「南山の部長たち」(4)10/26大統領動静 | 一松書院のブログ

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【大統領動静】1979年10月26日

 

 10月26日、朴正煕パクチョンヒ大統領は、正午からの忠清南道チュンチョンナムド挿橋湖サプギョホの防潮堤完成式典に出席するため、午前中に、大統領官邸のヘリポートから軍用ヘリコプターで唐津タンジンに飛んだ。10時半に離陸して11時過ぎには目的地到着。(趙甲済『朴正煕、最後の一日』草思社 2006)

 

 挿橋湖は、唐津市と牙山アサン市にまたがる人工湖で、挿橋川河口を長さ3.4kmの防潮堤で仕切って造成した淡水湖である。

 

 映画では、大統領とともにヘリコプターに乗ろうとする金載圭キムジェギュにむかって、車智澈チャジチョルが「閣下が、お前は残ってろって。席もないし」と追っ払う、あの場面が午前10時半前のヘリポートという設定になる。

 

 

 挿橋湖での実際の式典の模様が、朴正煕大統領死去を伝える「大韓ニュース」の冒頭に、最後の公式行事として挿入されている。 

 

 この式典のあと、朴正煕は唐津に完成したKBS対北放送中継所の開所式に出席した。この施設は、KCIAが運用するもので、本来は部長の金載圭が立ち会うべき行事だった。

 

 その後、牙山の道後トゴホテルで昼食をとってからヘリコプターでソウルに戻った。午後2時半に大統領官邸に戻ってから、18時までは空白になっている。

 

 映画では、この日、これ以外にもう一つ公式行事が入っていた可能性をにおわす場面がある。

 ソウルに残った金載圭のところに秘書官がやってきて

秘書:南山ナムサン安重根アンジュングン像除幕式はキャンセルのようです

部長:なぜだ
秘書:銅像にヒビが入ったと

という会話が交わされる。しかし、映画で、この件が出てくるのはここだけ。

 

 安重根は1879年9月2日生まれ。1979年は、安重根の生誕100周年であった。この年9月2日には、国立劇場で政府主催の記念行事が開かれた。大統領は参席しなかったが、朴正煕大統領自筆の石碑が南山の安重根記念館前に立てられることになっていた。この前後に銅像を製作した記録はない。

 

 

 南山の安重根記念館は、植民地時代に朝鮮神宮のあった跡地に、朴正煕から拠出された資金や有志からの寄付で建てられ1970年10月26日にオープンした施設である。同じ南山といっても、この記念館は、KCIA南山庁舎とは山の反対側の南山西麓にある。


2010年に新しい記念館に建て替えられ現在はなくなっている

 

 安重根関係であれば、銅像ではなくこの石碑であろう。この除幕式が10月26日に予定されていたのではなかろうか。

 安重根が哈爾濱ハルビンの駅頭で伊藤博文を銃撃したのは、1909年のまさに10月26日。安重根関連の大きな行事は10月26日か、旅順監獄で安重根の絞首刑が執行された3月26日に設定されるのが通例である。

 

 『시사저널(時事ジャーナル)』1632号(2021年1月23日)に次のような記事がある。

1979년 10월26일 당시 박정희 대통령은 남산 안중근의사기념관에서 ‘민족정기(民族正氣)의 전당(殿堂)’이라는 자신의 휘호가 새겨진 비석 제막식에 참석할 예정이었다. 25일 청와대 경호실 요원들이 남산에 나가 사전 담사를 마쳤다. 

(中略)

1979년 10월26일 박정희 대통령은 기념관 개관식 일정을 취소하고 삽교천에 갔다. 그리고는 궁정동에서 김재규 중앙정보부장의 권총에 맞아 숨졌다. 이 날은 안중근 의사가 이토 히로부미를 권총으로 살해한 지 꼭 70년이 되는 날이기도 했다.

 

1979年10月26日、当時の朴正煕大統領は南山の安重根義士記念館において、「民族正気の殿堂」という自身の揮毫が刻まれた碑石の除幕式に出席する予定だった。25日、大統領府警護室要員たちが南山に出向いて事前調査を終えた。

(中略)

1979年10月26日、朴正熙大統領は記念館の開館式の日程を取り消し、挿橋川に行った。そして宮井洞で金載圭中央情報部長の拳銃で撃たれて死亡した。この日は、安重根義士が伊藤博文を拳銃で殺害してちょうど70年になる日でもあった。

 出典が明らかでないし、安重根記念館の行事をとりやめて、かわりに挿橋湖防潮堤の行事に行ったというのはあり得ない。この記述はそのまま事実とは認め難いが、「銅像にヒビが入って行事がキャンセルになった」とするこの映画のシーンとは、一部が符合する。

 

 ちなみに、この石碑の実際の除幕式は、翌年1980年3月26日になって挙行された。この除幕式には朴槿恵パククネが出席している。父親の死後、朴槿恵が公式の場に姿を見せた最初の行事である。

 

 9月2日の日付の入った石碑の除幕式が翌年の3月末というのは遅すぎる。本来はもっと早いタイミングで除幕式が予定されていたはずである。

 

 挿橋湖の防潮堤完成式と昼食を終えてヘリコプターで青瓦台に戻ったのが2時半(趙甲済前掲書)。帰途のフライトでは、大統領の指示で何ヶ所かで上空を旋回して視察したとあり、帰路のフライト時間はだいぶ長くなっている。

 これも午後の行事がキャンセルになったためなのかもしれない。何らかのトラブルで除幕式ができなくなった可能性はあり得るとは思うが、いまのところ確証はない。

 

 そして、午後4時前に、大統領から車智澈に「安家アンガ」で「大行事デヘンサ」と呼んでいた宴会をやるという連絡が入った。映画では、大統領が直接金載圭に電話をしているが、実際は車智澈が南山の執務室にいた金載圭に、6時からの「大行事」を伝えた。

 

 金載圭が、この日の銃撃を決意したのは、この4時の連絡以降のことだといわれている。

 

 その後の大統領の動静は、細部は別にして映画で描かれているとおり金載圭に銃撃された。午後7時40分前後のことだった。

 

 

 『朝鮮日報』1979年11月6日号外に掲載された合同捜査本部の発表では、この映画には描かれていない最後の大統領の動静はこうなっている。

19時55分頃、金桂元キムゲウォンは金載圭が現場を離れたのち部屋に戻り、うめき声をあげている車智澈室長が絶命していないことを知りながらそのまま放置し、KCIA警備員の柳成玉ユソンオク徐永俊ソヨンジュンの2名を呼んで、彼らとともに閣下の遺体を大統領乗用車に乗せて国軍ソウル地区病院に安置した。その後、柳成玉と徐永俊に自分の許可なく誰にも遺体を見せないよう厳命し、自分は徒歩で病院の正門から出てタクシーで20時15分頃に青瓦台に戻った。そして、国務総理および一部の閣僚と首席秘書官たちに青瓦台に来るよう連絡した。

 

 銃撃現場の酒宴に同席していた秘書室長金桂元は、金載圭が発砲すると同時に室外に逃れていた。金載圭が現場を離れたあと、KCIA要員に命じて銃撃された朴正煕を国軍ソウル地区病院に運んだ。国軍ソウル地区病院は2010年に移転し、現在はその場所が国立現代美術館ソウル館になっている。

 

 その後の証言では、朴正煕は国軍ソウル地区病院への移送中に絶命し、病院で蘇生が試みられたが死亡が確認されたとされる。

 

 この日、1979年10月26日の青瓦台の大統領日程記録にはこう記されている。

 

趙甲済前掲書より