末広鉄腸『北征録』(2)行幸見物・大院君表敬 | 一松書院のブログ

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末広鉄腸『北征録』(1)1892年10月京城へ から続く

 末広鉄腸は、10月7日から17日まで京城に滞在している。書き残しているのは10日の高宗行幸見物、興宣大院君への謁見、京城の町中の様子、大三輪長兵衛の招宴についてである。記述内容については『北征録』をお読みいただくこととし(国会図書館デジタルコレクション)、ここでは、登場人物の紹介と背景説明、それに気づいた点を書き留めておこう。

 

◆高宗の巡幸

 

 10月10日に綏陵(高宗の2代前の憲宗の父翼宗の陵)に高宗が行幸するため市内を通るということを聞き込んで、萩園に泊まっている日本人が誘い合わせて鍾路まで見物に行った。綏陵は、京畿道九里市仁倉洞に残る東九陵の一つである。

 

 

 高宗の一行は、景福宮から鍾路を東に進み東大門から出て東九陵に向かう。末広鉄腸たちは、この行列を鍾路で見物しようと、泥峴の日本人居住区から北上して水標橋で清渓川を渡った。

 

「水標橋の架せし所は京城内の名所とも云ふへき地にして甚不潔なり」(『朝鮮国真景』)

 

我々は医師古城氏の出張所に入りて休息す
 (中略)

我々が休息所の前に当り四本の丸木を立て蓋ふに布の幕を以てす蓋し其の西に当り先廟あり殿下の此処より遥拝せらるゝが為なり

 医師古城氏とは、古城梅渓のことである。順天堂病院の医師から1886年に京城の日本公使館付きの医務官となった。ドイツ・フランス・清の公使館の嘱託医も兼ねた。1891年5月に公使館付を辞めて泥峴に賛化病院を開設した。この賛化病院の出張所が鍾路に置かれていたようである。場所からいって朝鮮人への医療提供を目的としていたのであろう。と同時に、そこが朝鮮人集住地区における日本人の前線基地・橋頭堡にもなっていた。先廟すなわち宗廟の東側、現在の仁義洞あたりと思われる。末広鉄腸は、目の前で宗廟を遥拝する高宗を観察している。

国王は許多の文武官を左右前後に従へ赤蓋の下に立ち美々敷装ひたる白馬に乗り御衣は軍服にて藍地に金色の模様あり両袖は紅にして背に大なる虎を繍す金刀を帯び鳥紗帽を戴き天幕の中に來て馬を下らる群臣皆な下乗し兵隊四方より圍繞して敬礼す国王は其処に設けたる壇上に立ち髭を捻りながら四方を顧み欣然の色あり頻りに侍臣に向ふて何やらん命令し給ふ御齢は四十前後なるべし顔色白皙にして温和の気眉宇の間に現る程なく轎に召し給へば一同オーの声を揚げ楽を唱へて運動を始む

 白馬に乗ってきた高宗はここで轎輿に乗り換えた。その後に王世子が同じように続き、全ての隊列が宗廟前を通過するのに2時間かかったという。東九陵までは結構な距離があるが、『高宗実録』によれば日帰りでこの日のうちに王宮に帰還している。

参考:18世紀末の「華城行幸図」

 

◆興宣大院君に謁見

 

 高宗の行幸を見物した翌日、高宗の父親である興宣大院君を雲峴宮に訪ねている。

林武一『朝鮮国真景』掲載の興宣大院君

 

 現在の雲峴宮は、地下鉄3号線の安国駅で降りて日本文化院の出口から出て楽園市場方向に行った左手に建物群が復元・整備されている。

 

漢陽図(1902年)

 

 この日、末広鉄腸は、仁川から2日遅れでやってきた青山好恵を伴って、日本公使館の杉村フカシの紹介状を持って雲峴宮に向かった。通訳として「第一国立銀行の川久保氏」が同行した。途中から公使館の国分象太郎もやってきて同席した。


 紹介状を書いた杉村濬は、1882年の壬午軍乱前から公使館に在勤していた朝鮮通とされた外交官である。

 通訳として同行した「第一国立銀行の川久保氏」とは、佐賀の出身で東京外国語学校で李樹廷から朝鮮語を学んだ川久保常吉である。李樹廷は1883年8月9日から85年10月23日まで東京外国語学校で教えていたので、国分象太郎の数年後輩ということになる。卒業後、第一銀行仁川支店に雇用されたが、1888年の第一銀行京城出張所開設以降は京城にもいたものと思われる。

 

 末広鉄腸は、雲峴宮に到着した時の様子をこのように描写している。

門に入りて左折すれば堂あり黒帽を戴き青帛に模様ある服を着し気品高尚にして年齢六十内外の老人椽側に立てり川久保氏に向ひ何人ぞと問へば大院君なり大院君は本年七十四歳なるに少しも老衰の体なし (中略) 我々を導て一室に入る正面に寿酌楼と太書したる額あり室の広さ幅二間長さ五間許り

 韓国の国立中央博物館に興宣大院君の複数の肖像画が残っている。その中で「黒巾青袍本」というのが雰囲気的には似ているのかもしれない。

 

