朴婉緒と京城府立図書館  | 一松書院のブログ

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 1940年代、日本が太平洋戦争にのめり込んでいた時代に、京城で京城府立図書館を利用していた朝鮮の少女がいた。朴婉緒パクワンソが『あのたくさんのオオヤマソバを誰がみんな食べたのだろうか(그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까)』(初版:1992年)に、次のように書き記している。

オオヤマソバ:6〜8月に白い花を咲かせるタデ科の植物、若葉の茎は酸味がありそのまま食べられる。

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 5年生の時に初めて親しい友達ができた。転校生で、先生が私とペアにした。転校してきた子が新しい環境に馴染むまで親切な子とペアを組ませるというのが先生たちのやり方だった。私はクラスでは目立たない子だったので、何かに選ばれることはなかったのに、ペアにはいつも選ばれていた。内心ではいやだったが,そんな素振りは見せなかった。自分では自分がお利口さんではないことを知っていたが、先生が私に見出した唯一の希望を裏切る勇気はなかった。その子は苗字だけを日本式に変えて、名前の方はボクスンといって田舎くさいままだった。見た目も田舎くさくて、着ているものもパッとしなかった。

 その子とペアになった最初の国語の授業は、図書館についてだった。図書館で本を借りて、読んでから返却するまでが詳しく出ていた。先生は、君たちも実際に図書館を利用したらいい経験になると、図書館の場所を教えてくれた。そんなことはよくあった。真面目にやると上手くいく話なら「君たちもやってみなさい』と言われ、正直さについての話なら、正直こそが一番価値があると強調される。そんなことは、聞き流せばそれでおしまいだった。

 ところが、野暮ったいボクスンが次の日曜日に一緒に図書館に行こうと私を誘ったのだ。「先生が教えてくれた公立図書館の場所をちゃんと聞いておいたので行けそうだ」と言って、「国語の教科書にあったように、そこで読みたい本を思う存分借りられたらきっと楽しいはずよ」というのだ。ボクスンは私より本を読むことに憧れていた。ボクスンと比べたら私は奥手だった。先生が教えてくれた図書館は、今のロッテデパートの場所にあった。当時、その図書館は公立図書館とも、総督府図書館とも呼ばれていた。解放後に国立図書館になったあの建物。日曜日に一緒に行くことにして、まずはボクスンの家を下調べしておくことにした。

 その子の家は楼上洞にあった。京城府内にこんな家が残っていることに驚いた。藁葺き屋根の軒が低く垂れ下がっていて、文字通り這って出入りするような家だった。平地なので水道水が出ることを除けば、我が家よりはるかにひどいものだった。3兄妹に両親と祖母の6人家族が狭苦しい部屋二つで暮らしていて大変そうだった。しかも、一人しかいない弟は、一日中よだれを垂らして声を張り上げる「薄弱児」で、母親は諦めからそうなったのか、姑の前で無表情な顔でタバコを吸っていた。

 そんな環境でも屈託なく朗らかに振る舞うその子を、私は同情しながらも尊敬していた。その子は自分で台所にいって、ちびたスプーンでじゃがいもの皮を剥いて蒸して私をもてなしてくれた。そんな飾り気のない態度に、私はとても感動した。私は、私にもほんとの友達ができたんだと感じた。それまで遊ぶ子が全くいなかったわけではない。しかし、友情に対する私の渇望を満たしてくれたのは、その子が初めてだった。

 図書館に行くのが学校の宿題と言ったら、すぐ母親の許しがでた。休みの日の朝、ボクスンの家から図書館までは、私には遠くて不慣れな道のりだった。ボクスンにとっても初めての道で、何度も道を尋ねてやっとたどり着いた先は、子どもが気軽に利用できるような建物ではなかった。赤レンガの建物には権威主義的な静けさが漂っており、どこからどうやって入って本を借りものやら、まったく見当すらつかなかった。

