1918年から1919年にかけてのインフルエンザのパンデミック。「スペイン風邪」「スペイン・インフルエンザ」と呼ばれる。この年の5〜6月にスペインでもインフルエンザが蔓延したが、当時は第一次世界大戦の最中。そのため、戦争の当時国では自国の流行が伝えられず、中立を宣言していたスペインでの流行に大きな注目が集まることになった。そのため「スペイン***」と冠せられることになったといわれる。
このインフルエンザの集団発生の記録としては、1918年3月のカンザス州の米軍基地での発生が最初のもので、この時に48人が死亡した。同じ頃、アメリカ国内で、学校や工場、それに刑務所などでの集団感染が発生している。
※速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店 2006)
日本(内地)でこのインフルエンザウィルスの感染が広がり始めたのは、1918年9月末から10月頃から。日本の植民地にされていた朝鮮でも、ほぼ時を同じくして感染の拡大が始まった。
1919年の『朝鮮彙報』3月号(韓国国立中央図書館デジタル資料)に、感染拡大の初期に、朝鮮総督府警務総監部が出したという予防方法が記されている。これを各警察署を通して周知を図ったとある。
- 成るべく患者に接近せざること。
- 患者に接近する場合に於ては患者の唾痰泡沫を吸入せざる様注意すること。
- 冠婚葬祭及市場開催等多數集合する事項は成るべく之を避くること。
- 工業、製造場其の他多衆集合の場所に於ては使役人夫等の健康状態に注意し且衛生施設を勵行せしむること。
- 學校衛生に注意し若し學校内に患者發生の場合は適當の期間休校する等豫防上適當の措置を執ること。
- 各個の自衛を重んじ若し身軆に異和を生じたるときは速に醫師の診斷を受くること。
- 迷信的治療を行はざること。
この予防策は、100年後の今日の新型コロナ対応と重なるところも多い。
ただ、手洗いがない。この当時は、京城ですら上水道はまだ普及していなかった。京城の57,000戸近い住居で、水道の専用栓は6,580に過ぎず(朝鮮総督府統計年報 大正8年度)、その大部分は内地人住居に設置されたものだった。朝鮮人家庭の多くは共同の井戸から水を汲んで運んでいた。まだ、手洗いの励行を促す環境にはなかった。
マスクへの言及もない。この時、マスクはまだ使われていなかった。
内地では、1919年2月に東京の学校で「呼吸保護器」の見本が配布されてその使用が奨励された。
朝鮮では、1919年12月になって「豫防法は含漱とマスク」とコメントする総督府医院の医者の記事が掲載されている。記事中には「呼吸保護器(マスク)」と表記されている。
すなわち、1918年から1919年初めのインフルエンザ流行期には、すでに「マスク」はあってある程度認知されてはいたものの、実際の使用は一般化してはいなかった。「唾痰泡沫を吸入せざる様」に注意するほかはなかったのである。
この時のパンダミックは、日本による植民地支配下の朝鮮ではどのような様相を呈していたのだろうか。
朝鮮におけるインフルエンザの大流行は、1918年後半から1919年初頭にかけての「前流行」と、1919年冬からの「後流行」があるとされる。※速水融上掲書
ここでは、「前流行」について、その感染拡大の経緯や患者数、死亡者数についてみていく。
「前流行」に関しては、前掲の『朝鮮彙報』1919年3月号に流行の状況と罹患者数・死亡者に関する統計数字が掲載されている。
冒頭の「一般概況」には次のように記されている。
一般概況
