一松書院のブログ -44ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

光化門(1)—1945まで から続く

 


 1945年8月、日本の植民地支配は終わり、アメリカ軍により軍政が敷かれた。1948年8月15日には、李承晩を大統領とする大韓民国が建国された。そうしたセレモニーの場では、旧総督府の建物が舞台として使われたが、そこに光化門の姿はなかった。

 

1945年8月15日の直後、アメリカ空軍機が撮影した航空写真

 

 そして、1950年6月25日未明、朝鮮戦争が起きた。

 6月28日に、大韓民国軍はソウルから撤退し、朝鮮民主主義人民共和国軍がソウルを支配した。9月15日に仁川に上陸したアメリカ軍は28日にソウルを奪回した。この時に、アメリカ軍はソウル市内に激しい空爆を加えている。

 金聖七『ソウルの人民軍』(日本語翻訳版1996年)では、次のように描写されている。

 

9月25日
 昨日から市街戦が激しくなっているようだ。いまは砲声だけでなく火炎も見えはじめた。東大門か乙支路あたりだろうか、黒い煙が真っすぐに空に突き上がっている。夜になるとその黒煙の塊のなかから紅い炎が上がって凄惨な感じだ。
 飛行機は二四時間爆撃だ。どれほどの数なのか、その数はわからないが、順番にひとつひとつ目的物を破壊していくようだ。貞陵里の谷間にも真っ赤なロケット弾を間断なく投下していく。

 

(中略)

 

10月2日
 街に出て見ると流れるのは涙ばかり。先立つのはため息ばかりである。文字どおり廃墟と化した鍾路の交差点、鍾閣は跡形もなくなり、壁は地にどさりと崩れ落ちていた。骨だけさびしく立っているビルの地下室の中からは、すでに一週間がすぎたいまも、なお立ち上がる煙とともに、なんとも表現しがたい刺激臭が漂い、真っ黒に燃えてしまった電柱のわきには、無残に切れてとぐろを巻いた電線が転がり、道を探すのに骨がおれた。
 中央庁の真っ黒に変わった姿は、白昼に現われた亡霊のようで視線を向けるのが恐ろしい。変わり果てた六曹の街は、燃え残った煉瓦と瓦の山と化してしまった。日帝が残していった敵国人の財産・ソウルに我々は五年の間、なにを加えて今日このように破壊をほしいままにしたのか。大地を叩いて泣きわめいても、胸は晴れはしない。足だけがぶるぶる震える。
 光化門交差点の碑閣は崩れ、南大門には穴がぽこぽこ空いている。セブランス病院も燃えてしまい、ソウル駅はごみ箱の中に捨てられた潰れたマッチ箱のようにみすぼらしい。足もくたびれたが心はもっと疲れたので、私はソウル駅前で泣きながらきびすを返した。
 みずみずしい葉が無残に焼け焦げたプラタナス。いつふたたび、お前の身体につやが戻り新芽が萌えでるのか。

November 1, 1950. Capt. F. L. Scheiber

右の建物は旧京畿道庁であろう

 

 上掲の写真の右手、景福宮の壁沿いに上がっていったところにあった光化門も、この時に上部の木造楼閣部分は消失したものと思われる。

 

 

 その後、消失した光化門は復元されずにきたが、1966年になって光化門の復元計画が持ち上がった。しかし、この段階では、復元位置については「模索」段階とされていた。

 

 

 翌年、中央庁(旧朝鮮総督府庁舎)前に光化門を復元することになったが、ソウル市と文化財管理局の間で対立が生じていると報じられた。予算の問題だけではなく、復元の位置や方向、それに上部の楼閣の材質の問題などで、学界や有識者を巻き込んだ様々の意見対立が起きた。

 

 

 そして、1968年12月11日に、「復元」された光化門の竣工式が行われた。

 

「大韓ニュース」第705号 光化門の竣工式

朴正煕大統領の真筆のハングルで書かれた扁額、新しい光化門には、この額以外には木材は使われておらず、全てが石とセメント、そして鉄筋でできています。

 この時に「復元」されたのは、本来は木でできていた上部の楼閣部分が、日本の城郭の天守閣復元でよくみられる手法と同じく鉄筋コンクリート作りのものであった。また、光化門の扁額は、当時の朴正煕政権のハングル専用政策を反映して、朴正煕大統領の真筆のハングル文字のものが掲げられた。さらに、「復元」の位置は、中央庁の中心軸に合わせて、中央庁と平行に建てられた。すなわち、景福宮の中心軸からは東にズレることになり、オリジナルの光化門とは3.75 度反時計回りで傾いて「復元」されたものであった。

 

 決して日本に迎合したわけではない。莫大な資金が必要となる庁舎の撤去を先送りにし、「自民族の象徴」を「先進的に復元」して旧朝鮮総督府の眼前に据えることを優先したのである。60年代の「先進」は、鉄筋コンクリートであり、ハングルであった。

