京城の図書館(1)大韓図書館と山口精の「京城図書館」から続く
(左)尹益善の京城図書館(翠雲亭) (右)李範昇の京城図書館石造新館
◆尹益善の「京城図書館(翠雲亭)」
1919年1月、高宗が急逝した。その葬儀をきっかけに3・1独立運動が起きた。
普成専門學校の校長だった尹益善は、3・1運動の時、『朝鮮独立新聞』の社長職を引き受け、運動について伝える新聞を普成社で印刷して国内外で配布した。そのため、この年8月に拘束された。裁判で1年6ヶ月の懲役刑の判決を受けたが、刑期が1年に恩赦減刑され、翌年9月23日に刑務所を出所した。
出所の2ヶ月後、1920年11月27日に尹益善は嘉会洞の翠雲亭に「京城図書館」を設立した。館名は山口精の図書館と同じだが、別の図書館である。これが朝鮮人が建てた最初の私立公共図書館とされる。
翠雲亭は、閔一族の別荘として閔泳煥が所有していたが、閔泳煥が1905年に第二次日韓協約(保護条約)締結に抗議して自決した後は王室の所有になり、併合後は李王職(旧宮内部)が管理していた。
この「京城図書館」の開館式で、尹益善はこのような「設立状況報告」をした。
わが朝鮮民族の学問と知識界を観察すれば、寒心にたえない境遇にある。もしわが民族に哲理的研究と世界的知識を修得させようとすれば、各々の先人賢哲の遺説を参考にせざるを得ない。われわれの経済力で、十分な書籍を準備できるかどうか難問ではあるが、一ケ所に図書を集めて頭脳明敏な人士たちに閲読させることは、知識の発展、学者の養成上便利であると認められる故に、ここに本館の経営を始めんとするものである。
(『鍾路図書館 六十年史』)
この開館式には多数の参加者があり、その多くが「館友」の申請をしたという。また、書籍・資料の寄贈が相次ぎ、その整理に追われていると『東亜日報』『朝鮮日報』が伝え、『京城日報』にも関連の記事が掲載されている。
この『京城日報』の記事から、館長に金允植、館監に尹益善、李斌承、館司に尹亮求、金章煥、金麗鶴が任じられていることがわかる。尹亮求が2,000円、尹益善、天道教教会、金章煥が1,000円を寄付している。金允植は開化派の大物政治家だったが、併合後に子爵の称号を受けた。しかし、3・1運動の時に「独立請願書」を出したことから、1919年7月17日に爵位を剥奪された。李斌承は、金允植の『雲養集』『雲養続集』の校訂と刊行を行なった詩人であり、尹亮求は尹益善と同じ黄海道の出身で、朝鮮製絲の株を保有するなど資産家であった。
翠雲亭の「京城図書館」の開設時の蔵書は7,000部となっている。金允植や権重顕の蔵書などの寄付や寄託に加え、朝鮮総督府や日本国内から図書の寄贈もあった。
注目すべきは、それらとともに、上述の山口精の「京城図書館」から買い取った図書資料が蔵書に加えられたことである。
山口精の「京城図書館」については、1919年9月27日の『京城日報』にこのような記事が掲載されている。
行悩んだ図書館
中村精七郎氏から寄付金が来ぬ
京城府の図書館計画は寄付者たる鎮南浦の中村精七郎氏から寄付金が来ぬので行悩みの姿らしい。京城図書館に関係のある橋本茂雄氏は語る「京城に完全な図書館のない事は都市の面白上甚だ遺憾に堪えぬ。中村氏の図書館寄付も幽霊と云つた形であるが府は何とかしてその促進に努めて貰ひたい。自分は松本正寛君と共同で米倉町の京城図書館を前経営者山口氏より引き受けたが自分等には到底之を経営して行く実力もなければ時間もない。と云つて若し是を山口氏から引受けなかつたら全然図書館は滅亡してしまふので是は京城としては実に残念な事なので漸く引受けたのであるが毎月欠損続きで困つて居る。自分等の希望としては此際一日も早く府若くは道の手で京城に一大図書館を設立して貰い度いと思つて居る」
この記事の冒頭にある「京城府の図書館計画」というのが、1918年4月に報じられていた「某実業家」すなわち中村精七郎の寄付を当て込んだ長谷川好道の図書館計画を指すものだと考えられる。
しかし、1918年10月後半から「スペイン風邪」のパンデミックが朝鮮にも襲いかかった。そうした中で、1919年1月に高宗が死去。その葬儀が行われた3月には、3・1独立運動が起きて朝鮮全土を揺るがせた。従って、朝鮮総督府も、京城府も、図書館建設どころではなくなった。
山口精が統営に移ったあと、京城図書館の運営は橋本茂雄と松本正寛に任されていた。
橋本茂雄は、京城で質屋で成功して「全鮮質屋業組合連合会」の会長にまでなった人物であり、松本正寛は、内地で判事をやったあと京城で弁護士業を開業していた人物である。山口精の「京城図書館」を公営化するまでのつなぎということで、運営を引き受けたのであろう。ところが、その公営化計画の当事者だった長谷川好道は、1919年8月12日に朝鮮総督を退任してしまった。つなぎのつもりで図書館を預かった橋本茂雄が困惑していたことが上記『京城日報』の記事からも読み取れる。
朝鮮総督には齋藤實が就任し、水野錬太郎が政務総監として着任した。水野錬太郎は、政務総監在任中に自ら図書館予算を計上しようとしたがうまくいかなかった。この頃の状況について次のように回想している。
その当時は所謂万歳騒動の後であつて、人心を安定せしむることが急務であり、それが為には警察機関を拡大するの必要があつて、その方面に多大の費用を要したので、文化事業に力を展ぶるの余裕がなく、此計画も直に実行するに至らなかつた。
