一松書院のブログ -46ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1945年8月15日、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終わりを告げた時、京城には4つの大きな図書館があった。「京城府立図書館」「京城府立図書館鍾路分館」「朝鮮総督府図書館」「交通図書館」の4館である。

 

 これらの図書館は、どのように建てられ、どのような変遷を辿ったのか。まとめてみたい。

 

 それぞれの図書館の叙述だけでは、図書館相互の間の時間的な関係がわかりにくく、図書館の変遷が複雑な部分もあるので、はじめに京城の図書館の変遷図を掲載しておく。参照しながらお読みいただきたい。

 


◆大韓図書館

 

 朝鮮では、「正史」はもとより、「正史」作成の主要な資料となる「実録」「日記」「謄録」などの記録類が作成され、製本・保存されていた。また、書院や郷校にも多くの漢籍が所蔵されていた。
特に、王朝が交替した後に編纂されるはずの今の王朝の「正史」、その編纂の根幹となる「実録」は、王の交替ごとに編纂され活字印刷されて、王都の春秋館チュンチュグァンと、鼎足チョンジョク山、太白テベク山、赤裳チョクサン山、五台オデ山の史庫に収蔵されていた。

 

 書物や資料を保存しておく機関として王宮付属の「蔵書閣チャンソガク」「奎章閣キュジャンガク」や上述の史庫があったが、それらは、近代になってからの図書を蒐集してそれを人々の閲覧に供して社会教育を行う施設としての「図書館」とは性格が異なる確実な資料保存を目的とするものであった。

 

 朝鮮でも、開化派の人々は19世紀末から図書館に対して関心を持っていた。しかし、実際に設立の動きが出たのは、日露戦争後のことだとされる。

 

 ちなみに、明治日本で「図書館令」が定められたのは1899年の勅令429号である。


 1906年2月15日の『皇城新聞』には、知識人の有志が欧米諸国の図書館の制度に倣って図書館設立に動いているのはまことに喜ばしいと報じている。

 

 

 この時、「大韓図書館」が開設されたとされるが、その詳細はわかっていない。

 ただ、日本による韓国併合の半年前、1910年3月の『皇城新聞』にこのような記事がある。

図書館竣工

 宮内府で管轄している図書館を現在拡張しているが、この工事が終わり次第、古今の書籍を多数陳列して一般の紳士にも観覧してもらえるようにする

 

 この記述で、「陳列」が配架、「観覧」が閲覧の意味で用いられているとすれば、今日の図書館に近い運用がなされた、あるいはなされようとしていたと推測される。

 

 ところが、1910年8月の韓国併合で、朝鮮総督府は大韓帝国時代の資料などを「旧慣調査」の一環と称して「図書の保存整理」を行った。

図書の保存整理

同局で奎章閣江華島書庫及びその他方面から引き継いだ図書で、目下保管している総数は118,627冊だという

 

 この過程で、大韓帝国宮内府の「大韓図書館」も廃止されて図書館としての運用は停止され、所蔵資料が総督府調査局に移されたものと考えられる。その後はこの「大韓図書館」に関連する記録は見出せない。

 

◆山口精の「京城図書館」

 

 韓国併合前の京城には、すでに相当数の日本人が居留していたが、その中に個人で図書館を開設した人物がいた。

 

 国会図書館デジタルコレクションで、1916年発行の京城図書館編『京城図書館概況』が閲覧できる。そこに、この「京城図書館」の沿革が記されている。

 「京城図書館」の始まりは、1908年9月に、京城の日本人商業会議所書記長山口精が、朴圭寿パクギュスの所蔵していた漢籍1300冊に加えて官公署刊行物や一般書籍、新聞などを集めて設立した「京城文庫」であった。1909年2月からは、これらを寿町の商業会議所で無料で一般に公開した。

