一松書院のブログ -47ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

※2021年11月24日、1882年の最初の日本公使館の位置についての記述を全面的に修正しました。
 

 朝鮮の都に置かれた日本の公使館。南山の北麓の印象が強いが、1882年の壬午軍乱とか1884年の甲申政変の時は別の場所にあった。

 

 朝鮮王朝時代から大韓帝国の日本公使館の場所の変遷を、覚えとして整理しておきたい。

 


 ソウル歴史博物館所蔵の『漢陽京域圖』(1890〜97製作?)には、木覓山モンミョッサン南山ナムサン)の北麓に「日本公使館」が記載されており、敦義門トヌィムン西大門ソデムン)の外側、天然亭チョニョンジョンの横に「旧日本公使館」の記載がある。

 

 1876年に「日朝修好条規(江華島条約)」が締結され、日本政府はこれによって日朝間の従前からの華夷的な「交隣」関係が、近代西欧の国際法的関係になったものとした。日本は、朝鮮よりも上位にはなり得ない「交隣」関係を捨てて、国際法的秩序の受容で先行したとして自国を朝鮮よりも上位に位置づけようとした。同時に、華夷的な朝清関係にも楔を打ち込もうと考えた。

 国際法的な国家関係では、公館を相互の首都に置いて自国の主権を代表する公使を常駐させるのが外交慣行だが、華夷的な関係においては使臣は常駐しない。日本は執拗に朝鮮の首都に公使の駐留を認めるよう迫っていた。

 

◆1880年12月から壬午軍乱(1882年7月)まで

 朝鮮に対して攻撃的な圧力を強めていた明治政府は、1880年4月に花房義質よしもとを朝鮮公使に任命し、12月に赴任させた。しかし公使館は漢城の城内には置けなかった。朝鮮側から指定されたのは、漢城の城外、西大門外の京畿キョンギ監営の向かい側にある天然亭の場所であった。天然亭はすぐ下に西池ソジと呼ばれる蓮池があり、そこを見下ろす場所にあった。

 

 1882年7月、壬午軍乱が起きた。軍人への糧食の配給が遅延し、開化政策が経済的な困窮を招いたと不満を抱く軍人が蜂起し、民衆もそれに加わった。開化政策をすすめる日本の公使館も包囲され、花房公使以下の公使館員は、公使館に自ら火を放ち、包囲する群衆を突破して揚花鎮ヤンファジン(現在の合井ハプチョン)で漢江ハンガンを渡って仁川インチョンに脱出した。

 

 当時、清は、朝鮮を欧米列強に開国させて自国の宗属関係による特殊な地位を確立しようとししていた。壬午軍乱は、この清の方針に逆行するものであったため、清が軍隊を派遣して反乱を鎮圧した。そして、「衛正斥邪」派のリーダーとして反乱勢力に担ぎ出されていた興宣フンソン大院君テウォングンを清に抑留した。

 

京城府編『京城府史』第1巻(1934)P. 501

 

 西池は、その後埋め立てられて竹添普通学校が置かれ、現在は金華クマ初等学校となっている。京畿監営のあった場所は、植民地時代に赤十字病院が建てられ、現在もそのまま病院の敷地になっている。

 

 最初の日本公使館の場所は、1920年1月に真宗大谷派が朝鮮総督府から無償で借り受け、ここに向上会館を建設した。真宗大谷派は、1878年に釜山に本願寺別院を置いて朝鮮での布教活動を開始し、3・1独立運動後は朝鮮人懐柔のための社会事業に乗り出していた。
 

日之出洋行制作絵葉書 左の韓屋が「天然亭」

 

 1924年からは、ここに女子技芸学校が開設され、1936年に向上女子実業学校となった。
 

 

 解放後は、財団法人東明学園が学校運営を引き継ぎ、現在は東明女子中学校になっている。

 

◆1882年8月から1884年4月

 

