映画「迷夢」(2)—霧散した内地封切— | 一松書院のブログ

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

映画「迷夢」(1)—分島周次郎と京城撮影所— から続く。


 1936年7月初旬に「近日封切り」と報じられた「迷夢」だったが、実際に封切られたのは10月26日、若草映画劇場で3日間だけの上映であった。新聞の劇場告知には「朝鮮語全発声日本版」となっていて、日本語字幕入りである。しかし、「迷夢」が日本で上映されることはなかった。

 

 その原因になったと思われる事件が大阪で起きていた。

 実は、内地で公開された「洪吉童伝続編」の上映が禁止されてしまったのである。

 「迷夢」が完成して新聞発表を行った十数日後の7月17日、内地発行の『読売新聞』にこのような記事が掲載された。

 

 

 7月15日から大阪パーク劇場で公開された「洪吉童伝続編」は、2週間の上映予定だったにもかかわらず、大阪府警察の保安課によって1週間で上映打ち切りが命じられた。そればかりでなく、それ以降の朝鮮映画の上映は不許可との方針が示され、さらに、大阪だけでなく東京方面への影響もあり得るとも記されている。

 

左側がパーク劇場(邦画館)、右側はパークキネマ(洋画館)

 国立映画アーカイブより

 

 この大阪での朝鮮映画の上映禁止措置は、7月22日付けの『京城日報』で報じられた。

 

 

 この記事には、大阪で上映が禁止された理由の詳細が書かれている。

朝鮮映畫の上映は殆ど全部の觀客が朝鮮人となるのでその結果は折角内地風俗に順應せしめんとする同化運動の障碍となるといふにあるが、右に就て保安課では語る
映畫には別に悪いところはないが特高課内鮮係では半島人の内地同化の障碍となるといふ意見だし、保安課としては多數の半島人が集合し治安衛生上からも思はしくない點が生ずるので今後大阪府では一切朝鮮映畫の上映を許可しない方針である

 「洪吉童伝続編」の前の「薔花紅蓮伝」では観客のほとんどが朝鮮人であった。新たに上映が始まった「洪吉童伝続編」でもその傾向が顕著であった。これに大阪の警察当局が強い警戒感を持ったためだということなのである。

 

 この大阪での上映禁止の決定については『東亜日報』も大きく伝えている。

 

 

 そして、京城の映画関係者は、7月23日午後6時から府民館会議室で会合を開き、大阪に撤回を求めるよう京城府に陳情し、場合によっては大阪にまで出向く方針を打ち出した。

 

 

 この時の会合に参加したのは、京城撮影所の分島周次郎、朝鮮映協の李基世、東和商事映画部京城支社の高仁文、オーケー映画社の尹鍾トク、高麗映画株式会社の李創用、大都映画支社長の園田實生、朝鮮興行株式会社の鄭殷圭、朝鮮映画配給所朴守洗であった。

 実際に、彼らが大阪まで出かけて行ったのかはわからない。

 

 この1936年、82万人ほどの朝鮮半島出身者が内地に居住していた。そのうち28.1%が大阪に暮らしていた。

田村紀之「植民地期の内地在住朝鮮人世帯と常住人口」
『二松学舎大学国際政経論集』 (17) 2011-03

 

 分島周次郎の京城撮影所は、内地で日本人相手の上映を想定して、日本語字幕を挿入した「日本版」を作成したのであろう。それに対して三映社は、観客を確保することを考えて朝鮮人居住者の多い大阪で「薔花紅蓮伝」と「洪吉童伝続編」を公開したのではないだろうか。その結果、多くの朝鮮人観客が来場して、興行としてはそこそこのできだったのだろうが、大阪の保安課から朝鮮人が多すぎると目をつけられてしまった、という推測も成り立つ。 

 

 この大阪での「洪吉童伝続編」の上映打ち切りと朝鮮映画の上映不許可の方針が出されたことが、「迷夢」の封切りが大きく遅れたことと無関係ではないだろう。

 

 文化庁「日本映画情報システム」のデータベースでは三映社が配給した朝鮮映画は「薔花紅蓮伝」「洪吉童伝続編」の2本のみで、「迷夢」はリストにはない。

 

 前述のように、「迷夢」はその後10月26日に若草映画劇場で封切られた。若草映画劇場は東宝系と洋画の封切館であったが、ここで「3日間昼夜3回入替なし」で上映された。

 「迷夢」も「洪吉童伝続編」と同じく「朝鮮語全発声日本版」となっており、日本語字幕は内地での上映を前提に入れられたものであろう。

 

 

 

 この最初の若草映画劇場での封切り上映のあと、「迷夢」がどのように上映されたのか、資料は探せていない。

 「春香伝」や「アリラン峠」、それに「薔花紅蓮伝」「洪吉童伝続編」は、その後も優美館で上映されたことがわかる。優美館は、当初は封切館だったが、他の映画館に比べて設備が悪くなり2番館(再上映館)になっていた。入場料も封切館が30銭だったのに対し、優美館は10 銭だった。そうしたところで再上映されており、地方でも上映されたと思われる。

 ただ、「迷夢」については、今のところ京城での再上映の広告などが見いだせていない。

 ひょっとすると「迷夢」は興行的にはあまり成功しなかったのかも知れない。

 