 しかし、書庫や閲覧室が手狭であったことから、南米倉町10番地(南大門市場ナムデムンシジャンの旧セロナ百貨店・尚洞サンドン教会の裏手)の総督府の土地を借り受け、ここに新築した建物を「京城図書館」として1911年4月29日に開館した。建物の建築資金には、山口精の編著で刊行した『朝鮮産業誌』の収益金が充てられたという。

 

 

 山口精は、1876年岐阜県土岐郡の生まれで、村の若きリーダーとして地域振興で活躍した。満洲・朝鮮の視察旅行で大いに刺激を受け、1906年には京城に渡った。京城では、日本人商業会議所の書記長となり、その時に「京城図書館」を開いて個人で運営した。資産家ではないが、精力的な敏腕ネゴシエーターとして、商工業に関する請願や陳情などで成果をあげ、人脈を広げた。図書館が所蔵する官公署の出版物や新聞などは、多くが寄贈を受けたものだったが、それでも書籍の購入や館の維持・運営に相当な経費がかかった。その資金の出所などは明らかでないが、のちの閉館・売却時の経緯から、借入金が相当あったと思われる。

 

 山口精は、1917年12月から富田儀作とともに全朝鮮の商工業調査に着手した。富田儀作は鎮南浦で鉱山採掘や農場などの事業を行なっていた人物である。

 

 この商工業調査の過程で、山口精は慶尙南道キョンサンナムド統営トンヨンに強い関心を持つようになり、1918年11月に統営に螺鈿漆器の会社を設立してここに転居して地域振興事業に専念するようになった。1932年に統営半島と弥勒ミロク島とを結ぶ長さ483mの海底トンネルを完成させるなど、統営の名士として一躍有名になった。

統営半島と弥勒島を結ぶ海底トンネルは今も歩行者専用トンネルとして使われている。入口上部には山口精が揮毫した「龍門達陽」の文字が残っている。


 『朝鮮時論』1927年1月号に、統営での山口精について大山超洋がこのように描いている。

 

 山口精が統営に活動の中心を移しつつあった1918年以降、京城図書館は、その管理が京城在住の橋本茂雄と松本正寛に委ねられたが、すぐに運営に支障をきたすようになった。結局、この「京城図書館」は閉館し、尹益善ユンイクソンが開設した別の「京城図書館」に蔵書が売却されるのだが、その経緯については後述する。

 

◆図書館設置の画策と要望

 

 ちょうど山口精が統営に関心を転じ始めた頃、朝鮮総督府の機関紙であった『京城日報』と『毎日申報』に総督長谷川好道と某実業家の間で図書館設立についての協議が行われていると伝える記事が掲載されている。

 

 

 その1ヶ月後の5月4日の『京城日報』には、李範昇イボムスンの「図書館を設立せよ」という投稿が掲載された。

 当時、大韓帝国最後の皇帝純宗の息子李垠イウンが、梨本宮方子と結婚すると報じられており、李範昇は、その成婚記念事業として朝鮮で図書館設立を実現するよう主張したのである。その後、5月21日、22日、23日の全4回の記事で自論を披瀝した。また、『毎日申報』にも5月17日から7回にわたって朝鮮語で掲載されている。

 

 李範昇は、1912年に京都帝国大学に入学して法制史を専攻していたが、大学院進学後、朝鮮に図書館を設立する決意を固め、1918年初頭に上京して日本図書館協会会長の和田萬吉に面会して図書館設立や運営についてアドバイスを求めた。さらに、渋沢栄一や児玉秀雄にも会って朝鮮における図書館の必要性を訴えたが、協力は得られなかった。翌年、大連の南満州鉄道に就職し、この時にも泰東日報の社長金子雪斎に図書館設立への助力を依頼したが、これも実現しなかった。

 

 『京城日報』が4月4日の夕刊で報じた某実業家との図書館計画と、まだ京都在住の大学院生であった李範昇の図書館設立の要望とは、直接的な関係はない。しかし、『京城日報』や『毎日申報』は、図書館建設の雰囲気を盛り上げる意図もあって、李範昇の投稿を掲載したものと考えられる。

 