 1960年代末期の韓国の政治・経済・社会状況を如実に反映した「復元」光化門が再建されたのである。

 


 

 1996年に旧朝鮮総督府庁舎が撤去されると、2006年から4年間かけて、光化門は、南に11.2m、西に13.5m移動し、角度も時計回りに3.75 度修正された。

光化門は景福宮の門であって何処の門でもあらぬ。あの位置とあの背景と、あの左右の壁とを除いて、門にどれだけの生命があるであろう。

 光化門は長い遍歴を経て、柳宗悦のいう「あの位置」「あの背景」「左右の壁」を取り戻した。

 しかし、浅川巧が言うように「白岳の山のある間永久に日本人の恥をさらしてゐる」事実までも消し去れたわけではないことは、いうまでもない。

 2021年3月6日、光化門クァンファムン広場の構築工事のため、光化門前の世宗路セジョンノの西側の道路が閉鎖され、東側の道路での対面通行となった。

 

 

 現在の光化門は、2010年8月に今の位置に再建築されたものである。2006年から4年間にわたって光化門は工事用の囲いに覆われていた。この光化門が背負っている歴史を知ると改修工事に4年間もの歳月を費やさざるを得なかった事情がよくわかるはずだ。

 

 

 「ソウル航空写真サービス」で、1988年、再建築工事前の2005年、それに2019年の光化門周辺の航空写真を見ることができる。それを見ると光化門の位置とその変動がはっきりする。

 

 中央の2005年の写真では、勤政殿クンジョンジョンから勤政門クンジョンムンを結んだ線の延長上から東にズレた位置に光化門がある。

 

 

 日本が朝鮮総督府の庁舎を建てたとき、その前にあった光化門は撤去された。
 

 解放後、朴正煕パクチョンヒ大統領の時代に、景福宮キョンボックンの東側に移築されていた光化門を正面に再建した(1968年竣工)。ただ、この時は、旧朝鮮総督府の建物が中央庁として使用されており、中央庁の正面の位置に合わせて光化門が再建された(1988年の写真参照)。


 1996年、この旧朝鮮総督府の庁舎は撤去された。その結果、この光化門が景福宮の軸方向とはズレた位置にあることが顕在化した。旧朝鮮総督府の建物は景福宮正面の道路(現在の世宗大路)に正対する向きで建てられていたが、景福宮の軸は、世宗路に対して若干西側に振れているのである。

 

 2006〜2010年の改修工事では、光化門の位置が変えられただけでなく角度も3.75度時計回りに修正された。その結果、2019年の写真にあるように、今は勤政殿・勤政門・光化門が一直線上になっている。

 


 

 光化門の建立とその後の変遷についてここで整理しておこう。

 

 朝鮮王朝が成立すると、王都を開城ケソンから漢陽ハニャンに移すため、三角山サムガクサン北漢山プッカンサン)南麓、白嶽ペガク北岳山プガクサン)の下に宗廟、社稷壇、宮殿の建設が進められた。景福宮は1395年の秋に完成し、王宮東側の門を「建春門コンチュンムン」、西側の門を「迎秋門ヨンチュムン」、そして南の門を「光化門」とした。

 

『太祖実録』太祖4年9月29日(陰暦)

 

 1592年、明を征服して「天下統一」するという妄想を抱いた豊臣秀吉の甘言に乗せられて、海外領地の獲得を夢想した日本の武将たちが「仮道入明(朝鮮に道をりて明に攻め入る)」を掲げて朝鮮に攻め込んだ。戦国時代で「いくさ慣れ」した軍勢が破竹の勢いで北上してくると、国王(宣祖ソンジョ)は王都を捨てて北に避乱した。この時、漢城は大混乱となり、その中で景福宮、昌徳宮チャンドックン昌慶宮チャンギョングンが焼失した。

都城宮省で火災が発生した。国王の車駕が都を出ようとする頃、城内の姦民が內帑庫に押し入って宝物を略奪した。国王の車駕が都を出ると、暴徒が掌隷院と刑曹に火をつけた。これらの官署に公私奴婢の文籍があるためだった。そして宮省の倉庫を荒らしまわって、証拠隠滅のため火をつけた。景福、昌徳、昌慶の三つの王宮が全て焼けてしまったが、昌慶宮は順懐世子嬪の棺が安置されていた。歴代の宝物や文武楼、弘文館に保管されていた書籍、春秋館の王朝実録、他の書庫に保管された前朝の史草(高麗史を編纂した時の草稿)、承政院日記がすべて焼かれ、内外の倉庫や各官署に保管されたものも盗まれて焼かれた。臨海君の家と兵曹判書洪汝淳の家も焼かれたが、この二つの家は以前から多くの財物を貯め込んでいるとの噂があったためだった。留都大将が数人を斬って群衆を威嚇したが、暴徒が群れをなして襲ってきて、これを押し留めることはできなかった。

