パラサイトのロケ地(2) 阿峴洞・紫霞門トンネルと厚岩洞 | 一松書院のブログ

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 映画「パラサイト(原題:기생충)」がアカデミー賞作品賞を受賞すると、そのロケ現場が一躍脚光を浴びることになった。コネストの地図で「パラサイト」で検索をかけると、撮影場所が表示される。

 

 当然それぞれの場所にはそれぞれの「背景」「歴史」がある。ポンジュノ監督とスタッフがどこまでそうしたことを考慮して選んだのかはわからないが、それぞれに興味深い物語が見えてくる。意図して選んだとすればそれはすごい。意図してなかったとしても、その選択は納得できる。それもまたすごいことだと思う。
 撮影場所の歴史を、勝手にひもといてみる。その2。

 

その1(城北洞)はこちら。

 


◆テジスーパー(KonestMap2)

 

 交換留学でいなくなるミンヒョクがギウに金持ちのパク社長の娘ダヘの英語家庭教師の代役を頼む場面。「ウリスーパー」の店先のパラソルの下でソジュを飲んでいる。

 この店は阿峴洞アヒョンドンに実在する「テジスパー」で撮影された。ギジョンが桃を購入した場面もこの店で撮影された。

 

 映画の半地下パンジハの住居とその周囲の街並みなどは、実際にはセットで撮影されたものだ。

 

 しかし、映画のウリスーパー、つまり阿峴洞のテジスーパー周辺が、ギテクとその家族の居住地に結び付けられるようになり、映画の公開直後から阿峴洞のテジスーパーは、一部のマニアがSNSなどで店の写真などをアップしていた。


 アカデミー賞の受賞が決まったとき、多くのメディアがテジスーパーに取材に押しかけた。ここを含めて、映画のロケ地巡りをツアーコースにしようという動きも報じられた。

 しかし、実際のスーパーの近隣住民からは、貧民街というイメージをもたれることへの反発や、今後この地区で計画される再開発が遅れることへの懸念などが出されているという。

 

2月10日のアカデミー賞作品賞受賞直後のテジスーパー

 

 

 テジスーパーは、地下鉄2号線の阿峴駅から東方向に位置し、ソウル駅方面に通じる丘を越えていく途中にある。この丘を越えてソウル駅方面に下っていくと、左手に孫基禎ソンキジョン記念館のある体育公園がある。ここは、1936年のベルリンオリンピックのマラソンで優勝した孫基禎が在学した養正高等普通学校(朝鮮人向けの中等教育機関)があり、解放後は養正ヨンジョン高等学校になっていた。1988年の学校移転にともなって創立当初からの建物を孫基禎記念館とし、一帯を体育公園化したものである。

 

 ところで、1924年3月に赤間騎風が出した『大地を見ろ』という本に、この養正高等普通学校が出てくる。

 赤間騎風は、京城で週刊で発行されていた『京城新聞』の主筆をつとめ、潜入取材やドキュメンタリー記事を書き残した文筆家である。

 

 蓬莱町四丁目、養正高等普通學校裏の共同墓地は、南に面した小高い山だ。そこに、二十二軒の山窩の住居は點々と建てられてゐるのだ。

 山窩といふが、此處のは穴倉式のは極めてすくなく、小さいながらも壁をつけ、形を備へた温突が多い。中には、新らしい紋紙で室内を張つたのも見かけられた。此處に住むのも勞働者が多く、車力、チゲクン、土方の類で、至極平和に暮してゐる。

(十六 山窩)

 

 もともと、西小門ソソムンから城外に出た場所である阿峴洞のこの一帯からエオゲの東側の斜面にかけては共同墓地があった。そこに京城に集まってきた流民が「土幕」を作って住みついていた。

 

 さらに、1930年代には京城府当局が民間の社会事業団体に委嘱する形で土幕民の囲い込みを進めた。そうした団体の一つ、浄土宗の「和光教園」が阿峴洞に収容施設を作っている。

 

 京城帝国大学衛生調査部編『土幕民の生活・衛生』(1942)には、このように書かれている。

 

