を捨て、民族的本性で和合し、建国偉業を達成できるよう努力することになるが、その綱領と代表委員の名は次の通りである。

◇綱領

一.我々は檀聖を宗靈と崇奉し、その遺訓の具現を期す

一.我々は科学知識の涵養と生活の全面的機械化の促進を期す

一.我々は世界平和のために道義の国家体制の確立を期す

一.我々は労働同胞に労働の喜びと生活安定の確保を期す

一.我々は民族的発展のために民主国家独立を期す。

代表委員:李鍾台 李鍾晟 申泰濟 嚴基德 李揆虎 洪道載 潘榮 孫德榮 申斗永 成甲慶

 ここに、洪道載も「大韓正民会」の代表委員の一人として名前が挙がっている。

 

 ちなみに、『毎日新報』は朝鮮総督府の朝鮮語機関紙の役割を担っていたが、解放後は進歩派朝鮮人社員が自主運営で刊行を継続した。その後、11月10日に米軍政によって停刊とされたが、後に『ソウル新聞』として続刊された。

 

 「大韓正民会」の結成に先立って、10月19日、代表委員である李鍾台と李鍾晟の二人がアメリカから帰還した直後の李承晩を朝鮮ホテルに訪問して会談している。

 

 

 解放直後に「大韓民国臨時政府を支持し、建国に協力する」として結成され、李承晩とも幹部が面談している「大韓正民会」が、京城神社を「檀君聖廟」としたのは合点がいく。しかし、神社庁の資料に、植民地統治下で徳山孝道と名乗る京城神社の神職であったとされている洪道載が代表委員の一人として挙げられているのには違和感がある。

 新聞を検索すると、真珠湾攻撃による日米開戦の直後、1941年12月13日の『毎日新報』に、徳山孝道が、銃後国民赤誠献金という名目で7円を献金したという記事が出ている。

 

 この記事では、徳山孝道の肩書きは「京城神社嘱託」「国防婦人会南山稲荷分会員」で、神職ではない。洪道載は、京城神社や境内の稲荷社に関わりを持つ創氏改名をした朝鮮人として『毎日新報』には載せられている。日本の敗戦とともに、「大韓正民会」が京城神社に乗り込んで「檀君聖廟」とし、それに洪道載も関与していた。洪道載は、単に関与したというだけでなく、「正民会」の代表委員であった。不可解である。

 

 しかし、翌1946年7月28日付の『東亜日報』に、「邪教団“正民会”に断」というヘッドラインの記事が出ていて、その内容にこの不可解さを解く鍵があった。

 この記事は、「正民会」が国家建設を夢想して教徒をたぶらかす「類似宗教」として摘発されたことを報じたものである。「類似宗教」とは、朝鮮総督府がいわゆる「新興宗教」「新宗教」に対して用いた呼称である。

 

 

 この記事によれば、「大韓正民会結成」の前掲の記事で代表委員の3番目に挙げられている申泰濟が教主だという。

 混沌とした政界をいいことに、勝手な国家設計を夢見て愚昧な信者を騙し、私腹を肥やしていたとんでもない新興宗教団体の詐欺事件が、27日、京畿道警察によって一網打尽となった。

 市内城北町13番地に本部を置く正民会は、1924年に組織された新興宗教団体で、信者は20余万名に上る。彼らは解放後、同会の教主申泰済(50)を中心に70人余りの幹部が朝鮮神宮にあった日本人が使っていた神具を全て盗み出して同会の事務所に備え付け、同会の教主申は龍床と称する椅子に座って男女信者を支配し、勝手に国を建てるという名のもとに信者をはじめ各方面から資金を集めた。

 現在帳簿上で1,000万ウォンにも上る。彼らが設計した国家機構と責任者は次のとおりである。

 総理監李禧宰、内務院安道鎬、外務院申斗永、財務院李揆虎、教化院安直煥、正化院申泰喆、立法院安道鎬、正平院金炳溢、抽化院(女)具燃叔、以上9院23局があったが、その中で特に注目されるのは条約局が置かれていたことである。そして警察では教主申泰済を勾留して朝鮮神宮から盗み出した銀貨600ウォンと竹槍10本あまり、木刀1、弓矢10 、それに帳簿20冊余りを押収し、幹部についても手配中である。