すなわち、3・1独立運動直後も「武断」による統治という考え方は続いていたのであり、植民地統治者側による図書館建設は置き去りになっていた。
その結果、行き場がなくなった山口精の「京城図書館」の蔵書は、750円という価格で翠雲亭の「京城図書館」に売却されることになった。
日本の植民地統治が、独立運動を力で抑え込もうとした結果、山口精が蒐集して「京城図書館」で公開していた蔵書や資料は、朝鮮独立を願う人々の啓蒙活動の一環として設立された翠雲亭の「京城図書館」の蔵書になったのである。
日本の統治者の思惑に逆行する、なんとも皮肉な展開である。
1921年2月の『東亜日報』には、この図書館の蔵書が35,000部にまで増加し、「最近は毎日本を読もうという人が非常に増え、今の読書室では収容しきれない事態も起きている。特に女性のために、静かなところに別途女性読書室を作った」と報じている。
しかし、蔵書が増え利用者が多くなると維持経費も増大する。館監や館司の私財に頼らざるを得なかった図書館財政は、運営経費の捻出が早々に難しくなっていった。
◆李範昇の「京城図書館」
1918年5月に『京城日報』に「図書館を設立せよ」の投稿を寄せた李範昇は、京大から満鉄調査課に就職した。しかし1921年に京城に戻って、京城での図書館設立を具体化させた。
李範昇は、当時朝鮮総督府が管理していたパゴダ公園(現タプコル公園)西側の旧大韓帝国軍楽隊の施設を無償で借り受け、1921年9月10日に「新聞雑誌縦覧所」を開設した。ここでは新聞40数種、雑誌105種を閲覧することができた。
この12月6日の『東亜日報』の記事では、この時の「新聞雑誌縦覧所」では新聞・雑誌が閲覧できるのみで、一般書籍はカード整備中で閲覧ができなかったにもかかわらず、連日多数の利用者があったと記されている。また、この12月の時点で、翠雲亭の「京城図書館」を、李範昇が引き継ぐことで合意ができており、翠雲亭は「京城図書館分室」として漢籍の専門館となり、その他の一般書籍類はパゴダ公園横の図書館に配架するとされた。図書館の利用は有料で、1ヶ月利用券が40銭、開館時間は9時半から5時半までとなっていた。さらに、市民講座の開催や巡回文庫の計画も立てられており、夜間開館も予定されていた。
パゴダ公園に隣接するこの新しい「京城図書館」は、1922年1月6日にオープンした。平日の金曜日にも関わらず、多くの利用者が初日から図書館を訪れた。山口精の「京城図書館」の蔵書も、この時にこの「京城図書館」に架蔵された。
この頃から、朝鮮総督府や京城府でも、図書館の設立を具体化させ始めていた。京城府では、1922年度の予算に児童図書館と簡易図書館の設立予算が計上された。京城府の計画では、明治町の旧仁川新報社の建物を改修して児童図書館と簡易図書館を設置するとされた。しかし、それだけでは、内地人向けに偏ったものとなるとして、朝鮮人向けには李範昇の「京城図書館」に朝鮮語の児童図書を備置させることで、多少なりともバランスを取ろうとした。このための補助金として、京城府から李範昇の「京城図書館」に1,800円が支出された。
1922年6月24日の午後、閔泳徽が「京城図書館」にやってきて館内を見てまわった。そして、閔泳徽は10,000円を寄付した。閔泳徽は併合前に一進会の役員となり、併合後は韓一銀行頭取や殖産銀行の発起人にもなった富豪で、巨額の資産があった。
現在の貨幣価値への換算は難しいが、日本円消費者物価計算機で試算してみると閔泳徽の寄付は1,400〜1,600万円ということになるようだ。
この寄付金をきっかけに、「京城図書館」の建物新築構想が持ち上がり、銀行からの融資なども合わせて石造2階建ての新館の建設に着手した。1923年7月28日にその落成式が行われた。
新館には90人定員の閲覧室、出納室、新聞室、特別室及び書庫があり、旧館には80人定員の児童室が設けられた。 蔵書は、新刊図書7,200冊、古書2,300冊、雑誌110種、新聞50種に及んだ。1923年度の利用者は、1日平均257人。朝鮮人の利用者が圧倒的に多く、日本人は5%程度に過ぎなかった。
この新館完成の時に、翠雲亭の分館の方は廃館となった。尹益善が間島(現在の中国延辺)龍井村の東興學校に赴くことになり、この時に翠雲亭の漢籍の約1万冊を搬出したためである。
図書館の運営をめぐって、朝鮮人のための図書館という点においては尹益善と李範昇の二人は一致していたものの、日本による植民地統治への向き合い方には差があった。尹益善が朝鮮民族の知的主体の確立に重きを置いていたのに対し、李範昇は、植民地支配体制側と妥協してでも図書館の維持を優先させるべきとの姿勢であった。
新館建設や図書館運営のため、閔泳徽からはさらに2,000円の寄付で計12,000円、朝鮮教育会からも15,000円の寄付があった。朝鮮教育会は、1922年11月に韓圭卨、李商在、金性洙などを中心に結成された「朝鮮民立大学期成会」が母体となったもので、多額の寄付は、朝鮮知識人のこの図書館への期待の大きさを物語るものでもあった。それ以外にも各方面からの寄付があったが、その一方で、銀行からの借入金も多額に上った。そのため、人件費や図書の購入費に加えて、銀行への利息返済が大きな負担となり、図書館運営は早々に苦しくなった。
そのため、その後2年ほどで、京城府立図書館の分館となる道を選択せざるを得なくなるのである。















