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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 『韓国映画100選』(韓国映像資料院編 桑畑優香訳 クオン 2019)で日本統治時代の映画として取り上げられている4本の映画の中の1本に「迷夢」がある。

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 「青春の十字路(청춘의 십자로)」(1934)はサイレント映画で、この「迷夢(미몽)」(1936)と、「家なき天使(집없는 천사)」(1941)・「半島の春(반도의 봄)」(1941)の3本がトーキー映画である。

 

 「迷夢」は、植民地支配下の朝鮮で制作されたトーキー映画として現存する最も古いものとされる。

 2004年から韓国の映像資料院が中国で行った資料調査の際に発見されたもので、韓国映像資料院がYoutubeで公開している。
미몽(죽음의 자장가)(1936) / Sweet Dream (Lullaby of Death)

 

 この映画動画の冒頭にはこのような画面が入れられている。

 

 この表示から推測すると、満洲国の首都新京にあった「迷夢」のフィルムを長春映画製作所で複製・現像し、それが「中国映画資料院」に所蔵されていたものと思われる。

 2006年3月2日から5日までソウル市内の「芸術の殿堂イェスレチョンダン」で一般公開されたが、それを伝える2006年2月21日付の『ソウル新聞』の記事はこのように伝えている。

現存する韓国最高の劇映画"迷夢"を中国で発掘、来月一般公開

…(略)…

これまで資料の上だけで知られてきた映画「迷夢」は「死の子守唄」とのサブタイトルがつけられ、浮気をして家庭を捨てた女性のエピソードを盛り込んた47分の映画。映像資料院では、「女性の欲望についての表現は、20年後の映画「自由夫人」よりも激しいものがある」と評している。

 

 『韓国映画100選』では、この映画についてこのように紹介されている。

…(略)…

韓国人を皇民化するための国策映画の制作が盛んになったのは1937年。本作はその前年の1936年に作られた。日本による皇民化のプロパガンダが強く吹き荒れる直前であるためか、「迷夢」は植民地化によって近代化した都市の風景と、新女性に脚光を当てたメロドラマであると解釈することができる。

 急激に変化する都市空間(デパート、ホテル、カフェ、劇場など)と、その空間に近代文化と欲望を運ぶ汽車やタクシーなどが街角を行き来する景色がふんだんに映し出される。近代化されていく1930年代の都市・京城を舞台に、良妻賢母という儒教的な美徳から抜け出ようとする、従来の経験や価値観とは異なるエスンの欲望のドラマが繰り広げられる。

 

ユ・ジナ(映画評論家・東国大教授)

 

 確かに、1941年に封切られた「家なき天使」と「半島の春」には、朝鮮人俳優が日本語でセリフを言う場面が多くある。「家なき天使」の最後の場面では子供たちが「皇国臣民の誓詞」を唱える場面があり、戦時下の日本の植民地「朝鮮」の映画であることを強く感じさせる。

映画「家なき天使」より

 

 それに対して、1936年制作の「迷夢」は、全編朝鮮語でストーリーが展開し、日本語は字幕だけにしか出てこない。

 

 朝鮮で、日本語を強要する「国語常用」というキャンペーンが本格化するのは1936年末から。翌年日中戦争が始まり、国家総動員法が施行されて1938年には本格的な戦時体制に入る。

 1939年には、朝鮮語での映画作成は次第に困難な状況になっていたことが『読売新聞』の下の記事からも読み取れる。

 

 1936年の「迷夢」は、皇民化政策が露骨に進められた後の作品と比べれば、朝鮮語だけでストーリー展開ができた作品とは言えよう。しかし、日本の植民地支配と無関係な映画というわけではない。

 

 この映画の冒頭部分には、「主催ー鮮満交通タイムス社」と入っている。

 

 この映画は「鮮満交通タイムス社」が企画・立案し、資金の提供も行ったということである。

 

 「鮮満交通タイムス社」のオーナーは、分島周次郎。『韓国映画100選』には「製作者」として名前が掲載されている。

 分島周次郎については、『朝鮮及満洲に活躍する岡山県人』(1936)に次のような記事がある。韓国国立中央図書館所蔵

 京城の「大親分」で、大日本国粋会の朝鮮本部幹事長、映画興行株式会社の社長。また、京城興業協会長、鮮満交通タイムス社長、京城劇場・東洋劇場・龍山開盛座などを経営していたと記されている。

 

 さらに、高麗大学校『在朝日本人情報事典』編集部の情報ではこのようになっているという。(出典:Blog of SAKATE

分島周次郎

 日本の右翼団体大日本国粋会幹部出身の興行師。 日帝強占期植民地朝鮮の劇場経営主であり映画製作者。 

 岡山出身で、満州に渡って大連で組織暴力団分島組を結成し、青島を経て朝鮮に進出した。 

 朝鮮に移った時期は明確ではないが、1916年に京城の寿座が京城劇場に名称を変更して再開館した際には劇場経営に関与していた。1923年8月の大日本国粋会朝鮮支部の設立に関して京城市内で起きた殺人未遂事件の主謀者として検挙され、物議をかもした。 

 一方で、朝鮮劇場主協会会長を歴任し、劇場経営に関与したり投資した。関係の劇場としては、京城劇場、中央館、京城演芸館、楽天地、初の演劇専門公演場である東洋劇場などがあり、こうした施設をベースに植民地朝鮮で公演される曲芸、演劇および歌舞伎、相撲などの演芸興行全般を取り仕切っていた。 