 清が軍隊を出して反乱軍を制圧すると、8月に花房公使を軍艦4隻と陸軍1個大隊をつけて仁川から京城に向かわせた。8月16日に日本軍と共に京城に入った花房義質は、泥峴ニヒョン(チンゴゲ)の李鍾承イジョンスンの邸宅1を公館とし、軍隊はその付近の民家2掌楽院チャンアグォン3を接収して宿舎とした。これらの具体的な場所について、京城府編『京城府史』第一巻(1934)には次のように記されている。

  1. 李鍾承は武将であって乱中地方に移居した。其の家は相当な規模で文武諸官を容れるに充分であった。其の位置は現本町二丁目八〇番地及び之に接する南方・西南方一帯の地で、其の正門は東向し同番地なる現藪蕎麦店の位置にあった。
  2. 現寿町三番地料亭喜よしの付近より南山の山手一帯の民家。
  3. 現黄金町二丁目東洋拓殖会社計上支店の西端一帯にあった官署。

1933年発行の『京城精密地図』に落とし込むとこのようになる。


 花房義質は1882年9月18日離任し、後任の公使竹添進一郎が1883年1月7日着任した。

 日本は、慶雲洞にあった朴泳孝パギョンヒョの邸宅を購入して、ここに公使館を移すこととした。

 朴泳孝は、壬午軍乱の事後処理として日朝間で締結された済物浦チェムルポ条約批准のため、修信使スシンサとして日本を訪問しており、その関係で邸宅を公使館の場所として売却することになったのであろう。

 朴泳孝の慶雲洞旧宅は、現在の地下鉄3号線安国アングック駅の南側、昌徳宮チャンドックンにほど近い有力両班の屋敷の多い一帯にあり、向かい側は興宣大院君の雲峴宮ウニョングンであった。日本は、朝鮮王朝の中枢に公使館を進出させたのである。

 

◆1884年4月から甲申政変(1884年12月)まで

 

 日本は、4月17日に公使館を移転した。新しい公使館本館を建設する予定だったが、当初は韓屋をそのまま事務所や宿舎として利用した。本館の建築工事は、大倉組が70人以上の職人を日本から呼び寄せて行われた。敷地は、慶雲洞の天道教チョンドギョ教会の南側約1,000坪の広さがあったという。朴泳孝の旧宅だけでなくその周辺も買い足したのかもしれない。


現在の地下鉄3号線安国駅アングンヨッの3番出口を出て楽園商街ナゴンサンガ方面に進むと、右手に天道教チョンドギョの施設がある。

その南側の区画が日本公使館敷地であった。

 

 公使館本館は、11月3日に落成した。竹添進一郎は前年末から日本に帰国していたが、落成直前の10月30日に帰任していた。この図は、井上角五郎の『漢城廼残夢』(1891.10)に掲載された挿絵として『京城府史』に転載されているものである。

 

 この新しい公使館の落成から1ヶ月後、12月4日に金玉均キモッキュンや朴泳孝などの急進開化派のグループが郵政局の開局式典の宴会を利用して政変を起こした。竹添進一郎は、日本軍守備隊150名で国王高宗を擁して開化政策を進める開化派勢力を警護することになっていた。

 

 高宗をはじめとする王族関係者は、昌慶宮から西に隣接した景祐宮キョンウグンに避難し、日本軍はここを警護したが、高宗らは翌日昌徳宮に戻った。ここで、東大門トンデムン付近の下都監ハドガム(現在の訓練院フルリョンウォン公園)に駐屯していた清国軍隊1,300名が、反乱勢力を制圧するという名目で出動、敦化門トナムン宣仁門ソニンムンで日本軍守備隊150名と交戦状態になった。

 竹添進一郎と公使館の館員と日本軍は、開化派のメンバーとともに昌徳宮の北門から脱出して、嘉会洞カフェドン方向(現在の北村プッチョン地区)を迂回して慶雲洞の公使館に戻った。しかし、ここも清軍や朝鮮住民に包囲されたため公使館を放棄。公使館員と日本軍守備隊は、12月7日に職人や避難してきた日本人民間人など100名以上とともに鍾路を西に向かい西大門から仁川に脱出した。

