◆京城の町中の様子
末広鉄腸は「京城の形勝並びに市街の有様」として、京城の様子を紹介している。
この項目では、林武一の『朝鮮案内』を参照した記述に末広鉄腸自身の見聞を加えて叙述している。
林武一は、長州萩の生まれでドイツ語を学びその後海軍の主計局に勤務し、1888年に交際官試補に任じられて8月に在朝鮮公使館に赴任し、1891年10月に3年の任期終了で離任した。当時、写真師や在日外国人写真愛好家などで組織された「日本写真会」があり、林武一はその会員であった。在任中に京城はもとより朝鮮各地で写真撮影をしている。
このブログに転載している『朝鮮国真景』の写真は、林武一がこの時に撮影したものである。
林武一は、離任前の1891年8月に、東京で『朝鮮案内』を出版した。この本は、日本人の朝鮮渡航の指針となる情報提供を目的としたもので、写真は掲載されていない。釜山や元山の情報も現地の領事から入手しており、領事業務の一環であったとも考えられる。この本は、『読売新聞』の「批評」にも取り上げられた。
翌1892年1月末、林武一は朝鮮の地方巡視のため朝鮮への出張を命じられている。4月4日、出張任務を終えて仁川から出雲丸に乗って帰任の途に着いた。ところが、出雲丸は全羅南道所安島付近の暗礁に乗り上げて沈没し、この事故で林武一は死亡した。
日本国内では、4月9日にこの事故の第1報が報じられた。
この事故では、海軍の将官も死亡し、日本国内でも、そして出港地の仁川でも連日大きく報じられた。5月25日には、仁川の青山好恵の『朝鮮新報』に親族が死亡広告を出している。
さらに『朝鮮新報』は、9月3日に『朝鮮案内』の売り出し広告を掲載している。前年に出された『朝鮮案内』に、林武一の「肖像」と公使館前書記官近藤真鋤が書いた「伝記」がついていた。
末広鉄腸が仁川に立ち寄るのは、9月19日と9月30日。それ以前に日本国内で入手していた可能性もあるが、著者の林武一への追悼の意から名前をあげて抜粋したのであろう。
ちなみに、林武一が1888年から91年までの在勤中に撮りためた写真は、1892年11月に『朝鮮国真景』として出版された。「日本写真会」の会員小川一真が120数枚の写真からピックアップした。妻林亀子の「林武一略伝」がついている。写真の解説部分は林武一が書いたもので、生前にすでに原稿を用意していたと思われる。
林武一『朝鮮国真景』1892年11月
国会図書館デジタルコレクション
末広鉄腸の『北征録』は1893年2月10日に出版されて、数枚の図版が載せられているがいずれも出典は不明である。
◆大三輪長兵衛の招宴
「官妓」の話を書いているが、その舞台となったのは「大三輪氏の宅」で開かれた宴席である。大三輪長兵衛は大阪で海運業や問屋業で成功を収め、1878年に第五十八国立銀行を設立して頭取に就任した。大阪の実業界の大物であると同時に大阪府会議長、同市会議長等を歴任している。
朝鮮は、造幣機関として1883年に典圜局を置いた。1891年、安駧寿を日本に派遣して、大三輪長兵衛のアドバイスを受け、大阪製銅の増田信之社長から借款を得て、洋式の新貨幣発行事業に着手することになった。
高宗29年辰(1892年)11月2日(陽暦12月20日)
これより先、葉錢を鑄造するため典圜局幫辦安駧壽を日本に派遣し、銅を購買せしめた。安駧壽は大阪で、日本第五十八國立銀行頭取大三輪長兵衛および大阪製銅株式會社長 增田信之等が洋式貨幣の鑄造が有利であることを說いたことから、これを本國に轉稟して許諾を得、增田信之等に頼んで銀250,000圓を借りて典圜局を改築し、機器を購入して新貨を鑄造することとした。そして典圜局を仁川に、交換局を漢城に設置し、日本の前大藏省叅事官橫瀨文彦を典圜局監理に、大三輪長兵衛を交換局幫辦に任命にしたところ、10月に典圜局の建築と機械設置が完成したため、この日、戶曹判書朴定陽を典圜局管理兼交換署管理に、叅議內務府事成歧運を典圜局兼交換署總辦に任命した。
『高宗時代史』
1892年10月には、大三輪長兵衛は交換局帮弁という最高顧問に就任して、京城の居宅に住んでいた。その居宅で、東京から出張でやってきた原敬一行を主賓として、典圜局幫弁の安駧壽、日本公使館、領事館の関係者を招いてパーティーが開かれた。末広鉄腸も招かれた。
そこには、宮廷にも呼ばれる「官妓」が呼ばれていたが、宮中の行事の予行演習が長引いて2時間遅れで5名がやって来たという。
「官妓」となっているが時期は不詳
朝鮮絵葉書データベースより
1892年に仁川に新しい典圜局が建設されたが、ドイツや清との利権争いや日本内部でも大三輪長兵衛と増田信之の対立が起こり、1893年1月に朝鮮政府は典圜局を閉鎖し、同年10月に大三輪長兵衛は日本に帰国することになる。
◆京城から水路で仁川へ、帰国
10月17日に、末広鉄腸は、原敬、永滝久吉とともに仁川に向かった。往路は陸路であったが、帰路は龍山から小型汽船で漢江を下る水路を利用した。

この当時の龍山(『朝鮮国真景』1892)
蔓草川の河口の西側、現在の元堯路4街の江辺
当時龍山から仁川への船は、日本人所有とアメリカ人所有の2隻があり、ともに日本人の船員が運行していた。
江華島の沿岸に設置された広城堡などの堡や鎮を目にして、1866年のフランス艦隊の侵入(丙寅洋擾)や1871年のアメリカ艦隊の侵入(辛未洋擾)について言及しているが、1875年の雲揚号事件には触れていない。
10月21日、末広鉄腸は仁川から豊島丸に乗船し、23日釜山着、25日下関着、そして26日に神戸港に到着した。出発の時は、新橋から横浜へ行き、船で神戸に向かったところから始まっているが、帰路の記述は、この神戸帰着をもって終わっている。
(完)