 1930年代からは朝鮮映画界に深く関与し、1930年12月に分島周次郎が所有していた大日本映画興業株式会社が投資して、京城府本町3町目の京城劇場に近接する敷地に映画製作プロダクションの京城撮影所を設立し、本格的な映画製作に乗り出した。 

 80坪余りの撮影場と30坪の現像室および俳優控室を備えていたという京城撮影所には、李弼雨・朴齊行・キムソボンなどの監督が所属し、1938年に高麗映画協会と東洋劇場に経営が移るまで、朝鮮初の発声映画「春香伝」(1935)をはじめとする多くの朝鮮映画がここで製作された。 

 京城撮影所を手放した後も、朝鮮興行界で強い影響力を維持していた。 

 1938年4月2日付の『毎日申報」の記事では、朝鮮総督府が「国民精神総動員資源節約運動」のために京城の各団体長を呼んで開いた会議に、分島周次郎も興業組合長として実行委員名簿に名を連ねている。

 

 この分島周次郎が、京城府本町3町目の京城劇場に近接する敷地に設立した映画製作プロダクション京城撮影所で撮影した映画の中の1本が、この「迷夢」である。

 

京城撮影所制作のサイレント映画とトーキー映画

 

 分島周次郎の京城撮影所で撮影されたトーキーの映画は、「春香伝(춘향전)」「アリラン峠(아리랑고개)」「薔花紅蓮伝(장화홍련전)」「洪吉童伝続篇(홍길동전 속편)」、そして5作目がこの「迷夢」である。

 

 この当時の京城の映画上映館はこのように分布していた。清渓川より北側が朝鮮人観客向けで黄金町の通りより南側は日本人観客向けであった。サイレントの時代は、朝鮮語の弁士か日本語の弁士かではっきり分かれていた。


 

 初のトーキー映画「春香伝」は1935年10月5日に団成社で封切られ、「アリラン峠」は1935年12月31日に東洋劇場で封切られた。

 

 3作目の「薔花紅蓮伝」は、1936年1月31日に朝鮮劇場で封切られた。

 

 

 そして、この「薔花紅蓮伝」を日本橋茅場町の三映社が買い付け、5月に内地で公開されることになった。

 

 朝鮮映画として最初に内地公開されたのは、これよりも前、1932年の「主なき小舟(임자없는 나룻배)」(李圭煥監督作品:サイレント)で、日活系の映画館で公開された。


 トーキー映画としては「薔花紅蓮伝」が内地初公開となり、5月14日に大阪のパーク劇場(新世界通天閣の下)で公開された。

 

 日本で字幕を挿入した外国語映画は、1931年2月に公開された『モロッコ』だと言われている。台詞を日本語に翻訳したものを、田村幸彦が考案した「縦書き、1巻30枚平均のタイトル原稿」で焼き付ける方式だったという。
 ※田中純一郎『日本映画発達史Ⅱ』中公文庫 1980

 各映画社は、競ってこの技術を導入し、日本語字幕挿入版が普及した。

 

 「薔花紅蓮伝」は、京城での封切りから大阪での公開まで約3ヶ月半かかっている。その間に日本語字幕を挿入したのであろう。

 

 「薔花紅蓮伝」の次の京城撮影所作品である「洪吉童伝続篇」は、「薔花紅蓮伝」の大阪公開直後の5月19日付けの『東亜日報』で紹介されている。

 


 そして「洪吉童伝続篇」は6月10日に団成社で封切られたが、封切り当日の『東亜日報』の広告では、「朝鮮声画として日本進出代表作」「スーパーインポーズ日本版」というのがうたい文句になっている。

 

 

 この時期には、京城の映画館で上映される洋画で日本語の字幕が入っているものは「全発声日本版」と表示されていた。

 

 「洪吉童伝続篇」は、団成社での封切の時にはすでに日本語字幕が入っていた。映画制作と編集の段階で、すでに三映社との間で内地公開の契約ができていたのである。

 そのため、ほぼ1ヶ月後の7月15日に「洪吉童伝続編」は大阪パーク劇場で公開された。

 

 「迷夢」制作の新聞発表は、この「洪吉童伝続編」の日本公開に先立って行われた。7月3日、4日付けの京城の朝鮮語媒体の各紙に記事が掲載されている。

 

 

 『毎日申報』には、「遠からず市内で封切り」とあり、「洪吉童伝続編」の例からいえば、7月後半には京城市内で封切られるはずだったと思われる。さらに「京畿道警察部保安課後援」とある。保安課とは、社会の治安維持、特に風紀・衛生面での監視や取締りを行う部署で、映画の検閲なども行っていた。

 家庭を顧みない自由奔放な女性が、情夫を作ってダンサーの追っかけをやるというストーリー内容を評価して、保安課がこの映画の後援名義を出したというには無理があろう。この映画を制作した分島周次郎が、この映画の目的や趣旨を説明して京畿道警察保安課の後援を取り付けたのであろうが、それはどのようなものだったのか。

 

 さらに、この映画の新聞発表では、金寅圭、羅雄、文芸峰という当代の人気スターに加えて、趙澤元とその舞踏研究所のメンバーの出演が特筆されている。

 

 趙澤元は、日本の著名な舞踊家石井漠に弟子入りし、その後フランスで踊りを学び、1934年1月には京城の公会堂と朝鮮劇場で凱旋公演を行っている。『東亜日報』に、石井漠の妹石井栄子と踊る趙澤元の写真入り記事が掲載されている。「迷夢」の撮影された1936年には、趙澤元は京城の舞踊界のトップスターであった。

 

 