(後略)

 洪道載の名前はこの記事には出てこないし、京城神社のことも言及されていない。しかし、朝鮮神宮から神具やその他、銀貨や竹槍、木刀まで持ち出していることから推測すると、朝鮮神宮の内部に正民会側の関係者が入り込んでいて、手引きをしたとも考えられる。

 実は、京城神社に関係していたという洪道載も、申泰濟の宗教団体の信者ではなかったかと思われる。


 申泰濟を教主とする宗教団体は、当初は「正道教」と称していた。村山智順の『朝鮮の類似宗教』(朝鮮総督府調査資料第42輯 1935)にも掲載されている。

 

 もともとは李仙秤の「覚世教」の信者だった申泰濟が、1924年に李仙秤が中国に布教に行っている間に教団を乗っ取り(覚世道真理研究会『覚世道入門』)、1927年に「正道教」と改称したとされる。

 

1927年に正道敎本觀から発刊された申泰濟『正道靈鑑』

 

 1931年には、この「正道教」が江原道の春川で詐欺まがいの布教を行ったとして摘発される事件を起こしている。

 

 さらに、1939年6月28日付で京畿道警察部長発の「京高特秘 第1702号 正道敎の再建運動事件検挙に関する件」には、次のような記載がある。「正道教」は1930年台半ばから教勢が衰え、1937年3月に解散した。しかし、安民煥を中心として復興運動が起き、その中で「朝鮮ニハ上帝ノ親政行ハレ代天公吏トシテ申姓ノ者現ハレ國王ノ位ニ卽キ日本帝國ノ領土ヲ離レテ完全ナル獨立國トナリ自分(安民煥)ハ宰相トナリテ總テノ政治ヲ司リ天地人三界ノ審判ヲ爲スニ至リ」と述べていたことが当局に発覚して、幹部が逮捕・起訴されている。

 

 ところで、洪道載は、1933年に、満洲在住の朝鮮同胞を援助するとして総督府の官舎などを回って古着や金品を集めて、それを着服したとして横領罪で逮捕・起訴されている。この時に洪道載は「槿彰少年軍」の「秘書部長兼外交部長」で、首謀者の一人として逮捕されている。「正道教」との関係をうかがわせるものはこの事件の報道記事には出てこない。しかし「槿彰少年軍」の幹部が、それぞれ国家組織のような肩書きを持っていたとされている。この「槿彰少年軍」も「正道教」となんらかの関係のある組織ではないかと思われる。

 

 残された資料からイメージする限りでは、この「正道教」という団体は、日本の植民地支配は終わると公言する抗日的な言動がみられる一方で胡散臭さも感じさせる組織である。

 

 洪道載は、1945年の敗戦まで、徳山孝道として京城神社の嘱託もしくは神職として関わっていたことは事実であろう。ただ、解放直後の「大韓正民会結成」の文書に代表委員の一人として名を連ねていたことからみると、洪道載は「正道教」の信者として「親日」を装って日本人社会に浸透していた可能性が考えられる。


 京城神社が、解放直後の一時期に「檀君聖祖廟」の看板がかけられたというのは資料的に裏付けられる事実だが、それも「正道教」が、朝鮮神宮で行った神具や備品の持ち去りを京城神社でもやるための一時的な占拠だったとも考えられる。アメリカ軍による軍政体制が整う11月には、旧日本資産の勝手な処分は認めないとの方針が徹底され、「正民会」は京城神社から手を引いたものと思われる。

 

 12月10 日付の『自由新聞』には、神社施設を公園や学校にする案が出されていることが報じられている。それによれば、朝鮮神宮跡は国立公園にし、龍山中学の裏手の護国神社には、京城駅前にあったセブランス医学専門学校の基礎学教室を置く。そして京城神社の跡地には漢方医学校を新設するという案があり、これらの案については、軍政庁の地方課と交渉しているとされている。

