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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

末広鉄腸『北征録』(1)1892年10月京城へ から続く

 末広鉄腸は、10月7日から17日まで京城に滞在している。書き残しているのは10日の高宗行幸見物、興宣大院君への謁見、京城の町中の様子、大三輪長兵衛の招宴についてである。記述内容については『北征録』をお読みいただくこととし(国会図書館デジタルコレクション)、ここでは、登場人物の紹介と背景説明、それに気づいた点を書き留めておこう。

 

◆高宗の巡幸

 

 10月10日に綏陵(高宗の2代前の憲宗の父翼宗の陵)に高宗が行幸するため市内を通るということを聞き込んで、萩園に泊まっている日本人が誘い合わせて鍾路まで見物に行った。綏陵は、京畿道九里市仁倉洞に残る東九陵の一つである。

 

 

 高宗の一行は、景福宮から鍾路を東に進み東大門から出て東九陵に向かう。末広鉄腸たちは、この行列を鍾路で見物しようと、泥峴の日本人居住区から北上して水標橋で清渓川を渡った。

 

「水標橋の架せし所は京城内の名所とも云ふへき地にして甚不潔なり」(『朝鮮国真景』)

 

我々は医師古城氏の出張所に入りて休息す
 (中略)

我々が休息所の前に当り四本の丸木を立て蓋ふに布の幕を以てす蓋し其の西に当り先廟あり殿下の此処より遥拝せらるゝが為なり

 医師古城氏とは、古城梅渓のことである。順天堂病院の医師から1886年に京城の日本公使館付きの医務官となった。ドイツ・フランス・清の公使館の嘱託医も兼ねた。1891年5月に公使館付を辞めて泥峴に賛化病院を開設した。この賛化病院の出張所が鍾路に置かれていたようである。場所からいって朝鮮人への医療提供を目的としていたのであろう。と同時に、そこが朝鮮人集住地区における日本人の前線基地・橋頭堡にもなっていた。先廟すなわち宗廟の東側、現在の仁義洞あたりと思われる。末広鉄腸は、目の前で宗廟を遥拝する高宗を観察している。

国王は許多の文武官を左右前後に従へ赤蓋の下に立ち美々敷装ひたる白馬に乗り御衣は軍服にて藍地に金色の模様あり両袖は紅にして背に大なる虎を繍す金刀を帯び鳥紗帽を戴き天幕の中に來て馬を下らる群臣皆な下乗し兵隊四方より圍繞して敬礼す国王は其処に設けたる壇上に立ち髭を捻りながら四方を顧み欣然の色あり頻りに侍臣に向ふて何やらん命令し給ふ御齢は四十前後なるべし顔色白皙にして温和の気眉宇の間に現る程なく轎に召し給へば一同オーの声を揚げ楽を唱へて運動を始む

 白馬に乗ってきた高宗はここで轎輿に乗り換えた。その後に王世子が同じように続き、全ての隊列が宗廟前を通過するのに2時間かかったという。東九陵までは結構な距離があるが、『高宗実録』によれば日帰りでこの日のうちに王宮に帰還している。

参考:18世紀末の「華城行幸図」

 

◆興宣大院君に謁見

 

 高宗の行幸を見物した翌日、高宗の父親である興宣大院君を雲峴宮に訪ねている。

林武一『朝鮮国真景』掲載の興宣大院君

 

 現在の雲峴宮は、地下鉄3号線の安国駅で降りて日本文化院の出口から出て楽園市場方向に行った左手に建物群が復元・整備されている。

 

漢陽図(1902年)

 

 この日、末広鉄腸は、仁川から2日遅れでやってきた青山好恵を伴って、日本公使館の杉村フカシの紹介状を持って雲峴宮に向かった。通訳として「第一国立銀行の川久保氏」が同行した。途中から公使館の国分象太郎もやってきて同席した。


 紹介状を書いた杉村濬は、1882年の壬午軍乱前から公使館に在勤していた朝鮮通とされた外交官である。

 通訳として同行した「第一国立銀行の川久保氏」とは、佐賀の出身で東京外国語学校で李樹廷から朝鮮語を学んだ川久保常吉である。李樹廷は1883年8月9日から85年10月23日まで東京外国語学校で教えていたので、国分象太郎の数年後輩ということになる。卒業後、第一銀行仁川支店に雇用されたが、1888年の第一銀行京城出張所開設以降は京城にもいたものと思われる。

 