 趙澤元が自分の舞踊団を率いて「迷夢」に出演したのには、京城で映画、相撲、芝居、舞台などの興行を仕切っていたといわれた分島周次郎の関与が考えられる。この趙澤元の出演というのも「迷夢」の「売り」である。単に色を添えるものではなく、映画の中で本格的に舞踊が披露されている。

 

 『韓国映画100選』にも、趙澤元生誕100年に際して「迷夢」の観賞会が開かれ、趙澤元を「20世紀最高の舞踊家と称えた」とのエピソードが紹介されているが、当時の舞踊資料として使えるほどの舞踊場面がこの映画には挿入されているのである。


 7月に「近日封切り」と報じられた「迷夢」だったが、実際に封切られたのは、新聞発表から3ヶ月半以上経った10月26日のことであった。それも、朝鮮人街の朝鮮劇場や団成社ではなく、日本人向けの映画館であった若草映画劇場で封切られ、3日間だけの上映であった。

 

 この時の新聞の劇場告知には、「洪吉童伝続編」と同じく「朝鮮語全発声日本版」となっている。これも日本語字幕入りということである。しかし、「迷夢」は封切りが遅くなっただけでなく、日本での上映が実現することはなかったのである。

 

映画「迷夢」(2)—霧散した内地封切— に続く

 1918年から1919年にかけてのインフルエンザのパンデミック。「スペイン風邪」「スペイン・インフルエンザ」と呼ばれる。この年の5〜6月にスペインでもインフルエンザが蔓延したが、当時は第一次世界大戦の最中。そのため、戦争の当時国では自国の流行が伝えられず、中立を宣言していたスペインでの流行に大きな注目が集まることになった。そのため「スペイン***」と冠せられることになったといわれる。

 

 このインフルエンザの集団発生の記録としては、1918年3月のカンザス州の米軍基地での発生が最初のもので、この時に48人が死亡した。同じ頃、アメリカ国内で、学校や工場、それに刑務所などでの集団感染が発生している。

※速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店 2006)

 

 日本(内地)でこのインフルエンザウィルスの感染が広がり始めたのは、1918年9月末から10月頃から。日本の植民地にされていた朝鮮でも、ほぼ時を同じくして感染の拡大が始まった。

 

 1919年の『朝鮮彙報』3月号(韓国国立中央図書館デジタル資料)に、感染拡大の初期に、朝鮮総督府警務総監部が出したという予防方法が記されている。これを各警察署を通して周知を図ったとある。

  1. 成るべく患者に接近せざること。
  2. 患者に接近する場合に於ては患者の唾痰泡沫を吸入せざる様注意すること。
  3. 冠婚葬祭及市場開催等多數集合する事項は成るべく之を避くること。
  4. 工業、製造場其の他多衆集合の場所に於ては使役人夫等の健康状態に注意し且衛生施設を勵行せしむること。
  5. 學校衛生に注意し若し學校内に患者發生の場合は適當の期間休校する等豫防上適當の措置を執ること。
  6. 各個の自衛を重んじ若し身軆に異和を生じたるときは速に醫師の診斷を受くること。
  7. 迷信的治療を行はざること。

 この予防策は、100年後の今日の新型コロナ対応と重なるところも多い。

 ただ、手洗いがない。この当時は、京城ですら上水道はまだ普及していなかった。京城の57,000戸近い住居で、水道の専用栓は6,580に過ぎず(朝鮮総督府統計年報 大正8年度)、その大部分は内地人住居に設置されたものだった。朝鮮人家庭の多くは共同の井戸から水を汲んで運んでいた。まだ、手洗いの励行を促す環境にはなかった。

 マスクへの言及もない。この時、マスクはまだ使われていなかった。

 内地では、1919年2月に東京の学校で「呼吸保護器マスク」の見本が配布されてその使用が奨励された。

 

 朝鮮では、1919年12月になって「豫防法は含漱うがいとマスク」とコメントする総督府医院の医者の記事が掲載されている。記事中には「呼吸保護器(マスク)」と表記されている。

 

 すなわち、1918年から1919年初めのインフルエンザ流行期には、すでに「マスク」はあってある程度認知されてはいたものの、実際の使用は一般化してはいなかった。「唾痰泡沫を吸入せざる様」に注意するほかはなかったのである。

 


 

 この時のパンダミックは、日本による植民地支配下の朝鮮ではどのような様相を呈していたのだろうか。

 

 朝鮮におけるインフルエンザの大流行は、1918年後半から1919年初頭にかけての「前流行」と、1919年冬からの「後流行」があるとされる。※速水融上掲書

 

 ここでは、「前流行」について、その感染拡大の経緯や患者数、死亡者数についてみていく。

 

 「前流行」に関しては、前掲の『朝鮮彙報』1919年3月号に流行の状況と罹患者数・死亡者に関する統計数字が掲載されている。

 

 冒頭の「一般概況」には次のように記されている。

一般概況

 流行性感冒は從来各地に流行したる事例少なしとせざるも大正七年に於けるが如き一大惨狀は未だ之あるを聞かず、卽ち同年晩夏の頃より世界各地に流行猖獗を極めたる一種流行性感冒は中秋に至りて竟に朝鮮にも襲來し各地に蔓延するに至れり、流行當初に於ては病勢概して軽易にして其の流行も亦遲緩の狀況にありしが冬季に近づくに從い漸く病勢猛烈となり十月下旬以降は更に各地に瀰蔓し其の病性も亦漸次惡化し來りて之が爲死亡する者增加するに至り終に別表の如く患者總数七百五十八萬八千餘死者亦十四萬餘人を算するに至れり、右に依りて観れば朝鮮全土の人口の過半は該病に侵されたるものにして其の死亡率一・八五%なり斯の如きは恐らく朝鮮に於ける未曾有の慘事にして之が爲經濟、産業其の他に被りたる有形無形の惡影響も亦大なるものあるを疑はず。