『宣祖修正実録』宣祖25年4月14日(陰暦)

 

 2回にわたって侵攻した豊臣の軍勢が去ると、宣祖を継いだ王(光海君クァンヘグン)の時代に昌徳宮が復旧されて王宮として使用されるようになった。その一方、景福宮は再建されることがないまま放置されていた。

 


 

 長らく放置された景福宮を主宮殿とすべく、その再建に着手したのが興宣フンソン大院君テウォングン李昰応イハウンである。

 1863年に哲宗チョルジョンが死去すると、当時実権を握っていた神貞シンジョン王后は、李昰応と謀議して李昰応の次男命福ミョンボクを王位に就かせた(高宗コジョン)。王父として大院君となった李昰応は、王室と政府の権威を高めるために、景福宮をはじめとする各種の宮殿や政府官庁を再建・増築していった。

 

 この景福宮再建で、まず最初に建て直されたのが光化門であった。

光化門上梁文(李裕元撰 申錫禧書 同治4年(1865))

 

 光化門の完成に続いて景福宮の主要部分が再建され、1868年に朝鮮王朝の主宮殿は、昌徳宮から景福宮に戻された。

 

 再び主宮殿の正門としてその役割を果たすことになった光化門の前には、議政府(叡政)や六曹(礼・吏・兵・刑・戸・工)、中枢府(枢)、司憲院(憲)、漢城府(京兆)などの主要官庁が並んでいた。

 

金正浩キムジョンホの『首善全図』をペンで筆者した地図(1892年頃製作された)

 


 

 1910年8月、日本による併合で大韓帝国は消滅させられた。大韓帝国の皇室資産の管理は李王職に移されたが、王宮については1912年に朝鮮総督府に移管された。これ以降、総督府の新たな庁舎を景福宮内に建設する計画が、総督府土木局において進められた。

 

 ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが顧問嘱託となった。デ・ラランデは1914年に竣工した朝鮮ホテル(現在のウエスティン朝鮮の場所にあった)の設計者でもある。倉富家所蔵資料に残されている「京城都市構想図」では、光化門を生かした都市計画の構想も一案としてあったことがわかっている。ただ、1914年にデ・ラランデは神戸で急死したため、実際の設計や建設には関与できなかった。

谷川竜一「3.75 度の近代 : 韓国・景福宮前の建築交代 を読む」(CIAS discussion paper No.38 2014)より

 

 総督府の新庁舎が完成する1926年の雑誌『朝鮮』4月号に、当時、総督府土木部建築課長だった岩井長三郎が、建設計画段階から建設の工程についての概略を記している。

 

 そこでは、構想の段階では「光化門の存否の問題は暫く研究することゝして後日に譲り」ということで、光化門の扱いは保留だったとしている。

 

 ところが、景福宮の軸と光化門前の道路とのズレが判明し、これによって光化門を撤去することになったとして、次のように記している。

景福宮と其前面の光化門前大通との關係を正確な實測圖に作つて見たところが光化門と勤政殿との中央を結んだ中心線が光化門道の中心線に一致して居らない、實際は少し西方にふれて居ることに氣がつきました。即ち景福宮內の建物配置が道路中心に真向きでありません。多分ある迷信からでありましよう、而して道路の光化門の直ぐ附近丈の中心線を建物配置の中心と合せてありますから、道路は弓なりに曲つて居るのであります。そこで宮殿配置の中心線即ち光化門勤政殿の真つ心に置けば、門內の配置は申分はないのでありますが、太平通の中心から光化門前の中心を見通して考えると、之れでは稍々横を向くことになつて、誠に不行儀になります。若し又此の道路を本位として其見通しの中心に建てるとすれば、光化門と勤政殿とには没交渉になるのでありまして、門が其儘である限り誠に調和が悪いのであつて、此處に少からぬ迷を起したのであります。結局先決問題として、光化門の運命と云ふことを考へねばならないことになりました。時の總督寺內伯爵よりは、光化門及門脇石塀の將來の處置と云ふことに就ては、明確な御指圖を受けられなかつたので、關係者熟議の結果道路の中心を本位とすると云ふことになつたので、現在の様に光化門が嚴然と立つて居るうちは誠に見苦しい對照となつて居るのでありますが、今日では光化門の運命を如何やら決定せられて他の適當な位置に變る筈ですから新廳舎の威容を太平通から直正面に眺めるのも速からぬことであります。

岩井長三郎前掲記事「配置」より

(下線は一松書院による)

 「宮殿配置の中心線即ち光化門勤政殿の真つ心に置けば」総督府庁舎が太平通(現在の世宗路)に対して「稍々横を向くことになつて誠に不行儀」であり、一方「道路を本位として其見通しの中心に建てると」「(光化)門が其儘である限り誠に調和が悪い」ことになる。

