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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1945年8月15日、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終わりを告げた時、京城には4つの大きな図書館があった。「朝鮮総督府図書館」「京城府立図書館」「京城府立図書館鍾路分館」「交通図書館(旧:鉄道図書館)」の4館である。

 

京城の図書館(1)大韓図書館と山口精の「京城図書館」

京城の図書館(2)尹益善と李範昇の「京城図書館」

京城の図書館(3)鉄道図書館・府立図書館・総督府図書館

参照

 

 北緯38度線以南の朝鮮がアメリカ軍政庁の統治下に置かれることになり、内地人の図書館関係者は引揚げで朝鮮を去った。その中で、これらの図書館はどのようになっていったのか、まとめておこう。


◆解放後の図書館の再開

 

 解放後、もっとも早く開館したのは、旧朝鮮総督府図書館であった。

 

国立図書館開館

15日、旧総督府図書館改革

 日本帝国主義の桎梏に囚われ真の知識の倉庫とはなり得ていなかった前総督府図書館が、15日から我々の図書館として、その名も朝鮮国立図書館となり、館長には李在郁氏が就任し、名実ともに新たな出発をすることになったところ、我々の知識を摂取するよう広くご利用いただきたいとのことである。

 さらに、10月25日の『自由新聞』では、副館長の朴奉石パクボンソクが、総督府図書館時代には閲覧が禁じられていた社会科学の書籍の閲覧も実現していると述べている。

 

 館長李在郁イジェウク、副館長朴奉石など20名の朝鮮人館員で、「国立図書館」として、いち早く図書館を開館した。

 

 李在郁は、1931年に京城帝国大学法文学部の文学科を卒業し、「総督府図書館」の嘱託となり、1939年に司書となった。この間、1935年には、李在郁編『農林圖書館 經營法』を刊行し、新聞などに図書館関係の寄稿をしたり、ラジオで講演(朝鮮語)などもしていた。一方、朴奉石は、1931年に中央仏教専門学校(東国トングク大学校の前身)を卒業して「総督府図書館」の雇員となり、1939年3月に文部省公立図書館司書検定試験に合格した。

 

 戦前の日本の国立図書館では、奏任官の館長と判任官の司書・書記がいわば正式の館員で、その下に嘱託や雇員の身分で図書館専門の仕事を行う職員がいた。

 

 1945年8月15日の日本の敗戦時、総督府図書館の職員80名中20名ほどいた朝鮮人職員の中で、判任官の館員であったのは李在郁と朴奉石の二人だけであった。

『朝鮮総督府及所属官署職員録』(左:1940年版 右:1941年版 創氏改名させられている)

 

 10月1日、旧「総督府図書館」の館長であった荻山秀雄は、新しい「国立図書館」の館長李在郁と副館長朴奉石とに運営権を渡した。朝鮮人の館員・職員は「国立図書館」の開館の準備を急いだ。

 この時点では、朝鮮に新しい国家は建国されていなかったが、米軍政庁との協議で「国立図書館」の名称が決められた。

 

 1950年6月、朝鮮戦争が始まってソウルが北の人民軍によって占領されると、「国立図書館」は「政治保衛部」として使用され、南側の住民の思想調査・取り調べや拘束の施設として利用された。また、一部の蔵書は北側に搬出するために持ち出されたともいわれている。

 

 この時に、館長李在郁と副館長朴奉石の二人はいずれも行方不明になった。人民軍によって北側に連行されたものと推測されている。

 

 その後、1951年2月17日に趙根泳チョグニョンが「国立図書館」の館長職に就き、再建が進められた。

 


 

 旧「京城府立図書館」は、まずパゴダ公園横の「鍾路分館」が新たに「鍾路チョンノ図書館」として12月26日に開館した。

 

鍾路図書館開館

解放以降、門を閉ざしていたソウル市庁図書館第二分館を、ソウル市鍾路図書館と改称して26日から開館することとなり、同日午後2時同館において開館式を挙行する。一方、ソウル市立第一図書館は、ソウル市立南大門図書館と改称したが、この建物は、現在、中区役所として使っているため当分の間開館できない。

 これに先立って、10月27日に李範昇イボムスンがソウル市長に就任した。李範昇は、1918年に『京城日報』に「図書館を設立せよ」という寄稿文を寄せ、1922年に自ら「京城図書館」を設立して運営していた人物である。その図書館が1926年に京城府に譲渡されて「京城府立図書館鍾路分館」となった。

 

 李範昇は、市長に就任すると、ソウル市の図書館設置条例の制定を推進し、分館となっていたこの図書館を「ソウル市立鍾路図書館」とした。 

 

 一方、旧長谷川町(小公洞ソゴンドン)の「京城市立図書館」は、翌1946年6月10 日に「ソウル市立南大門ネムデムン図書館」として開館された。

 

 


 