 この時に、南山北麓の日本軍の本営と公使館は火を放たれて焼失した。

 

◆1885年1月末以降

 

 金玉均や朴泳孝など、政変を起こした開化派メンバーは日本へ渡ったが、公使館員や軍部隊は仁川に留まった。

 12月28日に、参事院議官井上毅ら先遣隊とともに竹添公使は京城に向かった。朝鮮政府は、彼らを城内には入れず、西大門外の前京畿監司金輔鉉キムボヒョンの邸宅(義州路一丁目55:現在の渼芹洞ミグンドン警察庁庁舎の裏手)を仮の公館とした。全権大使の外務卿井上馨は、1月3日に西大門外の京畿監司に入り、1月9日に漢城ハンソン条約に署名した。この条約で朝鮮側は日本に焼失した慶雲洞の公使館の代替地を提供するものとしている。竹添進一郎は、朝鮮側から忌避されていたので、近藤真鋤を臨時代理公使とし、竹添は辞任、帰国した。

 

 京城居留民団役所『京城発達史』(1912)には、

只京城の内外を威圧せし清兵は引き揚げしも、我駐在兵又同時に引き揚げたれば我日本人団は昨年に倍して寂寥を覚えたり。竹添公使は一月に辞任帰朝したるを以て近藤書記官臨時代理公使として在勤せり。一月京城条約後韓廷は直ちに南山の清泉涌き老翠滴る処に構へられたる緑泉亭を我が公使館とすべく提供し、元の倭城台倶楽部の在る所を領事館敷地として提供したれば、直ちに公使館は西門外の京畿監営より此緑泉亭に移り増築工事を施せり。

とある。また『京城府史』第二巻(1936)には、

この月、日本政府は朝鮮側の提供した南山山麓朴某なるものの邸宅を公使館に充当し、現寿町六番地にあった倭城台倶楽部の地一帯を領事館の予定地として受領した。十一日 竹添公使の辞任帰国後近藤書記官臨時代理公使となり同月某日西大門外の仮公使館を南山に移転した。

《中略》

近藤代理公使は十七年の変乱に鑑み条約上城内の居住区域には何らの制限なきに拘はらず、外務協弁及び清国理事官と談合の上、 取締の便宜上より日本人は南山山麓に清国人は水標橋付近に居住せしむることとし、日本人の居住地を公使館(現総督官邸)を起点とし領事館より北行する小路の両側すなわち現寿町と本町二丁目の南辺に横はる小路の両側及び其の西端より同町九十二番地なる現明治製菓京城販売所に達する小路迄の一小域内に定めた。此の頃前記道路の幅員は現在と大差なきも付近の他の道路に比較すれば最も広く、 現に殷盛を極むる本町表通はなほ之より狭く、日本人家屋は一も認むることができなかつた。

とある。

 

 さらに日清戦争後の1896年には、領事業務を行う領事館を新たに建設した。現在、新世界シンセゲデパートのある場所である。

 

◆公使館から統監府へ

 

 1905年の日露戦争後、1905年11月17日に第2次日韓協約で日本は大韓帝国の外交権を奪った。この結果、外交を担当する日本の公使館は不要となったとされ、統監府が置かれることになった。また外国の公使館も、その国の主権を代表する公使館ではなく、在留する自国民の保護や査証業務を行う領事館ということにされた。日本の領事館は理事庁となり、併合後はそれがそのまま京城府庁となった。

 

 日本公使館は1906年1月31日に閉鎖され、翌日の2月1日に旧外部ウェブ(外務省:現在の韓国歴史博物館ハングッグヨクサパンムルグァンの場所)の庁舎に統監府が置かれた。同時に南山北麓で統監府の新庁舎建設が始められ、翌1907年2月に完成して28日にここに統監府を移した。

 

写真右端の建物が統監府庁舎。中央の三角の屋根は東本願寺、左の建物は明洞大聖堂。

 