 当時、長谷川好道は、鎮南浦の実業家中村精七郎の資金で、山口精の京城図書館を引き継ぐ形で公営図書館設立を考えていた。山口精が統営での事業にのめり込むことになったきっかけの朝鮮商工業調査は、鎮南浦で事業を展開していた富田儀作と共同して行ったもので、中村精七郎と山口精との接点はそのあたりなのかもしれない。中村精七郎は、八幡製鐵所への鉄鉱石の輸送や海軍への無煙炭輸送など、朝鮮と九州・山口を結ぶ海運業者として財を成し、教育・文化事業に多額の寄付をすることでも有名だった。

 しかし、この図書館設立プランは実現しないまま保留状態が続いた。李範昇の図書館設立論も、この段階では実現の見通しは全く立っていなかった。

 

 

京城の図書館(2)尹益善と李範昇の 「京城図書館」に続く

 『東亜日報』の「洞内・町内の名物  一百洞町一百名物」、1924年7月2日付けで取り上げられた敦義洞の名物は、ナムジャン=木の市場、つまり燃料となる薪を扱う柴炭市場である。

 

◇洞口内の大闕(昌德宮)に向かって左側に悦賓楼という料理屋があります。その料理屋の裏側にある薪市場が我が敦義洞の名物の薪市場です。薪市場の入り口の看板には「敦義洞公設柴炭市場」と書かれています。この薪市場ができてからすでに10年近くたちます。

◇ソウルの中に薪市場はいくつもありますが、この敦義洞薪市場のように歴史があり場所が広くて取り引きが多いところはそう多くはありません。この薪市場の今の持ち主は日本人ですが、以前は薪の束を市場に運び込むのに幾らかの入場料を払わなければなりませんでした。今はそのまま中に入って、取り引きが成立して売れたら仲買人に10銭ほどを払います。

◇とても広くて、薪の束がぎっしりと埋め尽くすような日には、1000束近くが持ち込まれるといいます。このことからも、この薪市場がどれほどの広さかがわかるでしょう。今は夏なので、農民たちは農作業で忙しくて薪を持ち込んでおらずずいぶんと寂しいのですが、秋・冬・春には6〜70里の城外から集まってきて、それは大層なものだといいます。

 1936年の『大京城府大観』で悦賓楼の横の空き地の場所に柴炭市場があった。

 

 

 今の5号線の鍾路チョンノ3駅の3番出口から出て路地を南にちょっと入ったところの異常に密になった地番の場所、ここが1936年まで公設の柴炭市場が開かれていたところである。

 

 

 統監府が1910年7月に出した『韓国写真帖』には、このような薪売りの写真が掲載されている。

 1910年に、漢城柴炭組合が京城府の許可を得て「トングアン(洞口内)」と呼ばれたこの場所に柴炭市場を開いた。この市場運営は10年間の期限付きで、1920年に期限満了で京城府から閉鎖の指示があった。このため、柴炭組合ではこの土地を売却することとしたが、買い手がなかなか見つからず、結局楊州郡白石面の金斗永キムドゥヨンに20,000円で売却することにした。

 

 

 ところが、その後、京城府はこの柴炭市場を公設市場として続ける方針を出した。ここで、趙昌煥チョチャンファンが出てきて、漢城柴炭組合から土地を買い取る契約を結んだ。趙昌煥は、公設柴炭市場を運営する京城府から年間2,500円の借料を受領できると踏んでいた。ところが、趙昌煥に購入資金を融資する殖産銀行は、融資条件として近い将来京城府がこの土地を買い取ることを確約するよう求めた。しかし、京城府は確約できないとしたため、趙昌煥への売却が宙に浮いているという『東亜日報』の記事がある。

 

 結局、漢城柴炭組合と趙昌煥との間の取り引きは不成立に終わり、金斗栄キムドゥヨン(永?)から京城府が一坪あたり3円の借料で借り上げて、予定より半年遅れの12月から公設柴炭市場をここで運営することになった。しかし、京城府側は、3ヶ月過ぎたところで、借料を一坪あたり2円50銭への値下げを要求したという記事がある。

