映画「南山の部長たち」。
今回は映画とは関係のない私の個人的な体験の話。
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10・26事件が起きた時、私は福岡にいた。
事件の起きる前、ひょんなことから、在福岡韓国総領事館の領事の家族に日本語を教える話が舞い込んだ。
崔△奎と崔□羅兄妹、兄は25歳、妹は23歳だった。実際に彼らに日本語を教え始めたのは、この事件の後なのだが、すぐに自分たちはこの事件と関わりがあるんだと打ち明けられた。東京に「偉い伯父」がいて、その伯父がこの事件の犯人の金載圭とつながっているという。
へぇーっと思ったが、当時は、韓国社会の親族関係についても、よくわかっていなかった。
△奎と□羅の父親は、福岡の総領事館の教育官崔允鉉領事。8月の終わりに福岡に赴任してきた。東京の伯父というのは、韓国大使館の崔世鉉公使で、崔允鉉領事の実兄。
崔世鉉公使はKCIAの日本統括責任者として1979年2月に着任した。元々は心理学者で、アメリカの大学で教壇に立っていた。それをKCIAの部長になった金載圭が韓国に呼び戻し、駐日公使として東京の大使館に赴任してもらった。崔世鉉と金載圭とはそれぞれの妻が姉妹という関係。従っていわば義理の兄弟ということになる。
この事件が起きると崔世鉉公使は難しい立場に立たされた。結局、金載圭の裁判が始まった4日後の12月8日、こっそり成田空港からフランクフルトに脱出し、家族とともにアメリカに亡命した。
しかし、弟の崔允鉉領事とその家族はそのまま福岡に留まっていた。私は△奎と□羅、それに朴一龍領事の息子朴◇民の3人に日本語を教えていた。朴一龍は福岡総領事館のKCIA担当領事であった。
そして、翌年5月、韓国では光州事件が起こり、金載圭はその最中の5月24日に部下4人とともに絞首刑に処せられた。秘書だった朴興柱は現役軍人だったので軍事法廷で早く結審し、3月に銃殺刑に処せられていた。光州事件についても、金載圭の処刑についても、日本で大きく報じられた。
ただ、3人とこうしたことを直接的に話題にした記憶はない。そもそも当時は、私の韓国語も、彼らの日本語も、難しい時事問題を語れるほどの水準にはなっていなかった。何も話さなかったはずはない。彼らの立場もあったので多少の遠慮もあっただろうが、単に理解できなかっただけなのだろう。残念なことをした。
8月11日の朝、私の住んでいたアパートのドアを開けると、新聞紙に包んだサントリーオールドがあった。崔允鉉領事の名刺が出てきた。業者の配達とは思えない。△奎が届けにきたお中元かと思って電話したが、つながらない。結局暑中見舞いのハガキで礼状を書いた。
翌週、8月17日付の『朝日新聞』(朝刊)に、アメリカに亡命した崔世鉉前駐日公使のインタビュー記事が大きく掲載された。KCIAの日本国内での活動の内情を暴露し、金大中の内乱陰謀容疑はでっち上げだとする内容だった。金大中は、光州事件に絡んで北朝鮮と繋がっていたとして軍事裁判にかけられていた。
この崔世鉉へのインタビュー記事は、文明子(USアジアニュース)の仲介で朝日新聞が書いたものであった。
文明子は、朝鮮日報・東亜日報・MBCの在米特派員を歴任した経験豊富な在米のジャーナリストだった。彼女は、1973年の金大中拉致事件がKCIAによるものだと報じ、11月に米国に亡命を決意した。金炯旭がフランスで行方不明になる前、1977年に金炯旭にインタビューしたNHKの高島肇久につないだのは文明子であった。
上の『朝日新聞』を目にした時、サントリーオールドが届いた後、△奎と□羅と連絡が取れなくなったのと無関係ではない気がした。
案の定、8月19日付の『西日本新聞』(朝刊)に、崔允鉉一家がロンドン経由でアメリカに入国したとの記事が出た。
その後どうなったのかはわからない。
あの兄妹はどうしているだろうか。
ちなみに、金載圭夫人の金英姫は、金載圭が保安司令部での取調べで国家に全財産を「寄付」することに同意したことで、住んでいる家以外の全てを失った。金載圭とともに死刑に処せられた5人の部下の家族へのサポートは、実家の父親からの支援でなんとかまかなった。
一人娘はアメリカに出国させ、そこで結婚したが、金英姫自身は長く韓国からの出国が認められなかった。
1990年代に入って、財産の「寄付」は拷問と強制によるものだとして、土地の返還請求訴訟を起こし、1997年に勝訴して土地などは遺家族に返還された。
夫人の金英姫は、現在アメリカ在住だという。