流行性感冒は從来各地に流行したる事例少なしとせざるも大正七年に於けるが如き一大惨狀は未だ之あるを聞かず、卽ち同年晩夏の頃より世界各地に流行猖獗を極めたる一種流行性感冒は中秋に至りて竟に朝鮮にも襲來し各地に蔓延するに至れり、流行當初に於ては病勢概して軽易にして其の流行も亦遲緩の狀況にありしが冬季に近づくに從い漸く病勢猛烈となり十月下旬以降は更に各地に瀰蔓し其の病性も亦漸次惡化し來りて之が爲死亡する者增加するに至り終に別表の如く患者總数七百五十八萬八千餘死者亦十四萬餘人を算するに至れり、右に依りて観れば朝鮮全土の人口の過半は該病に侵されたるものにして其の死亡率一・八五%なり斯の如きは恐らく朝鮮に於ける未曾有の慘事にして之が爲經濟、産業其の他に被りたる有形無形の惡影響も亦大なるものあるを疑はず。
朝鮮総督府の日本語の機関紙『京城日報』と、朝鮮語の機関紙『毎日申報』が最初に報じたのは、1918年10月17日付け紙面である。
インフルエンザについては、日本語では「流行感冒」あるいは「流行性感冒」「悪性感冒」という言い方が多い。「インフルエンザ」という用語もすでに使われてはいたが、ルビで使われる程度。朝鮮語では「毒感」という用語が多く使われた。
17日の記事では、それ以前の京城中学の満洲旅行中に学生の発病があり、判任官見習の講習会や京城中学寄宿舎でも集団感染があったとしている。また、京城市内の会社や商店でも多くの罹患者が出ているとあり、10月17日段階で、すでに京城では相当に感染が広まっていたことをうかがわせる。
この日以降、『京城日報』『毎日申報』ともに、連日このニュースを伝えている。京城での急激な罹患者の増加と共に、地方にも感染が拡大しつつあった様子がわかる。
平壌の歩兵第77連隊は、宣川・定州で鉄道警備にあたっていた部隊で16日には40名が発病、それが20日には300名にまで増えた。
10月23日時点で、本町警察署管内だけで4500名が感染したとある。鍾路警察署管内でも相当数にのぼるという。この時期には、開業医の治療を受けている患者が2577名、学校や会社、銀行など広範囲にわたって多数の患者が発生していた。
それ以前、10月12日から21日までの学校の欠席者数が出ている。小学校は内地人の児童が通う学校であり、普通学校は朝鮮人児童が通う学校だったが、小学校とは違って義務教育ではなく、就学率は低かった(朝鮮全土の平均で4%程度)。
日付 | 小学校 | 普通学校 |
10月12日 | 472 | 195 |
10月13日 | - | - |
10月14日 | 624 | 243 |
10月15日 | 810 | 265 |
10月16日 | 1066 | 263 |
10月17日 | 1634 | - |
10月18日 | - | 314 |
10月19日 | 1709 | 342 |
10月20日 | - | - |
10月21日 | 1877 | 466 |
義務教育である内地人児童の小学校で欠席者の増加をみると、1週間でほぼ3倍になっている。普通学校でも増加しているが、なぜか増加率は小学校よりも小さい。それでも、京城で急激に感染者が増えたことを示すものである。
10月31日の『京城日報』は、鍾路警察署管内の罹患者数について、内地人2,600人、朝鮮人24,000人、そのうち死亡者は、内地人が10人、朝鮮人が138人と伝えている。急激な感染の拡大と死者の増加で、かなりの動揺があったであろう。
本町警察署管内には内地人が多く居住し、鍾路警察署管内は朝鮮人の居住者が多かったので、朝鮮人の罹患者が多いのはそのためでもあろうが、やはり朝鮮人の罹患者、死亡者が多いのが目に付く。
11月12日付の『京城日報』は、10月30日に京畿道警務部衛生課がまとめた京城府内の死亡者数について報じている。
内地人 | 朝鮮人 | |
5歳未満 | 8 | 89 |
10歳未満 | 2 | 17 |
15歳未満 | 1 | 5 |
20歳未満 | 7 | 6 |
30歳未満 | 22 | 14 |
40歳未満 | 6 | 19 |
50歳未満 | 3 | 22 |
60歳未満 | ー | 15 |
70歳未満 | ー | 20 |
70歳以上 | ー | 12 |
49 | 219 |
