映画「南山の部長たち」にまつわるこぼれ話。
今回はKCIAの建物と、KCIAのその後について。
1961年5月に軍事クーデターで権力を掌握した朴正煕は、国家再建最高会議議長となり、6月に韓国中央情報部(KCIA)を創設し、金鍾泌を初代部長に任命した。情報収集・諜報活動が中心だが、反体制活動なども利敵行為として徹底的に弾圧した。
大統領側近の中でも信頼の厚かった中央情報部長は、重要な政策のキーパーソンとしても重用された。金鍾泌は1962年に中央情報部長として訪日し、日韓国交正常化を、植民地侵略の清算なしに5億ドルの金のやり取りだけでまとめる「金・大平メモ」を作成した。また、1972年には、当時の部長李厚洛が北朝鮮を極秘訪問して金日成と会談し、7月4日の「南北共同声明」の署名当事者になっている。
韓国中央情報部には、北側スパイや反体制活動の情報収集と取り締まりを担当する南山庁舎と、海外の情報収集を担当する里門洞庁舎があったが、部長の公邸や執務室は南山にあって、「南山」が韓国中央情報部、KCIAの代名詞となった。
この南山庁舎がいつ建設されたのかは定かではないが、1962年10月19日の『東亜日報』にはこのような記事がある。
その位置自体が何級かの秘密事項である中央情報部長室が、19日、初めて記者に公開された。
この日、金鍾泌部長は、南山にある中央情報部構内の「陽地会館」で久しぶりの内外記者会見を開いた後、一部の国内記者を3階の自室に招き入れた。
この場所は、朝鮮総督の官邸があった場所の裏手に当たる。
1905年に、大韓帝国を「保護国」とした日本は統監府を置き、統監府庁舎を建てた。下の写真の右側の建物が最初の統監府庁舎で、1910年以降はここが総督府庁舎になる(1926年に景福宮内の新庁舎に移転)。写真中央左寄りの三角屋根は東本願寺別院(現在のハニャン教会の場所)、その左がフランス教会(現在の明洞聖堂)である。
併合で、統監府から朝鮮総督府となり、総督府庁舎の東側に総督官邸が建てられた。それ以前に駐韓日本公使館があった場所である。併合によって大韓帝国が消滅し、公使館も不要になった。ここに総督官邸を建てたのである。
景福宮の北に新しい官邸が建てられるとこの旧官邸は「始政記念館」に改修され、1940年11月オープンした。
解放後、始政記念館は博物館として利用された。しかし、朝鮮戦争のあと、この建物は連合参謀本部として使用されることになり、博物館は徳寿宮の石造殿に移転した。連合参謀本部は、1961年の軍事クーデターの後に改編されて合同参謀本部となり、三角地に移った。
その後、この場所は中央情報部の区画とされて南山庁舎の本館が建てられたが、その前後に取り壊されたのではないかと推測されている。
現在残っているこの木が、上掲絵葉書の左側の木と比定され、官邸の位置を特定する手がかりとされている
この場所から東側を見下ろすと「韓屋マウル」が見える。
ここは、1990年代まで首都警備司令部が置かれていた。植民地時代には、ここに日本軍の憲兵隊司令部があった。植民地支配下で、朝鮮人の動静に目を光らせ、独立運動はもとより植民地支配への不満を抑え込む総本山がこの場所であった。
そのような場所に中央情報部が置かれたのは、決して偶然ではなかろう。
1979年10月26日の事件のあと、新たな独裁者として登場した全斗煥は、1981年4月8日に、中央情報部を国家安全企画部(安企部)に変えた。
そして、1987年6月の「民主化宣言」以降、超法規的な連行や取調べ、威圧的な民衆抑圧への風当たりは強まったが、安企部の情報公開や民主化が一気に進んだわけではなかった。
1995年5月9日付けの『ハンギョレ新聞』は、「安企部 南山庁舎取り壊すべし 「独裁象徴物を憂慮」ソウル市の活用計画反対」という記事とともに、「南山」の全貌を写した写真を掲載した。多分、これがマスコミが公然と写真を載せた最初ではなかろうか。
ちょうど、この時期に、南山の再生計画が進行していて、安企部・首都司令部の移転、南山南東側の「外人アパート」爆破撤去などが進められることになった。
安企部は、1995年に、漢江の南の内谷洞に新築した新たな施設に移転した。下の地図の滑走路は、金浦でも仁川でもない首都圏の第3の空港ソウル空港。要人などのみが使用する特殊な空港である。そのすぐそばに移転した。
Googleマップによる。Kakaoマップではこの建物も空港滑走路も消去されている。
安企部が退去した後の建物の使用については、紆余曲折があった。韓国の現代史において重要な記念物とする主張がある一方で、撤去すべきとする意見も強く出された。
結局、2006年になってソウル市が「ソウル・ユースホステル」とすることが確定した。
ユースホステルになった今も、屋上に乱立するアンテナを見るとこの建物が通常のビルでなかったことに気付く人もいるだろう。
1999年1月、金大中政権は国家安全企画部を改編し、国家情報院とした。しかし、その後も情報機関としての性格に、基本的な変化はない。
つい先日、共同通信がこんなニュースを配信した。
ただ、政権が保守だろうとリベラルだろうと、情報に関係する国家機関のやることはそうそう簡単に変わるものではないと思われる。