 

 

 1924年7月の『東亜日報』の「洞内・町内の名物  一百洞町一百名物」では、「持ち主は日本人」となっているが、実際には朝鮮人が所有する土地を京城府が賃借して、そこで公設の柴炭市場を運営していた。

 

 

 この1932年の記事で、京城府内には、敦義洞以外に安国洞・東大門・瑞麟洞・西大門に公設柴炭市場があったことがわかる。この時点で、全体の売上高も減少し、敦義洞の市場の売り上げは3番目に落ちていた。

 1934年になると柴炭市場の売り上げはさらに落ちていた。

 

 

 ただ、燃料消費全体の消費量は上昇しており、柴炭市場の売り上げ減少は、薪の使用が相対的に減っていたためである。

 

種類  消費量(トン)   金額(円)
練炭 60,000 1,000,000
石炭 140,000 1.800,000
コークス 9,000 220,000
木炭 10,000 1,000,000
90,000 1,000,000
石油 15,000 3,000,000

 

 コスト的には薪が安いが、石炭や練炭の消費量が多くなっている。こうした趨勢で、敦義洞の公設柴炭市場は1936年で廃止されることになった。

 

 

  この記事によると、市場廃止の理由は、取引の減少に加えて、府内の中心地に位置しており、都市景観上の問題や薪の搬入・搬出による交通障害などのためだとされている。ここは、個人の所有地を年間870円の賃借料で借り上げていたとなっているが、土地の所有者が金斗栄(永?)のままだったのか定かではない。

 

 この公設柴炭市場の廃止後、この場所がどのように使われたのか、わかっていない。

 ただ、土地の所有者は、それまでの年間870円の借料収入が無くなったわけで、そのまま空き地として放置したわけではないだろう。細分化して借地あるいは借家として借地料や借家料を得ようとしていた可能性も考えられる。

 


 

 日本の敗戦による植民地支配からの解放、その後の朝鮮戦争のあと、この地域はあまり芳しくない話題で新聞紙面を賑わすようになる。

 

 朝鮮戦争後、宗廟チョンミョ周辺の鍾路3街北側の一角が「鍾三チョンサム」と呼ばれる私娼街となった。

 私娼に関する記事が出ると、ソウル駅前の陽洞ヤンドンなどとともにここも必ず取り上げられた。

 

 

 柴炭市場跡地も建物がびっちりと建てられた私娼街となっていた。

 

 

 1968年9月26日、ソウル開発の重要事業の一つ世運商街セウンサンガ建設の現場を視察していたソウル市長金玄玉キムヒョノクが、路地を通りかかったところで「遊んで行かない?」と女性に袖を引かれた。金玄玉は直ちに執務室に戻って「蝶作戦」の実行を指示した。

 

 それまでも私娼街への手入れは行われていたが、取り締まりが終わるとすぐに元に戻っていた。「蝶作戦」は私娼街への取り締まりではなく、私娼街という「花」に集まってくる「蝶」である客を叩くという作戦。一帯の道路に街路灯を設置し、警察や公務員を動員して、客らしき人物に徹底した職務質問をして追い返した。噂はすぐ広まって、間もなく客足が途絶えた。娼婦やぽん引きの多くが、ここでの商売を諦めて別の場所に移って行った。

 

 残された空き家は、その後無許可の簡易宿泊所として使われるようになった。非常に狭い空間に区切られた部屋は「チョッパン(쪽방)」と呼ばれる。

 

 

 

 1984年には、そうした宿泊場所に未成年者を呼び込んでいたとして摘発された。その記事には、

10代の青少年相手に営業してきた「チョッパン旅館」一斉取り締まりを行い、鍾路3街ピカデリー横の路地の19ヶ所の旅館を摘発して李相元氏など17名を宿泊業法違反の容疑で立件した。