 末広鉄腸は、雲峴宮に到着した時の様子をこのように描写している。

門に入りて左折すれば堂あり黒帽を戴き青帛に模様ある服を着し気品高尚にして年齢六十内外の老人椽側に立てり川久保氏に向ひ何人ぞと問へば大院君なり大院君は本年七十四歳なるに少しも老衰の体なし (中略) 我々を導て一室に入る正面に寿酌楼と太書したる額あり室の広さ幅二間長さ五間許り

 韓国の国立中央博物館に興宣大院君の複数の肖像画が残っている。その中で「黒巾青袍本」というのが雰囲気的には似ているのかもしれない。

 

 彼らが通された寿酌楼は、1865年に興宣大院君が自分の部屋の隣に建てたもので、「寿酌楼記」の扁額だけが今日まで伝わっている。

 

 

 ちなみに、杉村濬は、1895年10月8日未明に日本公使三浦梧楼が引き起こした高宗の王妃閔妃を殺害した事件(乙未事変)に直接関与し、日本に召喚された。この事件の時に興宣大院君を担ぎ出したのが杉村濬である。日本国内で形だけの裁判にかけられて無罪が宣告され、その後はブラジルへの移民政策に携わりブラジル公使となったが1906年にブラジルで病死した。

 一方、川久保常吉は、1893年11月に第一銀行を解雇されて東京に戻った。東京では、金玉均・朴泳孝の暗殺の密命を受けて来日した李逸稙に協力していた。金玉均が上海で暗殺されたのち、謀殺教唆罪で裁判にかけられたが1894年10月に東京控訴院で無罪判決が出た。その後、京城にいたようだが、詳しいことは不明である。

 

 ところで、雲峴宮での謁見時に、興宣大院君の方から豊臣秀吉の朝鮮出兵の話が持ち出されている。小西行長を朝鮮側が殺したとする大院君に対して、末広鉄腸は小西行長は生きていたと反論したが、川久保常吉が曖昧なままこの話を打ち切っている。以前もこの話を否定した日本人がいて、大院君が機嫌を損ねたことがあったという。

 この大院君とのやりとりを書いた後、末広鉄腸は豊臣の軍勢から朝鮮側に寝返った者(降倭)の話に言及している。

余の出発に際し別を副島伯に告く伯曰く根来寺の秀吉のために滅せらるゝや僧兵三千逃れて朝鮮に趣き文禄の役起るに及ひ韓兵の先鋒となり各処に戦争し功績最も多かりしを以て一の村落を分与せられ今に其子孫の存するもの千余口なりと朝鮮に至り之を問へども知るものなし然るに前日京城在留の某氏之と相似たることを聞き出せり忠清道の沃川邑に日本村あり戸数四五十人口四百余皆な文禄の役に朝鮮の為めに戦ひしものゝ子孫なり

 副島種臣が、根来寺の僧兵3000が朝鮮側で戦い、朝鮮にその子孫が暮らす集落があると言ったという。これはかなり興味深い。副島はどこからそのような話を聞き込んだのであろうか。さらに、京城で聞いた忠清道沃川に降倭の子孫の集落があるという話も書き留めている。さらに、東京に戻ってから、亡命中の金玉均にあってこの話をしたらこんな答えが返ってきたという。

帰朝後金玉均氏に逢ひ此事を談せしに氏の曰く日本村は決して一の沃川に止まらず長き戦争中日本人の朝鮮に降参して功を戦場に立てしもの少なからず乱後朝鮮政府より土地を受け其の子孫は今日まで相集て処々に部落をなすと

 

 現在、大邱市から20キロほど南の友鹿洞に鹿洞書院があり、その横には達城韓日友好館が建っている。ここは宣祖から金忠善の名前をもらった降倭「沙也可」の後孫たちの集落とされる。

 

 その存在が知られるようなったのは日本による韓国併合の後。青柳南冥の朝鮮研究会が1915年に鹿洞書院に伝わる『慕夏堂集』を編集し、文集の読み下し文とともに各界の大御所を動員して出版した。ここでは、降倭の存在を疑問視し、『慕夏堂集』は偽書だとする説が展開された。

而も其慕華論の見識に至ては当時の日本国民の思想と相容れざるのみならず、加藤清正の如き忠君愛国の念尤も旺盛にして士気の最も磅磚せし肥後藩に非国民的交柔の武将の出現すべき謂はれ無き也

 

 副島種臣の根来寺の僧兵の話や沃川の日本村の話は、こうした「金忠善降倭否定論」の20年以上も前に出ている。そして、科挙にトップで合格して改革路線を推進していたエリート官僚の金玉均が降倭はたくさんいて朝鮮に定着していると語ったというのも興味深い。

