京城の図書館(3)鉄道図書館・府立図書館・総督府図書館 | 一松書院のブログ

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京城の図書館(1)大韓図書館と山口精の「京城図書館」

京城の図書館(2)尹益善と李範昇の「京城図書館」からの続き

 

左から鉄道図書館・京城府立図書館・朝鮮総督府図書館

 


◆満鉄京城図書館

 

 朝鮮の鉄道は、1917年から24年まで南満州鉄道(満鉄)に経営が委託されていた。満鉄は朝鮮の鉄道経営の収益の一部を朝鮮での教養施設に投じるということで、京城鉄道学校に続いて満鉄京城図書館を1920年5月に龍山に開設した。開館業務を命じられた林靖一は、その後も長く図書館の実務全般を取り仕切った。開館式は7月21日に行われた。

 

 尹益善ユンイクソン翠雲亭チュィウンジョンに開いた「京城図書館」よりも4ヶ月早い開館である。


 1923年に発刊された『満鉄京城図書館案内』の図書館規則の冒頭には、

本館ハ通俗図書ヲ蒐集シ主トシテ南満洲鉄道株式会社京城鉄道局勤務ノ社員及其家族ノ修養二資シ併セテ一般公衆ノ閲覧ニ供スルヲ目的トス

とあり、一般の利用も可能であった。朝鮮語の『朝鮮日報』『東亜日報』にも記事が載せられたが、実際には日本人の利用を想定しており、図書館員は全て日本人であった。

 

 

 

 『満鉄京城図書館案内』の表紙にはアクセスの表示がある。図書館の所在地は、現在の龍山ヨンサンシティーパーク1団地103棟あたりと推定される。

 

 

 

 1925年4月1日に、満鉄に委託していた朝鮮鉄道の経営を朝鮮総督府鉄道局の直営としたのに伴い、図書館も総督府鉄道局に移管され、名称が「鉄道図書館」となった。管轄と名称は変わったが、図書館主事林靖一がそのまま責任者として運営に当たった。

 

 その後、この「鉄道図書館」は、図書費の最高額を「帝国図書館」や「朝鮮総督府図書館」と競い合うという規模の予算枠で運営された。満鉄直通列車に列車文庫を搭載し、朝鮮内の鉄道沿線で巡回文庫を開設した。

 

 太平洋戦争で敗色が濃くなる中、1943年12月1日に朝鮮総督府の官制が変更され、鉄道局が廃止され、鉄道に加えて航空や海上交通も管轄する交通局に再編された。これにともない、「鉄道図書館」は「交通図書館」と改称された。

 1925年1月時点で35,000冊だった蔵書は、1945年には16万冊となっていた。

 

◆京城府立図書館と京城図書館の分館化

 

 京城府は、1922年度の予算に児童図書館と簡易図書館の設立予算を計上した。当初は、明治町の旧仁川新報社に設置開設予定だったが、明治町2丁目の旧漢城病院の建物を改修して利用することになり、1922年10月5日に「京城府立図書館」が開館した。現在の苧洞チョドン1街、南大門ナムデムン税務署などが入っている苧洞ビルのところである。

 

漢城病院の建物

 

 

 しかし、当初は簡易図書館で、予算規模や蔵書数からいって貧弱な施設であった。開館から1年半後の1924年5月に、博多・長崎で開催された全国図書館長会議に出席した「京城府立図書館」の主事上杉直三郎は、次のように慨嘆している。上杉直三郎は、京城府の庶務課長から京城育児院長となり、社会教育畑を歩いていて、この図書館の主事に任じられ、後に館長となる。

大都市を以て任じて居る京城府の図書館が如何に貧弱なるかと云ふ事を痛切に耻かしく思つた。その建物に於て、その蔵書数に於て、斯くの如く貧弱な所は全国に亘つて一箇所だも無いと云つて過言ではあるまい。

(中略)

京城府たるものは大いなる恥辱を持つて居る訳だ云々。

 

 この頃、先述したように李範昇イボムスンの「京城図書館」の経営が苦境に陥っていた。新館新築の際の借入金の利息、それに人件費や図書購入費などで、年間経費が15,000円にまで膨らんでいた。それに対して収入は、国庫からの補助が1,000円、京城府から1,200円、利用料収入が1,200円で、11,600円の赤字になっていた。

 

 この記事で、李範昇は図書館の窮状をこのように訴えている。

これしきのものなのに、朝鮮人の手で運用できないというのは自ら省みて耐え難い悲哀です。私の財産や土地は全て抵当に入っていて、ついには部屋一つすらなくなってしまいました。私が図書館を手放せば、あるいは官営となって日本人の手にわたるかもしれませんが、図書館も朝鮮人の経営でなければ朝鮮人が読みたい本を思うように購入できないのです。また、閲覧者の不便や苦痛も増えるでしょう。しかし、にっちもさっちもいかないのです。

