雲峴宮(1)—日本の植民地支配下の雲峴宮— | 一松書院のブログ

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 地下鉄3号線「安国アングク」で降りて4番出口を上がり、そのまままっすぐ行くと左手に「雲峴宮ウニョングン」の塀が続き、その先に入り口がある。敷地の奥に韓屋の建物が並び、その屋根越しに洋館が見える。この洋館は、今は徳成トクソン女子大の施設になっているが、もとは「雲峴宮」の一部だった。

 

 

 「雲峴宮」が一般に公開されたのは、1996年10月26日。1980年代には、まだ敷地内には建造物がゴタゴタと立て込んでいた。徳成女子大の横の路地を入っていった奥に1989年まで伝統韓屋を使った「雲堂ウンダン旅館」があった。外国人観光客にはこっちの方が「雲峴宮」よりも知られていた。

 

 

 1992年にソウル市は、所有者の李清イチョンから「雲峴宮」を買い取った。2,148坪の土地に6棟の建物で83億ウォン。60点余りの歴史的な遺物は無償で李清がソウル市に寄贈した。

 

 4年間の修復・整備を経て一般公開され、今では認知度も高まっている。

 

 この「雲峴宮」が興宣大院君フンソンデウォングン李昰応イハウンの居宅であったことは広く知られている。興宣大院君は、朝鮮王朝第26代国王高宗コジョンの父であり、東アジア近代史の中で重要な人物なのだが、ここではその説明は必要最小限にとどめ、「雲峴宮」の方に焦点を当てることにする。

 


 

 「雲峴宮」の所有権は、下図の最上段の5人が引き継いでいる。オレンジのラインは養子関係を示している。これ以外にも「〜公」といった呼び名もあるが、ここではこの表の呼称で記述する。下図を参照しながらお読みいただきたい。

 1863年に李昰応の次男李㷩イヒ(高宗)が国王に即位すると、李昰応には国王の父に与えられる大院君の称号が与えられ、その居宅には老楽堂ノラクダン老安堂ノアンダン二老堂イロダンなどが順次建てられ、雲峴宮は権力の中枢の一つとなった。

 

 興宣大院君は、国王の高宗、そして高宗の王妃閔妃ミンビとその一族との間で、内政・外交の主導権をめぐって激しく争った。そして、1895年10月の閔妃殺害事件(乙未事変)、1896年の「俄館播遷」を経て、興宣大院君は表舞台から退いた。1898年1月に夫人が亡くなり、2月22日に孔徳里コンドンニの別邸「我笑堂アソダン」で興宣大院君も死去した。

 「我笑堂」は、現在のソウルデザイン高校(地下鉄6号線孔徳コンドク駅と大興テフン駅の中間北側)の場所にあった。

 

 

 「雲峴宮」は、興宣大院君の長男李載冕イジェミョンが継承した。

 

 当時、李載冕の息子の李埈鎔イジュニョンは、国外滞在を余儀なくされていた。1895年5月に興宣大院君が関与した政争の中で、李埈鎔は大臣暗殺の陰謀に加担したとして死刑判決を受け、その後流刑に減刑されて特赦で釈放された。そして、「乙未事変」後に日本に渡った。国王高宗は、李埈鎔を嫌ってその帰国を許さなかった。

 興宣大院君の夫人が死去した時、イギリス滞在中だった李埈鎔は、ロンドンの日本公使にも助力を求めて帰国を画策した。しかし、高宗の強い反対で帰国は実現しなかった。李埈鎔は高宗の在位中はずっと日本に滞在することになった。

この間、「雲峴宮」は次第に傷みがひどくなっていた。黄玹ファンヒョンの『梅泉野錄メチョンヤロク』には、1905年にこのような記述が見られる。

『梅泉野錄』卷之四  光武九年(1905年)乙巳 4月

命修理雲峴宮, 自李埈鎔不得返, 載冕杜門謝客, 垣戶一任頹圮, 至是下帑錢二百七十萬兩·白米三百七十石于雲峴宮, 俾淸積債, 又命營繕司葺其頹圮, 人言倭使將至有碍觀瞻故也, 時載冕頗患貧, 大院君葬役, 久未完。