 敦義洞トニドン130番地は、柴炭市場跡地の南側に隣接する地域だが、このあたり一帯に「チョッパン旅館」が密集していた。1999年3月24日の『朝鮮日報』には、柴炭市場跡地である敦義洞103番地が「都心の高層ビルに囲まれたチョッパン部落」として写真入りで紹介されている。

 

 2012年12月にこの場所を探訪したリウメイさんのブログを紹介しておこう。

 

 

 1940年代、日本が太平洋戦争にのめり込んでいた時代に、京城で京城府立図書館を利用していた朝鮮の少女がいた。朴婉緒パクワンソが『あのたくさんのオオヤマソバを誰がみんな食べたのだろうか(그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까)』(初版:1992年)に、次のように書き記している。

オオヤマソバ:6〜8月に白い花を咲かせるタデ科の植物、若葉の茎は酸味がありそのまま食べられる。

韓国語の電子書籍はここで購入できる

お試し版で読める可能性あり

 5年生の時に初めて親しい友達ができた。転校生で、先生が私とペアにした。転校してきた子が新しい環境に馴染むまで親切な子とペアを組ませるというのが先生たちのやり方だった。私はクラスでは目立たない子だったので、何かに選ばれることはなかったのに、ペアにはいつも選ばれていた。内心ではいやだったが,そんな素振りは見せなかった。自分では自分がお利口さんではないことを知っていたが、先生が私に見出した唯一の希望を裏切る勇気はなかった。その子は苗字だけを日本式に変えて、名前の方はボクスンといって田舎くさいままだった。見た目も田舎くさくて、着ているものもパッとしなかった。

 その子とペアになった最初の国語の授業は、図書館についてだった。図書館で本を借りて、読んでから返却するまでが詳しく出ていた。先生は、君たちも実際に図書館を利用したらいい経験になると、図書館の場所を教えてくれた。そんなことはよくあった。真面目にやると上手くいく話なら「君たちもやってみなさい』と言われ、正直さについての話なら、正直こそが一番価値があると強調される。そんなことは、聞き流せばそれでおしまいだった。

 ところが、野暮ったいボクスンが次の日曜日に一緒に図書館に行こうと私を誘ったのだ。「先生が教えてくれた公立図書館の場所をちゃんと聞いておいたので行けそうだ」と言って、「国語の教科書にあったように、そこで読みたい本を思う存分借りられたらきっと楽しいはずよ」というのだ。ボクスンは私より本を読むことに憧れていた。ボクスンと比べたら私は奥手だった。先生が教えてくれた図書館は、今のロッテデパートの場所にあった。当時、その図書館は公立図書館とも、総督府図書館とも呼ばれていた。解放後に国立図書館になったあの建物。日曜日に一緒に行くことにして、まずはボクスンの家を下調べしておくことにした。

 その子の家は楼上洞にあった。京城府内にこんな家が残っていることに驚いた。藁葺き屋根の軒が低く垂れ下がっていて、文字通り這って出入りするような家だった。平地なので水道水が出ることを除けば、我が家よりはるかにひどいものだった。3兄妹に両親と祖母の6人家族が狭苦しい部屋二つで暮らしていて大変そうだった。しかも、一人しかいない弟は、一日中よだれを垂らして声を張り上げる「薄弱児」で、母親は諦めからそうなったのか、姑の前で無表情な顔でタバコを吸っていた。

 そんな環境でも屈託なく朗らかに振る舞うその子を、私は同情しながらも尊敬していた。その子は自分で台所にいって、ちびたスプーンでじゃがいもの皮を剥いて蒸して私をもてなしてくれた。そんな飾り気のない態度に、私はとても感動した。私は、私にもほんとの友達ができたんだと感じた。それまで遊ぶ子が全くいなかったわけではない。しかし、友情に対する私の渇望を満たしてくれたのは、その子が初めてだった。