京城府から淨土宗開教院の開設した社會事業團體和光教園に社會事業補助金を交附して、土幕収容事業に当たらせることとなつた。そこで和光教園は阿峴町七番地外三筆の土地、計一萬八千七百九十八坪を買収し、ここに道路を設け、一戸平均十二坪乃至十五坪の土地を貸與し、約千戸の土幕民を収容することになつた。現在の収容戸數は九百五十戸、人口七千六百三十人を數へ、貧弱ながらも學校、授産、託兒、施療、救護等の諸施設がある(収容戸數に比して人口數の著しく多いのは他の土地収容地においても同様であるが、これは主として一戸に二間以上の温突を有する時は一間の溫突を月貰四―七円程度で他人に貸す爲である。参考の爲に申し添えれば土幕民の一世帯あたりの家族數は四・七人である)。

 

 こうした日本による植民地支配下で形成されたスラム街や貧民収容施設は、大韓民国成立以降も貧しい人々の居住する地域として引き継がれた。さらに、朝鮮戦争で戦災民や北からの避難民などが流れ込んで住み着いたものと考えられる。

 

 1970〜80年代まで、「阿峴洞アヒョンドンサン7番地チルボンジ」というのがスラム街の代名詞のように使われていた。しかし、今や忠正路チュンジョンノ、阿峴、エオゲにかけての道路の東側斜面は再開発が進んで高層マンションが建てられてきている。ただ、テジスーパーのある一帯は、まだ手がつけられていない。

 

 KakaoMapのストリートビューで見ると、テジスーパーの向かいは精肉店になっている。それが今は真新しい看板の不動産屋になっている。すでにこのあたり一帯の再開発計画が動き出していると思われる。

2020年2月20日KakaoMapストリートビュー

 

2020年2月10日筆写撮影

 

 テジスーパーのアジュマも、「うちが有名になるのはいいんだけど、別に売り上げが増えるわけでもないし、これで再開発が遅れたりすると大変だよ」と言っていた。

 

 それにしても、何とも「由緒」のある面白い場所をロケ地に選んだものだと思う。
 

 

◆階段(KonestMap1、16)

 

 パク社長の豪邸を脱出して、半地下の家に戻るべく豪雨の中を階段を下っていくギテクとギウ、ギジョン。

 

 城北洞ソンブクドンの坂を下って、最初の階段は紫霞門チャハムントンネルの北側のところにある。

 この紫霞門トンネルの工事計画が公表されたのは1984年の年末。そして、トンネルの開通は1986年8月のことである。

 それまで、景福宮キョンボックン側から北岳山プガッサンの裏側の洗剣亭セゴムジョン方面に行くためには、北岳スカイウェイへの分岐の峠を越えて行く道しかなかった。紫霞門トンネルは、ソウルの市街地トンネルの中では比較的遅い時期になってから建設されたものである。

 1968年1月、大統領暗殺の指令をうけた北朝鮮の31名の武装工作員が休戦ラインを越えて韓国側に侵入し、北岳山の裏にまで到達した。しかし、紫霞門警備所で怪しまれて鍾路署の警察部隊と銃撃戦になった。ここが突破されていたら大統領官邸も攻撃されていたかもしれない。その後、金新朝キムシンジョ一人を除いて北朝鮮工作員は射殺され、大統領暗殺は未遂に終わった。

 

 この事件以降、北岳山では軍の管轄下で厳戒態勢が敷かれて入山が厳しく統制され、北岳スカイウェイの車での通行のみが許されることになった。この事件の時に戦死した鍾路警察署長の慰霊碑がトンネルの上の山越え道路沿いにある。

 多分こうしたこともあってのことだろう。北岳山北側地域とソウルの中枢部との行き来は、1980年代前半までは山越えの道に限られていた。洗剣亭セゴムジョンの方に巫堂ムーダン儀式クッを何度か観に行ったのだが、とても不便だった。

 

 1984年、9月に漢江ハンガンが氾濫してソウルで洪水被害が出ると、北朝鮮が支援物資の提供を申し出た。全斗煥チョンドゥファン政権はこれを受け入れて北朝鮮から米や布地などが送られてきて、南北赤十字会談も再開された。そんな南北融和ムードの中でが紫霞門トンネル計画は公表された。韓国が、北朝鮮に対して優越的な自信感を深めつつあった時期とも重なる。そうしたこともあって、市内交通のネックの一つであった光化門カンファムンから洗剣亭セゴムジョン方面への新しいトンネル案が実現したのではなかろうか。