 龍山ヨンサンの「交通図書館」については、敗戦時にこの図書館の主事だった古野健雄が『図書館雑誌』第59巻8号(1965年8月)に「終戦前後の朝鮮鉄道図書館」という記事を書いている。

 

一つの特色は、林さん(初代主事の林靖一)時代から、6〜7名の小使を除く事務職員は内地人ばかりでかためていたことである。しかしこれは、応召者の頻出と時勢の動きに従って、私の時代になってから中等学校出の鮮人職員が3名になっていた。そのうち2名は徴用逃れのため鉄道現場に転出したので、最後には1人きりになった。

 9月、米軍の進駐があり、交通局は軍政下におかれ、我々もその指示に従うことになった。日ならずして接収のための検分に米軍将校がやってきたが、何も問題はなく、何分の指示があるまではそのまま待機ということになった。

(中略)

 10月に入ってからのある日、本局から新体制の幹部候補らしい若い朝鮮人局員が2人やってきて、事務引き継ぎを要求した。時折の質問にも答えながら、私がひととおりの説明を終わったところ、彼らはため息をついて、このまま引き継いでも運営には全く自信がなさそうであった。2人のうち1人が 責任者になるのかと思ったところ、後日その人は鉄道病院の方を引き継ぐといううわさが伝わり、さらに日を経て、他の人がやってきて、同じような説明を繰り返させられた。そのとき彼がいうには、こんなことを君にいってもしかたがないことであるが、大体東条はじめ日本の指導者たちはけしからん、このような特殊な施設を日本人ばかりで運営してきたから残されたわれわれにはどうすることもできないではないか、とやるかたないふんまんをぶちまけていた。そして懇願的にいうには、館員はぼつぼつ引き揚げているが、あなただけ1年くらい顧問として残ってくれないか、というのである。私は公式の申し出でもないので適当に返事をしておいたが、その後私が最後から3人目の引き揚げ者として11月14日、1週間おくれて最後の大西氏が引き揚げるまで、ついに責任者はやって来なかった。

 1949年に『交通図書館案内』という冊子が出ており、それによれば、米軍政庁のもとで運輸部の管轄となり、館名が「運輸図書館」に変更になり、1948年の大韓民国政府樹立とともに交通部の管轄となって「交通図書館」となったという。

 

 管轄と館名の変遷は書かれているが、いつから一般向けに開館したのかはわからない。中等学校出の朝鮮人職員が一人だけで、日本人館員が全て引き揚げてしまった中での開館は容易ではなかったであろう。

 

 この1949年9月の『朝鮮中央日報』の記事では、「南大門図書館」「鍾路図書館」、それに「国立図書館」とともに、龍山の「鉄道図書館」も休館という記事が出ている。この頃には、以前の呼称の「鉄道チョルド図書館」とも呼ばれて開館していたことがわかる。

 

 1950年6月25日に朝鮮戦争が始まると、28日にはソウルが陥落し、韓国軍は漢江ハンガンにかかる人道橋インドギョを爆破した。しかし、鉄道橋の方の爆破に失敗したため北朝鮮人民軍はこの鉄道橋を使って南に兵力と装備を補給した。

 7月16日の午後、アメリカ軍はB29爆撃機47機で、龍山一帯の鉄道関連施設に対して2時間以上にわたって波状的な空爆を行なった。

 

 この爆撃で、「交通図書館(旧:鉄道図書館)」も火災になり、16万冊の蔵書は全て焼失した。

 


◆「南大門図書館」と「鍾路図書館」の移転

 

 朝鮮戦争の停戦前後から、ソウル市の「南大門図書館」と「鍾路図書館」は再開したが、利用者の大部分は中学・高校の生徒や学生たちで、図書館の蔵書の閲覧ではなく、各種受験に備えた勉強のための学習スペースとなっていた。

 

 

 「鍾路図書館」については、1955年12月8日付の『東亜日報』に、図書館長李命勲の記事があり、これに添付された表でも、生徒・学生の利用が85%を占めている。また11万5千冊の蔵書のうちの4割が日本語の書籍で占められていた。「南大門図書館」でも7万冊の蔵書のうち3万冊を日本語の書籍が占めていた。

 

1960年代前半の鍾路図書館

 

 1963年、「南大門図書館」は、小公洞の建物ではこれ以上閲覧席を増やす余地がないとして、閑静な場所に多くの閲覧席を持つ図書館を建設するという計画が打ち出された。南山ナムサンの旧朝鮮神宮の跡地が候補にあがった。

 

 1963年11月に図書館建設が始まり、「南大門図書館」は「南山図書館」と名前を変えて1965年1月27日にオープンした。ただ、蔵書は7万冊程度に過ぎず、1,300以上の閲覧席の多さによって「韓国最大の図書館」とされた。

 