 

 1933年になって、朝鮮史編修会の中村栄孝が「慕夏堂金忠善に関する史料に就いて」を『青丘学叢』第12号に発表して、『朝鮮王朝日録』や『承政院日記』などの資料を駆使して沙也可・金忠善実在の可能性を実証的に論じた。

 

 今日においては、金忠善など降倭の存在は史実として認められているが、沙也可とは誰なのかについては今でも諸説ある。その中の一つに紀州の「雑賀さいか」ではないかという説がある。

 雑賀衆は、土豪の在地支配を解体しようとする豊臣秀吉に対して、根来ねごろ衆と手を組んで抵抗したが、結局潰されてしまった。そうしたことを考え合わせると、1892年に副島種臣が「根来寺の僧兵3000が朝鮮側で戦い、朝鮮にその子孫が暮らす集落がある」という話をどのようにして知ったのか興味深いが、残念ながらその先はたどりようがない。

 

 


末広鉄腸『北征録』(3)林武一のことなど
へ続く

 前にブログに書いた青山好惠『仁川事情』には、末広鉄腸が序を書いている。

 

 

 

 末広鉄腸は、1892年の帝国議会選挙で落選し、この年の夏に朝鮮、沿海州、清の視察旅行に出た。8月22日に下関を出発して、釜山、元山をまわってウラジオストク。9月半ばに釜山まで戻って今度は仁川乗り換えで芝罘チーフー(煙台)、大沽タークー、天津へ行き、9月30日に仁川に帰ってきた。この時には仁川と京城に合わせて20日以上滞在した。

 翌1893年2月に『北征録』(青山高山堂)と題してこの視察の記録を出版している。

北征録 : 附・北遊草
 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 末広鉄腸は愛媛県宇和島笹町の出身。仁川の『朝鮮新報』主筆だった青山好惠は、同じ笹町で末広の隣の家で生まれ育った。そのため、ジャーナリズムや政治の世界で活躍していた末広鉄腸の影響を強く受けた。末広鉄腸の仁川・京城滞在中、青山好惠は種々の情報を提供し、様々な便宜を図った。また、第一銀行仁川支店の支店長西脇長太郎も宇和島の出身で、末広鉄腸を歓待した。

 

◆末広鉄腸と一緒に京城に行った人たち

 

 末広鉄腸の仁川滞在の6日目、10月6日の夕刻に、釜山から玄海丸が仁川に入港した。この船には末広鉄腸が京城まで一緒に行くことになる3人の日本人が乗っていた。

 「外務省通商局長原氏」とあるのは、後に外務次官、在朝鮮公使を歴任し、総理大臣在任中の1921年に刺殺された原敬である。原敬は、『郵便報知新聞』『大東日報』の記者を経て1882年に外務省に入省しており、『朝野新聞』にいた末広鉄腸とは旧知の間柄だった。

 

 「交際官試補長瀧氏」とは、永滝久吉を「長瀧」と末広鉄腸が誤記したもので、永滝久吉は当時外務省で「朝鮮防穀事件」を担当していた。朝鮮の地方官が朝鮮からの米の搬出を禁止する「防穀令」を出したことで損害を受けたとする日本人商人が日本政府に損害賠償交渉を求めた事件である。当時、すでに京城の日本公使館を窓口に交渉をしていたが、進展がなかったため本省の原敬と永滝久吉が京城に乗り込んだ。

 

 「元山の商人梶山氏」は、被害を受けたとする元山在住の商人梶山新介で、「元山防穀損害要求者総代」として釜山で原・永滝と合流した。申立人として呼ばれたのだが、直接外交交渉に関与したわけではなかった。後年、梶山新介は、この時の原敬の交渉を「無為主義と称すべき交渉ぶり」と激しく批判している。

 

 当時、電信線が長崎・釜山間の海底線を経由して仁川・京城まで敷設されていた。原敬、永滝久吉、梶山新介の仁川・京城来訪は、この電信線で仁川と京城の日本領事館に知らされていた。その情報は、末広鉄腸の耳にも入っており、港まで出迎えに行っている。そして、原敬ら一行のスケジュールに合わせて、末広鉄腸も翌7日に一緒に陸路で京城に向かうことにした。青山好惠は、『朝鮮新報』の発刊作業があったため遅れて京城で合流することになった。

 