雲峴宮を修理せよとの命を下した。李埈鎔が帰国できなくなってから李載冕は門を閉じて来客を謝絶している。塀と家屋が毀損しているので内帑金270万両と白米370石を雲峴宮に下賜し、債務を返済させ、営繕司に命じてその損傷部分を修理させた。ある人は、日本の使臣が到着するので美観を損ねないようにするためだと言う。この時、李載冕は大変苦しい生活をしていた。大院君の葬礼がまだ終わっていなかったからである。

 『高宗時代史』には1906年に次のような記載がある。

光武 10年, 丙午(1906년, 淸 德宗 光緖 32年, 日本 明治 39年) 10月 31日(火)  
伊藤統監이 朴泳孝등 日本에 亡命한 者의 特赦歸國을 위해 盡力하고 있다고 한다. 즉 朴泳孝를 우선 特赦하고 다음에 亡命者 全部를 特赦하는 同時에 雲峴宮의 惟一한 血統인 李埈鎔을 召還하고 亡命者에 連累犯을 解放하려하고 있다 한다.
출전    大韓每日申報 光武 10年 10月 31日

 

伊藤統監が朴泳孝ら日本に亡命した者の特赦と帰国のために尽力しているという。すなわち、朴泳孝をまず特赦し、ついで亡命者全員を特赦すると同時に、雲峴宮の唯一の血統である李埈鎔を召還し、亡命者の関連犯を解放しようとしている。
出典 大韓每日申報 光武10年10月31日

 伊藤博文は、朴泳孝パギョンヒョや李埈鎔など日本に亡命している要人を帰国させて、日本による統監府統治に利用しようとしていた。しかし、高宗はこれに強く反対しており、特に李埈鎔の帰国は絶対に認めないとしていた。

 『梅泉野錄』の「倭使」とは伊藤博文のことであろうか。伊藤博文にとやかく言わせないために高宗が「雲峴宮」の修理を指示したということなのかもしれない。

 

 1907年6月、ハーグの万国平和会議に高宗の特使が送られた、いわゆる「ハーグ密使事件」が起きた。この事実が新聞で報じられると、李埈鎔は7月11日に新橋から神戸に向かい、偽名を使って釜山プサンに強行帰国を敢行した。

「韓国皇族義和宮及同国人李埈鎔並に亡命者帰国一件」

 

 その直後、伊藤博文は、密使派遣の責任を問うとして高宗皇帝に退位を迫り、7月19日に譲位式を行って李坧イチョク(純宗)を皇帝に即位させた。帰国していた李埈鎔は永宣君ヨンソングンに封ぜられて、「雲峴宮」に住むことになった。

 

 日本が大韓帝国を併合した2年後、1912年に李載冕が死去した。

 

 

 李埈鎔が「雲峴宮」を引き継いだ。

 

 「雲峴宮」の洋館は、この前後に李埈鎔を懐柔するために日本が主導して建てられたのではないかとされる。この洋館は、赤坂迎賓館(旧東宮御所)の設計などを手がけた片山東熊トウクマが設計したとされるが、確証がない。片山東熊は、朝鮮では、1907年に着工された龍山の日本軍司令部を設計している。この建物は1910年4月に完成したが、この時点で用途変更がなされて統監官邸となった。併合後は総督官邸となったが、ほとんど使われることはなかった。

龍山の朝鮮総督官邸

 

 下の写真は、1918年に李垠イウンが朝鮮に一時帰郷した際の「雲峴宮」洋館の写真として韓国のサイトに掲載されているものである(出所不明)。日本居住を強いられていた李垠は、1918年の1月14日から25日まで京城に一時滞在した。

