ソウルの東大門の東側のすぐ左手が昌信洞、道を一つ隔てた東側が崇仁洞である。
昌信洞の斜面には、縫製関係の小規模下請け工場が立ち並ぶ。奥に進んでいくとさらに急斜面になり、断崖絶壁が出てくる。その絶壁の下にも断崖の上にも建物が並ぶ壮観(?)な光景が目に入ってくる。
ソウル歴史博物館『2011ソウル生活文化資料調査 昌信洞:空間と日常』より
昌信洞のこの断崖絶壁は、日本の植民地時代の採石場の跡である。崇仁洞側にも採石場があった。
下の地図は、1921年測図の10,000:1地形図だが、昌信洞の北側と崇仁洞にガケが表示されている(ピンクのマーカー)。このあたりで建築用の石材が切り出されていた。
地図の左側、北からおりてきているブルーのマーカーの線が漢城を囲っていた城壁。画像左下部に東大門があるが、その北側ではすでに城壁はなくなっている。オレンジのマーカーは、当時の路面電車の線路で、清涼里から東大門、鍾路に伸びる路面電車の線路と、そこから昌信洞と崇仁洞の間の道に沿って北の採石場の直下まで路面電車の線路が描かれている。
1920年には、この採石場からこの路面電車の線路を使って切り出した石材を運んでいた。この年6月、景福宮の勤政殿前の朝鮮総督府新庁舎の建設現場に採石場から石材を運んでいた貨物電車が鍾路3丁目で故障して立ち往生する事故があった。
電車と故障
貨車のモーターが壊れて
昨21日午前9時ごろ、東大門外採石場から石を積んで光化門の総督府新築現場に向かっていた貨物電車が鍾路3丁目の安商浩病院の前に差し掛かった時にモーターが壊れ、電車が約1時間余り動けなくなった。後続の電車7〜8台が立ち往生し、やむなく上りの電車を下りの電車をつないで乗客を徒歩で乗り換えさせるなどしたが、ちょうど官公庁の出勤時間と重なり一時はひどく混雑した。
この記事によって、一般の乗合電車の合間を縫って貨物電車が総督府庁舎の建築現場まで石材を運搬していたことがわかる。
1910年の韓国併合後、南山の北麓に建てた統監府庁舎を朝鮮総督府庁舎として使っていた。しかし、庁舎が手狭になったことに加え、植民地支配者としての優位性を誇示する建物がほしいということで、景福宮勤政殿の前面に総督府の新庁舎を建てることにした。
1916年6月に着工して1926年10月に完成した朝鮮総督府庁舎は、5階建てのコンクリート造りで、外壁に花崗岩を貼り付けて荘厳な雰囲気を出していた。その花崗岩を昌信洞の採石場から電車で運んでいたのである。
採石場は、1925年に京城府の直営となるのだが、その時の『朝鮮新聞』に、この朝鮮総督府庁舎を建てていた1920年前後の採石場のことが書かれている。
京城府直營となれる
採石塲予算内容
僅か二箇月間に六千圓の増収
來る三十一日の京城府協議會に諮問すべき事項及びその内容は既報の通りであるが右諮問事項中來る二月一日から京城府直營となれる府内東大門外の採石塲は
去る大正八年以來朝鮮總督府と京城府の共營事業として開始せられ昨十三年九月十五日まで両當局共營のまま繼續せられて來たが本年一月十五日附を以つて京城府の直營となった譯である
然して右兩當局の直營開始目的は總督府側では光化門新廰舎の新築及朝鮮神社増營等に多量の石材が必要となり又京城府側では府事業中土木建築材料を之亦多量に必要とする塲合であつたから共同経營を計畫し同採石塲の石材は一切民間には供給せず且民間相塲の變動にも何等關係することなく純然たる官營事業として繼續せられたもので今回府直營と同時に二月一日から事業を開始し左記官有敷地及附屬建物器具機械等一切を大正十八年迄向ふ五箇年間總督府より無償貸與せられた譯である
△採石總坪數五千坪二萬一千圓
△總建物價格三千百圓△機械器具四千七百圓
尚府直營後に於ける府収入豫算は本年度中卽ち二三兩月間に於て支出額一萬一千八百圓でこれが收入は一萬七千圓この差引六千圓を增收することになつてゐるが府當局が現在使用しつゝある從事人夫一日最多四五百名平均二三百名を整理節約すれば更に利益を增加することが出來るといつてゐる