 10月7日午前8時、原・永滝・梶山それに末広の4人は、仁川の日本領事館から轎輿に乗って出発した。途中梧柳の日本人旅店で昼食を食べ、汝矣島に入って漢江を渡船で渡って麻浦に着いた。

当時の轎輿での移動の様子(『朝鮮国真景』1892)

1888年〜91年に日本公使館に在勤した林武一が撮影したもの
末広鉄腸一行を撮ったものではない

 

 日本公使館の書記生国分象太郎が麻浦まで出迎えに来ていた。

 

 

汝矣島側から撮った麻浦(『朝鮮国真景』1892)

 

 国分象太郎は、対馬の通詞の家柄に生まれた。しかし、大政奉還以降、厳原藩の対朝鮮窓口としての役割が外務省に移管される中で、朝鮮語通詞の養成制度にも紆余曲折があった。1880年に東京外国語学校に朝鮮語学科を置いて官費学生を入学させることになり、旧倭館の草梁館語学所にいた稽古通詞もここに編入させることになった。国分象太郎はその時の稽古通詞の一人で東京外国語学校卒業後、1882年の壬午軍乱後の日本公使館に赴任している。1892年には公使館でもベテランの通訳官になっていた。後日、統監伊藤博文の秘書官になり、朝鮮総督府では人事局長、李王職次官も務めることになる。

 

 国分象太郎と麻浦で合流した一行は、南大門に向かった。

南大門を城外から撮った写真(『朝鮮国真景』1892)

 

 南大門を入って右手の泥峴チンコゲ(現在の忠武路周辺)方面に向かい、原敬と永滝久吉は日本公使館の宿所に入った。

 


この当時の日本公使館(『朝鮮国真景』1892)
『京城府史』第二巻(1936)に「南山山麓朴某なるものの邸宅を公使館に充当」とある。上の写真がそれか?
下の写真中央の木が、現在もソウルユースホステル(旧KCIA南山庁舎)手前の道路側に残る銀杏であろう。統監官邸、総督官邸になる洋館の公使館はまだ建てられていない。

 

 民間人の末広鉄腸と梶山新介は、青山好惠が『仁川事情』で京城の旅店として紹介している「萩園」に投宿した。場所は特定できないが、公使館の北側の日本人居住区の一角にあったのであろう。

「日本人居留地にある写真師玉潤堂楼上より市街を望むの景」(『朝鮮国真景』)
中央、北岳山の麓に光化門と勤政殿がうっすら見える。左側の高い建物は建設中の鐘峴聖堂(明洞大聖堂)か?

 

 


末広鉄腸『北征録』(2)行幸見物・大院君表敬

末広鉄腸『北征録』(3)林武一のことなど
へ続く

 1892年10月に刊行された『仁川事情』という本がある。著者は青山好惠。仁川の朝鮮新報社から出版された。

 

東京経済大学学術機関リポジトリ

 

 出版当時、青山好惠は『朝鮮新報』の主筆であった。『朝鮮新報』は、1888年に佐野誠之が仁川で創刊した『仁川京城隔週商報』に始まる。その後『仁川商報』と改題され、1890年には病気の佐野誠之に代わって青山好惠が主幹して隔日発行の『朝鮮新報』とした。

 

 この当時は、仁川を足場にして京城で経済活動をする日本人が多く、『朝鮮新報』は仁川で発行されて京城の購読者に頒布されていた。1908年に『朝鮮タイムス』を合併して『朝鮮新聞』となり、併合後の1918年になって本社を京城に移した。それ以降、『朝鮮新聞』は、朝鮮総督府の御用新聞『京城日報』に対抗するかたちで部数を伸ばした。

 

 1882年の壬午軍乱、1884年の甲申政変で、日本は朝鮮での勢力後退を余儀なくされた。それでも、内地通商権を獲得するなどして徐々に朝鮮への経済侵略を拡大し始め、そうした中で『朝鮮新報』は情報提供の媒体の一つとなっていた。

 青山好惠は、新聞記者・衆議院議員だった末広鉄腸に師事し、創成期の『朝鮮新報』に関わったが、この『仁川事情』を出版した翌年1893年に結核に罹って『朝鮮新報』の経営を中村忠吉に譲った。1894年12月に療養のために日本に帰国し、1896年11月に郷里宇和島で病死している。


 日本が無理やり開戦に持ち込む日清戦争の2年前の1892年、仁川にやってくる日本人へのガイドブックとして書かれた『仁川事情』だが、これには当時の仁川から京城へのルートについても細かく書かれている。デジタル化された朝鮮半島の地図情報や、朝鮮写真絵はがきデータベースなどを使って、その道筋を詳しくたどってみたい。