 図書館に行くのが学校の宿題と言ったら、すぐ母親の許しがでた。休みの日の朝、ボクスンの家から図書館までは、私には遠くて不慣れな道のりだった。ボクスンにとっても初めての道で、何度も道を尋ねてやっとたどり着いた先は、子どもが気軽に利用できるような建物ではなかった。赤レンガの建物には権威主義的な静けさが漂っており、どこからどうやって入って本を借りものやら、まったく見当すらつかなかった。

 建物の内側の暗くて冷ややかな静けさに、のぞいて見るのすらおじけづいて、開いているドアからちらっと覗いては次のドアへとうろうろしていると、制服を着た守衛さんが走ってきた。私は、何か自分の悪さがばれたようにドギマギしてしまったが、ボクスンの方は、教科書で習った図書館の利用法を直接やってみようと思って来たんです、とちゃんと答えた。すぐにも追い出さんばかりの勢いで駆け寄ってきた守衛さんだったが、ボクスンの話にちょっと感心したようだった。「ほう、そうなのか」と言いながら、この図書館には子供の閲覧室がないから、別の図書館に行ってみたらいいと教えてくれた。

 守衛さんが教えてくれた図書館は、そこからすぐのところにあった。いまの朝鮮ホテルの正門の向かい側にあった京城府立図書館だった。解放後は、ソウル大学の歯学部になったり、何度か用途が変わったが、その頃は総督府図書館の次に大きな図書館だった。その図書館も、私たちのような田舎者が簡単には利用できそうにない立派で陰気な雰囲気の建物だった。しかし、子どもの閲覧室は、本館とは別の平屋の別館にあった。

 入館するのに特別の手続きもなく、一人のおじさんが先生のように前の机に座っていた。おじさんの後ろの壁は全部本棚で、誰でも自由に本が取り出せる開架式だった。教科書に書かれていたような閲覧の手続きがあるわけではない。自分の家の本棚のように勝手に取り出して、面白くなければ元に戻してまた別の本を持ってくることができた。本当は読んでもいないのに、そうやってふざけてばかりいる子もいた。おじさんは、子供たちに向かって座ってはいたけど、何も言わなかった。おじさんも一日中本を読んでいた。こんな場所があるとは夢にも思っていなかった。別世界だった。

 その日に初めて借りた本は『ああ、無情』、児童用に抄訳された『レ・ミゼラブル』だった。もちろん日本語なのだが、読む楽しさに加えて挿絵が言いようもなく美しくてうっとりさせられた。抄訳で短くされていたとはいえ、かなりの厚さの本だったので、一生懸命読んだけれど図書館が閉まるまでに読み終わらなかった。帯出は許されていなかった。読み終えられずに本をそのまま置いて出てくるのは、自分の魂をそのまま置き去りにするようだった。叔父の家の屋根裏部屋で漫画を取り上げられた時と似ていたけど、それとは全く違う後ろ髪を引かれる思いだった。取り乱してどうかなりそうなくらいだった。ボクスンが読んだのは『小公女』で、最後まで読み終わったと言った。私たちはとても興奮して、お互いに読んだ本の話をして,次の休みにも必ずまた行くことを約束した。

 母は、私が休みごとに図書館に行くことに満足していた。兄は私が勉強をしに行くのではなく、童話を読みに行っていることを知っていた。しかし、図書館に備えられていた本については信頼していたので、やめろとは言わなかった。その日以来、休みの日には毎日図書館に行って本を一冊ずつ読むのが私の幼い日々の日課となり、ボクスンと私はいっそう仲良しになった。

 毎晩、夢で王になる幸せな乞食と、夢で乞食にならなければならない不幸な王の話を読み、ボクスンが先に読んだ『小公女』ももちろん読んだ。小公女セーラも下女に転落した後、夜な夜な彼女の帰りを待っている暖かくておいしい食べ物と暖かいストーブを夢みる。私にとって府立図書館の子供閲覧室は、まさにそのような夢の世界だった。