 旧日本公使館は、統監官邸として使用された。併合後は、朝鮮総督の官邸となった。

このイチョウの木が上の総督官邸の絵葉書の左側で、旧日本公使館の位置が推定される。

 

歴代公使

花房義質 弁理公使 1880年4月17日
1882年9月28日
竹添進一郎 弁理公使 1882年11月6日
1885年6月30日
島村久 臨時代理公使 1883年12月
1884年10月
高平小五郎 臨時代理公使 1885年3月
1887年8月
杉村濬 臨時代理公使 1886年10月
1887年3月
近藤真鋤 臨時代理公使 1887年8月6日
1891年2月27日
河北俊弼 代理公使及弁理公使 1890年12月17日
1891年3月10日死去
松井慶四郎 事務代理 1891年3月
1891年4月
梶山鼎介 弁理公使 1891年3月24日
1892年12月16日
大石正巳 弁理公使 1892年12月6日
1893年7月21日
大鳥圭介 清国駐箚特命全権公使兼任 1893年7月26日
1894年10月31日
井上馨 特命全権公使 1894年10月15日
1896年10月1日
三浦梧楼 特命全権公使 1896年8月17日
1896年10月17日
小村寿太郎 弁理公使及特命全権公使 1896年10月17日
1896年6月9日
原敬 特命全権公使 1896年6月11日
1896年10月12日
加藤増雄 弁理公使及特命全権公使 1897年2月23日
1899年6月1日
林権助 特命全権公使 1899年6月1日
1906年1月31日

アジア歴史資料センター アジ歴グロッサリーより転載

2021年2月28日追加修正

 

 

以下の資料を参照した。

 

京城居留民団役所『京城発達史』1912

 

京城府編『京城府史』第一巻 1934

京城府編『京城府史』第二巻 1936

 

 

 『東亜日報』の「洞内・町内の名物  一百洞町一百名物」、1924年7月20日付けで取り上げられた竹添町の名物は、「穴」=トンネル。

 

◇誰もが、西大門外の監営交差点から麻浦行きの路面電車に乗って、まもなく八角亭のあたりからだんだん上りになり、それとともに電車通りの下を横切った先に掘られたトンネルを目にすることになります。これが、他に類を見ない我が町の名物です。トンネルが一つや二つでなく、一・二カ所だけにあるものではないのになぜでしょうか。このトンネルが、他のものとは違って町中の一角に掘られたということで名物の価値があるのです。朝鮮にもトンネルが結構たくさんありますが、町中に掘られたものは一つもなかったのです。

◇それだけではありません。一日に十数回、長い汽車の車輪が通るたびに町の人たちはここに目をやります。以前は、京義線の鉄道は龍山を通っていましたが、今やこのトンネルを通るようになりました。このトンネルは、距離が1,254尺、総工費が230,772円もかかったとのことです。工事が始まったのが今から6年前の涼しい9月1日で、3年近くかかってとても暑い6月25日に竣工したということです。

 1928年に京城電気が出した『京城電車案内』で見ると、左下の部分に京義線のトンネルが描かれている。赤十字病院のところに京畿監営があった。

 

 いまも当時のトンネルは健在である。

 

 

 この画像は、地下鉄5号線の西大門ソデムン駅から忠正路チュンジョンノ駅に向かう道路の跨線橋から撮ったもの。『東亜日報』の記事の1924年当時は単線だったので、右側のトンネルしかなかった。

 

 

 西大門から麻浦マポ方面に向かうこの道沿いは、1914年4月1日の京城府の区域画定で、竹添町と定められた。現在は忠正路である。


 義州路を北に上ってすぐの左手高台に、1880年、初めて日本公使館が置かれ、初代公使花房義質が赴任した。華夷的な交隣関係では認められなかった公使館の設置を、万国公法を振りかざす明治政府が朝鮮に強引に認めさせたものであった。現在の金華クマ初等学校のところに西池があり、池を見下ろすこの高台には天然亭があった。ここを清水館と呼んで公使館とした。現在は監理教カムニギョ神学大学校のキャンパスになっている。