 と言うことで、「新廳舎の威容を太平通から直正面に眺める」ようにする向きで建てることに決して、「嚴然と立つて居」て「見苦しい對照となつて居る」光化門は、「他の適當な位置に變」えることとしたのである。ただし、移転については1926年時点での回想であって、当初から移転を考えていたかは疑わしい。光化門を撤去することだけが決定事項となっていたと見るべきだろう。

 

 1915年には「始政五年記念朝鮮物産共進会」が景福宮で開催された。この会場作りのために、光化門の背後の景福宮の建造物が多数破壊・撤去された。翌年、その破壊の跡地で朝鮮総督府新庁舎の建設工事が始まった。

 

大正四年始政五年共進會の時、其會場建築の爲め興禮門が取拂はれ、禁川橋は撤去されて禁川は石塀の後に移されて廳舎の敷地は自ら出來上りました。豫算成立と共に大正五年六月二十五日盛大なる地鎮祭が行はれ、こに工事着手の運に至りました。

岩井長三郎前掲記事「工事実施」

 

  1916年に杭打ちなどの基礎工事が行われ、1917年からは鉄筋コンクリート工事などの躯体工事が始められた。1920年7月10日、仕上げの段階に入ったところで定礎式が行われた。

 

左側に積まれている石材は、東大門外昌信洞の採石場から電車で運び込まれた花崗岩の石材。

迎秋門方面の電車が開通しているので1923年9月以降の写真と思われる。

 この間、光化門の扱いについては具体的な方針は示されなかった。

 

 1921年になって、5月24日付の『東亜日報』が光化門の移転計画があることを写真入りで報じた。

光化門の移転計画
新築の総督府の竣工後に
適当なところに移すと
景福宮の宮闕の中に建てられている総督府が完成すると、長い歴史のある古代建築物である光化門は壊されてしまうという話が世間で広まり、これを惜しむ人々が多いのだが、これについて総督府土木部建築課長岩井長三郎氏は次のように語った。総督府の工事は大正十三年には終えることになっており、それまでに全て決定するが、この問題は来年中に決定する。光化門を壊してしまうというのはあり得ない噂で、どこかに移すことになっているが、その位置が決まっていないということ。この建築物は建築学理上移すことができないという声もあるが、それはない。お金がかかるだけだ。総督府の方針としては壊すことなく適切な場所に移すことにしている。

 この記事がきっかけとなって、光化門の撤去・移転に対する懐疑の声、反対論が出るようになった。

 

 この記事の横に、「本社主催 柳兼子夫人独唱会」の記事が出ている。偶然であろうが、全くの偶然とは思えない偶然である。

 柳兼子の夫は柳宗悦。柳宗悦ムネヨシは1916年に浅川伯教ノリタカが朝鮮から持参した「染付秋草文面取壺」を見て朝鮮の工芸品に強く惹かれ、それ以降たびたび朝鮮を訪問するようになった。当時、京城に在住していた浅川伯教の弟、浅川タクミなどとも親交を深め、朝鮮の民芸品や工芸品を集めた美術館を設立しようと考えていた。声楽家の柳兼子は、その資金集めも兼ねてチャリティのリサイタルを京城でしばしば開いた。東亜日報社は、柳兼子のリサイタルや柳宗悦の講演会を主催したり後援した。

 

 この記事が出た翌年、柳宗悦は光化門の撤去・移転を批判する文章を発表するのである。

 

 浅川巧は、1922年1月3日の日記に、

秘園の建物や自然の適当に保存されることを希ふと共に景福宮の破壊を防止し度いものだ。

と書いている。また、6月4日の日記に次のように書いている。この日、兄伯教らと京城の旧城郭を一周巡った。

少し下ると朝鮮神社の工事をしてゐた。美しい城壁は壊はされ、壮麗な門は取除けられて、似つきもしない崇敬を強制する様な神社など巨額の金を費して建てたりするの役人等の腹がわからない。山上から眺めると景福宮内の新築庁舎など実に馬鹿らしくて腹が立つ。白岳や勤政殿や慶会楼や光化門の間に無理剛情に割り込んで坐り込んでゐる処は如何にもづうづうしい。然もそれ等の建物の調和を破つていかにも意地悪く見える。白岳の山のある間永久に日本人の恥をさらしてゐる様にも見える。朝鮮神社も永久に日鮮両民族の融和を計る根本の力を有してゐないばかりか、これから又問題の的にもなることであらう。

 そして、8月7日の日記には、我孫子の柳宗悦から送られてきた「失われんとする一朝鮮建築のために」の原稿を受け取ったことを書き留めている。

柳さんから光化門を弔ふための原稿が来た。なかなかよく書けて居る。これを読んだら誰れでも朝鮮に対する同情、人類的の愛が怯えると思う。

(中略)

赤羽君、森永君が居たら柳さんの原稿見せて遣り度いがと淋しく思つた。馬場君の家も知らないし見せる訳にも行かない。馬場君に会つて見たい気もするが妙に恐れをも持つてゐる。

