『韓国映画100選』(韓国映像資料院編 桑畑優香訳 クオン 2019)で日本統治時代の映画として取り上げられている4本の映画の中の1本に「迷夢」がある。
「青春の十字路(청춘의 십자로)」(1934)はサイレント映画で、この「迷夢(미몽)」(1936)と、「家なき天使(집없는 천사)」(1941)・「半島の春(반도의 봄)」(1941)の3本がトーキー映画である。
「迷夢」は、植民地支配下の朝鮮で制作されたトーキー映画として現存する最も古いものとされる。
2004年から韓国の映像資料院が中国で行った資料調査の際に発見されたもので、韓国映像資料院がYoutubeで公開している。
미몽(죽음의 자장가)(1936) / Sweet Dream (Lullaby of Death)
この映画動画の冒頭にはこのような画面が入れられている。
この表示から推測すると、満洲国の首都新京にあった「迷夢」のフィルムを長春映画製作所で複製・現像し、それが「中国映画資料院」に所蔵されていたものと思われる。
2006年3月2日から5日までソウル市内の「芸術の殿堂」で一般公開されたが、それを伝える2006年2月21日付の『ソウル新聞』の記事はこのように伝えている。
現存する韓国最高の劇映画"迷夢"を中国で発掘、来月一般公開
…(略)…
これまで資料の上だけで知られてきた映画「迷夢」は「死の子守唄」とのサブタイトルがつけられ、浮気をして家庭を捨てた女性のエピソードを盛り込んた47分の映画。映像資料院では、「女性の欲望についての表現は、20年後の映画「自由夫人」よりも激しいものがある」と評している。
『韓国映画100選』では、この映画についてこのように紹介されている。
…(略)…
韓国人を皇民化するための国策映画の制作が盛んになったのは1937年。本作はその前年の1936年に作られた。日本による皇民化のプロパガンダが強く吹き荒れる直前であるためか、「迷夢」は植民地化によって近代化した都市の風景と、新女性に脚光を当てたメロドラマであると解釈することができる。
急激に変化する都市空間(デパート、ホテル、カフェ、劇場など)と、その空間に近代文化と欲望を運ぶ汽車やタクシーなどが街角を行き来する景色がふんだんに映し出される。近代化されていく1930年代の都市・京城を舞台に、良妻賢母という儒教的な美徳から抜け出ようとする、従来の経験や価値観とは異なるエスンの欲望のドラマが繰り広げられる。
ユ・ジナ(映画評論家・東国大教授)
確かに、1941年に封切られた「家なき天使」と「半島の春」には、朝鮮人俳優が日本語でセリフを言う場面が多くある。「家なき天使」の最後の場面では子供たちが「皇国臣民の誓詞」を唱える場面があり、戦時下の日本の植民地「朝鮮」の映画であることを強く感じさせる。
映画「家なき天使」より
それに対して、1936年制作の「迷夢」は、全編朝鮮語でストーリーが展開し、日本語は字幕だけにしか出てこない。
朝鮮で、日本語を強要する「国語常用」というキャンペーンが本格化するのは1936年末から。翌年日中戦争が始まり、国家総動員法が施行されて1938年には本格的な戦時体制に入る。
1939年には、朝鮮語での映画作成は次第に困難な状況になっていたことが『読売新聞』の下の記事からも読み取れる。
1936年の「迷夢」は、皇民化政策が露骨に進められた後の作品と比べれば、朝鮮語だけでストーリー展開ができた作品とは言えよう。しかし、日本の植民地支配と無関係な映画というわけではない。
この映画の冒頭部分には、「主催ー鮮満交通タイムス社」と入っている。
この映画は「鮮満交通タイムス社」が企画・立案し、資金の提供も行ったということである。
「鮮満交通タイムス社」のオーナーは、分島周次郎。『韓国映画100選』には「製作者」として名前が掲載されている。