 私の夢の世界の窓の外には、ポプラが児童閲覧室の平屋建てよりも大きく育ち、夏になると、その葉っぱが無数の銀貨のように光輝き、冬になると、寒空に向かって伸びた力強い枝が、人を感化させる大きな意志を示しているかのように見えた。本を読む楽しみは、ある意味では、本以外のところにもあった。本を読みながら、ふと窓の外の空や緑の木々に目をやれば、これまでの平凡な日常が全く違って見えた。私は、そうした見慣れない物事のありようにうっとりとして、そこに喜びを感じていた。

 6年生になると、最近ほどではないにしろ、上級学校への入試準備が厳しくなった。担任の先生も怖い先生になり正課授業が終わった後も遅くまで勉強して試験に備えることになった。しかし、ボクスンと私は依然として日曜日には図書館に行って本を読むことをやめられなかった。宿題もたくさん出たが、土曜日に二人で一緒にさっさとやってしまった。ボクスンと私はいつも一緒にいて、先生やクラスメートのみんなが認める大の仲良しになった。ボクスンは勉強もとてもよくできた。私もボクスンと仲良しになってから成績が少し上がった。仲良しを失いたくないという気持ちが、その仲良しとの競争意識を育ててくれたのではないかと思う。

(訳:一松書院)

 朴婉緖は、40代に入った1970年に文壇デビューした。
 

 彼女は、1931年に開城ケソンに隣接する開豊ケプン郡で生まれ、幼い時に父親を亡くし、教育熱心な母親に連れられて京城に移った。住まいは、西大門刑務所の向かい側、いまアイパークアパートが建ち並ぶ斜面にあった(峴底洞46-418)。朴婉緖が通った学校は、山の尾根を一つ越えた向こう側にある社稷壇サジッダン北側の梅洞普通学校だった。1938年の朝鮮教育令改定で、朝鮮児童の通う「普通学校」も内地人児童と同じく「小学校」となり、1941年には「国民学校」と名称が変えられた。朴婉緖が5年性の時は、梅洞国民学校ということになる。

 

 転校してきたボクスンの住まいがあった楼上洞は、梅洞国民学校のすぐ北側。ボクスンは「創氏」して日本風の氏があったようだが、それは書かれていない。朴婉緖は最後まで「創氏改名」をしなかった。ボクスンの一家は、傾きかけた藁葺きのあばら家に引っ越してきたのだが、そんな家に住みながらもボクスンを普通学校に通わせていた。1930年代、朝鮮人女子児童の普通学校就学率は30数%に過ぎなかった。

 

 朝鮮人児童の初等教育を行う普通学校では、1938年の教育令改訂で「教授用用語は国語を用うべし」と定められた。「国語」とは日本語である。その改訂以前からすでに全ての科目で「国語」で教えることが求められていた。そして、1938年には「朝鮮語」の科目が廃止された。

 当時、梅洞国民学校の校長は石田和平、訓導や教員には朝鮮人が多かったが、内地人の訓導もいた。授業や学校生活では日本語が使われていた。しかし、ワンソとボクスンの日常会話は朝鮮語だったかもしれない。学校では日本語を強要されていても、家族とは朝鮮語で会話するしかなかったのだから。

 

 最初の日曜日に二人が徒歩で向かったのは朝鮮総督府図書館だった。この図書館は、1938年に完成した半島ホテル(現在の乙支路ウルチロロッテホテルの位置)の後ろ側、朝鮮ホテル(現在のウエスティン朝鮮チョソン)の東隣にあった。

 

 

 この建物は、解放後国立図書館として使われたが、1970年に朴正煕パクチョンヒ大統領がロッテの辛格浩シンキョッコにホテル建設を持ちかけ、1974年11月にロッテに売却されて撤去された。

 現在、ロッテショッピングの裏手の駐車場に図書館があったことを示すプレートが置かれている。

 

 

 ワンソとボクスンは、この総督府図書館にたどり着いたが、その威圧的な建物に尻込みをしてしまう。そこに守衛がやってきて、ボクスンが「教科書で習った図書館の利用法を直接やってみようと思って来た」と説明する。すると、守衛が「この図書館には子供の閲覧室がないから、別の図書館に行ってみたらいい」と、京城府立図書館を教えてくれた。