この記事によれば、「東大門外の採石場」は、1919年に朝鮮総督府と京城府との共同経営として運用され始め、1925年1月15日付けで京城府単独の採石場として運用されるようになったという。そして、2月1日からは民間への石材販売も始められた。
ちなみに、朝鮮神宮は、1919年に工事が始められ、1925年10月に鎮座祭が行われている。この造営時には、内地から多数の石職人が朝鮮に呼び集められ、参道の石段や石製の鳥居の加工・製作に動員されたという。
では、総督府と京城府が共同で採石場を運営する1919年以前は、この採石場はどのようになっていたのだろうか。
朝鮮王朝の時から、漢城(現ソウル)の城外で石材が切り出されていた。
1898年の『高宗実録』には、石材の出所について尋ねた高宗に対し、閔泳駿がこのように答えたとの記載がある。
上曰、石材將何處取用乎、泳駿曰、阼溪・道峯・江華三處已多取用矣。
「阼溪」は、北漢山の東側の水踰の「曹渓洞」で、「道峯」はソウル市内の道峯山の山麓である。
一方、英祖代の『承政院日記』には、東大門の東側でいい石が出ることが記録されている。
『承政院日記』英祖46年4月21日
戶曹郞廳金恒柱進伏。上曰、誰也。文載曰、金恒柱矣。上曰、日影石、安排石材、得來於何處云耶。恒柱曰、得來於東大門外云矣。
この東大門外で採れる石材は良質の淡紅色の花崗岩(御影石)で、それにいち早く目をつけたのが、清水屋(現在の清水建設)であった。
『清水建設二百年 生産編』(2001)によれば、清水屋は、1902年に京城出張所を置き、日露戦争後には、出張所を出張店に昇格させ日本軍の施設や大韓帝国の庁舎を受注していた。1908年には、第一銀行韓国総支店の建設を受注した。後に朝鮮銀行本店となり、現在も貨幣博物館としてソウルの中心部に残っているあの建物である。
この第一銀行韓国総支店の建設の時に、清水屋は東大門の東側の採石場の採石権を入手している。
石材の調達に関しては明治41年に、京城出張店が京城東大門外藍橋洞地区にある国有の石山(花崗岩=御影石)で石材の採掘権および特売権を取得して大正7 (1918)年まで採取し、「第一銀行韓国総支店』(後の朝鮮銀行)などを施工した。
『清水建設二百年 生産編』(2001)
韓国京城実測地図(1907)
1913年12月に朝鮮総督府による行政区域の管轄区域と名称の変更が行われ、この時に藍橋洞は昌信洞と崇仁洞に編入されたが、清水屋が採石をはじめた頃は藍橋洞であった。
また、これと前後して近くの昌信洞と崇仁洞の石山から石材採掘権ならびに特売権を新たに購入し、採掘をつづけた。これらの石材は、朝鮮で清水店が手がけたほとんどの施工建物(東洋拓殖本社、朝鮮総督府官邸など)に使用しただけでなく国内へも輸送して、「服部時計店」「第一銀行本店」「安田貯蓄銀行」などの建物に使用した。
『清水建設二百年 生産編』(2001)
こうして、清水屋は昌信洞と崇仁洞の石山採掘権と販売権を入手したが、これは藍橋洞の採石場よりも北側の奥の場所だと思われる。
ちなみに、清水屋が建設した「東洋拓殖本社」は、黄金町2丁目に1911年12月に完成している。
また、「朝鮮総督府官邸」とあるのは、1907年6月に龍山の韓国駐箚日本軍司令官官邸として着工され、竣工した1910年4月には用途変更されて統監官邸となった建物である。併合後は朝鮮総督官邸となったが、京城府の中心部から離れていたこともあって官邸としてはほとんど利用されることがなかった。
昌信洞・崇仁洞で切り出された石材は、京城の建物の建材として利用されると同時に、日本の内地にも持ち込まれて建材として利用された。これらの石材は、「朝鮮万成」と呼ばれて珍重されたという。
ところで、こうした建物建築の際も石材を運んだのは貨物電車だと思われる。陸地測量部が1915年に測図して1917年5月15日に発行された1:10,000地図には、電車の線路が昌信洞の奥まで描かれている。従って、1915年以前に採石場への線路が敷設されていたことは確認できるが、この支線がいつ敷設されたのかは明確でない。
1915年に清水屋は合資会社清水組になった。その清水組の持っていた昌信洞と崇仁洞の石材採掘権と特売権は、1919年に期限切れになり朝鮮総督府はその延長を認めず、これを召し上げた。