 この原稿は、雑誌『改造』の9月号に掲載する予定で書かれたものだった。日本民藝館に直筆原稿が残されている。これを書き写して京城の浅川巧に送ったのであろう。

 

 浅川巧は、8月9日にこの原稿を東亜日報社に持ち込んだ。

Bの家を問ふたが分らなかつた。なんでも旭町の更科の附近だと云ふ。行つて見たが探せなかつた。Bに会つたら見せて遣らうと思つて持つて居た柳さんの原稿があつた。教団の話もして見たかつた。何となく男が女の家を尋ねることに気が抜けた。それに番地も知らず本人の名も知らないのだから無理だ。止めて東亜日報に行つた。皆退けて居たので張徳秀氏に置手紙して例の原稿も置いて出た。

 張徳秀チャンドクスは、日本に留学したのち、上海に渡って独立運動に加わった。1920年に東亜日報創刊にあたっては、主筆と副社長を兼務した。

 この当時、東亜日報社は花洞ファドンにあった。景福宮の東、第一高等普通学校(現在の正読チョンドク図書館)の南側に社屋があった。ここに浅川巧はちょくちょく顔を出していた。

 

 

 『東亜日報』は、柳宗悦の原稿を朝鮮語に翻訳して「장차일케 된 朝鮮의 한 建築을 為하야」と題して8月24日~28日まで5日間連載した。

 

 

 『東亜日報』の連載が終わった翌々日、朝鮮総督府の御用新聞の『京城日報』に雑誌『改造』9月号の広告が掲載された。『改造』は毎号必ず『京城日報』に広告を出しており、朝鮮にも結構読者がいたものと思われる。

 

 『改造』9月号に掲載された柳宗悦の「失われんとする一朝鮮建築のために」は、青空文庫で全文を読むことができる。青空文庫「朝鮮の友に贈る書」の次に掲載されている

 

 その中に、このような部分がある。

私はかつてこれらの事を気付いている者が、破壊を避けて移転を試みようとしている事を伝聞した。ああ、しかしこの慈悲らしい処置によって、如何なる運命を門が受けるであろう。幸いに死はこれによって免れるとしても、門が持つ存在の意義は半ば殺されてしまうのである。光化門は景福宮の門であって何処の門でもあらぬ。あの位置とあの背景と、あの左右の壁とを除いて、門にどれだけの生命があるであろう。形体は残っても、それは抽象せられた生命なき形骸ではないか。特に自然と建築との調和を慮ぱかった古人の注意を無視して、それが如何なる意義を保つであろう。もう彼を死から救う事は出来ないであろうか。彼の存在の価値を是認し保護しようとする人はないであろうか。彼はまだ若いのだ。肉体は完全に健康であり、精神は依然として鞏固ではないか。時ならぬ死を彼に迫る罪は、誰が負うべきものであろう。

 「光化門は景福宮の門であって何処の門でもあらぬ。あの位置とあの背景と、あの左右の壁とを除いて、門にどれだけの生命があるであろう」と言う。光化門を移転すること自体が朝鮮の文化を否定することであり、浅川巧が日記に記したように「永久に日本人の恥をさら」すことになるというのである。

 

 まさに100年後の今日、その予言は見事に的中した。さらに、その事実にすら気づかず恥の上塗りをする輩まで闊歩している。

 

 この柳宗悦の「失われんとする一朝鮮建築のために」に関して、『朝鮮と建築』1923年6月号に今和次郎が「総督府新庁舎は露骨すぎる」という一文を寄せている。

此の頃ぢや總督府の考も變つて居られませうが、總督府廰舎の一番先きのプラニングが、何時までも朝鮮民族に一種の惡感情を與へるやうに遺るのではなからうかと思ひ、如何にも残念であるやうに感ぜられます。あれは寧ろ總督府廰舎としては 其の場所の選定が誤って居るのだと思はれますから、取毀つことは一番宜いだらうと思はれますけれども、もうあれだけに出來上つたものですからさうも行きますまいから、何か社會事業の建物にでも使用するが理想的ぢやありますまいか。

(中略)

恰度昨年私が朝鮮に來る時に、柳宗悦氏が『光化門』に付いて雑誌『改造』の上に其の意見を發表されたのを讀みましたが、新廰舎が出來るので光化門は取毀されるであらうが、さうなれば堪らぬやうな氣がすると云ふことを書かれた一文が去年の『改造』の九月號かに出て居りましたが、私も同じ感じを有つて居る一人なんです。あう云ふ露骨な建物が、總督府廳舎として使用されることは好ましいことぢやありません。本當かどうか知りませぬが、關野博士なども、あの位置の選定は誤つて居ると云ふことを、極力主張して居られたと聞きますが、全く彼處以外に敷地は幾らでもあっつたらうにと云ふ氣がします。

 

 さらに、朝鮮総督府の朝鮮語による御用新聞だった『毎日申報』も、1923年10月5日づけの紙面で、光化門を現在位置に残すことの重要性を訴えた。

(前略)