 現在は敷地が切り離されている韓屋部分と、洋館との関係がよくわかる写真である。

 


 1917年3月22日、腎臓と心臓に持病があった李埈鎔は47歳で死去した。後継の男児がいなかったため、高宗の息子李堈イガン(李埈鎔の従弟)の次男李鍝イウを養子とした。「雲峴宮」は、幼い李鍝が引き継ぐことになった。

 李鍝は1912年11月15日生まれで、養子となった時は満4歳。鍾路チョンノ小学校に入学したが、1921年4月から日本の学習院初等科に転校させられた。その後は陸軍中央幼年学校を経て、1933年に陸軍士官学校(45期)を卒業した。

 1925年には下渋谷常盤松の皇室所有地に李鍝の邸宅が建てられ、李鍝を日本内地に永住させることが既定路線となった。

 1928年、李王(李垠)と王妃方子マサコ(梨本宮方子)の夫妻が欧州旅行から神戸に帰国した時の写真が『朝日新聞』に掲載されている。李堈・李垠・徳恵トッケが高宗の子供たちで、李鍝は李堈の次男である。李堈の長男李鍵イゴンは、この時には習志野馬術大会出席のため神戸には来ておらず、写真に映ってはいない。李鍵もまた東京に邸宅があり、内地に永住することが規定方針とされていた。

 

 朝鮮の王族の子弟の多くが朝鮮から切り離されて、内地に居住させられていたのである。

 



 李鍝は、1935年に朴泳孝の孫の朴賛珠パクチャンジュと結婚した。

 

 

 李垠、徳恵、李鍵は、それぞれ日本人と結婚することになったが、李鍝は日本人との結婚を拒んで朴賛珠と結婚した。朴賛珠の祖父朴泳孝も難色を示す日本側の要人の説得に動いたという。新婚生活は下渋谷常盤松の邸宅で始まり、「雲峴宮」に暮らすことはなかった。李清と李淙イジョンの二人の子供も東京で生まれた。

 

 下の『地番区画入 大京城精図』は、1936年発行の京城の地図である。「雲峴宮」のところに「李鍝公邸」との記載があり、その西南側、現在の仁寺洞インサドンの真ん中の通りから西に入ったところに「李鍵公邸」との記載がある。これは、李堈の長男李鍵の公邸である「寺洞宮サドングン」である。元々は父の李堈の邸宅だったが、1930年に李堈が引退して李鍵がこの「寺洞宮」を引き継いだ。

 

『京城府校閲 地番区画入 大京城精図』(1936年)

 

 しかし、李鍝も李鍵も、実際には東京の渋谷常盤松に建てられたそれぞれの邸宅に住んでおり、「雲峴宮」「寺洞宮」には、一時帰郷の時に立ち寄るだけだった。「雲峴宮」には、先々代の当主李載冕の夫人と、先代の当主李埈鎔の夫人が暮らしていた。

 

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。西部軍管区司令部参謀として広島に単身で赴任していた李鍝は、出勤時に被爆して翌7日に死亡した。遺体は、8月8日に飛行機で汝矣島飛行場に搬送され、「雲峴宮」に安置された。朴賛珠夫人も清と淙の二人の息子も飛行機で京城に戻った。

 

 

 葬儀は、8月15日午後1時から、東大門の京城運動場で「陸軍葬」として行われることになった。

 

 8月15日は朝から正午に重大放送があるとの知らせが様々な媒体で流された。正午にポツダム宣言を受諾するという天皇のラジオ放送が流された。日本は無条件降伏をした。

 しかし、李鍝の陸軍葬は午後1時から、予定通り執り行われた。

 

 葬儀が全て終わると、朴賛珠は二人の息子とともに「雲峴宮」に戻った。そして、二度と渋谷常盤松の邸宅にもどることはなかった。「雲峴宮」での暮らしが始まった。

 


雲峴宮(2)—日本大使館の候補地?— に続く