仁川から京城へ 『仁川事情』1892年の旅 | 一松書院のブログ

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 1892年10月に刊行された『仁川事情』という本がある。著者は青山好惠。仁川の朝鮮新報社から出版された。

 

東京経済大学学術機関リポジトリ

 

 出版当時、青山好惠は『朝鮮新報』の主筆であった。『朝鮮新報』は、1888年に佐野誠之が仁川で創刊した『仁川京城隔週商報』に始まる。その後『仁川商報』と改題され、1890年には病気の佐野誠之に代わって青山好惠が主幹して隔日発行の『朝鮮新報』とした。

 

 この当時は、仁川を足場にして京城で経済活動をする日本人が多く、『朝鮮新報』は仁川で発行されて京城の購読者に頒布されていた。1908年に『朝鮮タイムス』を合併して『朝鮮新聞』となり、併合後の1918年になって本社を京城に移した。それ以降、『朝鮮新聞』は、朝鮮総督府の御用新聞『京城日報』に対抗するかたちで部数を伸ばした。

 

 1882年の壬午軍乱、1884年の甲申政変で、日本は朝鮮での勢力後退を余儀なくされた。それでも、内地通商権を獲得するなどして徐々に朝鮮への経済侵略を拡大し始め、そうした中で『朝鮮新報』は情報提供の媒体の一つとなっていた。

 青山好惠は、新聞記者・衆議院議員だった末広鉄腸に師事し、創成期の『朝鮮新報』に関わったが、この『仁川事情』を出版した翌年1893年に結核に罹って『朝鮮新報』の経営を中村忠吉に譲った。1894年12月に療養のために日本に帰国し、1896年11月に郷里宇和島で病死している。


 日本が無理やり開戦に持ち込む日清戦争の2年前の1892年、仁川にやってくる日本人へのガイドブックとして書かれた『仁川事情』だが、これには当時の仁川から京城へのルートについても細かく書かれている。デジタル化された朝鮮半島の地図情報や、朝鮮写真絵はがきデータベースなどを使って、その道筋を詳しくたどってみたい。

 

仁川京城間ヲ旅行スルニハ水陸二道アリ陸ヨリスレバ多クハ乗馬或ハ轎輿ニ依ルヲ常トス乗馬ハ京仁往復(別當添)三圓五十錢片道二圓五十錢駄馬ハ韓錢三貫五百文(一圓八錢)轎輿人夫一名一日二三貫文(九十三銭)ニシテ少クトモ四名ヲ要スベシ

 これが往復3円50銭の「乗馬」であろう。写真の左側の男性が「別当」=馬丁である。

 

 一方、1円8銭の駄馬の方はこんな感じである。

 

 「轎輿」については下のようなイラストの絵葉書がある。担ぐのは二人だが、距離が長くなれば交代要員も必要になるということであろう。仁川ー京城間は4人で4円弱で轎輿が値段は一番高い。

 

こんな絵葉書の写真も残っている。結構窮屈そうなんだが…

 

 ちなみに、鉄道が仁川から鷺梁津まで開通するのは1899年9月18日、さらに鷺梁津から南大門停車場(現在のソウル駅)を経て西大門外の京城駅(1919年に廃止)まで開通するのは1900年7月8日。
 

 当時の『皇城新聞」の記事から、汽車の方が時間が短縮できるだけでなくかなり安上がりであったことがわかる。

 

結束既ニ成レバ遅クモ午前九時迄ニ發足スルヲ可トス然ラズシテ若シ遲ク發シ遅ク着シ京城南大門既ニ閉鎖サレタルノ後ニ及ンデハ空シク一夜ヲ門外ニ明カサザル可カラザルニ至ルベケレバナリ(京城南大門ハ毎日午後九時ニ閉鎖シ門内外ノ交通ヲ遮断ス)

 朝鮮王朝時代、鍾閣の鐘が朝晩2回鳴らされていた。午前4時に鳴らされるのを「罷漏パル」といいこれを合図に4つの大門が開かれ、午後10時に鳴らされる「人定インジョン」で4つの大門が閉じられた。青山好惠の時代には、10時までに南大門を通る必要があった。「午後九時ニ閉鎖シ門内外ノ交通ヲ遮断ス」とあるのは、青山好惠の錯誤であろうか。

 

 

 ちなみに、「罷漏」「人定」制度は、1895年9月29日に廃止された。この時に朝晩の大門の開閉も行われなくなった。とはいえ、通行は狭い門に限られていた上、その門の中を電車の線路が通った(下の写真は1904年の日付あり)。

 

 

 1907年に南大門の両側の城壁を日本が撤去し、道路が門外に通されて路面電車の線路も移設された。

 

 下の写真(1919年以降撮影)で、左側に見えているのが、仁川から京城に移転した『朝鮮新聞』の本社ビルである。青山好惠はこんなことになるとは想像もしていなかっただろう。

 

 

中飯ハ内外人共梧流洞驛ノ日本旅店浦川氏方ニテ取ルヲ常トス南大門ニ入ル一里半ノ前程ニ於テ旅者ハ必ズ一望茫漠タル三湖砂原ニ出ヅベシ砂原ヲ過グレバ即チ有名ナル漢江渡津ニシテ渡舩賃ハ大概五十文(二錢)内外ナリトス漢江ヲ渡リ麻浦ニ出レバ京城ハ一時間内外ニ達スルコトヲ得ン。