 1882年に、衛正斥邪を唱える大院君を担いだ壬午軍乱が起きると、この日本公使館は襲撃され焼失した。花房たちは仁川インチョンから日本に逃れた。

京城府編『京城府史』第1巻 1934

 

 壬午軍乱は、清が軍を出して鎮圧し、日本は朝鮮との間で済物浦条約を結び、公使館警護の名目で日本軍の京城駐留を認めさせた。1883年1月に竹添進一郎が公使として赴任した。

 

 この時の日本公使館は、西大門外の清水館ではなく、現在の明洞ミョンドン大聖堂の北側(本町2丁目80:忠武路チュンムロ2街)にあった李鍾承イジョンスンの邸宅に置かれた。日本軍守備隊はここから現在の乙支路ウルチロにかけての家屋を接収して駐屯した。翌年、慶雲洞キョンウンドン朴泳孝パギョンヒョ邸を買収し、ここで公使館建設に着手し、4月にここに移転した。現在の校洞キョドン初等学校の向かい側あたりである。

 ところが、1884年12月の甲申政変で、政変勢力側があてにしていた日本軍守備隊は清軍に敗れ、竹添進一郎らは12月7日に公使館を放棄して仁川に脱出した。脱出後、日本公使館は放火されて焼失した。

 竹添進一郎は、12月28日に京城に戻ったが、城内には入れず、西大門外の京畿監司金輔鉉キムボヒョンの旧宅(義州通1丁目55番地)を仮の公使館とした。翌1985年1月11日に竹添進一郎は離任し、その後日本公使館は南山ナムサンの北麓に移動することになる。

 

 つまり、「竹添町」は最初に日本公使館があった場所だが、必ずしも竹添進一郎のゆかりの地ではない。公使であれば、むしろ花房義質の方がこの地に関係が深い。しかし、ここは花房町ではなく竹添町となった。どのような基準によるものなのだろうか。

 

 『東亜日報』の記事にもあるように、京城と鴨緑江河畔の新義州を結ぶ京義線は別のルートを通っていた。京義線は、1902年に建設が始まり、1905年に開業したが、その始発駅は龍山。龍山から西にカーブをして北上していた。一方、仁川と結ぶ京仁線は西大門外の京城駅(後に西大門駅と改称)を始発駅として、南大門駅、龍山駅を経て仁川に行く路線だった。その後開通した釜山と京城を結ぶ京釜線も、西大門の京城駅を始発駅とした。

 

 下の地図の黄色いマーカーから黄緑のマーカーが旧京義線である。1908年には釜山と新義州を結ぶ直通急行列車の運行が始まったが、この列車は南大門駅や西大門駅は通らなかった。

 

 朝鮮の中心地京城の鼻先をかすめるだけの鉄道路線には不満が多く寄せられ、1912年には、京城の商業会議所が、京義線が南大門駅・西大門駅を通るように鉄道線を変更することを求める請願書を総督府に提出している。

 


 この京義線の経路変更のための線路新設工事については、1914年12月2日の『毎日申報』にはこのような記事が出ている。

 

大正3年度に用地買収を行い、明年度以降起工することになるが、その工事の概要は以下の通りである。蓬莱町の線路合流点から左にカーブしてフランス総領事館の東側で麻浦街道を横切り、竹添3丁目でトンネルになってアメリカ人ブライアン氏の邸宅前の東北側から山脈の最高地点直下を経て高陽郡に出て水色に到る。

(中略)

西大門駅は今後どのようにするかについては目下検討中である。

 この新しい線路の試運転は、1920年12月16日に行われている。『京城日報』には試運転で竹添町のトンネル「阿峴隧道」から出てくる蒸気機関車の写真を掲載している。

 

 

 上掲の『東亜日報』の町内名物の記事では、トンネル工事が1918年9月1日に始まり、1921年6月25日に竣工したと書かれているが、これは誤りである。この試運転を伝える『朝鮮日報』の記事には、この南大門駅と水色駅を結ぶ新線「京水線」の起工が1918年9月1日、竣工したのが1920年6月25日と書かれている。これを誤転載したのであろう。計算も間違っている。