 

 

 

 朝鮮総督府の日本語の機関紙『京城日報』と、朝鮮語の機関紙『毎日申報』が最初に報じたのは、1918年10月17日付け紙面である。

 

 

 インフルエンザについては、日本語では「流行感冒」あるいは「流行性感冒」「悪性感冒」という言い方が多い。「インフルエンザ」という用語もすでに使われてはいたが、ルビで使われる程度。朝鮮語では「毒感ドッカム」という用語が多く使われた。

 

 17日の記事では、それ以前の京城中学の満洲旅行中に学生の発病があり、判任官見習の講習会や京城中学寄宿舎でも集団感染があったとしている。また、京城市内の会社や商店でも多くの罹患者が出ているとあり、10月17日段階で、すでに京城では相当に感染が広まっていたことをうかがわせる。

 

 この日以降、『京城日報』『毎日申報』ともに、連日このニュースを伝えている。京城での急激な罹患者の増加と共に、地方にも感染が拡大しつつあった様子がわかる。

 

 

 平壌の歩兵第77連隊は、宣川・定州で鉄道警備にあたっていた部隊で16日には40名が発病、それが20日には300名にまで増えた。

 

 

 10月23日時点で、本町警察署管内だけで4500名が感染したとある。鍾路警察署管内でも相当数にのぼるという。この時期には、開業医の治療を受けている患者が2577名、学校や会社、銀行など広範囲にわたって多数の患者が発生していた。

 

 

 それ以前、10月12日から21日までの学校の欠席者数が出ている。小学校は内地人の児童が通う学校であり、普通学校は朝鮮人児童が通う学校だったが、小学校とは違って義務教育ではなく、就学率は低かった(朝鮮全土の平均で4%程度)。

 

    日付 小学校   普通学校
10月12日  472     195
10月13日    -       -
10月14日  624     243
10月15日  810     265
10月16日 1066     263
10月17日 1634       -
10月18日    -     314
10月19日 1709     342
10月20日      -       -
10月21日 1877     466

 

 義務教育である内地人児童の小学校で欠席者の増加をみると、1週間でほぼ3倍になっている。普通学校でも増加しているが、なぜか増加率は小学校よりも小さい。それでも、京城で急激に感染者が増えたことを示すものである。

 

 

 10月31日の『京城日報』は、鍾路警察署管内の罹患者数について、内地人2,600人、朝鮮人24,000人、そのうち死亡者は、内地人が10人、朝鮮人が138人と伝えている。急激な感染の拡大と死者の増加で、かなりの動揺があったであろう。

 本町警察署管内には内地人が多く居住し、鍾路警察署管内は朝鮮人の居住者が多かったので、朝鮮人の罹患者が多いのはそのためでもあろうが、やはり朝鮮人の罹患者、死亡者が多いのが目に付く。

 

 11月12日付の『京城日報』は、10月30日に京畿道警務部衛生課がまとめた京城府内の死亡者数について報じている。

 

  内地人 朝鮮人
5歳未満 8 89
10歳未満 2 17
15歳未満 1 5
20歳未満 7 6
30歳未満 22 14
40歳未満 6 19
50歳未満 3 22
60歳未満 15
70歳未満 20
70歳以上 12
  49 219

 

 『朝鮮総督府統計年報 大正7年度』(国会図書館デジタルコレクション)では、1918年12月末日の京城府の人口は、内地人が66,943人、朝鮮人が182,207人となっている。人口比では朝鮮人が内地人の2.7倍だが、死亡者数では朝鮮人が4.47倍にのぼっている。特に朝鮮人の乳幼児の死亡が極端に多い。

 この京畿道警務部の発表は、同日付けの『毎日申報』でも報じられた。

 同内容の記事だが、最後の部分に『京城日報』にはなかった一節が書き加えられている。

死亡者の地位で分類すると、上流は内地人1人、中流は内地人39人・朝鮮人77人、下層は内地人9人・朝鮮人103人、最下層は朝鮮人39人である。

 『毎日申報』は朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙なのだが、このように貧しい朝鮮人が多数死んでいることをさりげなく書いている。

 

 11月に入っても、『京城日報』『毎日申報』は、連日インフルエンザの蔓延についての記事を掲載している。この当時は、まだ「武断統治」の時代である。朝鮮語による情報媒体は『毎日申報』しかなかった。

 この『毎日申報』の11月・12月の主な関連記事をピックアップするとこのようになる。

(ヘッドライン原文は朝鮮語)