 

 ソウル市内には都心部に市街地トンネルがあったが、そのほとんどは自動車専用道路で人が歩ける歩道はなかった。1984年に計画された紫霞門トンネルには歩道が設けられている。

 この頃までは、ソウル市内は全体が「自動車優先」。歩行者は地下道や横断歩道で横断するもので、地上の「横断歩道」や「歩行者信号」は少なかった。しかし、その後20数年で自動車優先の社会が大きく変貌して今日に至っている。紫霞門トンネルの歩道はその初期段階かもしれない。トンネル内の歩道のための長い階段、それがパラサイトで使われたのである。

 

 紫霞門トンネルを駆け抜けたギテクとギウ、ギジョンは、水が滝のように流れる階段を下るのだが、これは厚岩洞フアムドンのトダッタリ(도닥다리)の階段で撮影されている。

 厚岩市場の四つ角を斜めに上がっていくと右側に永楽ヨンナッ保隣園ポリンウォンという児童養護施設に向かう分岐に出る。そのまま少し上がると谷筋にかかっているトダッタリがある。その陸橋と、その下に降りていく階段の場面がこれである。

 ここでギジョンが、「地下室の二人はどうなった?」「どんな計画があるの?」と詰め寄る。

 

 実際のロケ地はこんな感じである。

 

 この厚岩洞のメインストリートは、日本の植民地時代には三坂通という日本人街で、通りの下の一帯には今もところどころに日本家屋が残っている。

 

 植民地時代には、トダッタリのすぐ下にある永楽保隣園の場所には、1913年に佐竹音次郎が開設した鎌倉保育園京城支部があった。後に曽田嘉伊智夫妻が運営を引継ぎ、引揚げの時まで主に朝鮮人孤児を養育する施設であった。

 もともと朝鮮王朝時代には、この場所に典牲署チョンソンソがあった。宮中の祭祀で用いる生贄を司った役所で、牛・羊・山羊・豚などの飼育・屠殺が行われた。そのため、南大門を出た城外に置かれていた。

 

典牲署の建物に移転した直後の鎌倉保育園京城支部(1917)

 

 日本人が住みつくまでの三坂通は、阿峴アヒョンと同じように朝鮮人の共同墓地があった。典牲署の下のスペースに朝鮮銀行の官舎ができ、共同墓地をつぶして三坂通一帯の宅地開発が進んだ。


 三坂通の南端に龍山中学があり、その南側、龍山駅方面にかけての一帯が日本軍の駐屯地になっていた。太平洋戦争が始まると、龍山中学の裏手に護国神社が造成された。その参道の石段は今も残されており、最近になって斜面エレベーターが設置されている。

京城護国神社(1943年)

 

 

 敗戦直前、この護国神社の裏手には、「土幕」と呼ばれる貧相な簡易の小屋掛をした500人ほどの貧民街ができていた。鎌倉保育園の裏手の南山の斜面から護国神社裏手にかけての一帯であろう。戦争末期に、この斜面に三坂通の日本人向けの防空壕を造成することになり、土幕民を立ち退かせた。

『毎日新報』1944年5月29日

朝鮮総督府の朝鮮語機関紙 この時期「国語教室」と称して日本語の記事を一部掲載していた。 

 

 日本の敗戦、そして朝鮮戦争でこのあたりの様相が大きく変わった。追い立てられていた土幕民の一部はここに舞い戻り、さらに防空壕も住居として利用された。そこに、朝鮮戦争での被災民や避難民が加わり、さらに斜面の上の方にまでスラムが拡大していった。そして、ここは「解放村ヘバンチョン」と呼ばれるようになった。

 

 解放村の中心ともいうべき新興市場シヌンシジャンは、今やリノベーションブームに乗ってカフェや洒落た店構えのショップに変身しつつある。

 いまだ大規模再開発がされていないからこそ、新しい感覚が生かせる場として再生される。言い換えれば、貧しかった時代の痕跡がたくさん見つけられる一角でもある。

 

2019年春 新興市場にて

 

 「パラサイト」のロケをしたトダッタリの階段は、厚岩洞の斜面、解放村への入り口部分にある。ここも興味深い歴史的な背景を持った場所なのである。