分島周次郎については、『朝鮮及満洲に活躍する岡山県人』(1936)に次のような記事がある。韓国国立中央図書館所蔵
京城の「大親分」で、大日本国粋会の朝鮮本部幹事長、映画興行株式会社の社長。また、京城興業協会長、鮮満交通タイムス社長、京城劇場・東洋劇場・龍山開盛座などを経営していたと記されている。
さらに、高麗大学校『在朝日本人情報事典』編集部の情報ではこのようになっているという。(出典:Blog of SAKATE)
分島周次郎
日本の右翼団体大日本国粋会幹部出身の興行師。 日帝強占期植民地朝鮮の劇場経営主であり映画製作者。
岡山出身で、満州に渡って大連で組織暴力団分島組を結成し、青島を経て朝鮮に進出した。
朝鮮に移った時期は明確ではないが、1916年に京城の寿座が京城劇場に名称を変更して再開館した際には劇場経営に関与していた。1923年8月の大日本国粋会朝鮮支部の設立に関して京城市内で起きた殺人未遂事件の主謀者として検挙され、物議をかもした。
一方で、朝鮮劇場主協会会長を歴任し、劇場経営に関与したり投資した。関係の劇場としては、京城劇場、中央館、京城演芸館、楽天地、初の演劇専門公演場である東洋劇場などがあり、こうした施設をベースに植民地朝鮮で公演される曲芸、演劇および歌舞伎、相撲などの演芸興行全般を取り仕切っていた。
1930年代からは朝鮮映画界に深く関与し、1930年12月に分島周次郎が所有していた大日本映画興業株式会社が投資して、京城府本町3町目の京城劇場に近接する敷地に映画製作プロダクションの京城撮影所を設立し、本格的な映画製作に乗り出した。
80坪余りの撮影場と30坪の現像室および俳優控室を備えていたという京城撮影所には、李弼雨・朴齊行・キムソボンなどの監督が所属し、1938年に高麗映画協会と東洋劇場に経営が移るまで、朝鮮初の発声映画「春香伝」(1935)をはじめとする多くの朝鮮映画がここで製作された。
京城撮影所を手放した後も、朝鮮興行界で強い影響力を維持していた。
1938年4月2日付の『毎日申報」の記事では、朝鮮総督府が「国民精神総動員資源節約運動」のために京城の各団体長を呼んで開いた会議に、分島周次郎も興業組合長として実行委員名簿に名を連ねている。
この分島周次郎が、京城府本町3町目の京城劇場に近接する敷地に設立した映画製作プロダクション京城撮影所で撮影した映画の中の1本が、この「迷夢」である。
京城撮影所制作のサイレント映画□とトーキー映画□
分島周次郎の京城撮影所で撮影されたトーキーの映画は、「春香伝(춘향전)」「アリラン峠(아리랑고개)」「薔花紅蓮伝(장화홍련전)」「洪吉童伝続篇(홍길동전 속편)」、そして5作目がこの「迷夢」である。
この当時の京城の映画上映館はこのように分布していた。清渓川より北側が朝鮮人観客向けで黄金町の通りより南側は日本人観客向けであった。サイレントの時代は、朝鮮語の弁士か日本語の弁士かではっきり分かれていた。
初のトーキー映画「春香伝」は1935年10月5日に団成社で封切られ、「アリラン峠」は1935年12月31日に東洋劇場で封切られた。
3作目の「薔花紅蓮伝」は、1936年1月31日に朝鮮劇場で封切られた。
そして、この「薔花紅蓮伝」を日本橋茅場町の三映社が買い付け、5月に内地で公開されることになった。
朝鮮映画として最初に内地公開されたのは、これよりも前、1932年の「主なき小舟(임자없는 나룻배)」(李圭煥監督作品:サイレント)で、日活系の映画館で公開された。
トーキー映画としては「薔花紅蓮伝」が内地初公開となり、5月14日に大阪のパーク劇場(新世界通天閣の下)で公開された。
日本で字幕を挿入した外国語映画は、1931年2月に公開された『モロッコ』だと言われている。台詞を日本語に翻訳したものを、田村幸彦が考案した「縦書き、1巻30枚平均のタイトル原稿」で焼き付ける方式だったという。
