光化門(1)—1945まで から続く
1945年8月、日本の植民地支配は終わり、アメリカ軍により軍政が敷かれた。1948年8月15日には、李承晩を大統領とする大韓民国が建国された。そうしたセレモニーの場では、旧総督府の建物が舞台として使われたが、そこに光化門の姿はなかった。
1945年8月15日の直後、アメリカ空軍機が撮影した航空写真
そして、1950年6月25日未明、朝鮮戦争が起きた。
6月28日に、大韓民国軍はソウルから撤退し、朝鮮民主主義人民共和国軍がソウルを支配した。9月15日に仁川に上陸したアメリカ軍は28日にソウルを奪回した。この時に、アメリカ軍はソウル市内に激しい空爆を加えている。
金聖七『ソウルの人民軍』(日本語翻訳版1996年)では、次のように描写されている。
9月25日
昨日から市街戦が激しくなっているようだ。いまは砲声だけでなく火炎も見えはじめた。東大門か乙支路あたりだろうか、黒い煙が真っすぐに空に突き上がっている。夜になるとその黒煙の塊のなかから紅い炎が上がって凄惨な感じだ。
飛行機は二四時間爆撃だ。どれほどの数なのか、その数はわからないが、順番にひとつひとつ目的物を破壊していくようだ。貞陵里の谷間にも真っ赤なロケット弾を間断なく投下していく。
(中略)
10月2日
街に出て見ると流れるのは涙ばかり。先立つのはため息ばかりである。文字どおり廃墟と化した鍾路の交差点、鍾閣は跡形もなくなり、壁は地にどさりと崩れ落ちていた。骨だけさびしく立っているビルの地下室の中からは、すでに一週間がすぎたいまも、なお立ち上がる煙とともに、なんとも表現しがたい刺激臭が漂い、真っ黒に燃えてしまった電柱のわきには、無残に切れてとぐろを巻いた電線が転がり、道を探すのに骨がおれた。
中央庁の真っ黒に変わった姿は、白昼に現われた亡霊のようで視線を向けるのが恐ろしい。変わり果てた六曹の街は、燃え残った煉瓦と瓦の山と化してしまった。日帝が残していった敵国人の財産・ソウルに我々は五年の間、なにを加えて今日このように破壊をほしいままにしたのか。大地を叩いて泣きわめいても、胸は晴れはしない。足だけがぶるぶる震える。
光化門交差点の碑閣は崩れ、南大門には穴がぽこぽこ空いている。セブランス病院も燃えてしまい、ソウル駅はごみ箱の中に捨てられた潰れたマッチ箱のようにみすぼらしい。足もくたびれたが心はもっと疲れたので、私はソウル駅前で泣きながらきびすを返した。
みずみずしい葉が無残に焼け焦げたプラタナス。いつふたたび、お前の身体につやが戻り新芽が萌えでるのか。
November 1, 1950. Capt. F. L. Scheiber
右の建物は旧京畿道庁であろう
上掲の写真の右手、景福宮の壁沿いに上がっていったところにあった光化門も、この時に上部の木造楼閣部分は消失したものと思われる。
その後、消失した光化門は復元されずにきたが、1966年になって光化門の復元計画が持ち上がった。しかし、この段階では、復元位置については「模索」段階とされていた。
翌年、中央庁(旧朝鮮総督府庁舎)前に光化門を復元することになったが、ソウル市と文化財管理局の間で対立が生じていると報じられた。予算の問題だけではなく、復元の位置や方向、それに上部の楼閣の材質の問題などで、学界や有識者を巻き込んだ様々の意見対立が起きた。
そして、1968年12月11日に、「復元」された光化門の竣工式が行われた。
「大韓ニュース」第705号 光化門の竣工式
朴正煕大統領の真筆のハングルで書かれた扁額、新しい光化門には、この額以外には木材は使われておらず、全てが石とセメント、そして鉄筋でできています。
この時に「復元」されたのは、本来は木でできていた上部の楼閣部分が、日本の城郭の天守閣復元でよくみられる手法と同じく鉄筋コンクリート作りのものであった。また、光化門の扁額は、当時の朴正煕政権のハングル専用政策を反映して、朴正煕大統領の真筆のハングル文字のものが掲げられた。さらに、「復元」の位置は、中央庁の中心軸に合わせて、中央庁と平行に建てられた。すなわち、景福宮の中心軸からは東にズレることになり、オリジナルの光化門とは3.75 度反時計回りで傾いて「復元」されたものであった。
決して日本に迎合したわけではない。莫大な資金が必要となる庁舎の撤去を先送りにし、「自民族の象徴」を「先進的に復元」して旧朝鮮総督府の眼前に据えることを優先したのである。60年代の「先進」は、鉄筋コンクリートであり、ハングルであった。
1960年代末期の韓国の政治・経済・社会状況を如実に反映した「復元」光化門が再建されたのである。
1996年に旧朝鮮総督府庁舎が撤去されると、2006年から4年間かけて、光化門は、南に11.2m、西に13.5m移動し、角度も時計回りに3.75 度修正された。
光化門は景福宮の門であって何処の門でもあらぬ。あの位置とあの背景と、あの左右の壁とを除いて、門にどれだけの生命があるであろう。
光化門は長い遍歴を経て、柳宗悦のいう「あの位置」「あの背景」「左右の壁」を取り戻した。
しかし、浅川巧が言うように「白岳の山のある間永久に日本人の恥をさらしてゐる」事実までも消し去れたわけではないことは、いうまでもない。