『朝鮮総督府統計年報 大正7年度』(国会図書館デジタルコレクション)では、1918年12月末日の京城府の人口は、内地人が66,943人、朝鮮人が182,207人となっている。人口比では朝鮮人が内地人の2.7倍だが、死亡者数では朝鮮人が4.47倍にのぼっている。特に朝鮮人の乳幼児の死亡が極端に多い。
この京畿道警務部の発表は、同日付けの『毎日申報』でも報じられた。
同内容の記事だが、最後の部分に『京城日報』にはなかった一節が書き加えられている。
死亡者の地位で分類すると、上流は内地人1人、中流は内地人39人・朝鮮人77人、下層は内地人9人・朝鮮人103人、最下層は朝鮮人39人である。
『毎日申報』は朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙なのだが、このように貧しい朝鮮人が多数死んでいることをさりげなく書いている。
11月に入っても、『京城日報』『毎日申報』は、連日インフルエンザの蔓延についての記事を掲載している。この当時は、まだ「武断統治」の時代である。朝鮮語による情報媒体は『毎日申報』しかなかった。
この『毎日申報』の11月・12月の主な関連記事をピックアップするとこのようになる。
(ヘッドライン原文は朝鮮語)
1918/11/2 | 流行感冒、洗いざらい打ちのめす |
1918/11/3 | 全世界を襲った感冒、各郡にあらざるところなし |
1918/11/3 | 仁川も死亡者が每日二十名 |
1918/11/3 | 朝鮮人に死亡者多いのは治療を間違っているから |
1918/11/4 | 死亡者が半日で十七名、仁川の感冒はますます猖獗 |
1918/11/5 | 感冒余熱、感冒流行にも悲しくて妙なこと |
1918/11/6 | 金泉にも感冒、郵便局員は全滅 |
1918/11/6 | 大邱の感冒は漸く終息の兆し |
1918/11/6 | 感冒のおかげで盜賊を逮捕、病気のせいで逃げ遅れた |
1918/11/7 | 各地の感冒、寒くなるにつれてだんだんひどくなる |
1918/11/8 | 感冒は漸次終熄、しかし地方は今が盛り |
1918/11/9 | 各地の感冒: 元山では1万名、生徒には少ない |
1918/11/9 | 各地の感冒: 公州・木浦で猖獗 |
1918/11/9 | 各地の感冒: 鉄道従業員7000人が欠勤 |
1918/11/9 | 各地の感冒: 平安道の各郡に甚大ならざるところなし |
1918/11/9 | 感冒の病原菌、北里研究所で発見、インフルエンザ |
1918/11/10 | 感冒の流行菌インフルエンザ菌について |
1918/11/10 | 感冒の産んだ悲劇 |
1918/11/11 | このように治療せよ感冒にかかったらここに気をつけろ |
1918/11/12 | 京城の感冒やや沈熄、死者が減少 |
1918/11/12 | 京城で感冒で死亡した人、朝鮮人下流が最多 |
1918/11/13 | 感冒と鎭南浦の風說 |
1918/11/13 | 出征軍人が感冒で苦労、ほとんどみんな罹っている |
1918/11/14 | 感冒の流行と郵便局の困難、全滅したところ多し |
1918/11/16 | 感冒によって收穫ができない、損害は甚大 |
1918/11/18 | 京城の感冒はほぼ終熄 |
1918/11/19 | 三水の感冒、郡守が死亡 |
1918/11/20 | 感冒の種痘法、一度の注射で免れる、米国の新発明 |
1918/11/21 | 江陵: 流行感冒全熾 |
1918/11/21 | 江華: 感冒病死者 |
1918/11/22 | 祈禱で感冒を治すと金を着服した坊主 |
1918/11/22 | 康津の感冒、多くの死者 |
1918/11/25 | 仁川では半数、仁川の感冒調査 恐ろしい結果 |
1918/11/26 | 感冒の慘禍を被った晋州死亡者が千余名 |