南大門は中央の昔の場所にそのまま保存され、その左右に道を設けることで、風致上も美しく交通上でも邪魔になっていない。これと同じ方法で保存するとして同じように旧景福宮の正面の位置においておくことが好ましく、かつ大衆が仰ぎ見るという点でも好都合であり、当局者はこれに留意することが望まれる

 

と、異例の論陣を張った。

 

 しかし、こうした声にもかかわらず、光化門の撤去方針は変わることはなかった。太平路の真正面に朝鮮総督府の「威容」を見せつけるためには、光化門は「そこに建っていてはならない門」だったからである。

 1926年10月の朝鮮総督府新庁舎落成式を前に、7月から光化門は取り壊され、景福宮の東門である建春門の北側部分に移設された。

 

門の前には、三淸洞川が流れていた

 

光化門(2)—解放から2回の復元 に続く

 ソウルの東大門トンデムンの東側のすぐ左手が昌信洞チャンシンドン、道を一つ隔てた東側が崇仁洞スンインドンである。

 

 昌信洞の斜面には、縫製関係の小規模下請け工場が立ち並ぶ。奥に進んでいくとさらに急斜面になり、断崖絶壁が出てくる。その絶壁の下にも断崖の上にも建物が並ぶ壮観(?)な光景が目に入ってくる。

 

ソウル歴史博物館『2011ソウル生活文化資料調査 昌信洞:空間と日常』より
 

 昌信洞のこの断崖絶壁は、日本の植民地時代の採石場の跡である。崇仁洞側にも採石場があった。
 下の地図は、1921年測図の10,000:1地形図だが、昌信洞の北側と崇仁洞にガケが表示されている(ピンクのマーカー)。このあたりで建築用の石材が切り出されていた。

 地図の左側、北からおりてきているブルーのマーカーの線が漢城を囲っていた城壁。画像左下部に東大門があるが、その北側ではすでに城壁はなくなっている。オレンジのマーカーは、当時の路面電車の線路で、清涼里から東大門、鍾路に伸びる路面電車の線路と、そこから昌信洞と崇仁洞の間の道に沿って北の採石場の直下まで路面電車の線路が描かれている。

 

 

 1920年には、この採石場からこの路面電車の線路を使って切り出した石材を運んでいた。この年6月、景福宮の勤政殿前の朝鮮総督府新庁舎の建設現場に採石場から石材を運んでいた貨物電車が鍾路3丁目で故障して立ち往生する事故があった。

 

電車と故障

貨車のモーターが壊れて

昨21日午前9時ごろ、東大門外採石場から石を積んで光化門の総督府新築現場に向かっていた貨物電車が鍾路3丁目の安商浩病院の前に差し掛かった時にモーターが壊れ、電車が約1時間余り動けなくなった。後続の電車7〜8台が立ち往生し、やむなく上りの電車を下りの電車をつないで乗客を徒歩で乗り換えさせるなどしたが、ちょうど官公庁の出勤時間と重なり一時はひどく混雑した。

 この記事によって、一般の乗合電車の合間を縫って貨物電車が総督府庁舎の建築現場まで石材を運搬していたことがわかる。

 

 1910年の韓国併合後、南山の北麓に建てた統監府庁舎を朝鮮総督府庁舎として使っていた。しかし、庁舎が手狭になったことに加え、植民地支配者としての優位性を誇示する建物がほしいということで、景福宮勤政殿の前面に総督府の新庁舎を建てることにした。

 1916年6月に着工して1926年10月に完成した朝鮮総督府庁舎は、5階建てのコンクリート造りで、外壁に花崗岩を貼り付けて荘厳な雰囲気を出していた。その花崗岩を昌信洞の採石場から電車で運んでいたのである。

 

 採石場は、1925年に京城府の直営となるのだが、その時の『朝鮮新聞』に、この朝鮮総督府庁舎を建てていた1920年前後の採石場のことが書かれている。

 

京城府直營となれる

採石塲予算内容

僅か二箇月間に六千圓の増収

來る三十一日の京城府協議會に諮問すべき事項及びその内容は既報の通りであるが右諮問事項中來る二月一日から京城府直營となれる府内東大門外の採石塲は

去る大正八年以來朝鮮總督府と京城府の共營事業として開始せられ昨十三年九月十五日まで両當局共營のまま繼續せられて來たが本年一月十五日附を以つて京城府の直營となった譯である

然して右兩當局の直營開始目的は總督府側では光化門新廰舎の新築及朝鮮神社増營等に多量の石材が必要となり又京城府側では府事業中土木建築材料を之亦多量に必要とする塲合であつたから共同経營を計畫し同採石塲の石材は一切民間には供給せず且民間相塲の變動にも何等關係することなく純然たる官營事業として繼續せられたもので今回府直營と同時に二月一日から事業を開始し左記官有敷地及附屬建物器具機械等一切を大正十八年迄向ふ五箇年間總督府より無償貸與せられた譯である