 

仁川京城間ヲ旅行スルニハ水陸二道アリ陸ヨリスレバ多クハ乗馬或ハ轎輿ニ依ルヲ常トス乗馬ハ京仁往復(別當添)三圓五十錢片道二圓五十錢駄馬ハ韓錢三貫五百文(一圓八錢)轎輿人夫一名一日二三貫文(九十三銭)ニシテ少クトモ四名ヲ要スベシ

 これが往復3円50銭の「乗馬」であろう。写真の左側の男性が「別当」=馬丁である。

 

 一方、1円8銭の駄馬の方はこんな感じである。

 

 「轎輿」については下のようなイラストの絵葉書がある。担ぐのは二人だが、距離が長くなれば交代要員も必要になるということであろう。仁川ー京城間は4人で4円弱で轎輿が値段は一番高い。

 

こんな絵葉書の写真も残っている。結構窮屈そうなんだが…

 

 ちなみに、鉄道が仁川から鷺梁津まで開通するのは1899年9月18日、さらに鷺梁津から南大門停車場(現在のソウル駅)を経て西大門外の京城駅(1919年に廃止)まで開通するのは1900年7月8日。
 

 当時の『皇城新聞」の記事から、汽車の方が時間が短縮できるだけでなくかなり安上がりであったことがわかる。

 

結束既ニ成レバ遅クモ午前九時迄ニ發足スルヲ可トス然ラズシテ若シ遲ク發シ遅ク着シ京城南大門既ニ閉鎖サレタルノ後ニ及ンデハ空シク一夜ヲ門外ニ明カサザル可カラザルニ至ルベケレバナリ(京城南大門ハ毎日午後九時ニ閉鎖シ門内外ノ交通ヲ遮断ス)

 朝鮮王朝時代、鍾閣の鐘が朝晩2回鳴らされていた。午前4時に鳴らされるのを「罷漏パル」といいこれを合図に4つの大門が開かれ、午後10時に鳴らされる「人定インジョン」で4つの大門が閉じられた。青山好惠の時代には、10時までに南大門を通る必要があった。「午後九時ニ閉鎖シ門内外ノ交通ヲ遮断ス」とあるのは、青山好惠の錯誤であろうか。

 

 

 ちなみに、「罷漏」「人定」制度は、1895年9月29日に廃止された。この時に朝晩の大門の開閉も行われなくなった。とはいえ、通行は狭い門に限られていた上、その門の中を電車の線路が通った(下の写真は1904年の日付あり)。

 

 

 1907年に南大門の両側の城壁を日本が撤去し、道路が門外に通されて路面電車の線路も移設された。

 

 下の写真(1919年以降撮影)で、左側に見えているのが、仁川から京城に移転した『朝鮮新聞』の本社ビルである。青山好惠はこんなことになるとは想像もしていなかっただろう。

 

 

中飯ハ内外人共梧流洞驛ノ日本旅店浦川氏方ニテ取ルヲ常トス南大門ニ入ル一里半ノ前程ニ於テ旅者ハ必ズ一望茫漠タル三湖砂原ニ出ヅベシ砂原ヲ過グレバ即チ有名ナル漢江渡津ニシテ渡舩賃ハ大概五十文(二錢)内外ナリトス漢江ヲ渡リ麻浦ニ出レバ京城ハ一時間内外ニ達スルコトヲ得ン。

 1916年〜18年測図の1/50.000地図で見ると、梧柳(梧流)がほぼ仁川と京城の中間点に当たる。ここの浦川という旅店で昼食をすべしという。浦川については歴史情報検索では何も出てこない。このルートではこの梧柳の集落が大きかったらしく、1884年の甲申政変の時に京城を脱出して仁川に向かった日本公使館員や日本軍守備隊、在留邦人もここで食糧を徴発している(『京城府史』)。

 

 

 永登浦をすぎて、現在の汝矣島ヨイドの東北部まで来ると、その一帯には砂州が広がっており、ここに麻浦の渡船場があった。現在の元堯ウォニョ大橋よりも少し下流のあたりかと思われる。

 

 

 

 「京釜鉄道開通式記念絵葉書 漢江麻浦之渡 明治三八年五月二五日」と印刷された絵葉書が残っている。轎輿や駄馬が渡船に乗っており、青山好惠の本からは13年後ではあるが、多分青山好惠の時代もこのような風景だったと思われる。

 麻浦からは現在の元堯大路あたりを通って南大門に向かったのであろう。

 