 一方、「鍾路図書館」はソウル市の開発計画の中で移転を余儀なくされた。

 1967年1月末、楽園ナゴン市場の再開発と合わせてパゴダ公園(現タプコル公園)の改修計画が打ち出された。

 

 このプランにともなって、パゴダ公園の西側に隣接していた「鍾路図書館」は撤去されることになった。ところが、この時点では、図書館の新たな移転先については未定のままで、8月に図書館は休館となった。その後、社稷洞サジクダンのソウル市教育庁の隣接地に新たな図書館を作ることになり、1年後の1968年8月20日に社稷洞の現在位置で、「鍾路図書館」として開館した。

 

 

◆「国立中央図書館」の移転

 

 「国立図書館」は、1962年に制定された「図書館法」に基づいて1963年10月に「国立中央図書館」と名称が変わった。

 

 1970年には、巨額の予算で南山に学術情報センターの機能をも備えた新築の図書館を建設してそこに移転するという計画が公表された。

 

 だが、これは新たな図書館建設の構想があって出てきた移転ではなかった。1970年11月12日に朴正煕パクチョンヒ大統領がロッテの辛格浩シンキョッコを大統領官邸に呼んで、「半島ホテル」と「国立中央図書館」を払い下げるので、この場所にホテルを建設するように持ちかけている。つまり、ロッテに辛格浩にホテル建設をやらせるために図書館をどこかに持っていく必要が生じたということである。

 

 その結果、「国立中央図書館」は、図書館仕様の新築建物ではなく、「オリニ(子供)会館」として建てられた建物を流用することになってしまった。新たに完成した「オリニ大公園」に会館の機能を統合したため、この建物が空きビルになっていたからである。

 

 この移転に対しては、図書館として多くの不備が指摘され、不安や不満が噴出した。

 

 しかし、大統領が一流ホテルを市内に建てさせるためのトコロテン式の図書館移転である。再検討の余地はなかった。

 1974年12月2日に南山の旧オリニ会館に「国立中央図書館」がオープンした。

 

 

 しかし、1979年の朴正煕暗殺で朴正煕政権が終わると、「国立中央図書館」移転が検討されはじめ、1982年2月には瑞草洞ソチョドンへの移転報道が出た。

 

 

 構想から6年間かけて新しい図書館システムに対応した図書館が建てられ、1988年に現在位置の瑞草洞に新しい「国立中央図書館」がオープンした。

 

 

 さらに、2009年5月25日にはデジタル図書館が開館した。

中央奥が国立中央図書館本館 手前の建物がデジタル図書館

 

 こうした変遷もあって、「国立中央図書館」には「朝鮮総督府図書館」の蔵書・新聞・定期刊行物などが相当数残されている。

 さらにそれらの中には、デジタル化されてインターネット公開されているものも少なくない。

 

韓国国立中央図書館デジタル資料検索

 

京城の図書館(1)大韓図書館と山口精の「京城図書館」

京城の図書館(2)尹益善と李範昇の「京城図書館」からの続き

 

左から鉄道図書館・京城府立図書館・朝鮮総督府図書館

 


◆満鉄京城図書館

 

 朝鮮の鉄道は、1917年から24年まで南満州鉄道(満鉄)に経営が委託されていた。満鉄は朝鮮の鉄道経営の収益の一部を朝鮮での教養施設に投じるということで、京城鉄道学校に続いて満鉄京城図書館を1920年5月に龍山に開設した。開館業務を命じられた林靖一は、その後も長く図書館の実務全般を取り仕切った。開館式は7月21日に行われた。

 

 尹益善ユンイクソン翠雲亭チュィウンジョンに開いた「京城図書館」よりも4ヶ月早い開館である。


 1923年に発刊された『満鉄京城図書館案内』の図書館規則の冒頭には、

本館ハ通俗図書ヲ蒐集シ主トシテ南満洲鉄道株式会社京城鉄道局勤務ノ社員及其家族ノ修養二資シ併セテ一般公衆ノ閲覧ニ供スルヲ目的トス

とあり、一般の利用も可能であった。朝鮮語の『朝鮮日報』『東亜日報』にも記事が載せられたが、実際には日本人の利用を想定しており、図書館員は全て日本人であった。

 

 

 

 『満鉄京城図書館案内』の表紙にはアクセスの表示がある。図書館の所在地は、現在の龍山ヨンサンシティーパーク1団地103棟あたりと推定される。

 

 

 

 1925年4月1日に、満鉄に委託していた朝鮮鉄道の経営を朝鮮総督府鉄道局の直営としたのに伴い、図書館も総督府鉄道局に移管され、名称が「鉄道図書館」となった。管轄と名称は変わったが、図書館主事林靖一がそのまま責任者として運営に当たった。

 

 その後、この「鉄道図書館」は、図書費の最高額を「帝国図書館」や「朝鮮総督府図書館」と競い合うという規模の予算枠で運営された。満鉄直通列車に列車文庫を搭載し、朝鮮内の鉄道沿線で巡回文庫を開設した。