1918/11/2 流行感冒、洗いざらい打ちのめす
1918/11/3 全世界を襲った感冒、各郡にあらざるところなし
1918/11/3 仁川も死亡者が每日二十名
1918/11/3 朝鮮人に死亡者多いのは治療を間違っているから
1918/11/4 死亡者が半日で十七名、仁川の感冒はますます猖獗
1918/11/5 感冒余熱、感冒流行にも悲しくて妙なこと
1918/11/6 金泉にも感冒、郵便局員は全滅
1918/11/6 大邱の感冒は漸く終息の兆し
1918/11/6 感冒のおかげで盜賊を逮捕、病気のせいで逃げ遅れた
1918/11/7 各地の感冒、寒くなるにつれてだんだんひどくなる
1918/11/8 感冒は漸次終熄、しかし地方は今が盛り
1918/11/9 各地の感冒: 元山では1万名、生徒には少ない
1918/11/9 各地の感冒: 公州・木浦で猖獗
1918/11/9 各地の感冒: 鉄道従業員7000人が欠勤
1918/11/9 各地の感冒: 平安道の各郡に甚大ならざるところなし
1918/11/9 感冒の病原菌、北里研究所で発見、インフルエンザ
1918/11/10 感冒の流行菌インフルエンザ菌について
1918/11/10 感冒の産んだ悲劇
1918/11/11 このように治療せよ感冒にかかったらここに気をつけろ
1918/11/12 京城の感冒やや沈熄、死者が減少
1918/11/12 京城で感冒で死亡した人、朝鮮人下流が最多
1918/11/13 感冒と鎭南浦の風
1918/11/13 出征軍人が感冒で苦労、ほとんどみんな罹っている
1918/11/14 感冒の流行と郵便局の困難、全滅したところ多し
1918/11/16 感冒によって收穫ができない、損害は甚大
1918/11/18 京城の感冒はほぼ終熄
1918/11/19 三水の感冒、郡守が死亡
1918/11/20 感冒の種痘法、一度の注射で免れる、米国の新発明
1918/11/21 江陵: 流行感冒全熾
1918/11/21 江華: 感冒病死者
1918/11/22 祈禱で感冒を治すと金を着服した坊主
1918/11/22 康津の感冒、多くの死者
1918/11/25 仁川では半数、仁川の感冒調査 恐ろしい結果
1918/11/26 感冒の慘禍を被った晋州死亡者が千余名
1918/11/29 前ドイツ皇帝も感染して闘病中
1918/12/2 死者600人余り
1918/12/3 瑞山一群だけで8万人の感冒患者があり、礼山・洪城でも大騒ぎ
1918/12/4 感冒の死者5万名
1918/12/6 一家全滅、感冒にかかって
1918/12/9 感冒経過後の状況調査
1918/12/12 感冒が産んだ悲劇、4人の家族が死んで家長が精神に異常
1918/12/18 全羅南道康津にはインフルエンザ患者、4万7千
1918/12/21 康津城田面の感冒

 

 この『毎日申報』の記事でみると、11月の初旬には京城や大邱の大都市圏では感染者・死亡者はやや鎮静化しつつあったようだが、その一方で、地方には非常に多くの感染者と死亡者を出るところが発生していた。

 

 この11月初旬は、第1次世界大戦の休戦条約締結があって、そのニュースが連日大きく報じられている。

 

 また、12月になると、高宗の息子李垠と梨本宮方子との婚姻が正式に決定されたことが大きく報じられた。

 

 京城での感染拡大がやや収束し始めたことなどもあってか、12月に入ると京城の新聞報道ではインフルエンザ関係の記事が11月に比べると相対的に減少してきている。しかし、1919年2月9日の『京城日報』の記事では、京城本町警察署管内だけでも12月に54人、1月に41人の死亡者が発生していたとなっており、終息したとは言い難い状況にあった。

 

 

 そうした状況の中、1月21日早朝、高宗が徳寿宮で死去した。


 『毎日申報』は、21日の号外と22日の紙面で「太王殿下重患」と報じた。

 

 『京城日報』は、「22日夕刊」となっている1月23日付紙面で、東京出張中の長谷川好道総督のコメント入りで高宗の死去を報じている。

この記事では、

予は十三日東上に就き御暇乞おいとまごひに伺候したる時殿下に奥の御居間にて謁し「もう悉皆すっかり御宜およろしいのですか…」とお尋ね申すと「いや全癒ぜんゆとは行かぬ今は却々ただただ苦しい…」と仰せあり

と長谷川好道が語ったとあり、1月初旬に高宗に何らかの病状があったことをうかがわせる。しかし、インフルエンザに感染していたとする資料や説はこれまで見かけていない。

 翌23日付からは、高宗の死去が大々的に報じられた。脳溢血に起因する自然死と発表されたが、当時から今日にいたるまで毒殺説も出されている。

 

 この高宗の死去と葬儀がきっかけとなって、東京での2・8独立宣言、朝鮮全土での3・1独立運動へとつながっていくのだが、この時期は、まだインフルエンザの猛威が収まってはおらず、地方によっては引き続き感染者や死者が発生しているという状況であった。

 

 

 1919年の『朝鮮彙報』3月号に掲載された「流行性感冒」という記事はそのような世相の中でまとめられたものである。

 

 『朝鮮彙報』3月号の記事には、各地方での患者数、死亡者数が、内地人、朝鮮人、中国人、外国人でまとめれられた統計が出ている。各地から朝鮮総督府に上げられた情報を取りまとめたものと考えられるが、日付は付されていない。また、地方によって調査方法や実態把握に違いがあったためか感染率などにかなりばらつきがある。そうしたことを前提に見てみたい。

 朝鮮全土の患者数、死亡者数は、

  患者数 7,556,693人
  死亡者数   140,527人

となっている。1918年12月末の朝鮮の全人口は17,057,032人(『朝鮮総督府統計年報 大正7年度』)なので、全人口の44%の人が感染し、死亡率は1.85%となる。

  

 ただし、これを内地人と朝鮮人とで比較すると、両者の数値にかなりの違いが出てくる。

 

   患者数   感染率     死者数    死亡率
全体 7,556,693   44% 140,527 1.85%
内地人 159.916   47.47% 1,297 0.81%
朝鮮人 7,390,414 44.26%   139,137 1.88%

 