1918/11/29 | 前ドイツ皇帝も感染して闘病中 |
1918/12/2 | 死者600人余り |
1918/12/3 | 瑞山一群だけで8万人の感冒患者があり、礼山・洪城でも大騒ぎ |
1918/12/4 | 感冒の死者5万名 |
1918/12/6 | 一家全滅、感冒にかかって |
1918/12/9 | 感冒経過後の状況調査 |
1918/12/12 | 感冒が産んだ悲劇、4人の家族が死んで家長が精神に異常 |
1918/12/18 | 全羅南道康津にはインフルエンザ患者、4万7千 |
1918/12/21 | 康津城田面の感冒 |
この『毎日申報』の記事でみると、11月の初旬には京城や大邱の大都市圏では感染者・死亡者はやや鎮静化しつつあったようだが、その一方で、地方には非常に多くの感染者と死亡者を出るところが発生していた。
この11月初旬は、第1次世界大戦の休戦条約締結があって、そのニュースが連日大きく報じられている。
また、12月になると、高宗の息子李垠と梨本宮方子との婚姻が正式に決定されたことが大きく報じられた。
京城での感染拡大がやや収束し始めたことなどもあってか、12月に入ると京城の新聞報道ではインフルエンザ関係の記事が11月に比べると相対的に減少してきている。しかし、1919年2月9日の『京城日報』の記事では、京城本町警察署管内だけでも12月に54人、1月に41人の死亡者が発生していたとなっており、終息したとは言い難い状況にあった。
そうした状況の中、1月21日早朝、高宗が徳寿宮で死去した。
『毎日申報』は、21日の号外と22日の紙面で「太王殿下重患」と報じた。
『京城日報』は、「22日夕刊」となっている1月23日付紙面で、東京出張中の長谷川好道総督のコメント入りで高宗の死去を報じている。
この記事では、
予は十三日東上に就き御暇乞ひに伺候したる時殿下に奥の御居間にて謁し「もう悉皆御宜しいのですか…」とお尋ね申すと「否…全癒とは行かぬ今は却々苦しい…」と仰せあり
と長谷川好道が語ったとあり、1月初旬に高宗に何らかの病状があったことをうかがわせる。しかし、インフルエンザに感染していたとする資料や説はこれまで見かけていない。
翌23日付からは、高宗の死去が大々的に報じられた。脳溢血に起因する自然死と発表されたが、当時から今日にいたるまで毒殺説も出されている。
この高宗の死去と葬儀がきっかけとなって、東京での2・8独立宣言、朝鮮全土での3・1独立運動へとつながっていくのだが、この時期は、まだインフルエンザの猛威が収まってはおらず、地方によっては引き続き感染者や死者が発生しているという状況であった。
1919年の『朝鮮彙報』3月号に掲載された「流行性感冒」という記事はそのような世相の中でまとめられたものである。
『朝鮮彙報』3月号の記事には、各地方での患者数、死亡者数が、内地人、朝鮮人、中国人、外国人でまとめれられた統計が出ている。各地から朝鮮総督府に上げられた情報を取りまとめたものと考えられるが、日付は付されていない。また、地方によって調査方法や実態把握に違いがあったためか感染率などにかなりばらつきがある。そうしたことを前提に見てみたい。
朝鮮全土の患者数、死亡者数は、
患者数 | 7,556,693人 |
死亡者数 | 140,527人 |
となっている。1918年12月末の朝鮮の全人口は17,057,032人(『朝鮮総督府統計年報 大正7年度』)なので、全人口の44%の人が感染し、死亡率は1.85%となる。
ただし、これを内地人と朝鮮人とで比較すると、両者の数値にかなりの違いが出てくる。
患者数 | 感染率 | 死者数 | 死亡率 | |
全体 | 7,556,693 | 44% | 140,527 | 1.85% |
内地人 | 159.916 | 47.47% | 1,297 | 0.81% |
朝鮮人 | 7,390,414 | 44.26% | 139,137 | 1.88% |