 

 太平洋戦争で敗色が濃くなる中、1943年12月1日に朝鮮総督府の官制が変更され、鉄道局が廃止され、鉄道に加えて航空や海上交通も管轄する交通局に再編された。これにともない、「鉄道図書館」は「交通図書館」と改称された。

 1925年1月時点で35,000冊だった蔵書は、1945年には16万冊となっていた。

 

◆京城府立図書館と京城図書館の分館化

 

 京城府は、1922年度の予算に児童図書館と簡易図書館の設立予算を計上した。当初は、明治町の旧仁川新報社に設置開設予定だったが、明治町2丁目の旧漢城病院の建物を改修して利用することになり、1922年10月5日に「京城府立図書館」が開館した。現在の苧洞チョドン1街、南大門ナムデムン税務署などが入っている苧洞ビルのところである。

 

漢城病院の建物

 

 

 しかし、当初は簡易図書館で、予算規模や蔵書数からいって貧弱な施設であった。開館から1年半後の1924年5月に、博多・長崎で開催された全国図書館長会議に出席した「京城府立図書館」の主事上杉直三郎は、次のように慨嘆している。上杉直三郎は、京城府の庶務課長から京城育児院長となり、社会教育畑を歩いていて、この図書館の主事に任じられ、後に館長となる。

大都市を以て任じて居る京城府の図書館が如何に貧弱なるかと云ふ事を痛切に耻かしく思つた。その建物に於て、その蔵書数に於て、斯くの如く貧弱な所は全国に亘つて一箇所だも無いと云つて過言ではあるまい。

(中略)

京城府たるものは大いなる恥辱を持つて居る訳だ云々。

 

 この頃、先述したように李範昇イボムスンの「京城図書館」の経営が苦境に陥っていた。新館新築の際の借入金の利息、それに人件費や図書購入費などで、年間経費が15,000円にまで膨らんでいた。それに対して収入は、国庫からの補助が1,000円、京城府から1,200円、利用料収入が1,200円で、11,600円の赤字になっていた。

 

 この記事で、李範昇は図書館の窮状をこのように訴えている。

これしきのものなのに、朝鮮人の手で運用できないというのは自ら省みて耐え難い悲哀です。私の財産や土地は全て抵当に入っていて、ついには部屋一つすらなくなってしまいました。私が図書館を手放せば、あるいは官営となって日本人の手にわたるかもしれませんが、図書館も朝鮮人の経営でなければ朝鮮人が読みたい本を思うように購入できないのです。また、閲覧者の不便や苦痛も増えるでしょう。しかし、にっちもさっちもいかないのです。

 1924年秋までは、京城府からの補助金2,000円で何とか開館していたが、1924年10月には休館せざるを得なくなった。京城府では臨時に1,200円の補助金を出すこととし、李範昇は翌年2月には「京城図書館」を再開館することができた。

 

 

 「京城図書館」は、開設から1925年末までの5年間で、建物や書籍などの資産は57,372円にまで大きくなったが、他方で、館員の給与や定期刊行物の購入代金、それに借入金の利息支払いが、寄付や補助金などの収入を大きく上回って大幅な赤字となっていた。結局、1926年に入ると37,670円の負債を抱えて再び休館せざるを得なくなった。

 

 李範昇は、やむを得ず、この「京城図書館」の多額の負債を京城府が肩代わりすることを条件に、図書館の経営権を京城府に譲渡することとした。

 

 京城府は、1926年度の予算に40,000円余りの図書館買取費用を組み込んだ。1926年3月27日に、京城府尹馬野精一と李範昇との間で「京城図書館」譲渡に関する文書が取り交わされた。

 

大正15年3月27日

京城府尹 馬野精一

京城図書館長 李範昇殿

図書館譲渡に関する件

貴下の経営にかかる京城図書館は、これまでの協議に基づき当府で現在の施設を譲り受け、現在の場所、現在の施設で本年4月1日より当府にて分館として永久に経営するものとし、左記事項につきご了解ありたい。

左記事項(略)

 これによって、李範昇の「京城図書館」は、「京城府立図書館鍾路分館」となった。

 

 

 鍾路分館の主任には、李範昇の甥でコロンビア大学で修士学位を取って帰国した李肯鍾イグンジョンが任命され、李範昇自身も嘱託として図書館運営に関与することになった。

 

 李範昇の「京城図書館」には13,260冊の蔵書があり、特に辞典類が充実し、当時は入手が容易ではなかった朝鮮5万分1地勢図を所蔵していた。京城府は、40,000円で57,372円の資産と5年間の図書館運営実績を手に入れたわけである。

 