 建物の内側の暗くて冷ややかな静けさに、のぞいて見るのすらおじけづいて、開いているドアからちらっと覗いては次のドアへとうろうろしていると、制服を着た守衛さんが走ってきた。私は、何か自分の悪さがばれたようにドギマギしてしまったが、ボクスンの方は、教科書で習った図書館の利用法を直接やってみようと思って来たんです、とちゃんと答えた。すぐにも追い出さんばかりの勢いで駆け寄ってきた守衛さんだったが、ボクスンの話にちょっと感心したようだった。「ほう、そうなのか」と言いながら、この図書館には子供の閲覧室がないから、別の図書館に行ってみたらいいと教えてくれた。

 守衛さんが教えてくれた図書館は、そこからすぐのところにあった。いまの朝鮮ホテルの正門の向かい側にあった京城府立図書館だった。解放後は、ソウル大学の歯学部になったり、何度か用途が変わったが、その頃は総督府図書館の次に大きな図書館だった。その図書館も、私たちのような田舎者が簡単には利用できそうにない立派で陰気な雰囲気の建物だった。しかし、子どもの閲覧室は、本館とは別の平屋の別館にあった。

 入館するのに特別の手続きもなく、一人のおじさんが先生のように前の机に座っていた。おじさんの後ろの壁は全部本棚で、誰でも自由に本が取り出せる開架式だった。教科書に書かれていたような閲覧の手続きがあるわけではない。自分の家の本棚のように勝手に取り出して、面白くなければ元に戻してまた別の本を持ってくることができた。本当は読んでもいないのに、そうやってふざけてばかりいる子もいた。おじさんは、子供たちに向かって座ってはいたけど、何も言わなかった。おじさんも一日中本を読んでいた。こんな場所があるとは夢にも思っていなかった。別世界だった。

 その日に初めて借りた本は『ああ、無情』、児童用に抄訳された『レ・ミゼラブル』だった。もちろん日本語なのだが、読む楽しさに加えて挿絵が言いようもなく美しくてうっとりさせられた。抄訳で短くされていたとはいえ、かなりの厚さの本だったので、一生懸命読んだけれど図書館が閉まるまでに読み終わらなかった。帯出は許されていなかった。読み終えられずに本をそのまま置いて出てくるのは、自分の魂をそのまま置き去りにするようだった。叔父の家の屋根裏部屋で漫画を取り上げられた時と似ていたけど、それとは全く違う後ろ髪を引かれる思いだった。取り乱してどうかなりそうなくらいだった。ボクスンが読んだのは『小公女』で、最後まで読み終わったと言った。私たちはとても興奮して、お互いに読んだ本の話をして,次の休みにも必ずまた行くことを約束した。

 母は、私が休みごとに図書館に行くことに満足していた。兄は私が勉強をしに行くのではなく、童話を読みに行っていることを知っていた。しかし、図書館に備えられていた本については信頼していたので、やめろとは言わなかった。その日以来、休みの日には毎日図書館に行って本を一冊ずつ読むのが私の幼い日々の日課となり、ボクスンと私はいっそう仲良しになった。

 毎晩、夢で王になる幸せな乞食と、夢で乞食にならなければならない不幸な王の話を読み、ボクスンが先に読んだ『小公女』ももちろん読んだ。小公女セーラも下女に転落した後、夜な夜な彼女の帰りを待っている暖かくておいしい食べ物と暖かいストーブを夢みる。私にとって府立図書館の子供閲覧室は、まさにそのような夢の世界だった。

 私の夢の世界の窓の外には、ポプラが児童閲覧室の平屋建てよりも大きく育ち、夏になると、その葉っぱが無数の銀貨のように光輝き、冬になると、寒空に向かって伸びた力強い枝が、人を感化させる大きな意志を示しているかのように見えた。本を読む楽しみは、ある意味では、本以外のところにもあった。本を読みながら、ふと窓の外の空や緑の木々に目をやれば、これまでの平凡な日常が全く違って見えた。私は、そうした見慣れない物事のありようにうっとりとして、そこに喜びを感じていた。