感染率はかなりばらつきがあるが、内地人の感染率が結構高いのが目に付く。これは、内地人の方が医療へのアクセスがよく、朝鮮人の場合には感染しても感染者としてカウントされないケースが結構あったためであろう。さらに、地方による調査の濃淡もあって感染率にばらつきが起きたと考えられる。実態としては朝鮮人の感染率が内地人を上回っていた可能性が高い。死亡率に関しては、朝鮮人の方が内地人をかなり上回っている。ただ、朝鮮人の感染者の実数がもっと多かったとしても、日本人と朝鮮人の死亡率の差が大きく縮まることはない。
そうした死亡率の差について『朝鮮彙報』では次のように説明している。
本病の傳播又は死亡の原因とな爲りたる地方の慣習
朝鮮人は槪して未だ衛生思想に乏しく患者あれば其の何病たるを問はず、親族故舊相傳へて往來する慣習盛にして此等は同病傳播の機會を與へたる主因たらずんばあらず、又各地に於て行はるる市場開催の際の如き多衆集合し露店等に於て飲食するを常とし、又各邉陬地には古來舎廊房なるものありて夜間之に集合同宿するを例とす、此等も亦本病の傳播を助勢したるものあるを疑はず、又患者死者共に各道の首位を占めたる慶尚北道の如きは當時恰も大邱府に物産共進會の開催あり道内外各地よりの集合に依り、本病の傳播を增大したるものあるを認む。
死亡を招きたる主因に付ては尚研究を要するものありと雖朝鮮人は、元來感冒の如き之を輕視して竟に介せざるを常とし、患者は之を溫突に臥せしめ殊更に其の溫度を高め發汗を促すを以て、一般の療法と爲すが故に之れが爲氣管支炎、肺炎、腦膜炎等を倂發するに至りたるもの其の主要原因たるを疑はず。
又朝鮮人は未だ古來の迷信醒めず、偶疾病に罹るも醫師の治療を受けず多くは巫女を招きて祈禱その他迷信的療法を行ひ斯くして治療の機を失するに至れるもの多し、尚巫女に頼らざる者と雖各地に種種の迷信療法行はれ夫れが爲死を招く者も亦少からず。
このように、多数の朝鮮人が感染し死亡する者が多いことについて、朝鮮人の後進性を強調して説明しようとする論調は、すでに1918年12月26日の『京城日報』にもみられる。
このように、「そもそも朝鮮人は…」と論じても、多数の内地人がなぜ感染したか全く説明できていない。朝鮮人は「衛生思想に乏し」く、「親族故舊相傳へて往來する慣習」があり、「多衆集合し露店等に於て飲食」し「舎廊房なるものありて夜間之に集合同宿」するからだという。しかし、忠清北道では朝鮮人は38%しか感染していない。内地人は65%が感染している。
死亡率が高いことについては、朝鮮人が「古來の迷信醒めず」「醫師の治療を受けず」「迷信的療法」に頼ったためと説明している。しかし、それは植民地支配下での経済的、社会的な格差の問題に起因するものであることは明白である。医者に診てもらえないから「迷信的療法」に頼らざるを得ないのである。
『朝鮮彙報』にも、このような記述がある。
尚地方に依りては醫師、醫生に對して無資力患者の施療を促し一面恩賜財團、済生會の寄附に依る貧民救療劵を配布し又は矯風會積立金の一部を割き之を以て實費を償ひ公醫、嘱託、警察醫をして貧民患者の施療を爲さしめたる向あり。
すなわち、医者による医療を受けたくても朝鮮人の多くは経済的な制約から最低限の医療すら受けられないでいることを認識していたのである。それにもかかわらず、「朝鮮人の後進性」をより強調する「分析」「解説」を書き連ねている。
100年後の今日、ネット上の一部で同じような論調での書き込みが散見されるのを見ると、人間社会が「進歩した」「あんな昔とは違う」とする我々の思い込みは、全くの幻想に過ぎないということを痛感させられる。
11月の感染の拡大がもっとも激しい時期に、『毎日申報』の記者——朝鮮人記者であろう——が、「下層・最下層の朝鮮人がたくさん死んでいっている」と書いた記事が、植民地支配された朝鮮でのインフルエンザ蔓延の実態をもっとも如実に物語っているように思える。