 一方、1922年10月に旧漢城病院の建物を改築して開館した「京城府立図書館」の方は、蔵書数は1924年には7,420冊にまで増加していたが、入館者数においても、旧京城図書館の鍾路分館に及ばなかった。本館の方は、入館者の6割以上が児童・生徒で、朝鮮人の利用者は3%程度に過ぎなかった。

 

 

 李範昇の「京城図書館」を譲り受ける話が出始めたころ、「京城府立図書館」にも移転話が持ちあがっていた。この図書館の建物が、明治町の商業地域の中にあり、施設や蔵書がいかにも貧弱で利用者の増加に対応できる拡張性もなかったからである。

 

 

 その候補地として挙げられたのが長谷川町の大観亭であった。大観亭は、1898年から西洋人賓客向けの迎賓館として使用された洋館であった。 日露戦争の際には、日本軍が接収して司令官長谷川好道の官舎として使用した。それが「長谷川町」(現在の小公洞ソゴンドン)の町名の由来である。その後、日本軍が龍山に移ってからは三井物産が大観亭を所有していた。

1907年韓国京城実測地図より

 

大観亭 『韓國風俗風景寫眞帖』(京城日韓書房 1910)

 

 1927年の5月に「京城府立図書館」は、三井物産から買い取った大観亭の建物に移転した。それとともに、大観亭の西側に、3階建ての社会館・図書館の建設に着手した。この建物は1928年6月に竣工して、28日に開館式が行われた。この建物の2階が「京城府立図書館」の閲覧室となった。

 

社会館・図書館の左手の建物が大観亭。改修して煙突がなくなっている。

『朝鮮之図書館』第5巻第1号(朝鮮図書館研究会 京城 1935年10月)

 

 一方、鍾路分室の方は、1938年に増築されている。

 

 鍾路分館の所蔵資料の中で、李範昇の「京城図書館」時から所蔵していた5万分1朝鮮地勢図が現在デジタル公開されており、その地図にはこのような蔵書印が残されている。

 

 一方、1940年代の大観亭跡地の「京城府立図書館」の利用の一端については、朴婉緒パクワンソが『あのたくさんのオオヤマソバを誰がみんな食べたのだろうか(그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까)』(初版:1992年)に書いた幼少時(国民学校5年生)の図書館利用の回想がある。ブログ「朴婉緒と京城府立図書館」を参照されたい。

 

 

◆朝鮮総督府図書館

 

 1922年に京城府が府立の図書館を設置する方向で動き始めた頃、朝鮮総督府でも国立の図書館の設置の構想が出された。1922年2月の第2次朝鮮教育令改訂の記念事業として発案されたものだという。第2次朝鮮教育令では、「国語(日本語)」の習熟度で区別するとして、小学校と普通学校での日本人・朝鮮人の別学が実施された。

 

国立図書館設置

総督府の計画で今後光宣門内に国立図書館を設置する

 時代が進んでいくにつれて読書熱が急速に高まってきたが、朝鮮の首都京城には相応の国立図書館がなく、社会の有識階層では常にこれを遺憾としている。また朝鮮を研究しようとする学者も参考書籍が読める図書館がなく不便が少なくない。市内の数カ所に図書館はあるものの、設備が十分でなく、総督府でも国立図書館の必要性を痛感していたが、経費の問題でこれまで伸び伸びになっていた。しかし、そう言っていられない時代になったので、東京の日比谷にある図書館のような通俗的図書館を設置することになった。その具体案についてはまだ報道できないが、大まかな内容は、閲覧室は相当に整えられ、学者が朝鮮を研究する参考室、児童閲覧室、記念講演などを行う講堂を備え、各道にある不完全な図書館を一新するため、巡回文庫式に書籍を順次送付する。また、市内の図書館と連携して不足を補う予定である。適当な建物がないので、色々研究の末、商業銀行が本来国家の所有を無償で使用しているので、その代わりとして南大門の中の光宣門内に図書館の建物を建築して、これを政府に提供することに内定したという。これができあがれば京城市民ばかりでなく一般の読書家にも喜ばれるものと期待されている。

 そして、翌年4月13日には、総督府図書館の建物建設が始まった。上掲の地図にある朝鮮ホテル(現在のウエスティン・チョソン)の東側、ロッテショッピング裏手の駐車場の場所である。

 

 

  それとともに、大和町2丁目の朝鮮憲兵隊司令部(現在の南山ナムサンコル韓屋マウルハノンマウル)の診斷所內に朝鮮總督府圖書館事務所が設置された。

 朝鮮総督府は、1923年11月29日 総督府図書館官制を定めた。

 

 

 翌1924年1月には総督府図書館の建物が完成した。

 

 

 この時点では、明治町の「京城府立図書館」が開館して1年半ほど経っており、両館がどのように並存するのかが話題になった。これについて、京城府の関係者は、府立図書館は補助教育を中心とする社会施設であり、総督府図書館は学術研究にも資するものであるとしている。

 