 

 

 ちなみに、西大門駅は1919年3月31日に廃止された。現在の柳寛順ユグァンスン記念館、梨花イファ女子外国語高校のあたりに駅舎があった。西大門駅から旧京義線への接続は困難だと判断され、西大門駅を捨てて南大門駅を京城の中央駅とすることが既定方針となった。現在も残るソウル駅の駅舎は1922年着工、1925年竣工である。

 

 

 その後、日中戦争開戦後の1939年に京義線が複線化され、トンネルが新たに掘られて二つのトンネルが並列することになった。

 

 

 そして、1945年8月15日。

 

 北緯38度線で、南はアメリカ軍が、北はソ連軍が日本の敗戦処理をすることになった。京義線は38度線をまたいでの運行は困難となり、開城ーソウル間で運行された。

 1950年の朝鮮戦争開戦で、列車運行はマヒ状態になったが、9月の仁川上陸作戦で国連軍がソウルを奪還し、国連軍・韓国軍の北上とともに平壌ピョンヤンまでの京義線運行が打ち上げられた。

 

 しかし中国義勇軍の参戦で、国連軍は押し戻されて、1953年の休戦を迎えた。休戦ラインと非武装地帯の設定により、京義線は文山ムンサンまでしか列車運行ができなくなった。利用者は激減し、片側の線路だけを使った単線運行に切り替えられた。

 

文山から板門店に向かう途中の「鉄道中断点」表示

「철마는 달리고 싶다(鉄馬は走りたい)」(1976年3月撮影)

 

 1967年、ソウルの都市開発の進捗に伴い、鉄道庁は京義線のソウルー文山間の複線運行を再開することとし、再整備に着手した。ところが、老朽化したこの阿峴アヒョントンネルが崩落して、トンネル上の家屋が潰れて死傷者を出す事故が発生した。

 

 

 その後、郊外線として運行されてきたが、バスに押されて利用者は伸び悩み、今でも電車の本数は大都市の中を走る路線とは思えないような時刻表で運行されている。

 

 


 

 2000年6月の南北首脳会談と第1回南北閣僚級会談の結果、休戦ラインで分断されていた京義線の再連結が合意された。2004年4月には「南北間の列車運行に関する基本合意書」も締結された。2004年と2005年には試運転の実施日程も組まれたが、実現しなかった。

 文在寅ムンジェイン政権になった2018年、ソウルから新義州までの南北鉄道共同調査が行われ、11月30日から18日間かけて、京義線と東海トンヘ線での調査が行われた。

 

 ソウル発平壌行きとか、ソウル発北京行きのKTXが、ソウル駅を出てすぐにこのトンネルを通って走り出す… というようなことになるのだろうか。

 

ソウル駅を出て2分50秒あたりで出てくるのが阿峴トンネル 

 

 
 
 
 
 

 映画「南山の部長たち」。
 今回は映画とは関係のない私の個人的な体験の話。

 

=====

 10・26事件が起きた時、私は福岡にいた。

 事件の起きる前、ひょんなことから、在福岡韓国総領事館の領事の家族に日本語を教える話が舞い込んだ。

 崔△奎チェ…ギュ崔□羅チェ…ラ兄妹、兄は25歳、妹は23歳だった。実際に彼らに日本語を教え始めたのは、この事件の後なのだが、すぐに自分たちはこの事件と関わりがあるんだと打ち明けられた。東京に「偉い伯父」がいて、その伯父がこの事件の犯人の金載圭キムジェギュとつながっているという。

 

 へぇーっと思ったが、当時は、韓国社会の親族関係についても、よくわかっていなかった。

 

 △奎と□羅の父親は、福岡の総領事館の教育官崔允鉉チェユンヒョン領事。8月の終わりに福岡に赴任してきた。東京の伯父というのは、韓国大使館の崔世鉉チェセヒョン公使で、崔允鉉領事の実兄。

 

