1945年8月15日、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終わりを告げた時、京城には4つの大きな図書館があった。「京城府立図書館」「京城府立図書館鍾路分館」「朝鮮総督府図書館」「交通図書館」の4館である。
これらの図書館は、どのように建てられ、どのような変遷を辿ったのか。まとめてみたい。
それぞれの図書館の叙述だけでは、図書館相互の間の時間的な関係がわかりにくく、図書館の変遷が複雑な部分もあるので、はじめに京城の図書館の変遷図を掲載しておく。参照しながらお読みいただきたい。
◆大韓図書館
朝鮮では、「正史」はもとより、「正史」作成の主要な資料となる「実録」「日記」「謄録」などの記録類が作成され、製本・保存されていた。また、書院や郷校にも多くの漢籍が所蔵されていた。
特に、王朝が交替した後に編纂されるはずの今の王朝の「正史」、その編纂の根幹となる「実録」は、王の交替ごとに編纂され活字印刷されて、王都の春秋館と、鼎足山、太白山、赤裳山、五台山の史庫に収蔵されていた。
書物や資料を保存しておく機関として王宮付属の「蔵書閣」「奎章閣」や上述の史庫があったが、それらは、近代になってからの図書を蒐集してそれを人々の閲覧に供して社会教育を行う施設としての「図書館」とは性格が異なる確実な資料保存を目的とするものであった。
朝鮮でも、開化派の人々は19世紀末から図書館に対して関心を持っていた。しかし、実際に設立の動きが出たのは、日露戦争後のことだとされる。
ちなみに、明治日本で「図書館令」が定められたのは1899年の勅令429号である。
1906年2月15日の『皇城新聞』には、知識人の有志が欧米諸国の図書館の制度に倣って図書館設立に動いているのはまことに喜ばしいと報じている。
この時、「大韓図書館」が開設されたとされるが、その詳細はわかっていない。
ただ、日本による韓国併合の半年前、1910年3月の『皇城新聞』にこのような記事がある。
図書館竣工
宮内府で管轄している図書館を現在拡張しているが、この工事が終わり次第、古今の書籍を多数陳列して一般の紳士にも観覧してもらえるようにする
この記述で、「陳列」が配架、「観覧」が閲覧の意味で用いられているとすれば、今日の図書館に近い運用がなされた、あるいはなされようとしていたと推測される。
ところが、1910年8月の韓国併合で、朝鮮総督府は大韓帝国時代の資料などを「旧慣調査」の一環と称して「図書の保存整理」を行った。
図書の保存整理
同局で奎章閣江華島書庫及びその他方面から引き継いだ図書で、目下保管している総数は118,627冊だという
この過程で、大韓帝国宮内府の「大韓図書館」も廃止されて図書館としての運用は停止され、所蔵資料が総督府調査局に移されたものと考えられる。その後はこの「大韓図書館」に関連する記録は見出せない。
◆山口精の「京城図書館」
韓国併合前の京城には、すでに相当数の日本人が居留していたが、その中に個人で図書館を開設した人物がいた。
国会図書館デジタルコレクションで、1916年発行の京城図書館編『京城図書館概況』が閲覧できる。そこに、この「京城図書館」の沿革が記されている。
「京城図書館」の始まりは、1908年9月に、京城の日本人商業会議所書記長山口精が、朴圭寿の所蔵していた漢籍1300冊に加えて官公署刊行物や一般書籍、新聞などを集めて設立した「京城文庫」であった。1909年2月からは、これらを寿町の商業会議所で無料で一般に公開した。
しかし、書庫や閲覧室が手狭であったことから、南米倉町10番地(南大門市場の旧セロナ百貨店・尚洞教会の裏手)の総督府の土地を借り受け、ここに新築した建物を「京城図書館」として1911年4月29日に開館した。建物の建築資金には、山口精の編著で刊行した『朝鮮産業誌』の収益金が充てられたという。