 ところが、予定していた1924年度の総督府図書館の開館は大幅に遅れることになった。

 開館にあたって、国立の図書館である以上、20〜30万冊の蔵書数は必要とされていたが、とりあえずは10万冊程度でスタートしようとした。当初は、総督府学務局から移管した1万冊あまりしか蔵書がなかった。そのため新年度に大規模な図書購入を予定していたのだが、帝国議会が解散をしてしまったため予算の執行ができなくなった。1万冊の蔵書で開館するわけにいかず、開館が先送りになった。予算の問題だけでなく選書作業にも無理があったと思われるが、図書館開館を急いだ背景には、植民地統治者側の文化的優位性を示したいという願望があったのであろう。

 

 

とりあえず、図書館の事務局だけは、憲兵隊司令部の診療室から新築の図書館に移された。

 

 

 1925年4月3日になって「朝鮮総督府図書館」は開館した。

 

 開館当時の館長は萩山秀雄、職員19名、蔵書数2万8千冊、閲覧席304席でスタートした。

 

 朝鮮総督府図書館は、1937年1月現在の『新書部分類目錄』上・中・下を出している。これは、国会図書館デジタルコレクションや韓国の国立中央図書館のオンライン資料で閲覧できる。

 

 1937年段階で蔵書数は20万冊に達していた。そのうち「新書」の分類目録である。「新書」とは、和文・漢文それに朝鮮語で書かれて洋装本に製本された書籍をいい、「古書」とはいわゆる和綴本である。

 ハングル(諺文)で書かれたものについては、50音順の後ろにㄱㄴㄷㄹ順で記載するとなっている。

 

 ただ、朝鮮総督府図書館『新書部分類目錄』に掲載されたハングルの書籍は、分野が限られており冊数も少ない。「朝鮮門」「語学・文学」には、下の画像のようにハングル書籍が多く掲載された部分もあるが、むしろ例外的である。

 さらに、この1937年には「国語常用運動」が拡大され、朝鮮語の排斥が急激に進み始める時期であり、それまで少ないながらあったハングルの書籍もこれ以降は減少もしくは無くなったとも推測される。

 

 また、朝鮮総督府図書館の館報として、1935年10月創刊の『文献報国』を発行しており、これもバックナンバーが国立中央図書館のオンライン資料で閲覧できる。

 

 そして、1945年の日本の敗戦で、朝鮮の植民地支配は終焉する。この時、朝鮮総督府図書館の蔵書は28万冊になっていた。

京城の図書館(1)大韓図書館と山口精の「京城図書館」から続く

 

(左)尹益善の京城図書館(翠雲亭) (右)李範昇の京城図書館石造新館

 

◆尹益善の「京城図書館(翠雲亭)」

 

 1919年1月、高宗コジョンが急逝した。その葬儀をきっかけに3・1独立運動が起きた。

 普成ポソン専門學校の校長だった尹益善ユンイクソンは、3・1運動の時、『朝鮮独立新聞』の社長職を引き受け、運動について伝える新聞を普成社で印刷して国内外で配布した。そのため、この年8月に拘束された。裁判で1年6ヶ月の懲役刑の判決を受けたが、刑期が1年に恩赦減刑され、翌年9月23日に刑務所を出所した。

 

 

 出所の2ヶ月後、1920年11月27日に尹益善は嘉会洞カフェドン翠雲亭チュィウンジョンに「京城図書館」を設立した。館名は山口精の図書館と同じだが、別の図書館である。これが朝鮮人が建てた最初の私立公共図書館とされる。

 

 翠雲亭は、ミン一族の別荘として閔泳煥ミニョンファンが所有していたが、閔泳煥が1905年に第二次日韓協約(保護条約)締結に抗議して自決した後は王室の所有になり、併合後は李王職(旧宮内部)が管理していた。

 

 

この「京城図書館」の開館式で、尹益善はこのような「設立状況報告」をした。

わが朝鮮民族の学問と知識界を観察すれば、寒心にたえない境遇にある。もしわが民族に哲理的研究と世界的知識を修得させようとすれば、各々の先人賢哲の遺説を参考にせざるを得ない。われわれの経済力で、十分な書籍を準備できるかどうか難問ではあるが、一ケ所に図書を集めて頭脳明敏な人士たちに閲読させることは、知識の発展、学者の養成上便利であると認められる故に、ここに本館の経営を始めんとするものである。

(『鍾路図書館 六十年史』)

 この開館式には多数の参加者があり、その多くが「館友」の申請をしたという。また、書籍・資料の寄贈が相次ぎ、その整理に追われていると『東亜日報』『朝鮮日報』が伝え、『京城日報』にも関連の記事が掲載されている。

 

 