 

 総督府の下部機関では、内地人が守衛職に就いていた。この時の図書館の守衛も内地人であったと思われる。

 実は、総督府図書館にも本館裏手の別館に「婦女子文庫」が設置されており、児童用の図書も置かれていて、生徒・児童の利用も可能だった。

『朝鮮新聞』掲載の「婦女子文庫」の内部写真

 

 しかし、子供向け図書館としては、この婦女子文庫よりも京城府立図書館の児童室の方が蔵書も多く使いやすく人気があった。そのことを知っていた守衛は、ワンソとボクスンにその児童室を教えたのであろう。

 

 

 総督府図書館から京城府立図書館までは歩いて5分ほど、すぐ近くである。

 この児童室の内部の写真も『朝鮮新聞』に掲載されている。ワンソが、「一人のおじさんが先生のように前の机に座っていた」と描写したまさにその光景が写っている。写真は女性かもしれないが…。

 

 京城府立図書館は、1922年10月5日に明治町2丁目(現在の南大門税務署ナムデムンセムソの場所)の旧漢城病院の建物を利用して開館し、1927年5月に長谷川町の大観亭跡地に移転した。1928年6月に新しく3階建ての社会館が完成すると、その2階を図書閲覧室とした。下の写真の左側の平家の建物が、移転当初の図書館閲覧室で、社会館完成後にはここが児童室になった。

 

 

 

 旧社会館の建物は、解放後はソウル市の図書館として使用されていた。南山ナムサンに図書館が移転したあとは政党本部などとして利用されたが、その後建物が撤去されて長く駐車場として使われていた。

 大観亭跡地の発掘調査が行われていた2019年5月の写真には、石段と大きく成長したポプラの木が残っていた。朴婉緒は、このポプラの木を見上げていたのであろう。

 

 朴婉緖が最初に手に取った「ああ、無情」は、1934年の『京城府立図書館図書目錄』には出てこない。

 しかし、1938年4月の『京城府立図書館報』(第24号)の追加蔵書・児童図書の部に、池田宣政訳の『ああ無情』が記されている。

 

 池田宣政訳『ああ無情』を、現在の南山図書館のOPACで検索してみたが、さすがに出てこなかった。

 この『ああ無情』はこのような装丁の本で、吉邨よしむら二郎の挿絵が入っていた。

 

 

 ちなみに、1934年の『京城府立図書館図書目錄』の児童図書の童話のところに、朝鮮語のものが5タイトルだけだが掲載されている。

 例えば、世界少年文学集は、高長煥が集めた世界の童話を朝鮮語に翻訳して出版した労作であった。

 

 しかし、1936年頃から「国語常用」運動が始まり、1938年には朝鮮児童の通う旧普通学校でも、全ての教科を日本語で行うことが制度化された。これらの朝鮮語で書かれた子供向け図書は、閉架の書庫に移されるか除籍・廃棄されたのであろう。

 

 朴婉緒が、児童室の開架式の書架で目にすることができたのは、全てが「もちろん日本語」だったのである。

 


 

 梅洞国民学校を卒業した二人は、ワンソは淑明高等普通学校に、ボクスンは京城で朝鮮女学生が目指す最難関の女子高等普通学校に、と別々の学校に進学した。太平洋戦争で日本の敗色が濃くなり、京城にも疎開令が出された。ワンソは開城の学校に転校した。

 1945年8月、日本の敗戦とともにワンソは京城に戻り、1950年にソウル大学の国文科に入学した。しかし、その6月に朝鮮戦争が始まり、大学を卒業することなく結婚して主婦となった。

 そして、1970年に小説家としてデビュー。

 

 朴婉緒が、京城府立図書館でボクスンと一緒に日本語の童話を読み耽っていたこの話を書くのに、50年かかったということになる。童話を読む懐かしくてほのぼのとした思い出なのに、なんとなく複雑な思いにかられる追憶だったからなのだろうか。