『東亜日報』の「洞内・町内の名物 一百洞町一百名物」、1924年7月20日付けで取り上げられた竹添町の名物は、「穴」=トンネル。
◇誰もが、西大門外の監営交差点から麻浦行きの路面電車に乗って、まもなく八角亭のあたりからだんだん上りになり、それとともに電車通りの下を横切った先に掘られたトンネルを目にすることになります。これが、他に類を見ない我が町の名物です。トンネルが一つや二つでなく、一・二カ所だけにあるものではないのになぜでしょうか。このトンネルが、他のものとは違って町中の一角に掘られたということで名物の価値があるのです。朝鮮にもトンネルが結構たくさんありますが、町中に掘られたものは一つもなかったのです。
◇それだけではありません。一日に十数回、長い汽車の車輪が通るたびに町の人たちはここに目をやります。以前は、京義線の鉄道は龍山を通っていましたが、今やこのトンネルを通るようになりました。このトンネルは、距離が1,254尺、総工費が230,772円もかかったとのことです。工事が始まったのが今から6年前の涼しい9月1日で、3年近くかかってとても暑い6月25日に竣工したということです。
1928年に京城電気が出した『京城電車案内』で見ると、左下の部分に京義線のトンネルが描かれている。赤十字病院のところに京畿監営があった。
いまも当時のトンネルは健在である。
この画像は、地下鉄5号線の西大門駅から忠正路駅に向かう道路の跨線橋から撮ったもの。『東亜日報』の記事の1924年当時は単線だったので、右側のトンネルしかなかった。
西大門から麻浦方面に向かうこの道沿いは、1914年4月1日の京城府の区域画定で、竹添町と定められた。現在は忠正路である。
義州路を北に上ってすぐの左手高台に、1880年、初めて日本公使館が置かれ、初代公使花房義質が赴任した。華夷的な交隣関係では認められなかった公使館の設置を、万国公法を振りかざす明治政府が朝鮮に強引に認めさせたものであった。現在の金華初等学校のところに西池があり、池を見下ろすこの高台には天然亭があった。ここを清水館と呼んで公使館とした。現在は監理教神学大学校のキャンパスになっている。
1882年に、衛正斥邪を唱える大院君を担いだ壬午軍乱が起きると、この日本公使館は襲撃され焼失した。花房たちは仁川から日本に逃れた。
京城府編『京城府史』第1巻 1934
壬午軍乱は、清が軍を出して鎮圧し、日本は朝鮮との間で済物浦条約を結び、公使館警護の名目で日本軍の京城駐留を認めさせた。1883年1月に竹添進一郎が公使として赴任した。
この時の日本公使館は、西大門外の清水館ではなく、現在の明洞大聖堂の北側(本町2丁目80:忠武路2街)にあった李鍾承の邸宅に置かれた。日本軍守備隊はここから現在の乙支路にかけての家屋を接収して駐屯した。翌年、慶雲洞の朴泳孝邸を買収し、ここで公使館建設に着手し、4月にここに移転した。現在の校洞初等学校の向かい側あたりである。
ところが、1884年12月の甲申政変で、政変勢力側があてにしていた日本軍守備隊は清軍に敗れ、竹添進一郎らは12月7日に公使館を放棄して仁川に脱出した。脱出後、日本公使館は放火されて焼失した。
竹添進一郎は、12月28日に京城に戻ったが、城内には入れず、西大門外の京畿監司金輔鉉の旧宅(義州通1丁目55番地)を仮の公使館とした。翌1985年1月11日に竹添進一郎は離任し、その後日本公使館は南山の北麓に移動することになる。
つまり、「竹添町」は最初に日本公使館があった場所だが、必ずしも竹添進一郎のゆかりの地ではない。公使であれば、むしろ花房義質の方がこの地に関係が深い。しかし、ここは花房町ではなく竹添町となった。どのような基準によるものなのだろうか。
『東亜日報』の記事にもあるように、京城と鴨緑江河畔の新義州を結ぶ京義線は別のルートを通っていた。京義線は、1902年に建設が始まり、1905年に開業したが、その始発駅は龍山。龍山から西にカーブをして北上していた。一方、仁川と結ぶ京仁線は西大門外の京城駅(後に西大門駅と改称)を始発駅として、南大門駅、龍山駅を経て仁川に行く路線だった。その後開通した釜山と京城を結ぶ京釜線も、西大門の京城駅を始発駅とした。