 △採石總坪數五千坪二萬一千圓

 △總建物價格三千百圓△機械器具四千七百圓

尚府直營後に於ける府収入豫算は本年度中卽ち二三兩月間に於て支出額一萬一千八百圓でこれが收入は一萬七千圓この差引六千圓を增收することになつてゐるが府當局が現在使用しつゝある從事人夫一日最多四五百名平均二三百名を整理節約すれば更に利益を增加することが出來るといつてゐる

 この記事によれば、「東大門外の採石場」は、1919年に朝鮮総督府と京城府との共同経営として運用され始め、1925年1月15日付けで京城府単独の採石場として運用されるようになったという。そして、2月1日からは民間への石材販売も始められた。

 

 ちなみに、朝鮮神宮は、1919年に工事が始められ、1925年10月に鎮座祭が行われている。この造営時には、内地から多数の石職人が朝鮮に呼び集められ、参道の石段や石製の鳥居の加工・製作に動員されたという。

 

 では、総督府と京城府が共同で採石場を運営する1919年以前は、この採石場はどのようになっていたのだろうか。

 


 

 朝鮮王朝の時から、漢城(現ソウル)の城外で石材が切り出されていた。

 1898年の『高宗実録』には、石材の出所について尋ねた高宗に対し、閔泳駿がこのように答えたとの記載がある。

上曰、石材將何處取用乎、泳駿曰、阼溪・道峯・江華三處已多取用矣。

 「阼溪」は、北漢山の東側の水踰の「曹渓洞」で、「道峯」はソウル市内の道峯山トボンサンの山麓である。

 

 一方、英祖代の『承政院日記』には、東大門の東側でいい石が出ることが記録されている。

『承政院日記』英祖46年4月21日
戶曹郞廳金恒柱進伏。上曰、誰也。文載曰、金恒柱矣。上曰、日影石、安排石材、得來於何處云耶。恒柱曰、得來於東大門外云矣。

 

 この東大門外で採れる石材は良質の淡紅色の花崗岩(御影石)で、それにいち早く目をつけたのが、清水屋(現在の清水建設)であった。

 

 『清水建設二百年 生産編』(2001)によれば、清水屋は、1902年に京城出張所を置き、日露戦争後には、出張所を出張店に昇格させ日本軍の施設や大韓帝国の庁舎を受注していた。1908年には、第一銀行韓国総支店の建設を受注した。後に朝鮮銀行本店となり、現在も貨幣博物館としてソウルの中心部に残っているあの建物である。

 

 

 この第一銀行韓国総支店の建設の時に、清水屋は東大門の東側の採石場の採石権を入手している。

石材の調達に関しては明治41年に、京城出張店が京城東大門外藍橋洞地区にある国有の石山(花崗岩=御影石)で石材の採掘権および特売権を取得して大正7 (1918)年まで採取し、「第一銀行韓国総支店』(後の朝鮮銀行)などを施工した。

『清水建設二百年 生産編』(2001)

韓国京城実測地図(1907)

 

 1913年12月に朝鮮総督府による行政区域の管轄区域と名称の変更が行われ、この時に藍橋洞は昌信洞と崇仁洞に編入されたが、清水屋が採石をはじめた頃は藍橋洞であった。

また、これと前後して近くの昌信洞と崇仁洞の石山から石材採掘権ならびに特売権を新たに購入し、採掘をつづけた。これらの石材は、朝鮮で清水店が手がけたほとんどの施工建物(東洋拓殖本社、朝鮮総督府官邸など)に使用しただけでなく国内へも輸送して、「服部時計店」「第一銀行本店」「安田貯蓄銀行」などの建物に使用した。

『清水建設二百年 生産編』(2001)

 こうして、清水屋は昌信洞と崇仁洞の石山採掘権と販売権を入手したが、これは藍橋洞の採石場よりも北側の奥の場所だと思われる。

 

 ちなみに、清水屋が建設した「東洋拓殖本社」は、黄金町2丁目に1911年12月に完成している。

 

 

 また、「朝鮮総督府官邸」とあるのは、1907年6月に龍山の韓国駐箚日本軍司令官官邸として着工され、竣工した1910年4月には用途変更されて統監官邸となった建物である。併合後は朝鮮総督官邸となったが、京城府の中心部から離れていたこともあって官邸としてはほとんど利用されることがなかった。

 

 

 昌信洞・崇仁洞で切り出された石材は、京城の建物の建材として利用されると同時に、日本の内地にも持ち込まれて建材として利用された。これらの石材は、「朝鮮万成まんなり」と呼ばれて珍重されたという。

 

 ところで、こうした建物建築の際も石材を運んだのは貨物電車だと思われる。陸地測量部が1915年に測図して1917年5月15日に発行された1:10,000地図には、電車の線路が昌信洞の奥まで描かれている。従って、1915年以前に採石場への線路が敷設されていたことは確認できるが、この支線がいつ敷設されたのかは明確でない。

