末広鉄腸『北征録』(1)1892年10月京城へ | 一松書院のブログ

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 前にブログに書いた青山好惠『仁川事情』には、末広鉄腸が序を書いている。

 

 

 

 末広鉄腸は、1892年の帝国議会選挙で落選し、この年の夏に朝鮮、沿海州、清の視察旅行に出た。8月22日に下関を出発して、釜山、元山をまわってウラジオストク。9月半ばに釜山まで戻って今度は仁川乗り換えで芝罘チーフー(煙台)、大沽タークー、天津へ行き、9月30日に仁川に帰ってきた。この時には仁川と京城に合わせて20日以上滞在した。

 翌1893年2月に『北征録』(青山高山堂)と題してこの視察の記録を出版している。

北征録 : 附・北遊草
 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 末広鉄腸は愛媛県宇和島笹町の出身。仁川の『朝鮮新報』主筆だった青山好惠は、同じ笹町で末広の隣の家で生まれ育った。そのため、ジャーナリズムや政治の世界で活躍していた末広鉄腸の影響を強く受けた。末広鉄腸の仁川・京城滞在中、青山好惠は種々の情報を提供し、様々な便宜を図った。また、第一銀行仁川支店の支店長西脇長太郎も宇和島の出身で、末広鉄腸を歓待した。

 

◆末広鉄腸と一緒に京城に行った人たち

 

 末広鉄腸の仁川滞在の6日目、10月6日の夕刻に、釜山から玄海丸が仁川に入港した。この船には末広鉄腸が京城まで一緒に行くことになる3人の日本人が乗っていた。

 「外務省通商局長原氏」とあるのは、後に外務次官、在朝鮮公使を歴任し、総理大臣在任中の1921年に刺殺された原敬である。原敬は、『郵便報知新聞』『大東日報』の記者を経て1882年に外務省に入省しており、『朝野新聞』にいた末広鉄腸とは旧知の間柄だった。

 

 「交際官試補長瀧氏」とは、永滝久吉を「長瀧」と末広鉄腸が誤記したもので、永滝久吉は当時外務省で「朝鮮防穀事件」を担当していた。朝鮮の地方官が朝鮮からの米の搬出を禁止する「防穀令」を出したことで損害を受けたとする日本人商人が日本政府に損害賠償交渉を求めた事件である。当時、すでに京城の日本公使館を窓口に交渉をしていたが、進展がなかったため本省の原敬と永滝久吉が京城に乗り込んだ。

 

 「元山の商人梶山氏」は、被害を受けたとする元山在住の商人梶山新介で、「元山防穀損害要求者総代」として釜山で原・永滝と合流した。申立人として呼ばれたのだが、直接外交交渉に関与したわけではなかった。後年、梶山新介は、この時の原敬の交渉を「無為主義と称すべき交渉ぶり」と激しく批判している。

 

 当時、電信線が長崎・釜山間の海底線を経由して仁川・京城まで敷設されていた。原敬、永滝久吉、梶山新介の仁川・京城来訪は、この電信線で仁川と京城の日本領事館に知らされていた。その情報は、末広鉄腸の耳にも入っており、港まで出迎えに行っている。そして、原敬ら一行のスケジュールに合わせて、末広鉄腸も翌7日に一緒に陸路で京城に向かうことにした。青山好惠は、『朝鮮新報』の発刊作業があったため遅れて京城で合流することになった。

 

 10月7日午前8時、原・永滝・梶山それに末広の4人は、仁川の日本領事館から轎輿に乗って出発した。途中梧柳の日本人旅店で昼食を食べ、汝矣島に入って漢江を渡船で渡って麻浦に着いた。

当時の轎輿での移動の様子(『朝鮮国真景』1892)

1888年〜91年に日本公使館に在勤した林武一が撮影したもの
末広鉄腸一行を撮ったものではない

 

 日本公使館の書記生国分象太郎が麻浦まで出迎えに来ていた。

 

 

汝矣島側から撮った麻浦(『朝鮮国真景』1892)

 

 国分象太郎は、対馬の通詞の家柄に生まれた。しかし、大政奉還以降、厳原藩の対朝鮮窓口としての役割が外務省に移管される中で、朝鮮語通詞の養成制度にも紆余曲折があった。1880年に東京外国語学校に朝鮮語学科を置いて官費学生を入学させることになり、旧倭館の草梁館語学所にいた稽古通詞もここに編入させることになった。国分象太郎はその時の稽古通詞の一人で東京外国語学校卒業後、1882年の壬午軍乱後の日本公使館に赴任している。1892年には公使館でもベテランの通訳官になっていた。後日、統監伊藤博文の秘書官になり、朝鮮総督府では人事局長、李王職次官も務めることになる。

 

 国分象太郎と麻浦で合流した一行は、南大門に向かった。

南大門を城外から撮った写真(『朝鮮国真景』1892)

 

 南大門を入って右手の泥峴チンコゲ(現在の忠武路周辺)方面に向かい、原敬と永滝久吉は日本公使館の宿所に入った。

 


この当時の日本公使館(『朝鮮国真景』1892)
『京城府史』第二巻(1936)に「南山山麓朴某なるものの邸宅を公使館に充当」とある。上の写真がそれか?
下の写真中央の木が、現在もソウルユースホステル(旧KCIA南山庁舎)手前の道路側に残る銀杏であろう。統監官邸、総督官邸になる洋館の公使館はまだ建てられていない。

 

 民間人の末広鉄腸と梶山新介は、青山好惠が『仁川事情』で京城の旅店として紹介している「萩園」に投宿した。場所は特定できないが、公使館の北側の日本人居住区の一角にあったのであろう。

「日本人居留地にある写真師玉潤堂楼上より市街を望むの景」(『朝鮮国真景』)
中央、北岳山の麓に光化門と勤政殿がうっすら見える。左側の高い建物は建設中の鐘峴聖堂(明洞大聖堂)か?

 

 


末広鉄腸『北征録』(2)行幸見物・大院君表敬

末広鉄腸『北征録』(3)林武一のことなど
へ続く