 ここまでの展開から推測すれば、「迷夢」は「洪吉童伝続編」と同じように日本公開を前提に制作されたと考えられる。しかも、朝鮮王朝時代を舞台とした「薔花紅蓮伝」や「洪吉童伝続編」とは違って、1930年代半ばの京城を舞台とした映画であり、日本人観客を念頭に置いて脚本が書かれた可能性も考えられる。

 

 もし、この映画が大阪パーク劇場で上映されていたら、大阪の朝鮮人はこの映画に押しかけたであろうか。

 

 京城の朝鮮人家庭、デパート、ホテル、会社、舞台、舞台の楽屋、学校、美容室、クリーニング、タクシー、南大門から京城駅、龍山通、病院。植民地支配下の朝鮮の京城が次々と映し出される。そして、朝鮮人はこのように暮らしているということを宣伝している映画のようにも見える。

 『韓国映画100選』の解説にも、

「迷夢」は植民地化によって近代化した都市の風景

・・・・・

 急激に変化する都市空間(デパート、ホテル、カフェ、劇場など)と、その空間に近代文化と欲望を運ぶ汽車やタクシーなどが街角を行き来する景色がふんだんに映し出される。近代化されていく1930年代の都市・京城を舞台

とあるように、この映画が、植民地支配のもとで「近代化」した「1930年代の都市・京城」を舞台にしていることは、これまでも指摘されてきている。

 しかし、映画としては、

良妻賢母という儒教的な美徳から抜け出ようとする、従来の経験や価値観とは異なるエスンの欲望のドラマ

のように、封建的な秩序の中で新しい生き方を模索する女性のありようを中心にした解釈や解説が主流である。

 

 ただ、内地で上映して日本人に見せることが意識されていたとすると、この映画はこれまの解釈とはかなり違う性格の映画のように思えてくる。

 植民地朝鮮の京城の街が、支配者側の目線から見た「進歩」「発展」「繁栄」として描かれ、そこで奔放に暮らす「新女性」とその哀れな末路のドラマが展開する。

 

 朝鮮の女性史を研究している井上和枝は、「同時代の朝鮮社会のジェンダー意識ーそれは主として男性知識人のそれであったがーを反映した新女性は「逸脱,放縦,虚栄,奢侈」という形容とともに用いられることが多く」と書いている(「新女性朴仁徳における”近代” “民族” “ジェンダー” “親日“」『国際文化学部論集』12(4) 2012-03)。

 すなわち、「迷夢」のエスンは、男性知識人が描いていた否定的なイメージ「逸脱,放縦,虚栄,奢侈」の「新女性」として描かれている。そしてそれは迷夢に過ぎないとされるのである。

 そこに映し出される「風景」や「街並み」や「舞台」は、単なる背景ではなく。「京城を見せる」という明確な意図で編集されているのではなかろうか。

 その視点から見てみると、京畿道警察部保安課がこの映画を後援したこととも整合性がとれてくる。

 

 

 「迷夢」が封切られた頃、京城撮影所は羅雲奎の監督作品「五夢女」を制作していた。

 

 「五夢女」は、翌年1月20日に団成社で封切られた。「日本版」として封切られたが、この映画も実際に内地で上映されることはなかった。

 

 これ以降、京城撮影所としてはトーキー映画を制作していない。

 


 

 大阪で不許可になった朝鮮映画の内地公開は、全く違うかたちで実現されていくことになった。

 

 ちょうど「迷夢」が公開された1936年の秋に、新興キネマ所属の映画監督鈴木重吉が朝鮮を訪れた。帝国キネマ時代に鈴木に師事していた李圭煥が京城を案内し、その時に自分の新しい作品の構想を鈴木に語った。鈴木は、「そりゃいいね」と言った。それが、「旅路(ナグネ)」という作品である。

 「旅路」は、新興キネマと聖峯映画園の合作というかたちで制作された。

 

 

 撮影や現像・録音などは東京の新興キネマ大泉撮影所で行われた。朝鮮から出演者・スタッフが3等車を乗り継いでやってきて、撮影所前の家を借りて自炊しながら制作に当たったという。この映画の主演文芸峰は「迷夢」の主演女優でもあった。その文芸峰が撮影の合間に入江たか子に会って、「私と同じように声が悪いんで安心した」と言ったら、入江が「遠いところをわざわざ悪口を言いにきて下さって本当にありがとう」と返したというエピソードが紹介されている。

 

 「旅路」は、新興キネマの強力なバックアップで制作され、京城では明治座で4月29日に封切られた。

 

 さらに内地でも、東京の帝劇など3館で5月6日から封切られた。

 

 「本邦最初の純朝鮮トーキー 内地版 日本字幕挿入」となっているが、実際には「薔花紅蓮伝」や「洪吉童伝続編」の方が先に入っている。しかし、この二つの映画のほとんどの観客が内地在住の朝鮮人であったのに対し、「旅路」は本格的に内地の日本人を対象とした映画興行であったとはいえよう。


 

 1938年11月に、朝鮮日報主催で朝鮮初の映画祭が開かれた。映画関係の展示と共に、夕刻から京城府民館で映画の上映会が連日行われた。

 その時に、サイレント映画とトーキー映画についてそれぞれの人気ランキングの投票がおこなわれた。

 

 トーキー映画12本の中で「迷夢」は8番目である。

 

 

 「迷夢」は、内地の日本人を意識しながら制作されたにもかかわらず、1936年夏に朝鮮映画の大阪公開が禁止されたあおりで内地公開ができなくなった不遇の作品なのかも知れない。