各道別の内地人と朝鮮人の感染率(人口に対する罹患者の割合)と死亡率(罹患者に対する死亡者の割合)をグラフにするとこのようになる。

 感染率はかなりばらつきがあるが、内地人の感染率が結構高いのが目に付く。これは、内地人の方が医療へのアクセスがよく、朝鮮人の場合には感染しても感染者としてカウントされないケースが結構あったためであろう。さらに、地方による調査の濃淡もあって感染率にばらつきが起きたと考えられる。実態としては朝鮮人の感染率が内地人を上回っていた可能性が高い。死亡率に関しては、朝鮮人の方が内地人をかなり上回っている。ただ、朝鮮人の感染者の実数がもっと多かったとしても、日本人と朝鮮人の死亡率の差が大きく縮まることはない。

 

 そうした死亡率の差について『朝鮮彙報』では次のように説明している。

本病の傳播又は死亡の原因とな爲りたる地方の慣習
 朝鮮人は槪して未だ衛生思想に乏しく患者あれば其の何病たるを問はず、親族故舊相傳へて往來する慣習盛にして此等は同病傳播の機會を與へたる主因たらずんばあらず、又各地に於て行はるる市場開催の際の如き多衆集合し露店等に於て飲食するを常とし、又各邉陬地には古來舎廊房なるものありて夜間之に集合同宿するを例とす、此等も亦本病の傳播を助勢したるものあるを疑はず、又患者死者共に各道の首位を占めたる慶尚北道の如きは當時恰も大邱府に物産共進會の開催あり道内外各地よりの集合に依り、本病の傳播を增大したるものあるを認む。
 死亡を招きたる主因に付ては尚研究を要するものありと雖朝鮮人は、元來感冒の如き之を輕視して竟に介せざるを常とし、患者は之を溫突に臥せしめ殊更に其の溫度を高め發汗を促すを以て、一般の療法と爲すが故に之れが爲氣管支炎、肺炎、腦膜炎等を倂發するに至りたるもの其の主要原因たるを疑はず。
 又朝鮮人は未だ古來の迷信醒めず、偶疾病に罹るも醫師の治療を受けず多くは巫女を招きて祈禱その他迷信的療法を行ひ斯くして治療の機を失するに至れるもの多し、尚巫女に頼らざる者と雖各地に種種の迷信療法行はれ夫れが爲死を招く者も亦少からず。

 このように、多数の朝鮮人が感染し死亡する者が多いことについて、朝鮮人の後進性を強調して説明しようとする論調は、すでに1918年12月26日の『京城日報』にもみられる。

 

 

 このように、「そもそも朝鮮人は…」と論じても、多数の内地人がなぜ感染したか全く説明できていない。朝鮮人は「衛生思想に乏し」く、「親族故舊相傳へて往來する慣習」があり、「多衆集合し露店等に於て飲食」し「舎廊房なるものありて夜間之に集合同宿」するからだという。しかし、忠清北道では朝鮮人は38%しか感染していない。内地人は65%が感染している。

 死亡率が高いことについては、朝鮮人が「古來の迷信醒めず」「醫師の治療を受けず」「迷信的療法」に頼ったためと説明している。しかし、それは植民地支配下での経済的、社会的な格差の問題に起因するものであることは明白である。医者に診てもらえないから「迷信的療法」に頼らざるを得ないのである。

 『朝鮮彙報』にも、このような記述がある。

 尚地方に依りては醫師、醫生に對して無資力患者の施療を促し一面恩賜財團、済生會の寄附に依る貧民救療劵を配布し又は矯風會積立金の一部を割き之を以て實費を償ひ公醫、嘱託、警察醫をして貧民患者の施療を爲さしめたる向あり。

 すなわち、医者による医療を受けたくても朝鮮人の多くは経済的な制約から最低限の医療すら受けられないでいることを認識していたのである。それにもかかわらず、「朝鮮人の後進性」をより強調する「分析」「解説」を書き連ねている。

 

 100年後の今日、ネット上の一部で同じような論調での書き込みが散見されるのを見ると、人間社会が「進歩した」「あんな昔とは違う」とする我々の思い込みは、全くの幻想に過ぎないということを痛感させられる。

 

 11月の感染の拡大がもっとも激しい時期に、『毎日申報』の記者——朝鮮人記者であろう——が、「下層・最下層の朝鮮人がたくさん死んでいっている」と書いた記事が、植民地支配された朝鮮でのインフルエンザ蔓延の実態をもっとも如実に物語っているように思える。

 映画「パラサイト(原題:기생충)」がアカデミー賞作品賞を受賞すると、そのロケ現場が一躍脚光を浴びることになった。コネストの地図で「パラサイト」で検索をかけると、撮影場所が表示される。

 

 当然それぞれの場所にはそれぞれの「背景」「歴史」がある。ポンジュノ監督とスタッフがどこまでそうしたことを考慮して選んだのかはわからないが、それぞれに興味深い物語が見えてくる。意図して選んだとすればそれはすごい。意図してなかったとしても、その選択は納得できる。それもまたすごいことだと思う。
 撮影場所の歴史を、勝手にひもといてみる。その2。

 

その1(城北洞)はこちら。

 


◆テジスーパー(KonestMap2)

 

 交換留学でいなくなるミンヒョクがギウに金持ちのパク社長の娘ダヘの英語家庭教師の代役を頼む場面。「ウリスーパー」の店先のパラソルの下でソジュを飲んでいる。

 この店は阿峴洞アヒョンドンに実在する「テジスパー」で撮影された。ギジョンが桃を購入した場面もこの店で撮影された。

 

 映画の半地下パンジハの住居とその周囲の街並みなどは、実際にはセットで撮影されたものだ。

 

 しかし、映画のウリスーパー、つまり阿峴洞のテジスーパー周辺が、ギテクとその家族の居住地に結び付けられるようになり、映画の公開直後から阿峴洞のテジスーパーは、一部のマニアがSNSなどで店の写真などをアップしていた。