 

 

 森田芳夫『終戦の記録』に記載されている神社庁の資料に、「11月には、表札は東洋医学専門学校に変わっていた」とあるが、まだ軍政庁からの認可が下りる前に、「正民会」が退去した後の旧京城神社に表札を出したものであろう。この時期に朝鮮医士会が東洋医学専門学校の設立を決議し、漢方医が設立期成会を組織するなど、設立に向けて動き出していた(『中央新聞』1945年12月3日)。しかし、1946年10月に開校した東洋医学専門学校は、旧東洋医学講習所に置かれ、京城神社跡地は使われなかった。セブランス医学学校の施設も開設されたという記録は目にしていない。ここも実際には使われなかった可能性がある。

 

 京城神社の跡地については、1947年3月21日付の『独立新聞』に「国立警察学校」が置かれているとの記事がある。

 また、朝鮮戦争後の1955年に政治出版社から刊行された『ソウル大観』の付録として添付されているソウル地図では、旧京城神宮の場所に「警察学校」との記載がある。

 

 朝鮮戦争中の1952年4月に、軍と警察の戦死者・殉職者の遺児のための「軍警遺子女院」が乃木神社の建物を使って開設され、最初に69名の子供達がここに収容された。「軍警遺子女院」は、その後1990年10月に「南山院」と改称され、現在も児童福祉施設として運営されている。

 

 一方、旧京城神社の警察学校は、朝鮮戦争で一時休校となったが、その後再開された。しかし、1953年に警察官養成を一本化するとの政府の方針で、各地の警察学校は廃止されてソウルの警察専門学校に初等科と専攻科を置いて行うものとされた(『東亜日報』1953.09.30)。警察専門学校は、旧京城中学の西側に隣接して置かれていたもので、現在の警察博物館の場所にあった。この時に旧京城神社にあった警察学校も閉鎖された。

 この時期、「軍警遺子女院」は運営経費が枯渇して窮地に陥っていた。そのため、警察学校の敷地、すなわち旧京城神社とその周囲の稲荷社や天満宮などを売却してその費用を賄うこととされた。

 

 ちょうどこの時期に、崇義女子中学は避難先の釜山の教会で学校再建の礼拝を行っていた。

 

 

 その後、ソウルに戻って南山洞1丁目の「松竹院」を仮校舎として授業を始めた。朝鮮戦争勃発直前の1950年6月14日にこの場所で開校式を行い、授業を開始していた。しかし、10 日あまりで朝鮮戦争が勃発して3年間の中断を余儀なくされたのである。

 

 

 この「松竹院」があった場所は、植民地時代に日本人向けの映画館「喜楽館」があった場所だと思われる。「喜楽館」は敗戦直後に飛行機が突っ込んで火事になったという(田中正四『痩骨先生紙屑帳』)。その跡地に崇義の関係者が寄宿舎を建てたものと思われる。「松竹」という名称は、崇義の在学生や同窓生が抗日運動のグループでも用いていたものである。

 

 その後、「軍警遺子女院」の運営経費捻出のために売却先を探していた警察学校の敷地を崇義学院が買い取ることで話がまとまった。崇義女子中学は1954年6月に旧京城神社に移転した。

 

 この時期には、まだ京城神社の建物が多く残っていて、神社の本殿は教務室として使用され、その他の建物も音楽室、庶務室、校長室などとして使われた。

 

 その後、建物は取り壊されて新しい校舎や施設が作られていった。

 

 日本の侵略は終わった。植民地支配は幕を閉じた。京城神社は学校になった。

 文字で書けばそれだけのことだが、その過程には実に様々な裏話と紆余曲折と物語があったに違いない。このブログでも、思いもよらぬ事実が出てきたが、それでもその物語のほんの一部にしか過ぎないのである。