 彼らが通された寿酌楼は、1865年に興宣大院君が自分の部屋の隣に建てたもので、「寿酌楼記」の扁額だけが今日まで伝わっている。

 

 

 ちなみに、杉村濬は、1895年10月8日未明に日本公使三浦梧楼が引き起こした高宗の王妃閔妃を殺害した事件(乙未事変)に直接関与し、日本に召喚された。この事件の時に興宣大院君を担ぎ出したのが杉村濬である。日本国内で形だけの裁判にかけられて無罪が宣告され、その後はブラジルへの移民政策に携わりブラジル公使となったが1906年にブラジルで病死した。

 一方、川久保常吉は、1893年11月に第一銀行を解雇されて東京に戻った。東京では、金玉均・朴泳孝の暗殺の密命を受けて来日した李逸稙に協力していた。金玉均が上海で暗殺されたのち、謀殺教唆罪で裁判にかけられたが1894年10月に東京控訴院で無罪判決が出た。その後、京城にいたようだが、詳しいことは不明である。

 

 ところで、雲峴宮での謁見時に、興宣大院君の方から豊臣秀吉の朝鮮出兵の話が持ち出されている。小西行長を朝鮮側が殺したとする大院君に対して、末広鉄腸は小西行長は生きていたと反論したが、川久保常吉が曖昧なままこの話を打ち切っている。以前もこの話を否定した日本人がいて、大院君が機嫌を損ねたことがあったという。

 この大院君とのやりとりを書いた後、末広鉄腸は豊臣の軍勢から朝鮮側に寝返った者(降倭)の話に言及している。

余の出発に際し別を副島伯に告く伯曰く根来寺の秀吉のために滅せらるゝや僧兵三千逃れて朝鮮に趣き文禄の役起るに及ひ韓兵の先鋒となり各処に戦争し功績最も多かりしを以て一の村落を分与せられ今に其子孫の存するもの千余口なりと朝鮮に至り之を問へども知るものなし然るに前日京城在留の某氏之と相似たることを聞き出せり忠清道の沃川邑に日本村あり戸数四五十人口四百余皆な文禄の役に朝鮮の為めに戦ひしものゝ子孫なり

 副島種臣が、根来寺の僧兵3000が朝鮮側で戦い、朝鮮にその子孫が暮らす集落があると言ったという。これはかなり興味深い。副島はどこからそのような話を聞き込んだのであろうか。さらに、京城で聞いた忠清道沃川に降倭の子孫の集落があるという話も書き留めている。さらに、東京に戻ってから、亡命中の金玉均にあってこの話をしたらこんな答えが返ってきたという。

帰朝後金玉均氏に逢ひ此事を談せしに氏の曰く日本村は決して一の沃川に止まらず長き戦争中日本人の朝鮮に降参して功を戦場に立てしもの少なからず乱後朝鮮政府より土地を受け其の子孫は今日まで相集て処々に部落をなすと

 

 現在、大邱市から20キロほど南の友鹿洞に鹿洞書院があり、その横には達城韓日友好館が建っている。ここは宣祖から金忠善の名前をもらった降倭「沙也可」の後孫たちの集落とされる。

 

 その存在が知られるようなったのは日本による韓国併合の後。青柳南冥の朝鮮研究会が1915年に鹿洞書院に伝わる『慕夏堂集』を編集し、文集の読み下し文とともに各界の大御所を動員して出版した。ここでは、降倭の存在を疑問視し、『慕夏堂集』は偽書だとする説が展開された。

而も其慕華論の見識に至ては当時の日本国民の思想と相容れざるのみならず、加藤清正の如き忠君愛国の念尤も旺盛にして士気の最も磅磚せし肥後藩に非国民的交柔の武将の出現すべき謂はれ無き也

 

 副島種臣の根来寺の僧兵の話や沃川の日本村の話は、こうした「金忠善降倭否定論」の20年以上も前に出ている。そして、科挙にトップで合格して改革路線を推進していたエリート官僚の金玉均が降倭はたくさんいて朝鮮に定着していると語ったというのも興味深い。

 

 1933年になって、朝鮮史編修会の中村栄孝が「慕夏堂金忠善に関する史料に就いて」を『青丘学叢』第12号に発表して、『朝鮮王朝日録』や『承政院日記』などの資料を駆使して沙也可・金忠善実在の可能性を実証的に論じた。

 

 今日においては、金忠善など降倭の存在は史実として認められているが、沙也可とは誰なのかについては今でも諸説ある。その中の一つに紀州の「雑賀さいか」ではないかという説がある。

 雑賀衆は、土豪の在地支配を解体しようとする豊臣秀吉に対して、根来ねごろ衆と手を組んで抵抗したが、結局潰されてしまった。そうしたことを考え合わせると、1892年に副島種臣が「根来寺の僧兵3000が朝鮮側で戦い、朝鮮にその子孫が暮らす集落がある」という話をどのようにして知ったのか興味深いが、残念ながらその先はたどりようがない。

 

 


末広鉄腸『北征録』(3)林武一のことなど
へ続く