 アカデミー賞の受賞が決まったとき、多くのメディアがテジスーパーに取材に押しかけた。ここを含めて、映画のロケ地巡りをツアーコースにしようという動きも報じられた。

 しかし、実際のスーパーの近隣住民からは、貧民街というイメージをもたれることへの反発や、今後この地区で計画される再開発が遅れることへの懸念などが出されているという。

 

2月10日のアカデミー賞作品賞受賞直後のテジスーパー

 

 

 テジスーパーは、地下鉄2号線の阿峴駅から東方向に位置し、ソウル駅方面に通じる丘を越えていく途中にある。この丘を越えてソウル駅方面に下っていくと、左手に孫基禎ソンキジョン記念館のある体育公園がある。ここは、1936年のベルリンオリンピックのマラソンで優勝した孫基禎が在学した養正高等普通学校(朝鮮人向けの中等教育機関)があり、解放後は養正ヨンジョン高等学校になっていた。1988年の学校移転にともなって創立当初からの建物を孫基禎記念館とし、一帯を体育公園化したものである。

 

 ところで、1924年3月に赤間騎風が出した『大地を見ろ』という本に、この養正高等普通学校が出てくる。

 赤間騎風は、京城で週刊で発行されていた『京城新聞』の主筆をつとめ、潜入取材やドキュメンタリー記事を書き残した文筆家である。

 

 蓬莱町四丁目、養正高等普通學校裏の共同墓地は、南に面した小高い山だ。そこに、二十二軒の山窩の住居は點々と建てられてゐるのだ。

 山窩といふが、此處のは穴倉式のは極めてすくなく、小さいながらも壁をつけ、形を備へた温突が多い。中には、新らしい紋紙で室内を張つたのも見かけられた。此處に住むのも勞働者が多く、車力、チゲクン、土方の類で、至極平和に暮してゐる。

(十六 山窩)

 

 もともと、西小門ソソムンから城外に出た場所である阿峴洞のこの一帯からエオゲの東側の斜面にかけては共同墓地があった。そこに京城に集まってきた流民が「土幕」を作って住みついていた。

 

 さらに、1930年代には京城府当局が民間の社会事業団体に委嘱する形で土幕民の囲い込みを進めた。そうした団体の一つ、浄土宗の「和光教園」が阿峴洞に収容施設を作っている。

 

 京城帝国大学衛生調査部編『土幕民の生活・衛生』(1942)には、このように書かれている。

 

京城府から淨土宗開教院の開設した社會事業團體和光教園に社會事業補助金を交附して、土幕収容事業に当たらせることとなつた。そこで和光教園は阿峴町七番地外三筆の土地、計一萬八千七百九十八坪を買収し、ここに道路を設け、一戸平均十二坪乃至十五坪の土地を貸與し、約千戸の土幕民を収容することになつた。現在の収容戸數は九百五十戸、人口七千六百三十人を數へ、貧弱ながらも學校、授産、託兒、施療、救護等の諸施設がある(収容戸數に比して人口數の著しく多いのは他の土地収容地においても同様であるが、これは主として一戸に二間以上の温突を有する時は一間の溫突を月貰四―七円程度で他人に貸す爲である。参考の爲に申し添えれば土幕民の一世帯あたりの家族數は四・七人である)。

 

 こうした日本による植民地支配下で形成されたスラム街や貧民収容施設は、大韓民国成立以降も貧しい人々の居住する地域として引き継がれた。さらに、朝鮮戦争で戦災民や北からの避難民などが流れ込んで住み着いたものと考えられる。

 

 1970〜80年代まで、「阿峴洞アヒョンドンサン7番地チルボンジ」というのがスラム街の代名詞のように使われていた。しかし、今や忠正路チュンジョンノ、阿峴、エオゲにかけての道路の東側斜面は再開発が進んで高層マンションが建てられてきている。ただ、テジスーパーのある一帯は、まだ手がつけられていない。

 

 KakaoMapのストリートビューで見ると、テジスーパーの向かいは精肉店になっている。それが今は真新しい看板の不動産屋になっている。すでにこのあたり一帯の再開発計画が動き出していると思われる。

2020年2月20日KakaoMapストリートビュー

 

2020年2月10日筆写撮影

 

 テジスーパーのアジュマも、「うちが有名になるのはいいんだけど、別に売り上げが増えるわけでもないし、これで再開発が遅れたりすると大変だよ」と言っていた。

 

 それにしても、何とも「由緒」のある面白い場所をロケ地に選んだものだと思う。
 

 

◆階段(KonestMap1、16)

 

 パク社長の豪邸を脱出して、半地下の家に戻るべく豪雨の中を階段を下っていくギテクとギウ、ギジョン。

 

 城北洞ソンブクドンの坂を下って、最初の階段は紫霞門チャハムントンネルの北側のところにある。

 この紫霞門トンネルの工事計画が公表されたのは1984年の年末。そして、トンネルの開通は1986年8月のことである。

 それまで、景福宮キョンボックン側から北岳山プガッサンの裏側の洗剣亭セゴムジョン方面に行くためには、北岳スカイウェイへの分岐の峠を越えて行く道しかなかった。紫霞門トンネルは、ソウルの市街地トンネルの中では比較的遅い時期になってから建設されたものである。