※田中純一郎『日本映画発達史Ⅱ』中公文庫 1980
各映画社は、競ってこの技術を導入し、日本語字幕挿入版が普及した。
「薔花紅蓮伝」は、京城での封切りから大阪での公開まで約3ヶ月半かかっている。その間に日本語字幕を挿入したのであろう。
「薔花紅蓮伝」の次の京城撮影所作品である「洪吉童伝続篇」は、「薔花紅蓮伝」の大阪公開直後の5月19日付けの『東亜日報』で紹介されている。
そして「洪吉童伝続篇」は6月10日に団成社で封切られたが、封切り当日の『東亜日報』の広告では、「朝鮮声画として日本進出代表作」「スーパーインポーズ日本版」というのが謳い文句になっている。
この時期には、京城の映画館で上映される洋画で日本語の字幕が入っているものは「全発声日本版」と表示されていた。

「洪吉童伝続篇」は、団成社での封切の時にはすでに日本語字幕が入っていた。映画制作と編集の段階で、すでに三映社との間で内地公開の契約ができていたのである。
そのため、ほぼ1ヶ月後の7月15日に「洪吉童伝続編」は大阪パーク劇場で公開された。
「迷夢」制作の新聞発表は、この「洪吉童伝続編」の日本公開に先立って行われた。7月3日、4日付けの京城の朝鮮語媒体の各紙に記事が掲載されている。
『毎日申報』には、「遠からず市内で封切り」とあり、「洪吉童伝続編」の例からいえば、7月後半には京城市内で封切られるはずだったと思われる。さらに「京畿道警察部保安課後援」とある。保安課とは、社会の治安維持、特に風紀・衛生面での監視や取締りを行う部署で、映画の検閲なども行っていた。
家庭を顧みない自由奔放な女性が、情夫を作ってダンサーの追っかけをやるというストーリー内容を評価して、保安課がこの映画の後援名義を出したというには無理があろう。この映画を制作した分島周次郎が、この映画の目的や趣旨を説明して京畿道警察保安課の後援を取り付けたのであろうが、それはどのようなものだったのか。
さらに、この映画の新聞発表では、金寅圭、羅雄、文芸峰という当代の人気スターに加えて、趙澤元とその舞踏研究所のメンバーの出演が特筆されている。
趙澤元は、日本の著名な舞踊家石井漠に弟子入りし、その後フランスで踊りを学び、1934年1月には京城の公会堂と朝鮮劇場で凱旋公演を行っている。『東亜日報』に、石井漠の妹石井栄子と踊る趙澤元の写真入り記事が掲載されている。「迷夢」の撮影された1936年には、趙澤元は京城の舞踊界のトップスターであった。
趙澤元が自分の舞踊団を率いて「迷夢」に出演したのには、京城で映画、相撲、芝居、舞台などの興行を仕切っていたといわれた分島周次郎の関与が考えられる。この趙澤元の出演というのも「迷夢」の「売り」である。単に色を添えるものではなく、映画の中で本格的に舞踊が披露されている。
『韓国映画100選』にも、趙澤元生誕100年に際して「迷夢」の観賞会が開かれ、趙澤元を「20世紀最高の舞踊家と称えた」とのエピソードが紹介されているが、当時の舞踊資料として使えるほどの舞踊場面がこの映画には挿入されているのである。
7月に「近日封切り」と報じられた「迷夢」だったが、実際に封切られたのは、新聞発表から3ヶ月半以上経った10月26日のことであった。それも、朝鮮人街の朝鮮劇場や団成社ではなく、日本人向けの映画館であった若草映画劇場で封切られ、3日間だけの上映であった。
この時の新聞の劇場告知には、「洪吉童伝続編」と同じく「朝鮮語全発声日本版」となっている。これも日本語字幕入りということである。しかし、「迷夢」は封切りが遅くなっただけでなく、日本での上映が実現することはなかったのである。




































