 1916年〜18年測図の1/50.000地図で見ると、梧柳(梧流)がほぼ仁川と京城の中間点に当たる。ここの浦川という旅店で昼食をすべしという。浦川については歴史情報検索では何も出てこない。このルートではこの梧柳の集落が大きかったらしく、1884年の甲申政変の時に京城を脱出して仁川に向かった日本公使館員や日本軍守備隊、在留邦人もここで食糧を徴発している(『京城府史』)。

 

 

 永登浦をすぎて、現在の汝矣島ヨイドの東北部まで来ると、その一帯には砂州が広がっており、ここに麻浦の渡船場があった。現在の元堯ウォニョ大橋よりも少し下流のあたりかと思われる。

 

 

 

 「京釜鉄道開通式記念絵葉書 漢江麻浦之渡 明治三八年五月二五日」と印刷された絵葉書が残っている。轎輿や駄馬が渡船に乗っており、青山好惠の本からは13年後ではあるが、多分青山好惠の時代もこのような風景だったと思われる。

 麻浦からは現在の元堯大路あたりを通って南大門に向かったのであろう。

 

 

 一方、船を使って仁川の税関の埠頭から漢江を遡上して龍山に行くという水上ルートもあった。

仁川港ヨリ水路ヲ取リ京城ニ赴クモノハ必ズ滊舩ニ依ルヲ常トス小滊舩ハ每日仁川港海關埠頭ヨリ麻浦ニ至ル漢江ノ水程三十三里間ヲ來往ス滊舩賃上等二圓下等七十五銭ナリ初メテ此地ニ來ルモノハ水路ヲ取リ小滊舩甲板上ニ两岸奇絕ノ山光水色ヲ賞シツツ漢城ニ乗込ムモ亦一興ナラン滊舩ハ大概八時間ニシテ竜山ニ達スベシ上陸シテ日本旅店ニ就キ休息シ京城行ノ轎輿ヲ周旋セシムベシ竜山津ハ麻浦ヨリ半里ノ上流左岸ニ在ル一江港ナリ。

 仁川の位置する朝鮮半島西海岸は干満の差が非常に大きい。小型動力船は江華島を大回りして漢江を遡上したものと思われる。

 

 

 下の絵葉書の写真は、背景に写り込んでいる冠岳山クァナクサンから、現在の元堯大橋の北端あたりで撮られたと思われる。ここに写っている船が仁川と龍山を往来していた「小滊舩」であろう。麻浦の渡船場から2キロほど上流ということであれば、二村洞(現在の西部二村洞ソブイチョンドン)あたりに船着場があり、日本人の営業する旅店があったということになる。

 

元堯大橋北端の江辺道路のGoogleストリートビューより

背後の山影がほぼ一致する

 

備考 京城ニ旅店三アリ萩園、山田、緒方、是レナリ旅宿料ハ各一圓內外ナリ。京城仁川間ニ小荷物ヲ運搬シ書狀ヲ往復スルニハ仁川ハ上町通ナル永瀬陸運店ニ於テ取扱ヒ京城ハ泥峴ナル同支店ニ於テ取扱フ書狀賃銭ハ重量ニ依ツテ差等アルモ大概一通二三錢内外ナリトス而シテ別ニ朝鮮海關ハ毎夕京仁間ニ郵便ヲ往復ス称シテ海關便ト云ヘリ仁川郵便局ハ京城ニ出張所ヲ置ケルモ未ダ仁川京城間ノ郵便物ヲ取扱フニ至ラズ。

 1892年の京城にあったという萩園、山田、緒方の旅館、泥峴にあったという永瀬陸運店の京城支店については今のところ手がかりが見つからない。

 1884年の甲申政変で清軍と交戦し、慶雲洞の日本公使館を放棄して脱出せざるを得なくなった日本政府は、翌1885年1月には今度は南山の北麓に公使館用地を確保し、領事部と守備隊を置いて日本人居住区をその周辺に設置した。

 『京城府史』第二巻(1936)には、

この月(引用者注:1885年1月)、日本政府は朝鮮側の提供した南山山麓朴某なるものの邸宅を公使館に充当し、現寿町六番地にあった倭城台倶楽部の地一帯を領事館の予定地として受領した。十一日 竹添公使の辞任帰国後近藤書記官臨時代理公使となり同月某日西大門外の仮公使館を南山に移転した。

《中略》

近藤代理公使は十七年の変乱に鑑み条約上城内の居住区域には何らの制限なきに拘はらず、外務協弁及び清国理事官と談合の上、取締の便宜上より日本人は南山山麓に清国人は水標橋付近に居住せしむることとし、日本人の居住地を公使館(現総督官邸)を起点とし領事館より北行する小路の両側すなわち現寿町と本町二丁目の南辺に横はる小路の両側及び其の西端より同町九十二番地なる現明治製菓京城販売所に達する小路迄の一小域内に定めた。此の頃前記道路の幅員は現在と大差なきも付近の他の道路に比較すれば最も広く、現に殷盛を極むる本町表通はなほ之より狭く、日本人家屋は一も認むることができなかつた。

 1903年の地図上に示せば、ほぼ現在の明洞大聖堂の南側からソウルユースホステル(旧KCIA南山庁舎)の北側の地域である。

 

 徐々に範囲を拡大しつつあったであろうが、日清戦争開戦前はこのあたりが日本人の活動の中心地であり、日本人の旅館や運送会社支店もこの範囲内(下の写真の赤丸の部分)にあったと思われる。

 

1902年 南大門から明洞の大聖堂方面(ソウル市立博物館『ソウルの昔の姿』)