『東亜日報』の「洞内・町内の名物 一百洞町一百名物」、1924年7月2日付けで取り上げられた敦義洞の名物は、ナムジャン=木の市場、つまり燃料となる薪を扱う柴炭市場である。
◇洞口内の大闕(昌德宮)に向かって左側に悦賓楼という料理屋があります。その料理屋の裏側にある薪市場が我が敦義洞の名物の薪市場です。薪市場の入り口の看板には「敦義洞公設柴炭市場」と書かれています。この薪市場ができてからすでに10年近くたちます。
◇ソウルの中に薪市場はいくつもありますが、この敦義洞薪市場のように歴史があり場所が広くて取り引きが多いところはそう多くはありません。この薪市場の今の持ち主は日本人ですが、以前は薪の束を市場に運び込むのに幾らかの入場料を払わなければなりませんでした。今はそのまま中に入って、取り引きが成立して売れたら仲買人に10銭ほどを払います。
◇とても広くて、薪の束がぎっしりと埋め尽くすような日には、1000束近くが持ち込まれるといいます。このことからも、この薪市場がどれほどの広さかがわかるでしょう。今は夏なので、農民たちは農作業で忙しくて薪を持ち込んでおらずずいぶんと寂しいのですが、秋・冬・春には6〜70里の城外から集まってきて、それは大層なものだといいます。
1936年の『大京城府大観』で悦賓楼の横の空き地の場所に柴炭市場があった。
今の5号線の鍾路3街駅の3番出口から出て路地を南にちょっと入ったところの異常に密になった地番の場所、ここが1936年まで公設の柴炭市場が開かれていたところである。
統監府が1910年7月に出した『韓国写真帖』には、このような薪売りの写真が掲載されている。
1910年に、漢城柴炭組合が京城府の許可を得て「トングアン(洞口内)」と呼ばれたこの場所に柴炭市場を開いた。この市場運営は10年間の期限付きで、1920年に期限満了で京城府から閉鎖の指示があった。このため、柴炭組合ではこの土地を売却することとしたが、買い手がなかなか見つからず、結局楊州郡白石面の金斗永に20,000円で売却することにした。
ところが、その後、京城府はこの柴炭市場を公設市場として続ける方針を出した。ここで、趙昌煥が出てきて、漢城柴炭組合から土地を買い取る契約を結んだ。趙昌煥は、公設柴炭市場を運営する京城府から年間2,500円の借料を受領できると踏んでいた。ところが、趙昌煥に購入資金を融資する殖産銀行は、融資条件として近い将来京城府がこの土地を買い取ることを確約するよう求めた。しかし、京城府は確約できないとしたため、趙昌煥への売却が宙に浮いているという『東亜日報』の記事がある。
結局、漢城柴炭組合と趙昌煥との間の取り引きは不成立に終わり、金斗栄(永?)から京城府が一坪あたり3円の借料で借り上げて、予定より半年遅れの12月から公設柴炭市場をここで運営することになった。しかし、京城府側は、3ヶ月過ぎたところで、借料を一坪あたり2円50銭への値下げを要求したという記事がある。
1924年7月の『東亜日報』の「洞内・町内の名物 一百洞町一百名物」では、「持ち主は日本人」となっているが、実際には朝鮮人が所有する土地を京城府が賃借して、そこで公設の柴炭市場を運営していた。
この1932年の記事で、京城府内には、敦義洞以外に安国洞・東大門・瑞麟洞・西大門に公設柴炭市場があったことがわかる。この時点で、全体の売上高も減少し、敦義洞の市場の売り上げは3番目に落ちていた。
1934年になると柴炭市場の売り上げはさらに落ちていた。
ただ、燃料消費全体の消費量は上昇しており、柴炭市場の売り上げ減少は、薪の使用が相対的に減っていたためである。
種類 | 消費量(トン) | 金額(円) |
練炭 | 60,000 | 1,000,000 |
石炭 | 140,000 | 1.800,000 |
コークス | 9,000 | 220,000 |
木炭 | 10,000 | 1,000,000 |
薪 | 90,000 | 1,000,000 |
石油 | 15,000 | 3,000,000 |
コスト的には薪が安いが、石炭や練炭の消費量が多くなっている。こうした趨勢で、敦義洞の公設柴炭市場は1936年で廃止されることになった。
この記事によると、市場廃止の理由は、取引の減少に加えて、府内の中心地に位置しており、都市景観上の問題や薪の搬入・搬出による交通障害などのためだとされている。ここは、個人の所有地を年間870円の賃借料で借り上げていたとなっているが、土地の所有者が金斗栄(永?)のままだったのか定かではない。
この公設柴炭市場の廃止後、この場所がどのように使われたのか、わかっていない。
ただ、土地の所有者は、それまでの年間870円の借料収入が無くなったわけで、そのまま空き地として放置したわけではないだろう。細分化して借地あるいは借家として借地料や借家料を得ようとしていた可能性も考えられる。
日本の敗戦による植民地支配からの解放、その後の朝鮮戦争のあと、この地域はあまり芳しくない話題で新聞紙面を賑わすようになる。
朝鮮戦争後、宗廟周辺の鍾路3街北側の一角が「鍾三」と呼ばれる私娼街となった。
私娼に関する記事が出ると、ソウル駅前の陽洞などとともにここも必ず取り上げられた。
柴炭市場跡地も建物がびっちりと建てられた私娼街となっていた。
1968年9月26日、ソウル開発の重要事業の一つ世運商街建設の現場を視察していたソウル市長金玄玉が、路地を通りかかったところで「遊んで行かない?」と女性に袖を引かれた。金玄玉は直ちに執務室に戻って「蝶作戦」の実行を指示した。
それまでも私娼街への手入れは行われていたが、取り締まりが終わるとすぐに元に戻っていた。「蝶作戦」は私娼街への取り締まりではなく、私娼街という「花」に集まってくる「蝶」である客を叩くという作戦。一帯の道路に街路灯を設置し、警察や公務員を動員して、客らしき人物に徹底した職務質問をして追い返した。噂はすぐ広まって、間もなく客足が途絶えた。娼婦やぽん引きの多くが、ここでの商売を諦めて別の場所に移って行った。
残された空き家は、その後無許可の簡易宿泊所として使われるようになった。非常に狭い空間に区切られた部屋は「チョッパン(쪽방)」と呼ばれる。
1984年には、そうした宿泊場所に未成年者を呼び込んでいたとして摘発された。その記事には、
10代の青少年相手に営業してきた「チョッパン旅館」一斉取り締まりを行い、鍾路3街ピカデリー横の路地の19ヶ所の旅館を摘発して李相元氏など17名を宿泊業法違反の容疑で立件した。
敦義洞130番地は、柴炭市場跡地の南側に隣接する地域だが、このあたり一帯に「チョッパン旅館」が密集していた。1999年3月24日の『朝鮮日報』には、柴炭市場跡地である敦義洞103番地が「都心の高層ビルに囲まれたチョッパン部落」として写真入りで紹介されている。
2012年12月にこの場所を探訪したリウメイさんのブログを紹介しておこう。