 この『京城日報』の記事から、館長に金允植キムユンシク、館監に尹益善、李斌承イムスン、館司に尹亮求ユンヤング金章煥キムチャンファン金麗鶴キムニョハクが任じられていることがわかる。尹亮求が2,000円、尹益善、天道教教会、金章煥が1,000円を寄付している。金允植は開化派の大物政治家だったが、併合後に子爵の称号を受けた。しかし、3・1運動の時に「独立請願書」を出したことから、1919年7月17日に爵位を剥奪された。李斌承は、金允植の『雲養集』『雲養続集』の校訂と刊行を行なった詩人であり、尹亮求は尹益善と同じ黄海道の出身で、朝鮮製絲の株を保有するなど資産家であった。

 

 翠雲亭の「京城図書館」の開設時の蔵書は7,000部となっている。金允植や権重顕クォンジュンヒョンの蔵書などの寄付や寄託に加え、朝鮮総督府や日本国内から図書の寄贈もあった。

 

 注目すべきは、それらとともに、上述の山口精の「京城図書館」から買い取った図書資料が蔵書に加えられたことである。

 

 山口精の「京城図書館」については、1919年9月27日の『京城日報』にこのような記事が掲載されている。

 

行悩んだ図書館

中村精七郎氏から寄付金が来ぬ

京城府の図書館計画は寄付者たる鎮南浦の中村精七郎氏から寄付金が来ぬので行悩みの姿らしい。京城図書館に関係のある橋本茂雄氏は語る「京城に完全な図書館のない事は都市の面白上甚だ遺憾に堪えぬ。中村氏の図書館寄付も幽霊と云つた形であるが府は何とかしてその促進に努めて貰ひたい。自分は松本正寛君と共同で米倉町の京城図書館を前経営者山口氏より引き受けたが自分等には到底之を経営して行く実力もなければ時間もない。と云つて若し是を山口氏から引受けなかつたら全然図書館は滅亡してしまふので是は京城としては実に残念な事なので漸く引受けたのであるが毎月欠損続きで困つて居る。自分等の希望としては此際一日も早く府若くは道の手で京城に一大図書館を設立して貰い度いと思つて居る」

 この記事の冒頭にある「京城府の図書館計画」というのが、1918年4月に報じられていた「某実業家」すなわち中村精七郎の寄付を当て込んだ長谷川好道の図書館計画を指すものだと考えられる。

 

 しかし、1918年10月後半から「スペイン風邪」のパンデミックが朝鮮にも襲いかかった。そうした中で、1919年1月に高宗が死去。その葬儀が行われた3月には、3・1独立運動が起きて朝鮮全土を揺るがせた。従って、朝鮮総督府も、京城府も、図書館建設どころではなくなった。

 

 山口精が統営に移ったあと、京城図書館の運営は橋本茂雄と松本正寛に任されていた。

 橋本茂雄は、京城で質屋で成功して「全鮮質屋業組合連合会」の会長にまでなった人物であり、松本正寛は、内地で判事をやったあと京城で弁護士業を開業していた人物である。山口精の「京城図書館」を公営化するまでのつなぎということで、運営を引き受けたのであろう。ところが、その公営化計画の当事者だった長谷川好道は、1919年8月12日に朝鮮総督を退任してしまった。つなぎのつもりで図書館を預かった橋本茂雄が困惑していたことが上記『京城日報』の記事からも読み取れる。

 

 朝鮮総督には齋藤實が就任し、水野錬太郎が政務総監として着任した。水野錬太郎は、政務総監在任中に自ら図書館予算を計上しようとしたがうまくいかなかった。この頃の状況について次のように回想している。

その当時は所謂万歳騒動の後であつて、人心を安定せしむることが急務であり、それが為には警察機関を拡大するの必要があつて、その方面に多大の費用を要したので、文化事業に力を展ぶるの余裕がなく、此計画も直に実行するに至らなかつた。

 

 すなわち、3・1独立運動直後も「武断」による統治という考え方は続いていたのであり、植民地統治者側による図書館建設は置き去りになっていた。

 

 その結果、行き場がなくなった山口精の「京城図書館」の蔵書は、750円という価格で翠雲亭の「京城図書館」に売却されることになった。

 

 日本の植民地統治が、独立運動を力で抑え込もうとした結果、山口精が蒐集して「京城図書館」で公開していた蔵書や資料は、朝鮮独立を願う人々の啓蒙活動の一環として設立された翠雲亭の「京城図書館」の蔵書になったのである。

 

 日本の統治者の思惑に逆行する、なんとも皮肉な展開である。

 

 

 1921年2月の『東亜日報』には、この図書館の蔵書が35,000部にまで増加し、「最近は毎日本を読もうという人が非常に増え、今の読書室では収容しきれない事態も起きている。特に女性のために、静かなところに別途女性読書室を作った」と報じている。

 

 しかし、蔵書が増え利用者が多くなると維持経費も増大する。館監や館司の私財に頼らざるを得なかった図書館財政は、運営経費の捻出が早々に難しくなっていった。

 