 崔世鉉公使はKCIAの日本統括責任者として1979年2月に着任した。元々は心理学者で、アメリカの大学で教壇に立っていた。それをKCIAの部長になった金載圭が韓国に呼び戻し、駐日公使として東京の大使館に赴任してもらった。崔世鉉と金載圭とはそれぞれの妻が姉妹という関係。従っていわば義理の兄弟ということになる。

 

 この事件が起きると崔世鉉公使は難しい立場に立たされた。結局、金載圭の裁判が始まった4日後の12月8日、こっそり成田空港からフランクフルトに脱出し、家族とともにアメリカに亡命した。

 しかし、弟の崔允鉉領事とその家族はそのまま福岡に留まっていた。私は△奎と□羅、それに朴一龍パクイルリョン領事の息子朴◇民パク…ミンの3人に日本語を教えていた。朴一龍は福岡総領事館のKCIA担当領事であった。

 

 そして、翌年5月、韓国では光州事件が起こり、金載圭はその最中の5月24日に部下4人とともに絞首刑に処せられた。秘書だった朴興柱パクフンジュは現役軍人だったので軍事法廷で早く結審し、3月に銃殺刑に処せられていた。光州事件についても、金載圭の処刑についても、日本で大きく報じられた。

 

 

 ただ、3人とこうしたことを直接的に話題にした記憶はない。そもそも当時は、私の韓国語も、彼らの日本語も、難しい時事問題を語れるほどの水準にはなっていなかった。何も話さなかったはずはない。彼らの立場もあったので多少の遠慮もあっただろうが、単に理解できなかっただけなのだろう。残念なことをした。

 

 8月11日の朝、私の住んでいたアパートのドアを開けると、新聞紙に包んだサントリーオールドがあった。崔允鉉領事の名刺が出てきた。業者の配達とは思えない。△奎が届けにきたお中元かと思って電話したが、つながらない。結局暑中見舞いのハガキで礼状を書いた。


 翌週、8月17日付の『朝日新聞』(朝刊)に、アメリカに亡命した崔世鉉前駐日公使のインタビュー記事が大きく掲載された。KCIAの日本国内での活動の内情を暴露し、金大中キムデジュンの内乱陰謀容疑はでっち上げだとする内容だった。金大中は、光州事件に絡んで北朝鮮と繋がっていたとして軍事裁判にかけられていた。

 

 

 この崔世鉉へのインタビュー記事は、文明子ムンミョンジャ(USアジアニュース)の仲介で朝日新聞が書いたものであった。

 文明子は、朝鮮日報・東亜日報・MBCの在米特派員を歴任した経験豊富な在米のジャーナリストだった。彼女は、1973年の金大中拉致事件がKCIAによるものだと報じ、11月に米国に亡命を決意した。金炯旭キムヒョヌックがフランスで行方不明になる前、1977年に金炯旭にインタビューしたNHKの高島肇久につないだのは文明子であった。

 

 上の『朝日新聞』を目にした時、サントリーオールドが届いた後、△奎と□羅と連絡が取れなくなったのと無関係ではない気がした。

 

 案の定、8月19日付の『西日本新聞』(朝刊)に、崔允鉉一家がロンドン経由でアメリカに入国したとの記事が出た。

 

 

 その後どうなったのかはわからない。

 あの兄妹はどうしているだろうか。

 

 ちなみに、金載圭夫人の金英姫キムヨンヒは、金載圭が保安司令部での取調べで国家に全財産を「寄付」することに同意したことで、住んでいる家以外の全てを失った。金載圭とともに死刑に処せられた5人の部下の家族へのサポートは、実家の父親からの支援でなんとかまかなった。

 

 一人娘はアメリカに出国させ、そこで結婚したが、金英姫自身は長く韓国からの出国が認められなかった。

 

 1990年代に入って、財産の「寄付」は拷問と強制によるものだとして、土地の返還請求訴訟を起こし、1997年に勝訴して土地などは遺家族に返還された。

 

 

 夫人の金英姫は、現在アメリカ在住だという。