 

 


 

 1915年に清水屋は合資会社清水組になった。その清水組の持っていた昌信洞と崇仁洞の石材採掘権と特売権は、1919年に期限切れになり朝鮮総督府はその延長を認めず、これを召し上げた。

恰も此時舊韓國政府より採取許可の權利を得て採石中なる清水組の東大門外石山が、八年三月には期限の満了になることを好機とし、採掘權は取上ぐることゝし尚ほ接續民有石山の一部を買収して茲に石材採取供給直營を企て、朝鮮神宮造営用石材と、京城土木出張所の市區改正工事用石材と、京城府の工事用のものとを採取することゝして、之等の共同經營を實行することになりました。

(中略)

京城電氣會社に交渉し東大門內石山探石場への引込と、光化門前大通を廣場の紀念碑殿より廳舎工事場内への引込をしました、今日迎秋門迄延長して居る線路が之であります、此の線路の連絡によりて東大門外の石材渋江の砂利川砂、麻浦煉瓦工場よりの煉瓦、龍山に陸揚した大理石のすべてを、容易に而る迅速にT場內に引込み運搬することになつた便利は、直營工事を成功せしめた重要なる部分をなして居ります。

岩井長三郎「總督府新廳舎の計畫及實施に就て」

『朝鮮』1926年4月号(第131号)

 たぶん、朝鮮総督府は、清水組から採石場の採掘権を召しあげることを前提に、早くから電車の引き込み線敷設をを京城電気に要求していたのであろう。
 1919年以降、昌信洞と崇仁洞の石材は一般への販売が停止され、公的な建築物の建設だけに使用されるようになった。

 

 

 上述の朝鮮総督府庁舎建設、朝鮮神宮造営以外にも、京城駅の駅舎新築(1925年9月竣工)などにもこの石材が使われた。

 

 また、1924年11月に始められた京城府庁舎の建設にも昌信洞の石材が使われた。それまで京城府庁は、朝鮮銀行の向かい側、その後三越百貨店(現新世界シンセゲ百貨店)が建てられる場所にあったが、これを徳寿宮トクスグン前に移転させることになった。新庁舎の竣工は1926年10月であった。

 

 府庁新築工事が始まった直後の1925年1月15日、朝鮮総督府は多量の石材を必要とする大型工事が一段落したとして、昌信洞の採石場経営から手を引き、京城府の単独経営となった。同時に、民間への石材販売を再開してかなりの収益をあげるようになった。

 

 三越百貨店の建物は、1930年に旧京城府庁跡に完成したが、鉄筋コンクリート造で外壁が「赤色花崗岩」だったとされている。この建物にも昌信洞の石材が使用されていたのだろう。

 

 

 採石場は、石材を切り出せば切り出すほど切り立った急峻な断崖ができていく。崩壊事故や落石事故などもしばしば起きていた。

 下の写真の×印が崩落した岩石である。

 

 

 


 

 日本の敗戦によって、京城府が運営していた昌信洞の採石場はアメリカ軍政庁に接収された。その後朝鮮戦争が勃発し、その停戦後、アメリカ軍が昌信洞の採石場を直接運用し始めた。建築用の石材の切り出しではなく、道路補修などに使う砕石を大量に必要としたためである。そのため、爆薬をしかけて発破をかけて採石作業を行った。近隣の住民は発破の轟音と粉塵に苦しめられ、米軍当局に陳情して発破作業の中止を求めた。アメリカ軍が必要とした補修工事がが一段落したのか、作業は中止され、アメリカ軍は撤収した。

 

 その後、昌信洞と崇仁洞の採石場はソウル市が引き継いだ。住民の強い反発を受けて、ソウル市長が採石作業を停止するとの意向を示したこともあったが、その後も採石作業は続けられていた。

 

 昌信洞の採石場は、1959年に設立された金剛採石土建クムガンチェソットゴンという会社に払い下げられた。

 一方、崇仁洞の採石場の方は、1964年に閉鎖されている。

 

 1971年、昌信洞の採石場を所有していた金剛採石土建は、採石場跡地を分譲宅地として売り出した。

 

 

 この宅地については、分譲後もその立地の危険性が再三にわたって指摘されていた。

 しかし、当時は効果的な予防措置が講じられることなく、断崖絶壁とその上下の住宅が共存するという奇妙な景観が広がったのである。

 


 


 

 2016年、ソウル市は「ソウル型都市再生1号」として昌信・崇仁事業を打ち出した。

 

 

 ソウル市は、昌信洞一帯の古い採石場跡地の19,000㎡を公園や展望台などのある観光スポットにする計画を立てた。

 

 

 これからどうなっていくのか… 興味深い。

 

 この不思議な景観も、やはり日本の朝鮮侵略の歴史と深い関わりを持っていた。歴史背景について知識と関心を持っていくべきなのだと思う。