山口精は、1876年岐阜県土岐郡の生まれで、村の若きリーダーとして地域振興で活躍した。満洲・朝鮮の視察旅行で大いに刺激を受け、1906年には京城に渡った。京城では、日本人商業会議所の書記長となり、その時に「京城図書館」を開いて個人で運営した。資産家ではないが、精力的な敏腕ネゴシエーターとして、商工業に関する請願や陳情などで成果をあげ、人脈を広げた。図書館が所蔵する官公署の出版物や新聞などは、多くが寄贈を受けたものだったが、それでも書籍の購入や館の維持・運営に相当な経費がかかった。その資金の出所などは明らかでないが、のちの閉館・売却時の経緯から、借入金が相当あったと思われる。
山口精は、1917年12月から富田儀作とともに全朝鮮の商工業調査に着手した。富田儀作は鎮南浦で鉱山採掘や農場などの事業を行なっていた人物である。
この商工業調査の過程で、山口精は慶尙南道の統営に強い関心を持つようになり、1918年11月に統営に螺鈿漆器の会社を設立してここに転居して地域振興事業に専念するようになった。1932年に統営半島と弥勒島とを結ぶ長さ483mの海底トンネルを完成させるなど、統営の名士として一躍有名になった。
統営半島と弥勒島を結ぶ海底トンネルは今も歩行者専用トンネルとして使われている。入口上部には山口精が揮毫した「龍門達陽」の文字が残っている。
『朝鮮時論』1927年1月号に、統営での山口精について大山超洋がこのように描いている。
山口精が統営に活動の中心を移しつつあった1918年以降、京城図書館は、その管理が京城在住の橋本茂雄と松本正寛に委ねられたが、すぐに運営に支障をきたすようになった。結局、この「京城図書館」は閉館し、尹益善が開設した別の「京城図書館」に蔵書が売却されるのだが、その経緯については後述する。
◆図書館設置の画策と要望
ちょうど山口精が統営に関心を転じ始めた頃、朝鮮総督府の機関紙であった『京城日報』と『毎日申報』に総督長谷川好道と某実業家の間で図書館設立についての協議が行われていると伝える記事が掲載されている。
その1ヶ月後の5月4日の『京城日報』には、李範昇の「図書館を設立せよ」という投稿が掲載された。
当時、大韓帝国最後の皇帝純宗の息子李垠が、梨本宮方子と結婚すると報じられており、李範昇は、その成婚記念事業として朝鮮で図書館設立を実現するよう主張したのである。その後、5月21日、22日、23日の全4回の記事で自論を披瀝した。また、『毎日申報』にも5月17日から7回にわたって朝鮮語で掲載されている。
李範昇は、1912年に京都帝国大学に入学して法制史を専攻していたが、大学院進学後、朝鮮に図書館を設立する決意を固め、1918年初頭に上京して日本図書館協会会長の和田萬吉に面会して図書館設立や運営についてアドバイスを求めた。さらに、渋沢栄一や児玉秀雄にも会って朝鮮における図書館の必要性を訴えたが、協力は得られなかった。翌年、大連の南満州鉄道に就職し、この時にも泰東日報の社長金子雪斎に図書館設立への助力を依頼したが、これも実現しなかった。
『京城日報』が4月4日の夕刊で報じた某実業家との図書館計画と、まだ京都在住の大学院生であった李範昇の図書館設立の要望とは、直接的な関係はない。しかし、『京城日報』や『毎日申報』は、図書館建設の雰囲気を盛り上げる意図もあって、李範昇の投稿を掲載したものと考えられる。
当時、長谷川好道は、鎮南浦の実業家中村精七郎の資金で、山口精の京城図書館を引き継ぐ形で公営図書館設立を考えていた。山口精が統営での事業にのめり込むことになったきっかけの朝鮮商工業調査は、鎮南浦で事業を展開していた富田儀作と共同して行ったもので、中村精七郎と山口精との接点はそのあたりなのかもしれない。中村精七郎は、八幡製鐵所への鉄鉱石の輸送や海軍への無煙炭輸送など、朝鮮と九州・山口を結ぶ海運業者として財を成し、教育・文化事業に多額の寄付をすることでも有名だった。
しかし、この図書館設立プランは実現しないまま保留状態が続いた。李範昇の図書館設立論も、この段階では実現の見通しは全く立っていなかった。














