 6年生になると、最近ほどではないにしろ、上級学校への入試準備が厳しくなった。担任の先生も怖い先生になり正課授業が終わった後も遅くまで勉強して試験に備えることになった。しかし、ボクスンと私は依然として日曜日には図書館に行って本を読むことをやめられなかった。宿題もたくさん出たが、土曜日に二人で一緒にさっさとやってしまった。ボクスンと私はいつも一緒にいて、先生やクラスメートのみんなが認める大の仲良しになった。ボクスンは勉強もとてもよくできた。私もボクスンと仲良しになってから成績が少し上がった。仲良しを失いたくないという気持ちが、その仲良しとの競争意識を育ててくれたのではないかと思う。

(訳:一松書院)

 朴婉緖は、40代に入った1970年に文壇デビューした。
 

 彼女は、1931年に開城ケソンに隣接する開豊ケプン郡で生まれ、幼い時に父親を亡くし、教育熱心な母親に連れられて京城に移った。住まいは、西大門刑務所の向かい側、いまアイパークアパートが建ち並ぶ斜面にあった(峴底洞46-418)。朴婉緖が通った学校は、山の尾根を一つ越えた向こう側にある社稷壇サジッダン北側の梅洞普通学校だった。1938年の朝鮮教育令改定で、朝鮮児童の通う「普通学校」も内地人児童と同じく「小学校」となり、1941年には「国民学校」と名称が変えられた。朴婉緖が5年性の時は、梅洞国民学校ということになる。

 

 転校してきたボクスンの住まいがあった楼上洞は、梅洞国民学校のすぐ北側。ボクスンは「創氏」して日本風の氏があったようだが、それは書かれていない。朴婉緖は最後まで「創氏改名」をしなかった。ボクスンの一家は、傾きかけた藁葺きのあばら家に引っ越してきたのだが、そんな家に住みながらもボクスンを普通学校に通わせていた。1930年代、朝鮮人女子児童の普通学校就学率は30数%に過ぎなかった。

 

 朝鮮人児童の初等教育を行う普通学校では、1938年の教育令改訂で「教授用用語は国語を用うべし」と定められた。「国語」とは日本語である。その改訂以前からすでに全ての科目で「国語」で教えることが求められていた。そして、1938年には「朝鮮語」の科目が廃止された。

 当時、梅洞国民学校の校長は石田和平、訓導や教員には朝鮮人が多かったが、内地人の訓導もいた。授業や学校生活では日本語が使われていた。しかし、ワンソとボクスンの日常会話は朝鮮語だったかもしれない。学校では日本語を強要されていても、家族とは朝鮮語で会話するしかなかったのだから。

 

 最初の日曜日に二人が徒歩で向かったのは朝鮮総督府図書館だった。この図書館は、1938年に完成した半島ホテル(現在の乙支路ウルチロロッテホテルの位置)の後ろ側、朝鮮ホテル(現在のウエスティン朝鮮チョソン)の東隣にあった。

 

 

 この建物は、解放後国立図書館として使われたが、1970年に朴正煕パクチョンヒ大統領がロッテの辛格浩シンキョッコにホテル建設を持ちかけ、1974年11月にロッテに売却されて撤去された。

 現在、ロッテショッピングの裏手の駐車場に図書館があったことを示すプレートが置かれている。

 

 

 ワンソとボクスンは、この総督府図書館にたどり着いたが、その威圧的な建物に尻込みをしてしまう。そこに守衛がやってきて、ボクスンが「教科書で習った図書館の利用法を直接やってみようと思って来た」と説明する。すると、守衛が「この図書館には子供の閲覧室がないから、別の図書館に行ってみたらいい」と、京城府立図書館を教えてくれた。

 

