「南山の部長たち」(6)二人の女性 | 一松書院のブログ

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映画「南山の部長たち」にまつわるこぼれ話。

 

1979年12月16日の軍事法廷に出廷した二人の女性(中央日報アーカイブ)

 

 1979年11月6日の合同捜査本部の発表で、車智澈チャジチョル朴正煕パクチョンヒが撃たれた現場にいた「成錦子」と「鄭恵順」と書かれた二人の女性の話。

 

 上掲の捜査本部資料の最後に書かれている二人の名前は仮名である。二人の実名は沈守峰シムスボン申才順シンジェスン。冒頭の写真にあるように、事件の裁判に出廷する姿は報道陣のカメラにも捉えられていたのだが、その後も実名がマスコミに報じられることはなかった。

 

 独裁政権による情報統制で、当時の韓国社会では、民衆は自分たちの情報をクチコミで共有していた。マスコミなど信用しない。その伝統は今も残る。二人の女性の本名もクチコミですぐに人々の耳に届いた。

 

 当時、沈守峰は、「あの時のあの人(그 때 그 사람)」が大ヒットし、この年の年末の「79MBC 10大歌手歌謡祭」にも出演が決まっていた。

 

 

 その沈守峰があの事件の宴席にいたという衝撃的な事実は一気に広まった。テレビはそれを全く伝えない。新聞にも何も書かれていない。しかし、疑う人はいなかった。

 しばらくすると、「沈守峰は屏風の後ろで歌ってたんだって…」という話も広がった。確かに沈守峰はルックスではなく歌唱力で売ってる歌手だった。それもありだろうなぁ…と私も思った。

 もう一人の女性は、漢陽ハニャン大演劇映画科3年生だった申才順。2年生在学中に結婚して娘を生んだが、その後離婚して3年生に復学していた。女優志望だった彼女は、ツテを頼ってKCIAの儀典課長朴善浩パクソンホに会うことができた。権力の中枢にパイプを作ることは芸能界デビューにもつながる。事件後、幸か不幸か、彼女は沈守峰の陰に隠れて「もう一人あそこにいたミスシン」になった。

 

 KCIAの儀典課長の仕事の一つは、「安家アンガ」での宴会に同席させる女性を常に確保しておくことであった。

 映画「インサイダーズ/内部者たち(내부자들)」で、イ・ビョンホンが演じるアン・サングが、ミレ自動車のオ・ジョンス会長、イ・ガンヒ主筆、チャン・ピル議員の宴会に女性を送り込む、あのような役割である。

 2005年の映画「あの時のあの人たち(그때 그사람들 邦題:ユゴ 大統領有故)」では、主演の韓石圭ハンソッキュは儀典課長朴善浩を演じた。主役は儀典課長で、この映画では、二人の女性にスポットが当てられている。だから、映画のタイトルも沈守峰のヒット曲をもじった「あの時のあの人たち」だったのだ。沈守峰役には、人気バンド紫雨林チャウリムのボーカル キム・ユナが起用された。キム・ユナが日本語で都はるみの「北の宿から」、美空ひばりの「悲しい酒」を歌っている。

 

 

 「南山の部長たち」では、二人の女性はほとんど目立たない。歌を歌ってはいるが、韓国の古い歌謡「荒城の古跡(황성옛터ファンソンイェット)」。

 

 この曲は、日本の植民地支配下の1928年に李アリスがレコードに吹き込んだもので、解放後も思い出の歌謡の一つにあげられる名曲である。

 ただ、実際の事件当日は、沈守峰は「あの時のあの人」一曲だけを歌って、この「荒城の古跡」も「悲しい酒」も歌ってはいない。

 

 この事件後、同席していた二人は、そのまま帰宅させられた。いかなることがあっても何も口外しないという「守秘義務」が課せられていた。合同捜査本部は、すぐに二人が現場にいたことを把握し、戒厳司令部に呼び出して連日連夜の厳しい事情聴取が行われた。

 

 それでも、沈守峰は、事件の2ヶ月後の12月31日の「79MBC 10大歌手歌謡祭」に出演し、母親も画面に登場し、芸能活動は継続できるかにみえた。

 

 ところが、新たな独裁者として権力を握った全斗煥チョンドゥファンは、情報統制と世論操作をもくろみ、マスコミを統廃合し、「浄化」という名の下に歌手や俳優、タレントなどに圧力をかけた。1980年の9月に20数名の芸能人がテレビ・ラジオへの出演が禁じられた。沈守峰もその一人だった。出演禁止の基準は明らかにされなかった。沈守峰については、新たな独裁者全斗煥にとって、人々に朴正煕を思い出させる沈守峰の存在が目障りだからだとささやかれていた。

 

 多くの芸能人は早々に禁止措置が解かれた中で、沈守峰は1984年まで出演禁止処分が続いた。歌手としての活動は大きく制約された。

 

 1984年に出演禁止は解除されたが、1985年に出した「無窮花ムグンファ」が突然発売禁止になるなど、全斗煥政権下ではさまざまな圧力がかけられた。

 1987年の「民主化宣言」以降、同じ軍人出身の盧泰愚ノテウが大統領になったが、多少独裁色は薄まり、情報の統制も緩和された。

 

 東亜日報の記者金忠植キムチュンシクが、「南山の部長たち」の連載記事の第1回を『東亜日報』に掲載したのは1990年8月10日。この連載記事の金載圭の部分が、今回の映画の原作になっている。