下の地図の黄色いマーカーから黄緑のマーカーが旧京義線である。1908年には釜山と新義州を結ぶ直通急行列車の運行が始まったが、この列車は南大門駅や西大門駅は通らなかった。
朝鮮の中心地京城の鼻先をかすめるだけの鉄道路線には不満が多く寄せられ、1912年には、京城の商業会議所が、京義線が南大門駅・西大門駅を通るように鉄道線を変更することを求める請願書を総督府に提出している。
この京義線の経路変更のための線路新設工事については、1914年12月2日の『毎日申報』にはこのような記事が出ている。
大正3年度に用地買収を行い、明年度以降起工することになるが、その工事の概要は以下の通りである。蓬莱町の線路合流点から左にカーブしてフランス総領事館の東側で麻浦街道を横切り、竹添3丁目でトンネルになってアメリカ人ブライアン氏の邸宅前の東北側から山脈の最高地点直下を経て高陽郡に出て水色に到る。
(中略)
西大門駅は今後どのようにするかについては目下検討中である。
この新しい線路の試運転は、1920年12月16日に行われている。『京城日報』には試運転で竹添町のトンネル「阿峴隧道」から出てくる蒸気機関車の写真を掲載している。
上掲の『東亜日報』の町内名物の記事では、トンネル工事が1918年9月1日に始まり、1921年6月25日に竣工したと書かれているが、これは誤りである。この試運転を伝える『朝鮮日報』の記事には、この南大門駅と水色駅を結ぶ新線「京水線」の起工が1918年9月1日、竣工したのが1920年6月25日と書かれている。これを誤転載したのであろう。計算も間違っている。
ちなみに、西大門駅は1919年3月31日に廃止された。現在の柳寛順記念館、梨花女子外国語高校のあたりに駅舎があった。西大門駅から旧京義線への接続は困難だと判断され、西大門駅を捨てて南大門駅を京城の中央駅とすることが既定方針となった。現在も残るソウル駅の駅舎は1922年着工、1925年竣工である。
その後、日中戦争開戦後の1939年に京義線が複線化され、トンネルが新たに掘られて二つのトンネルが並列することになった。
そして、1945年8月15日。
北緯38度線で、南はアメリカ軍が、北はソ連軍が日本の敗戦処理をすることになった。京義線は38度線をまたいでの運行は困難となり、開城ーソウル間で運行された。
1950年の朝鮮戦争開戦で、列車運行はマヒ状態になったが、9月の仁川上陸作戦で国連軍がソウルを奪還し、国連軍・韓国軍の北上とともに平壌までの京義線運行が打ち上げられた。
しかし中国義勇軍の参戦で、国連軍は押し戻されて、1953年の休戦を迎えた。休戦ラインと非武装地帯の設定により、京義線は文山までしか列車運行ができなくなった。利用者は激減し、片側の線路だけを使った単線運行に切り替えられた。
文山から板門店に向かう途中の「鉄道中断点」表示
「철마는 달리고 싶다(鉄馬は走りたい)」(1976年3月撮影)
1967年、ソウルの都市開発の進捗に伴い、鉄道庁は京義線のソウルー文山間の複線運行を再開することとし、再整備に着手した。ところが、老朽化したこの阿峴トンネルが崩落して、トンネル上の家屋が潰れて死傷者を出す事故が発生した。
その後、郊外線として運行されてきたが、バスに押されて利用者は伸び悩み、今でも電車の本数は大都市の中を走る路線とは思えないような時刻表で運行されている。
2000年6月の南北首脳会談と第1回南北閣僚級会談の結果、休戦ラインで分断されていた京義線の再連結が合意された。2004年4月には「南北間の列車運行に関する基本合意書」も締結された。2004年と2005年には試運転の実施日程も組まれたが、実現しなかった。
文在寅政権になった2018年、ソウルから新義州までの南北鉄道共同調査が行われ、11月30日から18日間かけて、京義線と東海線での調査が行われた。
ソウル発平壌行きとか、ソウル発北京行きのKTXが、ソウル駅を出てすぐにこのトンネルを通って走り出す… というようなことになるのだろうか。
ソウル駅を出て2分50秒あたりで出てくるのが阿峴トンネル
