 

 一方、船を使って仁川の税関の埠頭から漢江を遡上して龍山に行くという水上ルートもあった。

仁川港ヨリ水路ヲ取リ京城ニ赴クモノハ必ズ滊舩ニ依ルヲ常トス小滊舩ハ每日仁川港海關埠頭ヨリ麻浦ニ至ル漢江ノ水程三十三里間ヲ來往ス滊舩賃上等二圓下等七十五銭ナリ初メテ此地ニ來ルモノハ水路ヲ取リ小滊舩甲板上ニ两岸奇絕ノ山光水色ヲ賞シツツ漢城ニ乗込ムモ亦一興ナラン滊舩ハ大概八時間ニシテ竜山ニ達スベシ上陸シテ日本旅店ニ就キ休息シ京城行ノ轎輿ヲ周旋セシムベシ竜山津ハ麻浦ヨリ半里ノ上流左岸ニ在ル一江港ナリ。

 仁川の位置する朝鮮半島西海岸は干満の差が非常に大きい。小型動力船は江華島を大回りして漢江を遡上したものと思われる。

 

 

 下の絵葉書の写真は、背景に写り込んでいる冠岳山クァナクサンから、現在の元堯大橋の北端あたりで撮られたと思われる。ここに写っている船が仁川と龍山を往来していた「小滊舩」であろう。麻浦の渡船場から2キロほど上流ということであれば、二村洞(現在の西部二村洞ソブイチョンドン)あたりに船着場があり、日本人の営業する旅店があったということになる。

 

元堯大橋北端の江辺道路のGoogleストリートビューより

背後の山影がほぼ一致する

 

備考 京城ニ旅店三アリ萩園、山田、緒方、是レナリ旅宿料ハ各一圓內外ナリ。京城仁川間ニ小荷物ヲ運搬シ書狀ヲ往復スルニハ仁川ハ上町通ナル永瀬陸運店ニ於テ取扱ヒ京城ハ泥峴ナル同支店ニ於テ取扱フ書狀賃銭ハ重量ニ依ツテ差等アルモ大概一通二三錢内外ナリトス而シテ別ニ朝鮮海關ハ毎夕京仁間ニ郵便ヲ往復ス称シテ海關便ト云ヘリ仁川郵便局ハ京城ニ出張所ヲ置ケルモ未ダ仁川京城間ノ郵便物ヲ取扱フニ至ラズ。

 1892年の京城にあったという萩園、山田、緒方の旅館、泥峴にあったという永瀬陸運店の京城支店については今のところ手がかりが見つからない。

 1884年の甲申政変で清軍と交戦し、慶雲洞の日本公使館を放棄して脱出せざるを得なくなった日本政府は、翌1885年1月には今度は南山の北麓に公使館用地を確保し、領事部と守備隊を置いて日本人居住区をその周辺に設置した。

 『京城府史』第二巻(1936)には、

この月(引用者注:1885年1月)、日本政府は朝鮮側の提供した南山山麓朴某なるものの邸宅を公使館に充当し、現寿町六番地にあった倭城台倶楽部の地一帯を領事館の予定地として受領した。十一日 竹添公使の辞任帰国後近藤書記官臨時代理公使となり同月某日西大門外の仮公使館を南山に移転した。

《中略》

近藤代理公使は十七年の変乱に鑑み条約上城内の居住区域には何らの制限なきに拘はらず、外務協弁及び清国理事官と談合の上、取締の便宜上より日本人は南山山麓に清国人は水標橋付近に居住せしむることとし、日本人の居住地を公使館(現総督官邸)を起点とし領事館より北行する小路の両側すなわち現寿町と本町二丁目の南辺に横はる小路の両側及び其の西端より同町九十二番地なる現明治製菓京城販売所に達する小路迄の一小域内に定めた。此の頃前記道路の幅員は現在と大差なきも付近の他の道路に比較すれば最も広く、現に殷盛を極むる本町表通はなほ之より狭く、日本人家屋は一も認むることができなかつた。

 1903年の地図上に示せば、ほぼ現在の明洞大聖堂の南側からソウルユースホステル(旧KCIA南山庁舎)の北側の地域である。

 

 徐々に範囲を拡大しつつあったであろうが、日清戦争開戦前はこのあたりが日本人の活動の中心地であり、日本人の旅館や運送会社支店もこの範囲内(下の写真の赤丸の部分)にあったと思われる。

 

1902年 南大門から明洞の大聖堂方面(ソウル市立博物館『ソウルの昔の姿』)