 この連載の第108回でこの事件が取り上げられた。掲載されたのは1992年9月5日付の紙面。そこで、初めて「沈守峰」「申才順」の名前が新聞の紙面で活字になった。

 

「虫けらのように」嫌っていた警護室長車智澈が、そして大統領が、銃弾を受けた。酒宴に呼ばれていた歌手の沈守峰とモデルの申才順は驚いた。沈守峰が倒れかかる大統領をささえると、朴正煕は、「俺は大丈夫だナン ケンチャナ」と言った。

 この記事が出て半年以上経った翌年の4月10日。夜10時55分からのSBSのトークショー「朱炳進チュビョンジンショー」に沈守峰が出演した。

 その前日、『東亜日報』は、

10・26の時は弾切れで助かった

歌手沈守峰さん「あの時のあの現場」初めてテレビ出演

という記事を再現ドラマの写真入りで報じ、翌日のSBSでの放送を予告した。

 

 翌日、この番組が放送された。

10:55 チュビョンジン・ショー

出演:シムスボン〈10・26事件 現場公開〉

 

 その番組の中で、沈守峰は、15年近く語れなかった出来事について、抑圧されていた年月を吐き出すかのように語っている。

 銃撃の瞬間については、次のように語っている。

 

 

 この銃撃の直前、金載圭が、車智澈のことについて「閣下、こんな虫けら同然の奴を連れて、まともな政治ができますか!」と叫んだとされる(趙甲済『朴正煕 最後の一日』)。それは、合同捜査本部が事件の経緯として発表し、金載圭とその部下たちの裁判で証拠として採用された調書に書かれたことを根拠としたものである。

 今回の映画『南山の男たち」でも、

각하! 이딴 버러지 같은 새끼를 옆에 두고 정치를 하시니까!

閣下!こんな虫ケラをそばに政治をなさるから!

と叫ぶ場面がある。

 

 しかし、沈守峰は、「虫けら」発言を最初から真っ向から否定している。

 さらに、当時の「流言飛語」について問われると、沈守峰はこうも語っている。



 

 「あ、ごめん。つい信じてた。ごめん 🙏」

 これを見てそう言ったのは、私だけではないと思う。

 

 というか、沈守峰はやっぱりただものではない。

 

 これで吹っ切れたのだろう。沈守峰は、文芸堂から1994年に『愛しか私は知らない』という本を出して、この事件についても触れた。

 

 また、もう一人の女性、申才順もこの年に『あそこには彼女がいた』という本を出した。サブタイトルは、「あの時の彼女 ミス申、その後15年!」。いかにも下手な編集者がつけそうなタイトルである。

 

 申才順も、金載圭が「虫けら」と叫んだということは、「なかった」と否定している。

 

 現場にいた二人が、金載圭が発砲前に「虫けら…!」と叫んだりしなかったというのだから、叫んだりはしてないと思う。

 

 しかし、映画のシナリオを書くのだったら、このセリフはぜひ入れたい。

 

 あの時代に、KCIAや、保安司令部、治安本部対共分室などで、拷問をしながら調書を作成していた係官は、このような「創作」が習性になっていたのだろう。冤罪を作り出すときの常套手段である。まるでウケをねらった脚本を書くかのように調書を捏造しては、学生や市民を刑務所に送り込んでいた姿が浮かんでくる。

 合同捜査本部は、最後まで金載圭が「虫けら」と叫んで車智澈を撃ったことにして裁判を終えた。

 

 その後、2006年に『朝日新聞』がソウルで沈守峰にインタビューして「無窮花の女 歌手・沈守峰の半生」という記事を、10月25日から31日にかけて5回にわたって掲載した。

 この記事によれば、沈守峰は、車智澈の前任警護室長朴鍾圭パクチョンギュの紹介で、あの事件以前にすでに2回朴正煕の宴会に呼ばれていたという。中学生の時に美空ひばりの「悲しい酒」のレコードをもらって練習し、高校卒業後にアルバイトで歌っているところが朴鍾圭の目にとまったのがきっかけ。宴席で美空ひばりの曲や「荒城の古跡」を歌ったところ朴正煕はたいそう喜んだという。

 1978年のMBC大学歌謡祭に出る前のことで、その後「あの時のあの人」の曲で歌手デビューを果たした。

 

 ただ、『朝日新聞』の記事が掲載された直後、2006年11月4日のコンサートで、沈守峰はこの記事内容について言及し、反論と釈明をしている。朴正煕は日本語の歌を喜んだのではなくむしろ不機嫌になり、「荒城の古跡」など韓国語の歌を喜んだ。また、朴槿恵が遊説中に刃物で襲われた事件について「もう政治なんかしないで」と語ったと書かれたが、これは政界からの引退を意味するものではないと釈明した。

 

 映画「ユゴ」で「悲しい酒」を歌ったり、今回の映画「南山の部長たち」で「荒城の古跡」を歌ったのも、事実に基づいている。ただ、1979年10月26日には歌っていない。

 

 沈守峰は、2018年に大衆文化芸術賞の大統領表彰を受けている。朴槿恵が弾劾されて大統領を退いた後である。

 申才順は、アメリカに移住して西海岸に住んでいるという。

 

 

ちなみに、1993年4月11日のSBS朱炳進ショーのインタビューはここで見ることができる。