 総督府の下部機関では、内地人が守衛職に就いていた。この時の図書館の守衛も内地人であったと思われる。

 実は、総督府図書館にも本館裏手の別館に「婦女子文庫」が設置されており、児童用の図書も置かれていて、生徒・児童の利用も可能だった。

『朝鮮新聞』掲載の「婦女子文庫」の内部写真

 

 しかし、子供向け図書館としては、この婦女子文庫よりも京城府立図書館の児童室の方が蔵書も多く使いやすく人気があった。そのことを知っていた守衛は、ワンソとボクスンにその児童室を教えたのであろう。

 

 

 総督府図書館から京城府立図書館までは歩いて5分ほど、すぐ近くである。

 この児童室の内部の写真も『朝鮮新聞』に掲載されている。ワンソが、「一人のおじさんが先生のように前の机に座っていた」と描写したまさにその光景が写っている。写真は女性かもしれないが…。

 

 京城府立図書館は、1922年10月5日に明治町2丁目(現在の南大門税務署ナムデムンセムソの場所)の旧漢城病院の建物を利用して開館し、1927年5月に長谷川町の大観亭跡地に移転した。1928年6月に新しく3階建ての社会館が完成すると、その2階を図書閲覧室とした。下の写真の左側の平家の建物が、移転当初の図書館閲覧室で、社会館完成後にはここが児童室になった。

 

 

 

 旧社会館の建物は、解放後はソウル市の図書館として使用されていた。南山ナムサンに図書館が移転したあとは政党本部などとして利用されたが、その後建物が撤去されて長く駐車場として使われていた。

 大観亭跡地の発掘調査が行われていた2019年5月の写真には、石段と大きく成長したポプラの木が残っていた。朴婉緒は、このポプラの木を見上げていたのであろう。

 

 朴婉緖が最初に手に取った「ああ、無情」は、1934年の『京城府立図書館図書目錄』には出てこない。

 しかし、1938年4月の『京城府立図書館報』(第24号)の追加蔵書・児童図書の部に、池田宣政訳の『ああ無情』が記されている。

 

 池田宣政訳『ああ無情』を、現在の南山図書館のOPACで検索してみたが、さすがに出てこなかった。

 この『ああ無情』はこのような装丁の本で、吉邨よしむら二郎の挿絵が入っていた。

 

 

 ちなみに、1934年の『京城府立図書館図書目錄』の児童図書の童話のところに、朝鮮語のものが5タイトルだけだが掲載されている。

 例えば、世界少年文学集は、高長煥が集めた世界の童話を朝鮮語に翻訳して出版した労作であった。

 

 しかし、1936年頃から「国語常用」運動が始まり、1938年には朝鮮児童の通う旧普通学校でも、全ての教科を日本語で行うことが制度化された。これらの朝鮮語で書かれた子供向け図書は、閉架の書庫に移されるか除籍・廃棄されたのであろう。

 

 朴婉緒が、児童室の開架式の書架で目にすることができたのは、全てが「もちろん日本語」だったのである。

 


 

 梅洞国民学校を卒業した二人は、ワンソは淑明高等普通学校に、ボクスンは京城で朝鮮女学生が目指す最難関の女子高等普通学校に、と別々の学校に進学した。太平洋戦争で日本の敗色が濃くなり、京城にも疎開令が出された。ワンソは開城の学校に転校した。

 1945年8月、日本の敗戦とともにワンソは京城に戻り、1950年にソウル大学の国文科に入学した。しかし、その6月に朝鮮戦争が始まり、大学を卒業することなく結婚して主婦となった。

 そして、1970年に小説家としてデビュー。

 

 朴婉緒が、京城府立図書館でボクスンと一緒に日本語の童話を読み耽っていたこの話を書くのに、50年かかったということになる。童話を読む懐かしくてほのぼのとした思い出なのに、なんとなく複雑な思いにかられる追憶だったからなのだろうか。