 1924年秋までは、京城府からの補助金2,000円で何とか開館していたが、1924年10月には休館せざるを得なくなった。京城府では臨時に1,200円の補助金を出すこととし、李範昇は翌年2月には「京城図書館」を再開館することができた。

 

 

 「京城図書館」は、開設から1925年末までの5年間で、建物や書籍などの資産は57,372円にまで大きくなったが、他方で、館員の給与や定期刊行物の購入代金、それに借入金の利息支払いが、寄付や補助金などの収入を大きく上回って大幅な赤字となっていた。結局、1926年に入ると37,670円の負債を抱えて再び休館せざるを得なくなった。

 

 李範昇は、やむを得ず、この「京城図書館」の多額の負債を京城府が肩代わりすることを条件に、図書館の経営権を京城府に譲渡することとした。

 

 京城府は、1926年度の予算に40,000円余りの図書館買取費用を組み込んだ。1926年3月27日に、京城府尹馬野精一と李範昇との間で「京城図書館」譲渡に関する文書が取り交わされた。

 

大正15年3月27日

京城府尹 馬野精一

京城図書館長 李範昇殿

図書館譲渡に関する件

貴下の経営にかかる京城図書館は、これまでの協議に基づき当府で現在の施設を譲り受け、現在の場所、現在の施設で本年4月1日より当府にて分館として永久に経営するものとし、左記事項につきご了解ありたい。

左記事項(略)

 これによって、李範昇の「京城図書館」は、「京城府立図書館鍾路分館」となった。

 

 

 鍾路分館の主任には、李範昇の甥でコロンビア大学で修士学位を取って帰国した李肯鍾イグンジョンが任命され、李範昇自身も嘱託として図書館運営に関与することになった。

 

 李範昇の「京城図書館」には13,260冊の蔵書があり、特に辞典類が充実し、当時は入手が容易ではなかった朝鮮5万分1地勢図を所蔵していた。京城府は、40,000円で57,372円の資産と5年間の図書館運営実績を手に入れたわけである。

 

 一方、1922年10月に旧漢城病院の建物を改築して開館した「京城府立図書館」の方は、蔵書数は1924年には7,420冊にまで増加していたが、入館者数においても、旧京城図書館の鍾路分館に及ばなかった。本館の方は、入館者の6割以上が児童・生徒で、朝鮮人の利用者は3%程度に過ぎなかった。

 

 

 李範昇の「京城図書館」を譲り受ける話が出始めたころ、「京城府立図書館」にも移転話が持ちあがっていた。この図書館の建物が、明治町の商業地域の中にあり、施設や蔵書がいかにも貧弱で利用者の増加に対応できる拡張性もなかったからである。

 

 

 その候補地として挙げられたのが長谷川町の大観亭であった。大観亭は、1898年から西洋人賓客向けの迎賓館として使用された洋館であった。 日露戦争の際には、日本軍が接収して司令官長谷川好道の官舎として使用した。それが「長谷川町」(現在の小公洞ソゴンドン)の町名の由来である。その後、日本軍が龍山に移ってからは三井物産が大観亭を所有していた。

1907年韓国京城実測地図より

 

大観亭 『韓國風俗風景寫眞帖』(京城日韓書房 1910)

 

 1927年の5月に「京城府立図書館」は、三井物産から買い取った大観亭の建物に移転した。それとともに、大観亭の西側に、3階建ての社会館・図書館の建設に着手した。この建物は1928年6月に竣工して、28日に開館式が行われた。この建物の2階が「京城府立図書館」の閲覧室となった。

 

社会館・図書館の左手の建物が大観亭。改修して煙突がなくなっている。

『朝鮮之図書館』第5巻第1号(朝鮮図書館研究会 京城 1935年10月)

 

 一方、鍾路分室の方は、1938年に増築されている。

 

 鍾路分館の所蔵資料の中で、李範昇の「京城図書館」時から所蔵していた5万分1朝鮮地勢図が現在デジタル公開されており、その地図にはこのような蔵書印が残されている。

 

 一方、1940年代の大観亭跡地の「京城府立図書館」の利用の一端については、朴婉緒パクワンソが『あのたくさんのオオヤマソバを誰がみんな食べたのだろうか(그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까)』(初版:1992年)に書いた幼少時(国民学校5年生)の図書館利用の回想がある。ブログ「朴婉緒と京城府立図書館」を参照されたい。

 

 

◆朝鮮総督府図書館

 

 1922年に京城府が府立の図書館を設置する方向で動き始めた頃、朝鮮総督府でも国立の図書館の設置の構想が出された。1922年2月の第2次朝鮮教育令改訂の記念事業として発案されたものだという。第2次朝鮮教育令では、「国語(日本語)」の習熟度で区別するとして、小学校と普通学校での日本人・朝鮮人の別学が実施された。