 1968年1月、大統領暗殺の指令をうけた北朝鮮の31名の武装工作員が休戦ラインを越えて韓国側に侵入し、北岳山の裏にまで到達した。しかし、紫霞門警備所で怪しまれて鍾路署の警察部隊と銃撃戦になった。ここが突破されていたら大統領官邸も攻撃されていたかもしれない。その後、金新朝キムシンジョ一人を除いて北朝鮮工作員は射殺され、大統領暗殺は未遂に終わった。

 

 この事件以降、北岳山では軍の管轄下で厳戒態勢が敷かれて入山が厳しく統制され、北岳スカイウェイの車での通行のみが許されることになった。この事件の時に戦死した鍾路警察署長の慰霊碑がトンネルの上の山越え道路沿いにある。

 多分こうしたこともあってのことだろう。北岳山北側地域とソウルの中枢部との行き来は、1980年代前半までは山越えの道に限られていた。洗剣亭セゴムジョンの方に巫堂ムーダン儀式クッを何度か観に行ったのだが、とても不便だった。

 

 1984年、9月に漢江ハンガンが氾濫してソウルで洪水被害が出ると、北朝鮮が支援物資の提供を申し出た。全斗煥チョンドゥファン政権はこれを受け入れて北朝鮮から米や布地などが送られてきて、南北赤十字会談も再開された。そんな南北融和ムードの中でが紫霞門トンネル計画は公表された。韓国が、北朝鮮に対して優越的な自信感を深めつつあった時期とも重なる。そうしたこともあって、市内交通のネックの一つであった光化門カンファムンから洗剣亭セゴムジョン方面への新しいトンネル案が実現したのではなかろうか。

 

 ソウル市内には都心部に市街地トンネルがあったが、そのほとんどは自動車専用道路で人が歩ける歩道はなかった。1984年に計画された紫霞門トンネルには歩道が設けられている。

 この頃までは、ソウル市内は全体が「自動車優先」。歩行者は地下道や横断歩道で横断するもので、地上の「横断歩道」や「歩行者信号」は少なかった。しかし、その後20数年で自動車優先の社会が大きく変貌して今日に至っている。紫霞門トンネルの歩道はその初期段階かもしれない。トンネル内の歩道のための長い階段、それがパラサイトで使われたのである。

 

 紫霞門トンネルを駆け抜けたギテクとギウ、ギジョンは、水が滝のように流れる階段を下るのだが、これは厚岩洞フアムドンのトダッタリ(도닥다리)の階段で撮影されている。

 厚岩市場の四つ角を斜めに上がっていくと右側に永楽ヨンナッ保隣園ポリンウォンという児童養護施設に向かう分岐に出る。そのまま少し上がると谷筋にかかっているトダッタリがある。その陸橋と、その下に降りていく階段の場面がこれである。

 ここでギジョンが、「地下室の二人はどうなった?」「どんな計画があるの?」と詰め寄る。

 

 実際のロケ地はこんな感じである。

 

 この厚岩洞のメインストリートは、日本の植民地時代には三坂通という日本人街で、通りの下の一帯には今もところどころに日本家屋が残っている。

 

 植民地時代には、トダッタリのすぐ下にある永楽保隣園の場所には、1913年に佐竹音次郎が開設した鎌倉保育園京城支部があった。後に曽田嘉伊智夫妻が運営を引継ぎ、引揚げの時まで主に朝鮮人孤児を養育する施設であった。

 もともと朝鮮王朝時代には、この場所に典牲署チョンソンソがあった。宮中の祭祀で用いる生贄を司った役所で、牛・羊・山羊・豚などの飼育・屠殺が行われた。そのため、南大門を出た城外に置かれていた。

 

典牲署の建物に移転した直後の鎌倉保育園京城支部(1917)

 

 日本人が住みつくまでの三坂通は、阿峴アヒョンと同じように朝鮮人の共同墓地があった。典牲署の下のスペースに朝鮮銀行の官舎ができ、共同墓地をつぶして三坂通一帯の宅地開発が進んだ。


 三坂通の南端に龍山中学があり、その南側、龍山駅方面にかけての一帯が日本軍の駐屯地になっていた。太平洋戦争が始まると、龍山中学の裏手に護国神社が造成された。その参道の石段は今も残されており、最近になって斜面エレベーターが設置されている。

京城護国神社(1943年)

 

 

 敗戦直前、この護国神社の裏手には、「土幕」と呼ばれる貧相な簡易の小屋掛をした500人ほどの貧民街ができていた。鎌倉保育園の裏手の南山の斜面から護国神社裏手にかけての一帯であろう。戦争末期に、この斜面に三坂通の日本人向けの防空壕を造成することになり、土幕民を立ち退かせた。

『毎日新報』1944年5月29日

朝鮮総督府の朝鮮語機関紙 この時期「国語教室」と称して日本語の記事を一部掲載していた。 

 

 日本の敗戦、そして朝鮮戦争でこのあたりの様相が大きく変わった。追い立てられていた土幕民の一部はここに舞い戻り、さらに防空壕も住居として利用された。そこに、朝鮮戦争での被災民や避難民が加わり、さらに斜面の上の方にまでスラムが拡大していった。そして、ここは「解放村ヘバンチョン」と呼ばれるようになった。

 

 解放村の中心ともいうべき新興市場シヌンシジャンは、今やリノベーションブームに乗ってカフェや洒落た店構えのショップに変身しつつある。

 いまだ大規模再開発がされていないからこそ、新しい感覚が生かせる場として再生される。言い換えれば、貧しかった時代の痕跡がたくさん見つけられる一角でもある。

 

2019年春 新興市場にて

 

 「パラサイト」のロケをしたトダッタリの階段は、厚岩洞の斜面、解放村への入り口部分にある。ここも興味深い歴史的な背景を持った場所なのである。