恰も此時舊韓國政府より採取許可の權利を得て採石中なる清水組の東大門外石山が、八年三月には期限の満了になることを好機とし、採掘權は取上ぐることゝし尚ほ接續民有石山の一部を買収して茲に石材採取供給直營を企て、朝鮮神宮造営用石材と、京城土木出張所の市區改正工事用石材と、京城府の工事用のものとを採取することゝして、之等の共同經營を實行することになりました。
(中略)
京城電氣會社に交渉し東大門內石山探石場への引込と、光化門前大通を廣場の紀念碑殿より廳舎工事場内への引込をしました、今日迎秋門迄延長して居る線路が之であります、此の線路の連絡によりて東大門外の石材渋江の砂利川砂、麻浦煉瓦工場よりの煉瓦、龍山に陸揚した大理石のすべてを、容易に而る迅速にT場內に引込み運搬することになつた便利は、直營工事を成功せしめた重要なる部分をなして居ります。
岩井長三郎「總督府新廳舎の計畫及實施に就て」
『朝鮮』1926年4月号(第131号)
たぶん、朝鮮総督府は、清水組から採石場の採掘権を召しあげることを前提に、早くから電車の引き込み線敷設をを京城電気に要求していたのであろう。
1919年以降、昌信洞と崇仁洞の石材は一般への販売が停止され、公的な建築物の建設だけに使用されるようになった。
上述の朝鮮総督府庁舎建設、朝鮮神宮造営以外にも、京城駅の駅舎新築(1925年9月竣工)などにもこの石材が使われた。
また、1924年11月に始められた京城府庁舎の建設にも昌信洞の石材が使われた。それまで京城府庁は、朝鮮銀行の向かい側、その後三越百貨店(現新世界百貨店)が建てられる場所にあったが、これを徳寿宮前に移転させることになった。新庁舎の竣工は1926年10月であった。
府庁新築工事が始まった直後の1925年1月15日、朝鮮総督府は多量の石材を必要とする大型工事が一段落したとして、昌信洞の採石場経営から手を引き、京城府の単独経営となった。同時に、民間への石材販売を再開してかなりの収益をあげるようになった。
三越百貨店の建物は、1930年に旧京城府庁跡に完成したが、鉄筋コンクリート造で外壁が「赤色花崗岩」だったとされている。この建物にも昌信洞の石材が使用されていたのだろう。
採石場は、石材を切り出せば切り出すほど切り立った急峻な断崖ができていく。崩壊事故や落石事故などもしばしば起きていた。
下の写真の×印が崩落した岩石である。
日本の敗戦によって、京城府が運営していた昌信洞の採石場はアメリカ軍政庁に接収された。その後朝鮮戦争が勃発し、その停戦後、アメリカ軍が昌信洞の採石場を直接運用し始めた。建築用の石材の切り出しではなく、道路補修などに使う砕石を大量に必要としたためである。そのため、爆薬をしかけて発破をかけて採石作業を行った。近隣の住民は発破の轟音と粉塵に苦しめられ、米軍当局に陳情して発破作業の中止を求めた。アメリカ軍が必要とした補修工事がが一段落したのか、作業は中止され、アメリカ軍は撤収した。
その後、昌信洞と崇仁洞の採石場はソウル市が引き継いだ。住民の強い反発を受けて、ソウル市長が採石作業を停止するとの意向を示したこともあったが、その後も採石作業は続けられていた。
昌信洞の採石場は、1959年に設立された金剛採石土建という会社に払い下げられた。
一方、崇仁洞の採石場の方は、1964年に閉鎖されている。
1971年、昌信洞の採石場を所有していた金剛採石土建は、採石場跡地を分譲宅地として売り出した。
この宅地については、分譲後もその立地の危険性が再三にわたって指摘されていた。
しかし、当時は効果的な予防措置が講じられることなく、断崖絶壁とその上下の住宅が共存するという奇妙な景観が広がったのである。
2016年、ソウル市は「ソウル型都市再生1号」として昌信・崇仁事業を打ち出した。
ソウル市は、昌信洞一帯の古い採石場跡地の19,000㎡を公園や展望台などのある観光スポットにする計画を立てた。
これからどうなっていくのか… 興味深い。
この不思議な景観も、やはり日本の朝鮮侵略の歴史と深い関わりを持っていた。歴史背景について知識と関心を持っていくべきなのだと思う。






