 

国立図書館設置

総督府の計画で今後光宣門内に国立図書館を設置する

 時代が進んでいくにつれて読書熱が急速に高まってきたが、朝鮮の首都京城には相応の国立図書館がなく、社会の有識階層では常にこれを遺憾としている。また朝鮮を研究しようとする学者も参考書籍が読める図書館がなく不便が少なくない。市内の数カ所に図書館はあるものの、設備が十分でなく、総督府でも国立図書館の必要性を痛感していたが、経費の問題でこれまで伸び伸びになっていた。しかし、そう言っていられない時代になったので、東京の日比谷にある図書館のような通俗的図書館を設置することになった。その具体案についてはまだ報道できないが、大まかな内容は、閲覧室は相当に整えられ、学者が朝鮮を研究する参考室、児童閲覧室、記念講演などを行う講堂を備え、各道にある不完全な図書館を一新するため、巡回文庫式に書籍を順次送付する。また、市内の図書館と連携して不足を補う予定である。適当な建物がないので、色々研究の末、商業銀行が本来国家の所有を無償で使用しているので、その代わりとして南大門の中の光宣門内に図書館の建物を建築して、これを政府に提供することに内定したという。これができあがれば京城市民ばかりでなく一般の読書家にも喜ばれるものと期待されている。

 そして、翌年4月13日には、総督府図書館の建物建設が始まった。上掲の地図にある朝鮮ホテル(現在のウエスティン・チョソン)の東側、ロッテショッピング裏手の駐車場の場所である。

 

 

  それとともに、大和町2丁目の朝鮮憲兵隊司令部(現在の南山ナムサンコル韓屋マウルハノンマウル)の診斷所內に朝鮮總督府圖書館事務所が設置された。

 朝鮮総督府は、1923年11月29日 総督府図書館官制を定めた。

 

 

 翌1924年1月には総督府図書館の建物が完成した。

 

 

 この時点では、明治町の「京城府立図書館」が開館して1年半ほど経っており、両館がどのように並存するのかが話題になった。これについて、京城府の関係者は、府立図書館は補助教育を中心とする社会施設であり、総督府図書館は学術研究にも資するものであるとしている。

 

 ところが、予定していた1924年度の総督府図書館の開館は大幅に遅れることになった。

 開館にあたって、国立の図書館である以上、20〜30万冊の蔵書数は必要とされていたが、とりあえずは10万冊程度でスタートしようとした。当初は、総督府学務局から移管した1万冊あまりしか蔵書がなかった。そのため新年度に大規模な図書購入を予定していたのだが、帝国議会が解散をしてしまったため予算の執行ができなくなった。1万冊の蔵書で開館するわけにいかず、開館が先送りになった。予算の問題だけでなく選書作業にも無理があったと思われるが、図書館開館を急いだ背景には、植民地統治者側の文化的優位性を示したいという願望があったのであろう。

 

 

とりあえず、図書館の事務局だけは、憲兵隊司令部の診療室から新築の図書館に移された。

 

 

 1925年4月3日になって「朝鮮総督府図書館」は開館した。

 

 開館当時の館長は萩山秀雄、職員19名、蔵書数2万8千冊、閲覧席304席でスタートした。

 

 朝鮮総督府図書館は、1937年1月現在の『新書部分類目錄』上・中・下を出している。これは、国会図書館デジタルコレクションや韓国の国立中央図書館のオンライン資料で閲覧できる。

 

 1937年段階で蔵書数は20万冊に達していた。そのうち「新書」の分類目録である。「新書」とは、和文・漢文それに朝鮮語で書かれて洋装本に製本された書籍をいい、「古書」とはいわゆる和綴本である。

 ハングル(諺文)で書かれたものについては、50音順の後ろにㄱㄴㄷㄹ順で記載するとなっている。

 

 ただ、朝鮮総督府図書館『新書部分類目錄』に掲載されたハングルの書籍は、分野が限られており冊数も少ない。「朝鮮門」「語学・文学」には、下の画像のようにハングル書籍が多く掲載された部分もあるが、むしろ例外的である。

 さらに、この1937年には「国語常用運動」が拡大され、朝鮮語の排斥が急激に進み始める時期であり、それまで少ないながらあったハングルの書籍もこれ以降は減少もしくは無くなったとも推測される。

 

 また、朝鮮総督府図書館の館報として、1935年10月創刊の『文献報国』を発行しており、これもバックナンバーが国立中央図書館のオンライン資料で閲覧できる。

 

 そして、1945年の日本の敗戦で、朝鮮の植民地支配は終焉する。この時、朝鮮総督府図書館の蔵書は28万冊になっていた。