◆李範昇の「京城図書館」

 

 1918年5月に『京城日報』に「図書館を設立せよ」の投稿を寄せた李範昇は、京大から満鉄調査課に就職した。しかし1921年に京城に戻って、京城での図書館設立を具体化させた。

 

 李範昇は、当時朝鮮総督府が管理していたパゴダ公園(現タプコル公園)西側の旧大韓帝国軍楽隊の施設を無償で借り受け、1921年9月10日に「新聞雑誌縦覧所」を開設した。ここでは新聞40数種、雑誌105種を閲覧することができた。

 

 

 

 この12月6日の『東亜日報』の記事では、この時の「新聞雑誌縦覧所」では新聞・雑誌が閲覧できるのみで、一般書籍はカード整備中で閲覧ができなかったにもかかわらず、連日多数の利用者があったと記されている。また、この12月の時点で、翠雲亭の「京城図書館」を、李範昇が引き継ぐことで合意ができており、翠雲亭は「京城図書館分室」として漢籍の専門館となり、その他の一般書籍類はパゴダ公園横の図書館に配架するとされた。図書館の利用は有料で、1ヶ月利用券が40銭、開館時間は9時半から5時半までとなっていた。さらに、市民講座の開催や巡回文庫の計画も立てられており、夜間開館も予定されていた。

 

 パゴダ公園に隣接するこの新しい「京城図書館」は、1922年1月6日にオープンした。平日の金曜日にも関わらず、多くの利用者が初日から図書館を訪れた。山口精の「京城図書館」の蔵書も、この時にこの「京城図書館」に架蔵された。

 

 この頃から、朝鮮総督府や京城府でも、図書館の設立を具体化させ始めていた。京城府では、1922年度の予算に児童図書館と簡易図書館の設立予算が計上された。京城府の計画では、明治町の旧仁川新報社の建物を改修して児童図書館と簡易図書館を設置するとされた。しかし、それだけでは、内地人向けに偏ったものとなるとして、朝鮮人向けには李範昇の「京城図書館」に朝鮮語の児童図書を備置させることで、多少なりともバランスを取ろうとした。このための補助金として、京城府から李範昇の「京城図書館」に1,800円が支出された。

 

 

 1922年6月24日の午後、閔泳徽ミニョンヒが「京城図書館」にやってきて館内を見てまわった。そして、閔泳徽は10,000円を寄付した。閔泳徽は併合前に一進会の役員となり、併合後は韓一銀行頭取や殖産銀行の発起人にもなった富豪で、巨額の資産があった。

 

 

 現在の貨幣価値への換算は難しいが、日本円消費者物価計算機で試算してみると閔泳徽の寄付は1,400〜1,600万円ということになるようだ。

 

 この寄付金をきっかけに、「京城図書館」の建物新築構想が持ち上がり、銀行からの融資なども合わせて石造2階建ての新館の建設に着手した。1923年7月28日にその落成式が行われた。

 

 

 新館には90人定員の閲覧室、出納室、新聞室、特別室及び書庫があり、旧館には80人定員の児童室が設けられた。  蔵書は、新刊図書7,200冊、古書2,300冊、雑誌110種、新聞50種に及んだ。1923年度の利用者は、1日平均257人。朝鮮人の利用者が圧倒的に多く、日本人は5%程度に過ぎなかった。

 

 この新館完成の時に、翠雲亭の分館の方は廃館となった。尹益善が間島(現在の中国延辺)龍井村の東興學校に赴くことになり、この時に翠雲亭の漢籍の約1万冊を搬出したためである。

 

 図書館の運営をめぐって、朝鮮人のための図書館という点においては尹益善と李範昇の二人は一致していたものの、日本による植民地統治への向き合い方には差があった。尹益善が朝鮮民族の知的主体の確立に重きを置いていたのに対し、李範昇は、植民地支配体制側と妥協してでも図書館の維持を優先させるべきとの姿勢であった。

 

 新館建設や図書館運営のため、閔泳徽からはさらに2,000円の寄付で計12,000円、朝鮮教育会からも15,000円の寄付があった。朝鮮教育会は、1922年11月に韓圭卨ハンギュソル李商在イサンジェ金性洙キムソンジュなどを中心に結成された「朝鮮民立大学期成会」が母体となったもので、多額の寄付は、朝鮮知識人のこの図書館への期待の大きさを物語るものでもあった。それ以外にも各方面からの寄付があったが、その一方で、銀行からの借入金も多額に上った。そのため、人件費や図書の購入費に加えて、銀行への利息返済が大きな負担となり、図書館運営は早々に苦しくなった。

 

 そのため、その後2年ほどで、京城府立図書館の分館となる道を選択せざるを得なくなるのである。

 

 

京城の図書館(3)満鉄京城図書館・府立図書館・総督府図書館 に続く